神秘と不思議

不思議(ワンダー)と神秘(オカルティズム)という言葉は混同して捉えられがちですが、似て非なる真逆で対極的ものなのです…
不思議(ワンダー)とは不可思議の略語であり人間が[思議し得ない]ことを指すのであり、つい近代に至るまでは.生命を生み出した大いなる力である光も.水も.電気なども.無知で未開だった人類にとっては.不思議な力でしたが、その知性と努力と探究心や知的好奇心で開拓し.開明して思議できるようになったのです…それでもこの世界は.まだまだ通常の人間には思議し得ない不思議(ワンダー)で溢れてもいるのです…
そしてそんな人類を覚醒させ超越させ解放させ幸せをもたらす超現実的とも言える不思議(ワンダー)の対極に、人間の持つ未知への憧憬や探究心や知的好奇心や無明さに漬け込み、染脳(洗脳)コントロールして支配することを目的とする神秘主義(オカルティズム)があるのです…
つまりは不思議とは解明されてゆく性質のものであり、神秘とは否定されてゆく性質のものであり、不思議とは無明の闇を晴らすものでもあり、神秘とは無明の闇を深めさせるものでもあり、不思議とは人の心を豊かにさせるものであり、神秘とは人の心を貧しくさせてゆくものでもあるのです…
しかしドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.不安.恐怖.欲望.無明さ…)な本質を有する人間は、理性では理解できても五集合要素(五蘊)による感覚.感情.主観な自我意識では自己保存欲求や自己防衛欲求の働きで、神秘主義へ魅入られ易いのです…
ですから愚かにも今だに御神託とかイタコや霊能者.スピリチュアリストなどと言う眉唾なものに[寝呆け.染められ. 縛られる]人が絶えず、作為ある妄想的な神秘主義が蔓延っているのです…折角の人生を無明なまま酔生夢死してしまわぬように[八正道]と[十二因縁]を学んで頂きたいのです…
智慧と神通力
不可思議とは、思いはかる事も言葉で思議することも出来ないものを広く指し、神通力とは高度に高められた直感力を含めた深淵な洞察力に基づく超現実的な法力であり、魂や霊魂.霊体(スピリチュアル)とか、神仏や精霊などからの啓示とか第三の目の開眼などを主張する妄想的パラノイア神秘主義(オカルティズム)とは対極的な性質のものなのです…
人智を超えた不可思議力を現代語では「不思議」と略して呼ぶことも多く、英語で[wonder]に当たります…

仏教で般若(prajñā)と言われる智慧(叡智)とは、一切の現象や.現象の背後にある道理を見透す知性を意味し、現在の自然科学では解明できない高次元を感知.認知することを言うのです…
⬛十二因縁と八正道

 
十二因縁 : 路傍の如来
資本主義社会.物質文明の真っ只中を生きている現代人は.好むと好まざるとに係わらず、感覚.感情.情緒.主観.自我意識につけ込む.所有の次元の事物への欲望(金欲.財欲.物欲.色欲.知識欲.情報欲.地位欲.権威欲.名誉欲.権力欲.健康欲.長寿欲.…)を煽る.偏り.如何わしく.作為的で
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八正道(禅定の章) - 仏教の最高峰   頂乗仏教学舎    路傍の如来 多々方路傍石
八正道(禅定の章) 心を浄化する修養の実践(業.カルマ=行為) 修養者は正しい修養により[戒]から[定]…[定]から[慧]に至り一人の菩薩大士となる。 悦楽の中に修養の成果を味わい、生きる事の素晴らしさを享受し、命の意味を悟るだろう。智慧の修養は甘美な果実を収穫する。 自分の心に注意を向ければ苦悩の本当の原因が理解できる。 心が感覚的.感情的.思考.認識などの働きをした時に.自他の為にならない振る舞いをして.煩悩や苦しみを惹き起こす事がある [戒]により心に刺激が入り込まぬよう感官を見張り、同時に心を不安定にする行いを慎む。衛兵が城門を守るが如く。 [戒]によって心が安定したならば、正しい精神…
bongteng.hatenablog.jp
 
八正道(戒律の章) - 仏教の最高峰   頂乗仏教学舎    路傍の如来 多々方路傍石
八正道(戒律の章) 心を浄化する修養の実践(業.カルマ=行為) 修養者は正しい修養により[戒]から[定].[定]から[慧]に至り一人の菩薩大士となる 悦楽の中に修養の成果を味わい、生きる事の素晴らしさを享受し、命の意味を悟るだろう。智慧の修養は甘美な果実を収穫する 自分の心に注意を向ければ苦悩の本当の原因が理解できる 心が感覚的.感情的.思考.認識などの働きをした時に、自他の為にならない振る舞いをし煩悩や苦しみを惹き起こす事がある [戒]により心に刺激が入り込まぬよう感官を見張り、同時に心を不安定にする行いを慎む。衛兵が城門を守るが如く [戒]によって心が安定したならば、正しい精神集中[定]に…
bongteng.hatenablog.jp
 
八正道(智慧の章) - 仏教の最高峰   頂乗仏教学舎    路傍の如来 多々方路傍石
八正道(戒定慧) アリヤ・アッタンギカ・マッガ「もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば或いはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであれば、それは煩悩に捕らわれている人が正しい道以外の方法によっても清められる事になるであろう。 このように語る者を偏見ある者と呼ぶ 真のバラモンは正しい道の他には見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれかによっても清らかになるとは説かない。 禍福に汚されることなく自我を捨て、この世に於いて禍福の因をつくることがない者は平安である。 ☆仏道修行はその修行者の数に比べて到達者(目覚め覚醒)が実に少ない道であると言え、その理由の一つに忘筌(ぼうせん)…
bongteng.hatenablog.jp

教祖と信者

宿したる真夏の日差しを温もりに
無明の闇を 晴らすが仏道


作為的なマスゴミの情報に翻弄されぬよう日頃あまり気にもしないのだが、[教祖と信者]という関係性を女性アナウンサーと按摩師の夫の関係性とに重ねた記事見出しに目を止めた…
何かとストレスが掛かるだろう芸能界の多くの人は現実逃避欲求からか、スピリチュアルとか非現実世界へ心が惹かれるようで鸚鵡教祖と同じインチキ按摩師の夫に染脳(洗脳)されて教祖と信者関係を築いて迷惑の種になっているらしい…
仏教で言えば、多くの人が誤解しているのですが釈迦尊(ブッダ)は決して教祖などという類の方ではなく.御自身も教祖だとは考えてもいなかったようであり、釈迦尊(ブッダ)は到達者なのであり.到達した真理と真理への道を教えて下さった方だと言え.釈迦尊(ブッダ)御自身でも教祖として捉えらる事を戒められ[教祖と信者]という関係性を否定されていたのです…
それには幾つかの理由があり、一つには他の宗教や信仰というものが.得体の知れない神や仏や霊体.精霊やその化身などから能力や啓示を受けた存在であるとか千三な空論.暴論を主張の根拠として教祖だと宣い.他人はそれを疑うことなく鵜呑みにして信じる(盲信)、信者なるものになる事を強要するものであり、それに逆らうものには罰や災いがあり地獄へ堕ちると嘯きながら自らが堕ちてゆく事も知らない者なのであるのに対して、釈迦尊(ブッダ)は.その様な眉唾なものの力や助けによらず、自らの努力と知性により到達したのであって、人間存在こそが至高であり人間は自らの主であり、人間より高い位置から人間の運命を差配したり審判できる(神仏のような)存在や力などなく、[自らが自らの依り処であり、自分以外の誰をも依り処とすることなかれ]と仰った卓越した人物なのです…
二つ目に、疑心暗鬼になる事を戒められると共に自ら疑問を晴らそうとせずに鵜呑みにして盲信(妄信)する事を殊更に嗜めたのです…
つまりは釈迦尊(ブッダ)在世当時のバラモン教を始めとして.世の中に蔓延る無明な人々を.依り無明の暗闇へと誘う[教祖と信者の関係性]により[寝呆け、染められ、縛りつけられる]人々を憐れみ、[目覚め(覚醒)、乗り越え(超越)、解き放たれる(解放)]道を指し示されたのが、仏の教えなのですから…
そしてその三つ目が、釈迦尊(ブッダ)に会いに訪ねてきたジャイナ教の教祖マハーヴェーラは.釈迦尊は.およそ教祖らしからず.日中はいつも托鉢(辻立ち)に出掛けていて留守で会うことが出来ず、教団(サンガ)運営を一手に担い.いつも応対してくれる舎利子(シャリプトラ)を教祖だと思っていたという記録がジャイナ教にも残っています…それ位、釈迦尊(ブッダ)には教祖などという意識も自覚もなかったようなのです…およそ教祖などと言う連中に本当の聖人も到達者も居らず.欲望に魅入られたパラノイアな方々なのですから…
大切なのは感覚.感情.主観に誑かされて.鵜呑みにして信じることではなく、よく眺め.分析し.思惟思推し.検証し.確証を得て理解することなのです…
そして四つ目が大般涅槃経(マハーパリ.ニッヴァーナ.スッタンダ)の中で語られる[吾は.自らがサンガ(共同体)を統率したり、サンガが教祖としてブッダを頼るといったことは考えた事もない]と述べられ、[自らが自らの依り処となり、決して他人を頼らず他人から助けを求めることなかれ]と自らの努力と知性によって汎ゆる束縛から自らを解放し自由になることが出来るのだから、誰であれ自分を啓発し.克己し精進しなければならない…[教祖の信者の関係性]とは縛る者と縛られる者の関係性に他ならないのだから…
釈迦尊(ブッダ)は釈迦尊(ブッダ)ご自分のことさえも良く吟味して師事するべきだとも仰っいました…
その意は、疑い(疑心暗鬼)は、精神の進歩を阻むものであり、全ての悪の根源は無明(無知)であり誤解であり物事が明晰に見え.本当に理解出来ない限り.ためらいや戸惑い疑問が残り先に進むことは出来ない…疑わずに信じるべきであるというのは全く的を得ていない話であり、ただ単に[信じる]というのは本当に理解し明晰に見えているという事ではなく、寧ろ[ミロバランの喩え]の如く、盲信(妄信)している者は決して真実(真理)には辿り着くことが出来ず、道は私達一人一人が自ら歩まねばならないのです…
自己解放は人が自ら真理を実現する事によって到達するものであり、神仏或いは外的な力などから.その従順な善い行ないに対する報いとか恩恵とかによって与えられるものではないのですから…

価値観

心の中を探してごらん…
仏も住めば、鬼も住む…
極楽浄土も.地獄の闇も.
心の中に啓くもの…


人それぞれに価値観があり.人それぞれに生き方があります…
民主社会である日本でも.男であれ女であれ.それは法治や公序良俗を侵さない範中において何を信じ.何を嫌い.何を求め.どんな生き方をしようが.自由なのです…
しかし自分が信じ.好み.価値観を見い出すもののみが優れたものであり.他は間違ったもの.劣ったものだと主張することは了見の狭い自我(エゴ)の捉われた浅薄.短絡.無明さに他なりません…
仏教思想の根幹も.こうしろ.ああしろという人様を型に嵌めるような物ではなく.まして他の宗教がもつ罪.科とか罰というものとも無縁であり.ただ善因善果.悪因悪果.自業自得.因果応報.因縁起果報という因果律(縁起)に従った原因と結果があることを説いているのです…
そして.この自由な価値観や生き方を保証された社会の中で.皆さん.幸せを求めて生きています…しかしそれで皆さん.本当に堅固で安定的な幸せを獲得することが出来たのでしょうか?
もし既に幸せならば.他人と争うことも.悩む事も.欲望に苦しむ事も.不満を懐き他人を憎むことも.他人の言動に苛立つことも.心の隙を狙われ新興宗教やカルト劇団に染脳(洗脳)され.散財と酔生夢死することも無い筈なのに.何故.世の中にはドゥッカ(不安定さ.苦悩.憂い恐怖.迷い.心痛.後悔.哀しみ.儚さ.不満.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無明さ.無常さ.欲望….)が満ちているのでしょう?
それは幸せを探す方向が間違っているからなのではないでしょうか?
幸せとは自分の価値観が満たされる事であり.価値観と精神性(人格)とは車の両輪のようなものなのです…(最下部参照)

ですから欲望に魅入られて喜怒哀楽の中を翻弄されて幸せを追い求めながら却ってせっせとドゥッカ(苦)を造り出してゆくよりも.心を調えて行くほうが堅固で安定的な幸せを獲得できる事は.既に[幸せの三要素]などで説明していますように.心の一階部分にあたる自分の存在的価値観である精神性(人格)人柄.人質.器量.境地が育成されれてくれば.心の二階部分にあたる他人や他の生命との絆.関係性.距離感によってもたらされる価値観や.心の3階部分にあたる便宜的.付随的で無常な所有の次元の事物(金.財.地位.名誉.称号.権威.権力.勢力.評判.支持.承認.希望.夢.健康.寿命.…など)へ必要以上に執着させる価値観から解き放たれてゆくのです…

つまりは欲望と執着こそがドゥッカ(苦)の根源でもあるのです…
しかし執着しないゾ〜.執着しないゾ〜と思考で幾ら思ってみても.煩悩に主導されている心は無明な煩悩.欲望の炎に煽られて執着から解き放たれる事など出来ないのです…

その為に1階部分を育成し.智慧(叡智)と人格を高めて.無明な煩悩.欲望の炎に煽られた貪瞋痴思考(煩悩思考.三毒)から戒定慧思考(三学)へと高めて行かねばならないのです…
加えて言えば.そうさせている本当の原因は五集合要素(五蘊)であると言え.五つの要素が集まると実体的な[自分]という錯覚が生じて.その自分が存在欲(煩悩)の渇望により魂や霊魂などの実体的な存在を妄想し欲すると共に.貪瞋痴思考を始めるのです…
自分とは[引き寄せて結べば柴の庵かな…]
■方向転換
多くの人達は.感覚に刺激を送り続けることが.幸せだと勘違いしています…
出世の人は.感覚が刺激に取り込まれること無く.平安に在るがままに在るのが幸せだと知っているのです…
疑問を解消したい.知りたいと言う知的好奇心を武器として.依り快適に暮らしたいという欲求が.人類に文明をもたらし此処まで進歩させたのは間違いのない事実であるが.且つその欲望が諸悪の根源となる障害でもあるのではないでしょうか…
何故?という疑問がある限り.人は真には先へは進めないものであり.かと言って疑問に埋もれ思索に更けても居られず.その疑問には蓋をして思考停止状態で生きているのが大概なのです…
若い頃には.[自分は何故生きてゆくのだろう?][何をすればいいの?][何で働くの?]など身近な問題にwhy?しながら答えを見い出せないまま横に放置して.時が過ぎたある日[自分はこれで良かったのだろうか?]と愕然と気付いて.執着と後悔と未練を抱くから輪廻してゆくのです…
[後悔.先に立たず]と言われるように.今更どうしようもない処まで気付かずに生きるか.少しでも早く気付いて軌道修正を図ることによる真の幸福な人生の実現を説いているのが仏教なのですから…

◆精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく…
低次元に於ける階梯  

渇望と存在欲に発する衝動による執着… 
①肉体的.物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し.本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく.それ以上の価値観を持ち得ません…

ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく.宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てなく.物質的.肉体への価値判断が.精神的.存在的価値判断を上廻ってしまうのです…
②感覚.感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く.好き嫌い.快不快.美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します…

これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し.感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し.善悪.浄不浄などという倫理感を上廻ったります…

妄想的.神秘的な信仰に興味を持ちやすく.儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります…
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、「第三の目」や「超能力」や「霊力」といった得体の知れない物事を求める傾向があり、読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)        
このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。       「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥超越精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(連鎖運動)を断滅した無我なる生命エネルギ-から顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」


人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのです…

祝福の啓示・滅亡の序曲

【  祝福の啓示・滅亡の序曲 】  
路傍の如来 多々方路傍石 伝説


諸国を行脚し.猛暑の夏.寒中の冬も厭わず托鉢.辻立ちの幾星霜の日々…

縁あって上野不忍口を[心の沐浴場]と定め.右方には暮らし貧しき者達が群れ.左方には心の貧しい者達が行き交う.辻に立ちて凡そ十年の時が過ぎし夕刻.天空.俄かに明らみ.世界はその動きを止め.光音天の妙なる調べと.法華の芳しき香りに我れ包まれたりし時…

天上より大梵天は緒天を随え勧請賜えり…

「嗚呼.今の儘では此の世は終わる…

今の儘では此の世は壊れてしまう…
汝.完成者よ.清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を天と神仏は祝福するだろう…
大地は喜びに打ち震え.海は大波となって歓喜し星は落ちて光り輝き祝福するであろう…
我れは汝に尊師.釈迦牟二(シャキムニ)に授けたる如く三如を授けん.既に達したる六神通と三如の神通力により九神通(神通自在)へと至るものである…

その法力により天と地上と迷界.地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり.そして尊師.釈迦牟尼(シャキムニ)の至りたる無上なる等正覚は如来蔵であり.新たなる如来の誕生であり.弥勒の出世である…
この懇請を受けし如来なれ.今より汝は如来品であれ」と勧請なされた…


天上より帝釈天は緒神を随え来迎賜えり…

「嗚呼.今の儘では此の世は終わる…

今の儘では此の世は壊れてしまう…
汝.完成者よ.清浄なる梵釈天界にまで達したる其の成道を.天と諸神仏は祝福するだろう… 

大地は喜びに打ち震え.海は大波となって歓喜し.星は落ちて光り輝き祝福するであろう…その法力により天と地上と迷界.地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり…

この尊師.釈迦尊(ブッダ)の達したる無上なる正覚は如来であり新たなる如来の誕生である…

そして欲望で汚れた人間界への審判を汝に委ねるものである…汝が彼岸に至るとき、この人間界を存続すべきか断滅して新たなる命の世界を創造すべきかを神仏は問うであろう…
汝の審判により人間界は滅し栄えもしよう…
この勧請は無上等正覚者を祝すもの也…」 


仏界(最上界)より尊師.釈迦尊は諸仏を随えて降臨なされた…
「我れ.汝の歩みし道を祝福する…

[欲の煩悩][生存の煩悩][無明の煩悩]による無常の劫火に苛まれ焼き尽くされ.苦しみの輪廻を繰り返す衆生を憐れみ(無量なる慈悲心).遍く説いた真理の法も.無常なる世の常なれど.我が名は崇められ.我が法は貶められたるを憂うものなり…

汝が定めし行法は我が行法なり…

我も托鉢と辻立ちの内に幾多を悟り.禅定に検証し.智慧(叡智)にて目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放し.無常の劫火から解脱せり…」
「嗚呼.今の儘では此の世は終わるだろう…

今の儘では此の世は壊れてしまうだろう…
我が無上等正覚なる弟子よ…完成者よ… 

過ぎ去りし時は.我が教えも無常と成す…

真理に到達する者は少なく.大悟を顕現して仏界に至るは至難とも成りたる.罣礙なく清浄なる梵釈天界にまで到達し仏界に達したる其の成道を吾れと緒仏.緒天.緒神.精霊に至るまでの天神仏と悪魔.餓鬼.悪鬼までもが祝福するものなり…

大地は歓喜に打ち震え.海は大波となって歓喜し.星は落ちて光り輝き祝福する…
そして汝.如来にこの世界の生滅を託す…  この大宇宙が継続するも.また滅して新たに創造するのがよいのか…      

[空の崩壊]は彼方の時空で既に始まれり…

汝.如来の計らいに託すものなり…

これこそが[大宇宙の意志]でもある…

 

人々と.生きとし生きるもの達が.幸せでありますように…

人々と.生きとし生きるもの達の.悩み苦しみが無くなりますように…

人々と.生きとし生きるもの達の.願い事が叶いますように…

人々と.生きとし生きるもの達に.悟りの光が現れますように…

私を嫌う人々が.幸せでありますように…
私を嫌う人々の.悩み苦しみが無くなりますように…

私を嫌う人々の.願い事が叶いますように…

私を嫌う人々に.悟りの光が現れますように…

三学と三毒

仏教で自ら修めてゆく三学を戒定慧(自戒.禅定.智慧)と言い、自ら拭ってゆく三毒を貪瞋痴(貪欲.瞋恚.痴愚)と言います…
この二つは功徳と苦毒という真逆な果報へと通じてゆく重要な項目なのです…
両者の関係性は、煩悩(存在欲)の渇望により生じる三毒(貪瞋痴)を滅却し解き放たれてゆく為の三学(戒定慧)であり、貪欲は戒めによって抑え、瞋恚(激しい怒り)は禅定によって抑え、愚痴(愚かさ)は智慧によって抑えてゆくのです…
[戒定慧]と[貪瞋痴]を説かない仏教は[仏教]ではない!と言い切ってしまえる程.仏教の核心でもあり、仏教とは呪文や真言やお題目を唱えることでも.得体の知れない神様や菩薩や如来に縋る事でも讃え.崇めて保護.安全.ご利益.幸運を乞うことでもなく、[戒定慧]の三学により.煩悩(存在欲)による三毒(貪瞋痴)が造り出す苦しみの連鎖から解放されることなのです…
ですから苦しみの連鎖から解放され平安.歓喜.悦楽.静逸.堅固な幸せへと向かう為には.出家であろうが在家であろうが、拝もうが拝むまいが.儀式.儀礼を行なおうが欠こうが.瞑想道場に行こうが行くまいが.無関係な事柄であり、寧ろ既成概念や思い込みや拘りなどに縛られた頑迷で尊大な人達より.無明でも素直な一般の方々のほうが、余程、目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれ(解放)、堅固な幸福を得る事が出来るのです…
【戒(自戒)】
戒とは戒律の事ではなく自戒することを言います…
一般には身口意(行ない.言葉.考え)を律すると説かれますが、自らを戒めて律する為に必須な[気付き]が重要なのです…
無明な人は、存在の欲望(存在欲)の衝動(これが業・カルマであり煩悩の正体なのです)によって生きているのです…
ですから.人は自分という存在を否定しては生きられないので、常に[自分は正しい][自分は特別]という根拠のない衝動に突き動かされて生きているのだと言えるのです…
ですから[貪瞋痴]思考で生きている人達は、心の中に不満や怒りが積み上がってくると心が貧しくなり.尊大になってゆくのです…
[己の愚を知るが賢者なり]と言われるように、その愚かさに自ら気付いて.戒めながら、煩悩(存在欲)の三毒から解き放たれて行くのです…◆禅定(定)へと向かうには[五蓋]を浄化しなければなりません…
五蓋(三毒を含む)とは…
※五つの煩悩(存在欲の生体反応ー貪欲.瞋恚.睡魔.掉挙・疑)※貪り.怒り.眠け.心のざわつき.躊躇いの五つ。
煩悩(存在欲)とは言い換えれば自分の存在価値観であり、自分の存在性に対してプラスだと感じるものには貪りの気持ちを生じさせ.引き寄せたいと欲し、自分の存在性に対してマイナスだと感じるものには嫌悪や怒りの気持ちを生じさせ.遠ざけ排除しようと欲し、自分の存在性に対してプラスマイナスの判別に迷うものにはうろたえる(狼狽)のです…

自分の存在価値を肯定してくれる物事には安易に同調し、自分の存在価値を否定する物事には嫌悪する…しかし如何に耳に痛い事だとしても.本当に自分の存在価値を高めるのは、真理に基づいた気付き.目覚め.脱却.解放なのですから…
【定(禅定)】

欲望と雑念と妄想により汚れた[頭の中のゴミ屋敷]を浄化して、集中力を養い.自覚と気付きを高めてゆく事であり、立っていようが.座っていようが.臥していようが.身を律し.呼吸を調え五集中要素(五蘊)や思考のグルグル.ゴチャゴチャ回転を止めて、在るがままに自分を眺めるのです…
■定とは禅定(瞑想)の事ですが、禅那(サマタ乗)精神集中.無念無想.止観と定(ヴィパッサナー乗)観照.洞察とのペアで修養してゆきます…
一禅から四禅は精神集中.止観(サマタ)がメインとなり、一定から五定までは観照.洞察(ヴィパッサナー)がメインとなります…
初禅から四禅⇄一定から五定⇄(逆順)五定から一定⇄四禅から初禅→(確認)初禅→第二禅→第三禅→第四禅まで
定 空無辺処定⇔識無辺処定⇔無所有処定⇔非想非非想定⇔想受滅 
<全ては一息の内にあり。>
 ◆禅(徹底思惟)⇒定(思惟停止・止観)⇒梵(トランス状態)⇒定(無念無想)⇒禅(正念正智)⇒解脱
 ◆大悟への瞑想
 徹底思惟の瞑想 
 (禅)止観 無念無想
 精神統一の瞑想
 (定)観照 気付きの瞑想 ヴィッパサナー瞑想
 平安の瞑想⇔開放の瞑想⇔歓喜の瞑想⇔感謝の瞑想⇔慈悲の瞑想⇔無所有の瞑想⇔明知の瞑想
 ★四つの条件を揃え、五つの蓋を超えると正しい禅定となり四つの心三昧が現われる
★定は釈迦尊の瞑想法である…
★大切なのは集中.気付き自覚である…
★息数法は雑念や妄想へと繋がり易いので、
ただ呼吸を眺める(呼吸に思考を添わせる)
★神仏が現れたとか、第三の眼が開いたとか欲望による愚かな精神分裂ぎみの妄想に陥らないよう集中.気付き.自覚が重要なのです…

★大きな誤解(禅定ではゴール出来ない)
大悟して解脱し涅槃に成道させるのは[瞑想]でもまた[高度な瞑想]でもなく[気付きと智慧(叡智)]である事を忘れてはならないと釈迦尊も仰っています…
寝呆けた者や無明な者は瞑想三昧の内に.大悟や涅槃を得ようという欲望に縛られた瞑想に陥り易く、悟りとは無明さを脱落させ闇が開ける(つまりは愚かさを捨て去り)啓くものであり、欲して得られる性格のものではなく欲望の瞑想とは悟る処か欲心(悪魔)に魅入られて妄想に誑かされてしまうのです…
 ◎如実知見とは「在りのままに見て、在りのままに知る」
★禅定(瞑想内観.観照)
禅定で重要なのは[自覚と集中と気付き]であり、数を数えるのも(息数法)もラベリング(マハシ)してゆくのも思考である…坐禅に拘る(禅宗)のも.捉われである…立てよ座れ!
悟りを求める欲望の瞑想は、無明な人の心を貧しく醜くさせてゆく…[思考]と五集中要素(五蘊)のグルグル回転を止めて、感覚.感情.主観を止めて、感知.認知を自覚しながら[在るがままに在る]を眺めることを心掛ける…
心が調ってくると、自分の呼吸を眺めている自分を、眺めている自分がいる(内々観)
〇八つの解脱    
 1.初  禅 内心において「物質的なもの」という想いの者が、 外において物質的なものを見る…
[思いが在り考えがあり欲を捨てて生じる。歓喜を体験し無欲の歓喜で満たされる。]   
 2.第二禅  内心において「物質ならざるもの」という想いの者が、外において物質的なものを見る…
[思いがなく考えがなく想を捨てて生じる。歓喜を体験し無想の歓喜で満たされる。] 
 3.第三禅  己とは不浄なものであり世界とは清浄なるものであると覚る…
[正念があり正智がある喜を捨てて生じる。大楽を体験し無喜の大楽で満たされる。]
 4.第四禅 「物質的なもの」という想いを超越し抵抗感を消滅し「別のもの」という想いを起こさず.個々に存在するのではなく全て[無辺なる虚空]であると観じ、空無辺処に達する…
[大楽がなく清浄がある楽を捨てて生じる。空性を体験し無楽の空性で満たされる。]
 5.空無辺処定 全てが法と真理のもとにあり」と観じ、識無辺処 に達する
 6.識無辺処定 全てが無辺なる識であり虚空を分断するは無辺なる識であると観じ、無所有処に達する。   
 7.無所有処定 在るのはただ想いだけであり「想いが虚空と一体 化した」と観じ、非想非非想処に達する。            
 8.非想非非想定 想いが在るでもなし無いでもない境地。その境地を超越し「表象も感受も消滅する境地」 
 9.滅想受定(トランス状態)大宇宙の意思

 

根の制御=眼によって色を見ても相をとらない。聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、意によって法を意識しても、同様に、相をとらない。

正念正知=何か動作をする時、意識的に行う。
五蓋の断=貪ぼり、瞋り、のない心を持続する。浮つき、後悔、疑いを捨てる。
禅定(瞑想.サマタ・ヴィパッサナー 止観.観照)
初禅=喜びと安楽のある禅定。大まかな思考(尋)、細かな思考(伺)がある。初禅から第四禅までの詳細は、別項「四禅」に述べた。
第二禅=思考がなく、喜びと安楽のある禅定。
第三禅=喜びを離れ、正念正知にして、身の安楽のある禅定。
第四禅=楽を捨て、苦を捨て、平静と正念のある禅定。
【慧(智慧)】
学問.知識.情報.思考や思想的な分別探求の方法では実現できない、[戒定慧]の実践によってのみ実現する智慧(叡智)…これを「般若」ともいう…

宿住随念智=自分の過去世の生涯を知る智慧
自分の過去の種々の苦しみと自我(エゴ)によって他者を害した因縁がはっきりとわかる事…

死生智=他の生ける者の死と再生を知る智慧。他の者が、劣、優、美、醜、不幸になることを認知する智慧
苦や煩悩のない処を証したので、そこから離れ自己の苦と他者を苦しめる自我(エゴ)がはっきりとわかるので、他者の心が読める
苦のもとを見抜く、エゴを見抜く…

漏尽智=苦の四聖諦、漏(煩悩)の四聖諦を認知する智慧
人間の本性(根源、但し実体ではない現象的存在)は、苦や煩悩がないことをはっきりと自覚することである。それによって、苦や自我(エゴ)などの様相と捨棄の実現する…

解脱と解脱知見=欲の煩悩、生存の煩悩、無知の煩悩から解脱する。解脱したことにたいし解脱したという知が生まれる。そして、「再生は尽きた。梵行は完成した。なすべきことはなし終えた。もはやこのような輪廻の生存を受けることはない。」と認知する…
[欲の煩悩][生存の煩悩][無明の煩悩]のない真の自己を徹見する体験をする。意識分別による理解ではなく前述の戒定慧の三学による体験的自覚であり「解脱した」という智が生まれる…そして「再生は尽きた…梵行は完成した…成すべきことはなし終えた…もはやこのような輪廻の生存を受けることはない…」という認知は、霊魂.魂のような実体はないことを.体験的な理解により再生.再々生.輪廻というこの時空に繋ぎ止められた因縁[継続の連鎖]からの解脱である…

神秘主義(オカルティズム)

身を慎み 言動を慎み 平和に在れ
しかして 過ちを改むるに憚る事なかれ


迷信と無知とに覆われた暗黒時代を抜け出しても尚、神秘主義(オカルティズム)という盲目的な観念から解放される事が出来ないのは、カルティズムの語源でもある[隠れてる力]が天地自然の理法に反することを証明しようとする時、不毛な悪魔の証明(~項目参照)に迷い込んでしまうからなのです…
例えば.有るという証明は眼前に事実を実証すれば良いだけの話なのですが、本当には無い妄想的なものでも.有るという主張を否定して無い事を証明する為に.世界中探し.全宇宙を探して何処にも無かったとしても[隠れている力]を見つけられなかっただけに過ぎないという詭弁の前には、抗弁し得ない不毛な論理に陥るだけのなのですから…
神秘主義(カルティズム)は現代社会にも蔓延していて.多くの無明で善良な人々を惑わし.魅入らせ.捕えて妄信させて無明の闇を深めさせているのです…
★妄信.盲信とは物事が本当には見えていない事であり、寝呆け.染めら.縛られてゆく…


世の中には汎ゆる罠が蜘蛛の糸のように張り巡らされていて、無明な人達が.それと気付かずに迂闊に近づくと耳障りのよいプラパンチャ(戯れ言.能書き.美辞麗句.空論.妄想的観念.染脳(洗脳)テクニック.プロパガンダ…)などに絡め取られ、大切な時間と人生と金財などをドブに捨ててしまう結果となるのです…

神秘主義(オカルィズム)とは、人の持つ無明の闇を深めさせ.無明な人を依り一層盲目的にさせてゆくものであり、得体の知れないものや力への信仰を始めとして.神智学や古くはゾロアスター教バラモン教.タントラ教を源流とする秘密教(密教)など、不完全な存在である人間の持つ?神秘的な潜在能力を引き出したり.得体の知れない神や仏と合一する事により.今の自分を高次元の存在へと変身を遂げたり.神仏の力を獲得する事を目指すのが.神秘主義(カルディズム)であり、その本質は[無いものねだり]や[スーパーマンへの憧憬]などと同質の幼児性欲求に他ならず.その延長線上に幾多の新興宗教.カルト集団.宗教劇団が形成されているのです…
■盲信.妄信
[寝呆け 染められ 縛られた]
無明な妄信.盲信的な神秘主義(オカルティズムから、[目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放される]ことを目指すのが、真の仏教なのです…


一切皆苦と説かれるように.本質的にはドゥッカ(不完全さ.不安定さ.弱さ.脆さ.苦悩.心痛.怖れ.悔い.哀しさ.憐れ.空しさ.実質のなさ.欲望.不満.無常)な存在である人間は、自己防衛煩悩と自己保存煩悩により、絶対的存在として得体の知れない神や仏や神秘的な力を妄想し、依り処として拝み.敬い.畏れ.祈り.崇めることにより.保護.安全.安心.救済.恩恵を願い、心の慰め.安らい.安定を欲したのであり、無くては成らないものだと錯覚していて、根深いこの心情.無明から目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放される事が出来ずに.益々.神秘主義に嵌りこんだり、また神秘主義に代わって無常な[所有の次元の事物]を依り処として変化生滅に翻弄されている…妄想への依存が空しいように、変化生滅してゆく無常なものへの依存が更に空しいものである事に、気付くこともなく…


酔生夢死してゆく.人生を肯定する人達は、阿片中毒の中を夢幻を見ながら死んでゆく人生を理想的な人生だと言っているようなものであり、それは五感官(眼耳鼻舌身)への刺激(快感)を本当の幸せと勘違いして、五感官の刺激に依存して、その無常な刺激を更に求め続けてゆきながら[五欲に耽って生きていれば、やがて究極の幸福に到達できる][人間の生きる道はこれしかないのだ]などという.神秘主義者(オカルティズム)さえも真っ青な暴論に他ならないのです… 
感覚.感情.主観.妄想に触れ回されるから苦(ドゥッカ)を生じさせているのであり、つまりは感覚.感情.主観妄想こそ苦しみの根源であり、感覚.感情.主観.妄想に翻弄されると言う事は、少しの快感と引き換えに大きなドゥッカ(苦しみ.心痛.不満…)の中を生きてゆく事となるのですから…

学者と修行者

[向上一路 千聖不伝 学者労形 如猿捉影]

中国中唐の人 盤山宝積禅師(解説は下段)

 

何事につけ.知識や情報や観念を幾ら蓄積したとしても.決して覚ることも.大悟することも.まして涅槃(ニルヴァーナ)を体現することも叶わず、幾ら知識や情報や観念を蓄積しても無明の闇を晴らす事もなく煩悩と渇望に翻弄されながら盲目的に彷徨いながら輪廻の理法に流されてゆくのです…
知識や情報や観念を蓄積して.アーダ.コーダと見解を宣うのは.修養者でも菩薩(ボディ.サットバー・真理へと向かう者)でもなく、それは学者か評論家かお宅の仕事でしかないのです…
知っているという事と、理解しているという事は違うのですが.自分は知識として唯.知っているだけなのか…本当に理解しているのかは.実践の上に検証して確証を得るしか道はなく[百聞は一見に如かず]なのですから…
故に実践に照らさないものをプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.形而上の観念)として戒めるのです…
そして仏道とは[一句の実践]の中に在るものであり、飽くまで修養者であり実践者であるべきで.学者や評論家ではなく.経典は色々あろうとも.一句の実践上に具えて行くものなのです.が、振り返って見れば.実はそうではなく.誰にでも.無明な人であっても具わっている.人間存在としての知性.洞察力.叡智の顕現に依るのであり、故に悟りは啓くものなのです…
世の潮流に逆らおうが、皆が口を揃えて褒め崇めようが.如何に勢力を誇ろうが、真理は真理である如く.虚仮は虚仮でしかないのですから…
お釈迦様が仰った(如是我聞)という金襴ラベルが貼ってあっても、鵜呑みにしてはいけないのが仏の道であり、全ては冷徹厳駿に眺め観察し、子細に分析し、熟慮.思惟.思推し、実践的に検証し、確証を得て.理解してゆくのですから、信じるも信じないもなく、知ってるも知らないもなく、理解できているか理解できていないか、体現してるか体現してないかだけなのです…
■[向上一路 千聖不伝 学者労形 如猿捉影]

盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師

その大意は[真如の悟境は仏祖千聖も説きつくし伝えることができない。学者が能力をいろいろ働かせてその様子を現わそうとするのは猿が水に映る月影を捉まえようとするようなものだ]という意味です…            悟りの境涯とは.言葉によっては表現できないものであり、自己体験によって自証自悟するしかないもの…              しかし、いったん自己の脚下を顧みて.修行の初めの立場から思い返してみると、真如絶対の境地は先賢の助言が如何に多く残されていようとも、頭で理解することも難しく、更にそれを体認することなど夢のまた夢といった感じである…それゆえ、これはもう一心不乱に向上の一路を進むこと以外にはないのだと決心して、前向きに進み続ける自覚だけが真実なのではないか悟りの何たるかに心を止めることも、ましてや「証上の修(しょうじょうのしゅ)」に思いを馳せることもない不動の向上心のみがあって、自己の終着点など意に介さず、実直に進み続ける純心無雑な姿勢を尊いものとして推奨する視点を、この向上一路の初句に汲み取りたいのです…もちろん、それが自己顕示欲とか功名心などの欲を含んではならず、ただ真摯に向き合う…そういう潔さが人生には必要なのではないでしょうか…

☆証上の修とは(道元)

証とは悟り 修とは修養

悟後の修行…悟ったとでもなお修行すること。

修証一如…悟りと修行は一つ、という意味