拠り処(精神的支柱)

人は自らが.自らの主人であり.それより高い処から人の運命を差配したり審判するような神.仏などの絶対的な存在や力などなく…人は自らが自らの拠り処となり、他のものを拠り処とするなかれ…法(真理.法則.仏法)を自らの拠り処とし、他のものを拠り処とするなかれ…
人は自らの努力と知性によって、汎ゆる束縛や無明やドゥッカ(苦)から自分を解放することが出来るのであり、自己解放は人が自ら真理を実現することにより得られるものであり、神や仏や外的な力から、その従順な信心.信仰.崇拝に対する報いとして与えられるものではないのですから…
例えば、教師や反面教師から何かしらを学ぶとき.自分の主人は自分であるが、神や仏やその代理人だと主張する教祖とか教師という輩の言葉や教えを学ぶとき、その得体の知れない神や仏やその代理人を主張する教祖とか教師とかいう輩が自分の主人に就り、自分はその従者に貶めらてしまうのです、その束縛の中で得られる何かに包まれる.束の間の安心感や喜びなどが自閉症的なものに過ぎないと気付くことが出来ずに酔生夢死してしまうのは憐れなことであり、人は自らの主人なのですから、従者(感覚.感情.主観などの精神作用)を上手く差配.コントロールして.決して乗っ取られることがないよう自覚が必要なのです…
信仰.信心とは物事が本当には見えていない無明の闇の中を彷徨っている場合に生じるものであり、物事が明確に見えた瞬間には消え去り.霧散する性質のものなのです…
心の不純さ.不浄さの消滅は物事を知り.物事が見えている人にとってのみ可能なことであり.物事を知らず.物事が見えていない人には不可能なのです…それは欲望が優先しているのですから…
生命はドゥッカ(苦)のエネルギーによって生かされているのですから、不安定で不完全で弱く.脆く.儚い.恐怖の中を生きる人間は依り処(精神的支柱)を必要として渇望するのです…
人間には自己防衛と自己保存という根深い本能的な心理があります…
自己防衛心理について言えば、愚かで不完全な人間は.子供が親に頼るように、自らの保護安全.安心の拠り処として神や仏を造ったのであり、自己保存心理については永遠に生きる自分の本質的存在として不死の魂.霊魂.霊体を造ったのであり、無明の闇の中を盲目的に手探りで、暗夜行路を行くが如く生きる人間はその無知.恐怖.不安.迷い.弱さ.欲望などの苦しみ(ドゥッカ)から自らを慰める為に、これら二つの心理を拠り処(精神的支柱)として熱烈にしがみつこうとするのです…
科学は進歩しましたが、まだ混沌とした現代社会に於いて得体の知れない神仏や力という妄想から目覚めない人達もまだ多く、また得体の知れない神仏や魂.霊魂などへの依存からは目覚めても、無明なまま.不安定で無常な本質の所有の次元の事物(金財.物欲.地位.権力.権威…)への欲望と執着へ、拠り処(精神的支柱)先を変更しただけに過ぎず、それは却って無明の闇を深めさせる事となり.ドゥッカ(苦しみ.迷い.悩み…)を晴らすことが出来ずに彷徨っているのではないでしょうか…

また、魂.霊魂という永遠の存在という妄想的な考えは該当しない実体として捉えさせた自分.自己.自我という意識を造り出し.変化してゆく現実の中で戸惑ったり.意に沿わぬ現実の中で苦しんだり、利己主義的な欲望や煩悩的な執着.憎しみ.怒り.迷い. 悪意.自惚れ.傲慢.エゴ.不純さ…その他さまざまな弊害をもたらす.それは個人的ないざこざや争いから国家間の戦争に至るまで、世界中の汎ゆる問題の大基でもあり、突き詰めれば諸悪の根源はこの誤った考えに基づいているのですから…
人間とは他から独立して自分一人では一時も存在し得ない存在であり、依存関係性の中で存在(現象的)しているに過ぎないのですが…

世の中に溢れ返っている偏った知識.情報に煽られ欲望をつのらせ、その不安定な本質(ドゥッカ)を何とか安定化させる支えとなる拠り処を外界に探し求め、下らない物事.どうでもあい物事.つまらない物事に気を取られたり.捉われたり.執着したりしながら、ゴチャゴチャと雑念や妄想に陥ったり、勘違いしたりしながら、却って安定性を失ってゆく事もとなり、その欲望という隙を見つけ、取り込み.漬け込もうと悪しき者達は耳障りの良い言葉を囁きながら近づいて来るのですから…

堅固で安定的な拠り処は、自らの努力と知性による.無明(本質的無知)からの覚醒.超越.解放でしか得られないのですから…


世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、心の依り処(依存の対象)という因縁から発生する…

彼が正に[在るがままに]知ることなく、心の依り処を作るなら、彼は愚か者であり、繰り返し、自ら苦しみへと近づき行く…
それ故に[在るがままに]覚知している者となり、
苦しみの出生の起源を随観する者となり、無常な心の依り処を作らないように在れ…


自分自身を依り処とし.自分自身を避難所とし.

他の誰をも.避難所とすることなかれ…

法(真理)を依り処とし.法(真理)を避難所とし.

他の何ものをも.避難所とすることなかれ…

 


人間は本質的には無明(盲目的.無知)な状態でに生まれついているのです…

生存の素因でもある煩悩(存在欲)は、盲目的に、生きていたい.存在し続けたいと、無常なものにも三毒(貪嗔痴)を伴って依り処(精神的支柱)として依存したいと渇望するのですから…

成長するにつれ、色々な知識や情報を積み上げて行きますが本質的で根深い無明の闇を晴らすことは出来ないのです…
ですから無明という一寸先は闇の中を.盲目的に手探りで.無常の業火に煽られながら必死に生きているのです…

本質的な無明により、ドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.憂い.迷い.不安.悔い.恐怖.不満.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.無常さ.実質のなさ.惨めさ.欲望……)は生じ、付いて廻り.ある意味.ドゥッカに生かされているとさえ言え、無明の闇を抱えたまま.ドゥッカから逃れることが出来ないのです…
人間とは本来そんな存在ですから、自身の保護.安全.安心.恩恵を欲し渇望し.自己保存と自己防衛の為に.何かしら心の慰めとして依存する依り処(精神的支柱)を必要とし.人それぞれ何かしらを依り処として儚い安定を保ちながら辛うじて生きているのです...

しかし妄迷な人は、自分には何も依り処(精神的支柱)など必要とせずに生きていると錯覚しながら、却って取り留めもなく欲深く何かしらにに依存していたりしています…

先ず言えるのが、人間という存在は自分ひとり他から独立して単独には一瞬たりとも生きる事ができない存在であり、汎ゆる因果律に従った相補的関係性のお陰さまで生かされている存在なのですから…

例えば.先に進むためには疑いを晴らして行かなければ先へは進めません…

それはハシゴを昇るようなもので、横木を片手で支えとして昇り、次の横木をもう片方の手で支えとしながら昇ってゆくものですが…もし次の横木が信頼出来ず、躊躇っていては上へは行けません…

[生きる][昇る][先へ進む]は同義語でもあり、何かしらを信じ信頼して依存する依り処なしには生きて行けないのですから…


現代人の一番.愚かな所は、無明なまま[宗教観を喪失]してしまった事であり、現実的な部分で得体の知れない神仏や怪しげで眉唾な霊力を否定しながらも.心の中に覚悟たる宗ねとなる教えも生き方も.依り処(精神的支柱)もない[糸の切れた凧状態]のまま、風に吹かれて.煩悩と欲望の赴くままに無節操に取り留めもなく欲深く.何かしらに依存しながら生きている自分に気付いていない事なのです…

煩悩に征服され、感覚や主観に翻弄され、欲望の炎に煽られて、苦と不満の中を生きるより、自らを律し、敬虔に生きる人のほうが自分を高めて幸せに生きられるのですから…

確固たる依り処(精神的支柱)の喪失から、便宜的で付随的で無常な所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.権威.権力.勢力.若さ.健康.寿命.外見.家族.伴侶…)を依り処(精神的支柱)とし、それが為にドゥッカの中を翻弄されながら彷徨うこととなるのです…

例えば現代人ともなれば、得体の知れない神様や仏様とかお化け.霊魂.超魔術など眉唾なものに過ぎないと頭では理解できてるのですが、煩悩(存在欲)は不安.保護.安全.安心.恩恵の為の自己保全と自己防御への根深い欲望の前に.理解できずに…存在していて欲しいのです...不思議や第三の目とかファンタジーやSFスペクタクルは、煩悩の要求に全く適っているから、人気が衰えることがないのですから…

 


妄迷と迷信に被われた世界に出現した革新的な真理の教えが仏教であり、得体の知れないものへ依存し依り処(精神的支柱)として盲目を深める人々に、真の救いである真理(真実.現実.事実.実相)の光明を依り処(精神的支柱)とした堅固で開明的な安らぎの世界がある事を説いたのが智慧(叡智)を前提とする如来の教え仏教であり、如来が指し示す真理(真実.事実.摂理.実相)こそが神性であり仏性であり、この世界で唯一の無為(変化する仮相ではない実相)なる理法.物理法則.自然法則.量子法則.絶対法則への依存こそ堅固な安定.安心.実相的な悦楽.歓びをもたらす依り処(精神的支柱)なのですから…

子のある者は、子について憂い、
また牛のある者は、牛について憂う。
人間の憂いは執着する拠り処により起る、実に執着する拠り処のない人は憂うる事がない
自己の拠り処は自己のみなり
他に如何なる拠り処が有ろうか
自己のよく調御せられたる時、
人は得難き拠り処を得る。
物質文明の真っ只中に生きる現代人は、ストレス.知識.情報.妄迷.欲望.無明.暗愚により安定的な依り処(精神的支柱)を見失い、便宜的な手段.付随的要素に過ぎない所有の次元の事物(金.財.所有物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.承認.健康.寿命…)を安定的で堅実な依り処(精神的支柱)と錯覚し.存在の次元がある事に気付く事もなく.却ってドゥッカ(苦しみ.悩み.心痛.迷い.哀しさ.怖さ.不安定さ.不完全さ.儚さ.悔い.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.無明.欲望)を深めている。
それは言わば真の芸術とは自己完結しているものであり、他人の評価や価値観に依存するものではなく、どんなに権威.名声.信頼があろうが評価.価値判断とは単にその人の主観.感覚.概念と一致しただけであり.決して真理を語ってはいないように、世間でいう好感度という類の.凡そ真実を形容しないひとつの感覚的なものに過ぎないものだと言えよう。
人間の本能とは自己防衛性と自己保存性と客観的理解認識能力(理性.知性)という三要素(純質・激質・暗質)により成り立ち[誕生]による無明(本質的無知)を条件として生起する
無知(無明)による本質的なドゥッカ(生存苦.不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.悔い.心痛.弱さ.渇き.怖さ.哀しさ.儚さ.空しさ.惨めさ.無常さ.実質のなさ等)による根深い自己防衛欲により自分の保護.安全.安心.恩恵のために神や仏を妄想して精神的支柱(拠り処)とし、また根深い自己保存欲により永遠的な実体としての魂.霊魂.霊体などを妄想して精神的支柱(拠り処)として、本質的な不安定性を辛うじて安定化させているのであり、己の理性.知性(客観的理解認識能力)や現実が幾ら疑問を呈してもそれらを自分という存在にとって必須な無くてはならない精神的支柱(拠り処)だと錯覚して、それらにしがみ付き乗り越える事が出来ない。それらを否定される事は自分の存在の否定だと捉え怒り恐れ狼狽るのだか、しかし単に信じると言う事は[虚妄]を依り処(精神的支柱)として依存する事であり.それは無明な人を更に盲目的にさせる事であり不安定な本質を更に不安定化させる事に他ならず.自分という存在の真の意義や価値観を放棄し他人の意義や価値感で生きる事を意味するのである。神や仏の価値観を否定している訳ではなく、各人が何を信じ.何を選択し.何を精神的支柱(拠り処)として生きようが悪事に向かわせるものでない限りに於いては自由であり、精神・肉体両面における本質的な不安定状態を一時的にせよ安定状態へ向かわせるものであるならば一定の価値観は見い出せるのだが、真に人を無明の闇の中から目覚め覚醒させ.乗り越え超越させ.解き放たれ解放される道とは真逆な道でもある。それでも何れの道であろうと安定を維持させてゆくことが幸せに生きてゆく為の絶対条件であり、真に堅固で安定的な依り処(精神的支柱)とは真理(真実.現実.事実.実相)をおいて他にはないのである。しかし現代社会においては得体の知れない信仰と、本来的な宗教(宗となる教え・人が人として生きて行く為の精神的支柱.(拠り処)とすべき教訓・倫理・道理・徳目・死生観)を混同し同じものの様に捉え、現代人の中には得体の知れない信仰を捨て去る時に同時に真の宗教観(精神的支柱)さえも放棄してしまい、肉体的.精神的な本質的不安定を安定化させるための精神的支柱(拠り処)を所有の次元の事物(金銭.財産.物欲.地位.名誉.称号.身分.権威.権力.勢力.家族.承認.評価.見栄.健康.長寿…)に盲目的に求めた結果として、それらに魅入られ誑かされ執着し、却って苦や悩みや不満や恨みや争いを造り出して不安定な人生に翻弄されているのではなかろうか。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
※自らが正しく眺め理解した真理(法・真実.摂理.自然法則)を精神的支柱とし、他人の説を依り処とするな、この世界の真理(無常の理法・縁起の理法・輪廻の理法)を精神的支柱とし、他のものを精神的支柱とはするな。
⚫では何を精神的支柱(拠り処)として生きてゆくべきなのかと言えば、真理(真実.事実.現実.実相)であり、諸行無常(常ならず変化生滅している)のこの世の中においては、凡そ全ての物事はその関係性・相対性における縁起(条件によって生起し、条件によって消滅する)とい因果律(物理法則・摂理)に支配されているから、所有の次元の事物は皆、いつか必ず去っていったり.壊れたり.失なったり.盗まれたり.飽きたりと価値が変わったりと条件性を前提とする事物なのだから必ず苦や悩みや不満や恨みや争い空虚や不安定(ドゥッカ)へと還り付く性質のものなのであり、この世界の中で真に精神的支柱(拠り処)とすべきものは条件によって変化したり消えたり逃げたりしない唯一、絶対的(無為)な真理(真実)という堅固なものを精神的支柱(拠り処)とすべきだと、お釈迦様は説かれたのであり真に安定的な幸せの為には.真理の発見とその修養の道を[自燈明]自らの内にある真理を認識し理解する能力による(叡智)を精神的支柱(拠り処)とし、[法燈明]法則(真理)という安定的な実体(条件により生起し条件により消滅しない唯一のもの)を精神的支柱(拠り処)とし、他の一切を精神的支柱(拠り処)にしてはならないとお釈迦様は説かれているのです。
「頭ではなく心(サンニャサンカーラ・想行蘊)が無常なる流転の法を理解できたら、全てのドゥッカ(苦・悩み・空……)から解放される。」

今も昔も.そして将来も、社会には.汎ゆる罠が張り巡らされていて、そうと気付かずに無闇.迂闊に近づくと、騙されたり.大切なものを搾取されたりする事になるので、気を付けてなければいけないと、お釈迦様も仰っています…

お釈迦様が説かれた十二因縁(十二縁起)も或る意味に於いて、騙されたり.搾取されたりしない為に、因果律に従った物事の道理に沿った在りようの洞察力の開発と言えるのです…
先ず、社会の中で生まれ育って来た[自分]というものを冷徹にそして客観的に観察して見れば、人それぞれに物事に対して色々な見方.考え方.見解.認識がありますが.果たして.それが本当に自分の見方.考え方.見解.認識であると言えるのでしょうか…
確かに自分なりの.業(カルマ).性根.性格.嗜好.意識などに依る部分はありますが、環境.時代.教育.知識.情報.洗脳.欲望などの色眼鏡というバイアスが既に掛かっているのではないでしょうか…
社会に張り巡らされ溢れ返る罠とは.心理バイアスでもあり、作為ある知識や情報.プロパガンダ.先入観.思い込み.錯覚.既成概念.固定観念.迷信.伝聞.通説.仮説.暗示.染脳.洗脳など通じて、無明な人達を騙したり、美辞麗句や耳障りのいい言葉を駆使して誑かそうと待ち構えているのです…
こんな話を何故.始めたのかと言えば.今まさに時代の一大転換点を迎えようとしているからに他ならず、ここ1~2年の行ないと対処が.この後の百年間を決定付けてしまうといっても過言ではないでしょう…
善行を説き.礼節を説き.平和を説き.無我を説いていても、仏教は智慧を説いているのです…仏教徒は作為ある悪人の毒牙に掛かる子羊ではなく、真理(真実.事実.実相)を依り処として.悪意ある者達の罠や毒牙から逃れる智慧を説いているのです…
⚫先ず得体の知れない神や仏や精霊などを持ち出して救いや他力を謳うものは全て作為ある無明なものに他ならない…
・神性.仏性と得体の知れない神仏とは似て非なる真逆な性質のものなのです…
⚫霊魂.魂.霊体.スピリチュアリズムなどを持ち出して啓示とかお告げを謳うものは全て作為ある無明なものに他ならない…
霊性.スピリチュアリティー(精神性)と、霊魂.魂.霊体.スピリチュアリズム(心霊主義)とは似て非なる真逆な性質のものなのです…
人智を超えた知見と、啓示とかお告げを謳うものとは似て非なる真逆の性質のものなのです…
⚫仏教にいう彼岸(あの世・高次元世界)とカルトの霊界とは似て非なる真逆の性質のものなのです…
高次元世界を感知は、この世界(時空)へ繋ぎ止められている因縁である[執着]を離れた.心的エネルギーの[グラビトン化(ループ)]により、人智を超えた知見へ到達できるのです…
皮肉な話でもありますが、欲望への執着によりこの時空に繋ぎ止められた.物質及び心的エネルギーはこの時空を輪廻(ループ)し、あらゆる執着から離れて[グラビトン化]した心的エネルギーは高次元の時空を輪廻(ループ)往還するのですから…
つまりはあの世(高次元世界)への転生を願い求め欲する心的エネルギーはこの世界(時空)に繋ぎ止められ.在るがままに在り[グラビトン化]した自由な心的エネルギーはあの世(高次元世界)へと成仏してゆくのです…
五集合要素(五蘊)
①人間とは五集合要素(色受想行識)という五蘊により形成されています…この結合を[生]というのです
②この五つの要素の結び目が解かれる事を[死]というのです…
❖引き寄せて 結べば芝の庵にて 解くれば元の野原なりけり…
③つまりは5つの要素[身体的要素.感受器官.記憶要素.性質的要素.業(カルマ・形成力).概念形成要素]は解かれるのですから、輪廻してゆくにしろ、成仏するにしろ心的エネルギー(業と霊.魂とは違う)は.この現世での記憶の残滓を越えた記憶.情報.想いなどは運ばないのですから、霊界からピーチクパーチクと囀ることなど有り得ない妄想.妄言に過ぎないのです…
得体の知れない神や仏や精霊とか怪しげな力への夢想(無明)から、目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放たれる(解放)を目指すのが、お釈迦さまの説かれた仏の教え仏教なのです…
 
  真理は真理、虚仮は虚仮…
目覚め(覚醒).乗り越え(超越).解き放て(解放)

末法思想

仏教の[末法思想]について.どう読み解くかが重要なのではなかろうか…
世の中で盛んに末法思想を叫ぶ人達は、釈迦尊(ブッダ)の教えはもう古臭くて時代にそぐわないものだから.何たらと[あっちの水は苦いぞ.こっちの水は甘いぞ-]と末法思想を歪曲して捉えながらも.釈迦尊(ブッダ)の権威にはしっかりと阿っている感が否めないが、真の意味は釈迦尊(ブッダ)在世当時でも優れた弟子もいれば.愚かな弟子もいただろうし、教えを理解できるものも理解できない者もいだろう、そして理解できない者に限って欲望や自我意識などか強いものであり、そのような者達が.やがては仏の教えを大衆迎合的に捻じ曲げたり変質させていき仏法も堕落し廃れてゆくだろう事の洞察から生まれたのが末法思想であり、それは歪んだ仏法を正しい教え(真理)へと導く如来の出現の暗示でもあるのです…
私が日本仏教の一僧侶であるから言う訳ではなく.真の釈迦尊(ブッダ)の教えを学ぼうと欲するならば、オタクでも在るまいし.別に上座部へ帰依する必要など無いばかりか.残存経典の範疇と認識に留まり自ら第六蓋とするだけでしかなく.目の前にある現在の日本仏教で充分なのであり、肝心なのはそれを如何にして学ぶかという姿勢なのではないでしょうか…
それは道元禅師も喝破しているように[仏道とは己を習うこと]であり、釈迦尊(ブッダ)が到達された深淵なる真理(真実.事実.実相)への到達は各人一人一人の問題であり、自らを真に助けるものは自分自身の努力と智慧だけなのですから…
その為に.別に物真似をするという意味ではなく、釈迦尊(ブッダ)が考えただろう如く考え、釈迦尊(ブッダ)が行なっただろう如く行ない、釈迦尊(ブッダ)が語っただろう如く語ることを心掛けることも一法なのです…
四大教示としても残っている釈迦尊(ブッダ)の言葉に…
私が去った後になって「私は尊師から、目の当たりに直接に.このように聞いた(如是我聞)とか.目の当たりに承った、これが真実の理法である、これが戒律である、これが師の真実の教えである…」と言う者が必ず現れよう…
それを無闇に受け入れる事なく、排除する事もなく、それらの文言.教説を良く理解して、一つずつ私の信頼できる言葉や経典に引き合わせ、戒律に参照吟味してみて、私の信頼できる言葉や経典の教えに合致せず、戒律にも一致しないものは「これは尊師が説かれた言葉や教説ではなく、尊師を騙った何者かのものであると、これを放棄すべきである…」と先々について戒められた…
これを迷妄.短絡な者達は、保守的だと非難するが、世の中の無常.有為な真理によって立つ俗諦と.無為な普遍的真理(絶対真理)を説く仏教とを混同して観てはならず「真理は一つであって第ニのものは存在しない」のであり、世の中の習いが変わろうとも.時代が変わろうとも「真理は真理.虚仮は虚仮」でしかなく、正法.像法.末法という思想自体が邪な作為により造り出されたまやかし(摩羅迦子)に他ならないのです…
しかし世間と言うものは、事実(真実)を素直に認める性格は持って居らず、権威.伝統.風格などとか.思い込み.多数派.一般論.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観.錯覚...などが優先的に信頼され、人々に真実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものである…
まして多くの人は自分を基準とした浅薄.短絡.主観的な尺度でしか物事を見ることが出来ず.しかも乏しい根拠に基づいたまま[自分の考えは正しい][自分は間違ってない]という自我意識を乗り越えることが出来ないで居るのだから…
無常な現象でしかない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄される事は必然であり、又それが苦を造りだしている事にすら気付けないでいるのですから…

妄想癖

人がもし妄想から離れることが出来たならば.苦しみはその人から離れ去る…

 

莫妄想(まくもうぞうー妄想するな)という禅語もあるように.妄想とは今という大切な時間を浪費させてしまったり.今やるべき事.今考えるべき事を蔑ろにしてしまったりするものなのです…

まして知識や情報は湯水の如く溢れ返り、人の欲望を刺激して止まず、何かしらに追われ急かされているような現代社会では、何時もゴチャゴチャと雑念していたり、妄想へ陥ってる人達も多く.それが為に尊大であったり.心を貧しくさせたり、我欲に翻弄されて苦しみや不満を造り出し、却って満たされる事がない人が多いのです…

人間とはその卓越した思考力で物事をアレコレと想像しながら生きています…

それは人間の人間たる証でもあるのですが.その卓越した思考力が我欲に基づいて感覚的.感情的.主観的に働くと雑念から妄想へと陥るのです…

言い方を変えれば.想像世界では現実問題として自分にも他人にもプラスとなるものを想像するものですが.人はそれぞれの妄想世界では絶対君主であり.世界の支配者であり.絶対神であり.スーパーマンでもあり.現実世界で怨み辛みとか毛嫌いする人達を何万人でも何百万人でも抹殺してしまえるのですから…

自分の都合に応じて展開してゆく妄想世界と、自分の思い通りにはならない現実世界とのギャップの中で苦しみ(ドゥッカ)を造り出したり、また在りもしない苦しみ(ドゥッカ)を妄想して造り出し杞憂を囲ったり、自己暗示や錯覚したりする苦しみ(ドゥッカ)の妄想に縛られたり(妄縄自縛)しているのです…

仏教でいう[妄想]とは単に欲望の空想.夢想や誇大妄想を指すのではなく、感覚.感情.主観.我欲による汎ゆる虚妄な想念(色気.食い気.邪念.迷妄.自己暗示.杞憂.根拠のない決め付け.思い込み.未練.記憶の残滓.執着など)只今は存在しない想念や意識に気を取られ.今と言う瞬間を疎かにしてはならないという意味であり、今という瞬間に無いものは自我を離れた創造.想像のほかは全て妄想に他ならないのです…

それらが自らが造り出した苦しみや悩みの根源であり、在りもしない妄想に縛られて今を取り逃がしたり、現実逃避のオカルティズムに魅入られてしまい.折角の人生を酔生夢死して激しい輪廻の激流を下層から繰り返すこととなるのですから…

成仏する為の絶対条件とは[貪瞋痴思考]から覚醒し.超越し.解放されることでも有り、その為には五集合要素(五蘊)への捉われ拘り執着から解放される事であり、その為には五集合要素(五蘊)により形成される自我意識(エゴ)とそれ(我執)による感覚.感情.主観への捉わり拘り執着から解放されて全ては縁起の上での現象に過ぎないことに気付き、目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれる(解放)ことでもあるのですから…

先ず定理しなければならないのが、自我意識や主観的欲望(我執)により生じる思考が妄想であり、自分の事であっても客観的な思考であったり.また他人や社会の利益のある思考は想像(創造)であり、何れも[一で止まる]正しい思考を心掛けず、いつもゴチャゴチャと雑念を巡らせていると、空想.夢想.想像や妄想へと陥り易いのです… 

人は理解できないものに不安を覚えたり、今更どうしようもない変えられない物事や、失ったものに考えが及んで詰まらない妄想をしてしまいがちで、そんな妄想ばかりしているといつの間にか現実だか妄想だか判らない混乱した思考と妄想世界の甘美感の誘惑に魅入られ妄想を深め、ある日.傍と現実に気付く時.現実世界と妄想世界とのギャップに現実逃避へそして躁鬱症、分裂症へと陥ってゆくのですから…

 

ネガティブな妄想は、現実世界を歪めてしまいます…それでなくとも社会に溢れる知識や情報の類に気付かずに染脳(洗脳)されて既に物事にバイアスを掛けて見ているでしょうから…               

不幸な未来を想像すれば、自ら不幸な未来を引き寄せてしまいます…       

変えられないことではなく変えられることに目を向ける。失くしたものではなく、まだあるものを考えてみましょう…

 

妄縄自縛

不安や悩み、貴方を縛る執着はただの妄想自分の心が造り出した、幻想(妄想)でしかないのです…              

そんなものに苦しむ必要はありません。  

今自分ができることをやる…      

どうなるかわからないからこそ、どうなってもいいような心構えでいる…      

妄想を手放し、しなやかで自由な心で在りましょう…               

分別分断は迷いであり、妄想であるあれこれゴチャゴチャと雑念してると妄想へと入っていってしまう…            

物事を相対的に見て、一方を欲すれば.片一方を怖れる…             

一方を引き寄せたいと欲すれば、片一方を遠ざけたいと嫌う…

兎角、この[妄想思考]が人を[貪瞋痴思考]へと誘い、心を貧しくさせてゆく[苦しみの根源]なのですから…

貧しい心とは.いつもまだ満たされていないという不満と.もっと欲しいという我欲が住みつき、満ち足りることが少ないのです…

幸福や満足とは外世界からもたらされた物の多寡には関係なく、自分自身の心の満足度.如何なのですから、真の満足をもたらすものは[足るを知る心]だけなのです…

欲に塗れていたり.他人の評価に気を取られたり.自己顕示欲に苛まれて名利や所有欲に魅入られていては平安が訪れることなどないのですから…

全体性として存在している世界を在りのまま受け入れようとはせずに分断し.分別して捉えようと焦点(フォーカス)をあてて、これは好き.あれは嫌いとか、これは良い.あれは駄目とバイアス(偏見)が掛かった主観で判断.判別し、これが[自分の考え]だと錯覚している事にさえ気付けないでいるのです…

しかしそれらは単なる五集合要素(五蘊)という精神作用による無常な現象に過ぎず、妄想への捉われ.拘り.執着などを捨て去れば、時間.環境.状態.心境などで如何ようにも変わる凡そ真実(真理.事実.現実.実相)とは掛け離れたものに過ぎない事に気付くでしょう…

また生と死・善と悪・美と醜・得と失・勝と負・悟りと迷いというように、物事を相対的にみて、一方を取り他方を捨てようと分別し、それに執着する念慮などもすべて妄想と言えるのです… 

簡単にいえば、迷える想念のことであり、したがって[妄想を止める][一で止まる]とは、「相対的な見方に立って思いわずらうことなかれ」という意味なのですから…

輪廻の替歌

[千の命になって]

千の風になって 替歌

 


私のお墓の前で 

泣かないでください
そこに私はいません 

成仏なんかしてません
輪廻の流れを

因果律に沿って
激しい流れの中を

転生しています

 

秋には虫になって 

畑を食い荒らし
冬は腹を空かせた

小さな猫になる
朝は鳥になって 

餌を探しまわり

夜は猿になって 

森で騒ぎたてる

 


私のお墓の前で 

泣かないでください
そこに私はいません 

成仏なんかしてません
千の命に

千の命になって
この無常な世界に

繋ぎとめられてます

千の命に

千の命になって
また人の身となる日を

夢見て生きてる

 

また人の身となる日を

夢見て生きてる

 


⬛原曲

 

千の風になって

私のお墓の前で 

泣かないでください
そこに私はいません 

眠ってなんかいません
千の風

千の風になって
あの大きな空を

吹きわたっています

 

秋には光になって 

畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように 

きらめく雪になる
朝は鳥になって 

あなたを目覚めさせる
夜は星になって 

あなたを見守る

 


私のお墓の前で 

泣かないでください
そこに私はいません 

死んでなんかいません
千の風

千の風になって
あの大きな空を

吹きわたっています

千の風

千の風になって
あの大きな空を

吹きわたっています

あの大きな空を

吹きわたっています

 


輪廻のうた 

[線路は続くよどこまでも]の替歌
1,
輪廻は続くよ~どこまでも~♪  
生と滅とを~  繰り返し~♪   
遥かな過去か~ら~ 未来まで~ ♪
進化の歴史を~ なぞりゆく~ ♫
2, 
輪廻は巡るよ~ いつまでも~   ♪
激しい流転を~ 浮き沈み~    ♪
何処から来たりて~何処へ行く~ ♪
何に成りても~ 難度海~   ♫
3, 
やっと生まれし~ 人の身に~  ♪
欲得、煩悩~ まみれ生き~    ♪
激しき流転を~ 繰り返す~    ♪
仏はブツでも~ 微生物~      ♫
4, 
軛を解かれて~ 涅槃界~     ♪
全き摂理の~ 仏の座~     ♪ 
天の輪廻を~ 流れゆき~     ♪
いつかは必ず~ 梵釈天~   ♫ ♫


年の功より亀の甲
[犬のお巡りさん]の替歌


世迷し.無明な ご老人〜
あなたの逝く先 何処ですか〜
片足いれても気付けない〜
両足いれたらもう遅い〜
ポク.ポク.ポク.ポク
ポク.ポク.ポク.ポク
功徳を積まない ご老人
路傍の如来さま 答えて曰く
輪廻転生 無成仏


原曲
犬のお巡りさん
まいごのまいごの こねこちゃん
あなたのおうちは どこですか
おうちをきいても わからない
なまえをきいても わからない
ニャンニャン ニャニャーン
ニャンニャン ニャニャーン
ないてばかりいる こねこちゃん
いぬのおまわりさん こまってしまって
ワンワンワンワーン ワンワンワンワーン

まいごのまいごの こねこちゃん
このこのおうちは どこですか
からすにきいても わからない
すずめにきいても わからない
ニャンニャン ニャニャーン
ニャンニャン ニャニャーン
ないてばかりいる こねこちゃん
いぬのおまわりさん こまってしまって
ワンワンワンワーン ワンワンワンワーン

四苦八苦

お釈迦様は人生とは四苦八苦の中にあることを直視され.何故苦があるのか.どうすれば苦から脱却できるかを追求された方でもあるのです…

世の中には苦が確かにある…
しかし苦があるからこそ楽もある…
それに明確に気付いた瞬間から.今まで怖れ.忌み嫌って自らが創り出していた妄想に過ぎない苦は消え去り.堅固な平安.悦楽.歓喜.静逸を顕現させたのです…

つまりは苦を直視し.苦を理解し.苦を乗り越え.苦から解き放たれるのが四聖諦であり.仏教の主要な教えでもあり.その実践法が八正道なのです…

 
生きるとは苦(ドゥッカ)の中に存在する事であり.言い換えれば空(中道)という安定状態から.安定対称性(安定性)が破れた不安定状態こそが.苦(ドゥッカ)の本質であり.仏教では肉体的な苦痛の他.精神的な苦痛.不完全さ.不安定さ.心痛.悩み.憂い.恐怖.儚さ.不満.哀しさ.悔い.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.無明さ.実質のなさ.思い通りにならない欲望などを含めて苦(ドゥッカ)というのです…


お釈迦様は[生きるとは苦である][人間の生存は苦であり.その原因は欲望にある]と説かれ.[もし人が一切の妄想から離れることが出来れば.あらゆる苦(ドゥッカ)からも完全に解放される]と悟られ.四聖諦を説かたのです…

苦とは物質的苦痛.肉体的苦痛.精神的苦痛の総称でもあり.何れも外部からもたらされた事物によるのではなく.外部.内部の現象的な刺激に対して自分の感覚が作りだしたものである事への気付きが重要であり.変化生滅してゆく現象的刺激に対して.過ぎ去った後も.まだ来ない事前でも今を疎かにしながら.意(心)が捉われ.拘り.執着して.怖れ.憂い.存在しない苦しみ(ドゥッカ)を自ら造り出しても居るのです…

ですから苦しみ(ドゥッカ)から解き放たれるには.逃げる事でもなく.慰める事でもなく.無責任な暗示を与える事でもなく.目を背けさせる事でもなく.得体の知れない神仏に祈る事でもなく.しっかりと苦(ドゥッカ)と現実をを直視して.その正体を見破り.理解する事が必要なのです…

大宇宙もその存在に於いて[存在していたい…安定へ向かって変化して行きたい]という意思が生じさせる苦のエネルギーによりビックバンを起し.膨張し.継続し.存在していたいと.この時空を生じ.絶え間ない躍動的な変化生滅の中に存在しています…
その空間に物質が生じ(無色から色への変化)離合集散のより素粒子へ原子へ分子へと集まり物質を生じさせるのも[苦のエネルギー]によって成されるのであり源物質も素粒子も原子も分子も[存在していたい.安定に向かって変化して行きたい]という意思により成り立っているのです…

天地自然の法則(物理法則)はこの本質的な意思により生じ.天地自然の法則(物理法則)と空間との関係性(結び目)により因果法則が生じているのであり.我々.人間の肉体も分子の集まり(結び目)であり.分子から細胞.器官という集まり(結び目)も.[存在していたい.安定へ向かって変化してゆきたい]という存在の意思を内包していて.その意志の集まり(結ぶ目)が心に渇き(渇愛)を生じさせ.[存在していたい.安定に向かって変化してゆきたい]という存在欲(煩悩)を生じさせているのです…

     
このように我々も本質的な存在の意思(存在欲)により生じる苦のエネルギーで存在している事を先ず前置きとして理解して下さい…  
四苦八苦とは.因縁により生まれた瞬間から宿す業(カルマ)の働き(作用)であり.どんなに本人が今は幸せだと思っていても.やがては必ず行き着く.人間として逃れられない必然的な人間の本性を[四苦八苦]であると説かれるのです…
しかし後ろ向きに[生きる事は苦しい.苦痛な事なのだ]と捉えてはなりません…

苦楽は一如なものなのですから…

 

お釈迦様が説かれるのは本質である[苦]を先ず見極めなさいと説かれているのであり.苦を前提として楽があり.楽を前提として苦があり.どちらも単独で成り立たないものなのであり.苦は楽の種なのですから…(例えるならば.息を1,2分でも止めてみれば苦しいから呼吸しているのに気付き.呼吸により生きるという存在の本質的意思に叶っている事に真に気付くならば.一呼吸一呼吸が快楽の中にあり.あらゆる束縛から解放された心は平安な愉悦を味わうことが出来るのです)
つまりは存在の本質的意思を満たそうとする渇き(渇望)により生じる存在欲(煩悩)とその衝動によって生じる盲目的な意思による感覚.その感覚によって生じる感情によって五感官(眼耳鼻舌身)を外部へと向け五蘊という精神作用により刺激(情報)を得て存在を安定化させようとする.決して満たされる事のない欲望(究極的には不死への欲望)により.不善心処(三毒.貪瞋痴)を生じさせ.主観や自我を生じさせ.妄想を生じさせて.苦を造り出しているのです…

一方.人間は発達させた理性(客観的な理解能力.認識能力)を具しています…

これを悉有仏性と呼ぶのです…
心の作用に気付くならば.理性は五蘊を制御し.外世界へと無駄に向かう感情による判断を制御し.存在欲(煩悩)の生成を制御でき.感情が造り出す妄想から離れられるのです…

極論的に言うならば.今.ここに在る(存在している)という事実以外は考えるべくして思考する以外の思考は全て妄想であるとも言えるのです…

そしてその妄想により全ての苦は生成されているのです…(つまりは苦が在るのではなく.楽と対比して苦と感じているだけ…)
心をよく観察し.貪を伴ない瞋を伴ない痴を伴なう悪不善な尋(じん.想念)が在るならば.尋の過患(過ち.欠点)を理解すべきであるのです…

五蓋を打ち破り.平らかな心を保ち.努め精進するならば智慧を顕現し.真理へ至るだろう…

アガティ(思い込み.固定観念.先入観.偏見)を厭離し.生死の軛を乗り越え.金輪際を超越し.涅槃(ニルヴァーナ)を見出すでしょう…   
●四苦八苦
苦には…

(内苦)=自己の心身より起こる苦

(外苦)=外的作用により起こる苦

(苦苦)=不快なものから感じる苦

(壊苦.えく)=好きなものが壊れることから感じる苦

(行苦)=物事が移り変わることを見て感じる苦

お釈迦様はこれらの苦しみを整理して生.老.病.死の四苦と.思うがままにならない四苦(愛別離苦.求不得苦.怨憎会苦.五蘊盛苦)として大きく問題にされたのです…    

この現象世界に存在する全ての事物は生じては成長し.膨張し.拡大し.変化し.やがては変化し.消滅し.再生成してゆく…

凡そ.変化生滅しない事物は存在できない世界なのですから…
【生 】生まれ、生きるという因縁により生じる苦       
【老 】老いてゆくという苦    
【病 】病傷で患う苦      
【死 】必ず死ぬという苦     
愛別離苦】愛する者と別離する苦
【怨憎会苦】怨み憎んでいる者にも出会ってしまう苦
【求不得苦】求める物が得られない苦【五蘊盛苦】五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦

★この五蘊盛苦こそが苦しみの根源ともなるのです…

それはこの五つの要素が集まり[五蘊]を形成する時.自分は実存しているという自我意識を生じさせ.捉われ.拘り.執着した自己中心的で身勝手な自分を造り出すからなのです…

五蘊という精神作用は.感覚器官が刺激に対して.感覚器官(眼耳鼻舌身)で.感受(感知)した感覚に対して.記憶情報などにより識別(認知)し.各々の感情を生じさせ.その感情に基づいて意識(主観)を生じさせている無常な現象に過ぎず.例えば気分がよければ肯定的であったり.腹の虫の居所が悪ければ否定的であったり.約そ真実を反映しているとは限らないものなのに.無明な人は此れこそが私の考えだと錯覚して感覚的.感情的.手前勝手な論理に固執してしまい.現実(真実)とのギャップに対して表層の思考が苦(ドゥッカ)を造り出すのです…

★無常な本質のものである感覚的喜びも.感情的喜びも.その執着による喜びも.その放棄による喜びも.また高度な瞑想によって得られる通常の意味での苦しみの片鱗すらない非常に純粋な精神的次元も.紛れもなく幸せと感じる心地よい感覚を超越した純粋に鎮静した意識の次元も苦(ドゥッカ)に他ならないのです[それらは無常で苦(ドゥッカ)で移ろうものである]のですから…

常ならず移ろうもの全ては苦(ドゥッカ)なのですから…

 

幸せを探し求める人々は.苦(ドゥッカ)から.なるべく目を背け.考える事さえ避けたがり.苦(ドゥッカ)を強調する仏教とは[受け入れ難い教え]とも映り.信者獲得を主眼として大衆迎合的に成立した大乗仏教新興宗教は.古来からの崇拝対象である得体の知れない神仏とか怪しげな超越的な力とか眉唾な霊魂.霊力.精霊からの救い.保護.安全.ご利益などを掲げて.無明(無知)の闇の中を盲目的に手探りで懸命に生きている憐れむべき人々を.更なる盲目的な暗黒へと引きずり込んでゆくのです…

仏の教えとは無明の闇を深めさせる事ではなく.無明の闇を晴らす事こそが.人々に真の幸せ.悦楽.歓喜.平安.静逸をもたらす事を喝破し.無明.渇望.貪欲.怒り.迷い.無常さ.苦しみから目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され人々に真の堅固なる幸せ.悦楽.歓喜.平安.静逸への道を指し示す教えなのですから…

祈 り

皆さんが良い一日を過ごしますように…
世の中が平和でありますように…
衆生(人々.生きとし生きるものたち)が、幸せでありますように…
衆生(人々.生きとし生きるものたち)の、悩み苦しみが無くなりますように…

衆生(人々.生きとし生きるものたち)の、願い事が叶いますように…

衆生(人々.生きとし生きるものたち)に、悟りの光が現れますように…

私を嫌う人々が、幸せでありますように…
私を嫌う人々の、悩み苦しみが無くなりますように…
私を嫌う人々の、願い事が叶いますように…
私を嫌う人々に.悟りの光が現れますように…
    如来品正師 多々方路傍石