学者と修行者

[向上一路 千聖不伝 学者労形 如猿捉影]

中国中唐の人 盤山宝積禅師(解説は下段)

 

何事につけ.知識や情報や観念を幾ら蓄積したとしても.決して覚ることも.大悟することも.まして涅槃(ニルヴァーナ)を体現することも叶わず、幾ら知識や情報や観念を蓄積しても無明の闇を晴らす事もなく煩悩と渇望に翻弄されながら盲目的に彷徨いながら輪廻の理法に流されてゆくのです…
知識や情報や観念を蓄積して.アーダ.コーダと見解を宣うのは.修養者でも菩薩(ボディ.サットバー・真理へと向かう者)でもなく、それは学者か評論家かお宅の仕事でしかないのです…
知っているという事と、理解しているという事は違うのですが.自分は知識として唯.知っているだけなのか…本当に理解しているのかは.実践の上に検証して確証を得るしか道はなく[百聞は一見に如かず]なのですから…
故に実践に照らさないものをプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.形而上の観念)として戒めるのです…
そして仏道とは[一句の実践]の中に在るものであり、飽くまで修養者であり実践者であるべきで.学者や評論家ではなく.経典は色々あろうとも.一句の実践上に具えて行くものなのです.が、振り返って見れば.実はそうではなく.誰にでも.無明な人であっても具わっている.人間存在としての知性.洞察力.叡智の顕現に依るのであり、故に悟りは啓くものなのです…
世の潮流に逆らおうが、皆が口を揃えて褒め崇めようが.如何に勢力を誇ろうが、真理は真理である如く.虚仮は虚仮でしかないのですから…
お釈迦様が仰った(如是我聞)という金襴ラベルが貼ってあっても、鵜呑みにしてはいけないのが仏の道であり、全ては冷徹厳駿に眺め観察し、子細に分析し、熟慮.思惟.思推し、実践的に検証し、確証を得て.理解してゆくのですから、信じるも信じないもなく、知ってるも知らないもなく、理解できているか理解できていないか、体現してるか体現してないかだけなのです…
■[向上一路 千聖不伝 学者労形 如猿捉影]

盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師

その大意は[真如の悟境は仏祖千聖も説きつくし伝えることができない。学者が能力をいろいろ働かせてその様子を現わそうとするのは猿が水に映る月影を捉まえようとするようなものだ]という意味です…            悟りの境涯とは.言葉によっては表現できないものであり、自己体験によって自証自悟するしかないもの…              しかし、いったん自己の脚下を顧みて.修行の初めの立場から思い返してみると、真如絶対の境地は先賢の助言が如何に多く残されていようとも、頭で理解することも難しく、更にそれを体認することなど夢のまた夢といった感じである…それゆえ、これはもう一心不乱に向上の一路を進むこと以外にはないのだと決心して、前向きに進み続ける自覚だけが真実なのではないか悟りの何たるかに心を止めることも、ましてや「証上の修(しょうじょうのしゅ)」に思いを馳せることもない不動の向上心のみがあって、自己の終着点など意に介さず、実直に進み続ける純心無雑な姿勢を尊いものとして推奨する視点を、この向上一路の初句に汲み取りたいのです…もちろん、それが自己顕示欲とか功名心などの欲を含んではならず、ただ真摯に向き合う…そういう潔さが人生には必要なのではないでしょうか…

☆証上の修とは(道元)

証とは悟り 修とは修養

悟後の修行…悟ったとでもなお修行すること。

修証一如…悟りと修行は一つ、という意味