天動説

コペルニクスやガレリオ.ガレリイやケプラーなどにより、地動説が説かれ太陽系の中心には太陽が座し、地球はその周りを廻っているという事実は、21世紀の世の中では子供でも知っていることであり.今更[天動説]など論議に値しないと思っているでしょうが、世の中を見渡せば天動説支持者が今でも溢れているのではないでしょうか、ましてカソリックが正式に地動説を認めたのも21世紀に入ってからであり(進化論はまだ認めてないみたいですけど.)
単なる感覚的表現としての[日はまた昇る]ではなく、自分達を中心とした他力の運行現象により、災厄や御利益がもたらされると説く信仰宗教や新興宗教などは自分達や得体の知れない神仏や霊力を中心として.お日様の方が沈んだり登ったりしていると本気で信じて、呪文やら真言やら読経やら写経とかの力を以って.天地の理法に逆らい.因果律(縁起)を歪めて.自然法則に則らない現象を主張して、信者と言われる方々は、有り難や〜有り難や〜と拝んでいるのですから…
しかし真実は地球が自ら回転して、お日様の方角へと向かうからお日様が現れるように、自らが実践により幸せへと向かわねば、幸せなどあちらから訪れてはくれないのですから…
また人間は、魂や霊体と呼べるような実体的.永続的存在など持ち合わせぬ無我なる現象的存在であるにも関わらず、煩悩(存在欲)は[永遠に存在していたい]と永続的.実体的存在としての魂や霊魂への妄想から目覚められずにしがみつき、自我意識を深め、自分を中心としてお日様や地球や宇宙が廻っていると倒錯した天動説思考へと陥ると、自分が周りに合わせながら安定や平和を造ってゆかねばならない現実(地動説)を否定して、周りを自分の都合に併せようと自己中心的で自分勝手な天動説運行を始めるのです…
天動説には当時の哲学や思想が盛り込まれていて、地球は神仏が宇宙の中心として創造した特別の天体であり、地球は宇宙の中心であると共に、全ての天体の主人でもある。
全ての天体は地球の従者であり、主人に従う形で運行していると考えられていたのです…

西方浄土は何処?
日本仏教の殆どは得体のしれない神仏への信仰宗教であり、例えば盧遮那仏(ルシャナ仏)や大日如来という宇宙の意志の象徴だと宣う意味不明なプラパンチャ(戯れ言.能書き)とか.
阿弥陀信仰とかその脇仏の観音(観自在菩薩)信仰や弥勒信仰がメインであり、天台宗ではゾロアスター教のミトラ神まで崇めていますが、天動説思想でもあり、例えば西方浄土を指差してもらうと、皆さん西を指差しますが.その西方も.地球は東に向かって自転しているのですから、いつしか天空を指すこととなり、やがては東方を指すこととなりますが…ではいったい西方浄土とは何処なんでしょう?
お釈迦様が説かれた仏教とは、そんなおマヌケな教えではありませんから…
■流動
世界はエネルギーの流動なのです…
この私でいえば、過ってクレオパトラが飲んだのち.世界を巡り巡った水を、私は既に飲んだかもしれませんし…
またお釈迦様やキリスト様が吸われた空気を私が吸う確率も90%以上あり、既に吸ったかもしれませんし、また根源エネルギーにしろ.素粒子にしろ.原子にしろ.分子にしろ、今日の私の身体を形成している材料の中に過ってお釈迦様やキリスト様を形使っていた材料が使われている確率も90%以上あり、ひょっとすると今日の私の左手の甲の辺りはお釈迦様で.肩先辺りにキリスト様かいらっしゃるかもしれません…
貴方も.お釈迦様やキリスト様を材料として造られているかもしれないのですから…

心の栄養素

心の栄養素
一切皆苦
他の宗教.信仰と言われるものが、恩恵.幸福.救済.守護.愛やら欲望や願望の成就を主張して説いているのに対し、何故、仏教だけは生きるとは苦しみ(ドゥッカ)である…と、人が忌み嫌う苦(ドゥッカ)を掲げて説かれているのか…
それは苦も楽も実は一如なものであり、ただ捉え方の問題なのだよ…と説いているのだと言え、感覚的な楽とは、心は汚し.直ぐに飽き.更なる刺激を求めて苦しみと不満の中を暮らす事となる酔っ払いの酒や中毒患者の麻薬のようなものであり、真に自分を高め.育てる[心の栄養素]でもあり智慧の泉でもあるものは苦(ドゥッカ)なのだから…
世間では、心の栄養素とは知識や情報とか教育や経験だと錯覚するが、それらを熟成させて智慧(叡智)となれば.苦(ドゥッカ)の消滅に役に立つアイテムともなるだろうが、そのままでは無明な人を妄迷に惑わし小賢しくするだけでしかなく、苦(ドゥッカ)という不安定性に生かされる本質から言えば心のの栄養素とは、苦(ドゥッカ)そのものなのです…毒によって毒を制すのですから…


失敗は成功の母.とも言われるように.失敗の中から革新的な価値ある物事は生み出されるのです…
ですから戦争という大失敗の中から、戦後の復興と発展と平和な社会が築かれたのてすから…
しかし失敗の中から学ぼうとせず、また過去の成功体験に縛られて、失敗を怖れてばかりいては何も価値あるなど生み出せないのです…
世の多くの人達は、他人の成功体験ばかりに目が向き.興味も示しますが、本当に自分の為.自分の糧となるのは失敗体験とか苦難の歴史などであり、例えば今日の豊かな世の中にあって不満や欲望や怒りとか恨みに取り憑かれて生きる人達は尚更であり、戦後80年も近づき、当時の大人世代は冥籍に入られ、その現実体験を拝聴することも困難となってきた昨今、それに伴って愚かな戦争を肯定したり.讃美したりする、獣性を刺激し好戦的な闘争心を煽る劣悪な知識や情報が増えてきているようにも見受けられるのは残念でなりません…
不幸で悲惨な戦争体験という苦しみの時代を一つの尺度として、今の世を測れば…恵まれた今の世に生まれた幸福に感謝こそすれ、犠牲となられた方々を弔いこそすれ、何処に不満があると言うのでしょうか…
管子に「倉廩(倉庫)みちて則ち礼節をしり、衣食みちて栄辱を知る]とありますが、現実はどうでしょうか…飽食の時代とも言われるように、倉庫には食料.物品が山のように備蓄され、衣食も満たされた世の中であるにも関わらず.世の中には苦しみと不満と我欲が渦巻いて.人を騙したり.押しのけてでも自利利得に拘り.礼儀も節度もプライドもなく、そこに在るのは見栄や虚栄心や自己顕示欲に彩られた、妄想的なドゥッカ(苦しみ.不満)に過ぎず、ただそれが理解できず.気付くこともできない.無明で.浅薄で.貧しく賎しい心が培われてゆくだけなのですから…


知識や情報などは現実の前では無力なものであり、知識や情報が現実.事実.真実を包摂することなど有り得ないことが理解出来ない無明な者は、テレビやインターネットの知識や情報から、洗脳(間違い.偏り.汚れた意識を洗い清める事)されるならいざ知らず、染脳(間違ったり偏った情報で染めてゆく事)されている事に気付かず、[自分は正しい]という煩悩的主観に基づいた単なる見解を真理(事実.真実.現実.実相)であるかのように錯覚し、それを大衆は無警戒に.そして無思考に受け入れ、社会のコンセンサスを形成させてゆく…無明の闇の中を盲目的に生きる人々が殖えてゆくこととなる…


労苦を惜しまず.苦労は買ってでもしろ…と言われたり…

昔のお侍さんが、我に艱難辛苦を与え給え…と神さんに願ったのも、四苦八苦しながら生きるから.生の実感も得られるし.幸せとは何かにも気付けるし、自分を高め成長させる心の栄養素にもなるのですから…
能力は具しているのに、既に.多くの幸運や喜びの中に居るのに気付けないのは…無明だから…
人間、易きに流れて得るものは、無常な一時的で短命な感覚的な喜びや安息に過ぎず、それを尺度として生きれば.僅かな感覚的喜びや安息と引き換えに、大きな苦しみや不満の中を生きることとなるのです…
これらは苦行とはまったく違います…
苦行とは、現象として現れる[苦楽]の中の苦の部分に焦点(フォーカス)をあて、楽を否定して苦の中に真理を見つけようとする、在るがままにない行であり、苦しみによる[怒り]により成り立っているものであり、一方、心の栄養素とするのは苦しみの本質を理解して、苦を反面教師として、苦楽の中道の.在るがままの歓び.幸せ.快楽.平安に気付くことなのです…
仏教とは、悦楽の中に智慧の悟りが顕現するものなのですから…
生.老.病.死.愛別離苦.怨憎会苦.求不得苦.五蘊盛苦の四苦八苦も、真正面から向き合い、その実相を真に理解できれば、大切な心の栄養素なのですから、心配しないでも.やがて必ず死が訪れますから、今という瞬間を大切に.在るがままに. 奥深く味わえるもの….愛する人との別れも来れば、嫌な人と出会う事もあるだろうし、求めても得られない事も多々あるもの、五蘊をグルグル.ゴチャゴチャと廻し続けるのは難儀だし、老いも必ず来るものだから、それらを心の栄養素として[人の功より.亀の甲]などと揶揄されないように.今を励んで行きましょう…

色々在ってそれでいい

出世した宗教者が、多少とも俗世の政治っぽい話題を取り上げるのは躊躇われたが、まあ.たまには良いかと上程しましたが、国民性を見て、悪意など微塵もなくとも、付和雷同しやすい質は歪めないと思っている…
生命も微生物から人間までの各階層(六界)という多様性に担保されているのです…
人間界の中でも、汎ゆる心処という多様性に担保されていて、必ず極悪な人から.強欲な人.愚かな人.暴力的な人.小賢しい人.理性的な人.慈悲深い人など各階層(六界)の人が一定割合で存在するのですから…
もし微生物でも.植物でも.動物でも.何れかが滅べば、我々人類も他の生命も存在できずに滅びる運命の下に生きているのであり、他の生命、他の要素のお陰様で生きている存在だという事を忘れて人類の発展の為に他の生命を無闇に駆逐してゆく身勝手さが、新たな災厄となって現れてくる事となるのです…
でもそれぞれは姿形が全く異なり.無関係.無秩序で、他愛ない無益な存在であるかのように映っても.一源であり.一連であり.一系統であり.一類の生命なのですから…
同じDNA.RNA系列の生命であり.人類みな兄弟と宣った人が居るが、生命みな兄弟でもあり、全ては本質的には不安定さを安定化したい.不完全さを完全化したい.苦を楽としたい.   化学反応により成り立っているのであり、以前から散々と書いてきましたが、突き詰めれば、快楽.喜び.安心感をもたらすドーパミン.内在性カンナビノイド.ドーパミン.βエンドルフィン. 
内在性オピオイド.セロトニン.幸せホルモン.
オキシトシンなどを分泌させる為に人生の全てを掛けている愚かな生き物に他ならす.不安定さ.苦しみ.不安など何かしら問題やら強い刺激やらを被ると、纏まり.群れ.集まろうと欲し、全体主義へ向かおうとする…しかも同時に他の生命に対する排除の論理を内包しながら…

色々あってそれでいい…
喉元過ぎれば熱さ忘れる…
過去の歴史に懲りて、全体主義の暗闇を否定していた筈なのに、何時の間にやら他人に迷惑を掛けない為などと偏った正義を振りかざす[・・・警察]とやらが跋扈して、言論統制して多様性を破壊して、殺伐とした争いと監視と哀しみと差別と憎しみに満ちた住みづらい社会を築きつつあるのではなかろうか…

全体主義社会として動きだしたら.もう戻れない狭軌な世の中を北に眺めて否定しながら、自らもそちらへ向かっていることに気付き、戻れる内に戻るのは小賢しい連中の言ではなく.民衆の声なのだから…

死髄観

死というゴールへ向かって歩む.この道を、

笑って生きるも一生..泣いて生きるも..悩んで生きるも…怒って生きるも一生なれば…

楽しく生きた者の勝ち

人生…雨降る日あれば…天気の日もあり

風吹く日あれば…そよぐ日もあり…

雨に動ぜず…風にも動ぜず…

天気の日にもまた動ぜず…

ゴールへ向かって…一歩一歩を踏みしめて

        多々方 路傍石

人間、前世の記憶もなく信頼のおける経験者もいないから、必ず訪れる[死]というものを怖れ忌み嫌って目を背けようとするのですが[幽霊の正体見たり枯尾花]とも例えられるように、死というものを真正面から直視して理解すれば、その妄想的とも言える死の魔王(死の恐怖)に打ち勝つことが出来るのです…

また死という地点があるからこそ、生きる価値を見い出せ、前向きに.そして歓びに満ちて日々を送ることも出来るのであり、その為には死随観が必要なのでもあるのです…

死随感は[死生観]でもあり、人は死を怖れる余り.[死]を考える事から遠ざかり避け.自分には死など無関係だと錯覚し.大切な時間を詰まらない物事.下らない物事.どうでもいい物事に浪費したり、なんで生きるの?何で働くの?何で空しいの?と妄迷へと陥ったりする時、これこそが脳の働き(主観)であり、脳(思考)は死を認識する事が出来ず、感覚器官に何かしら刺激を与えていないと安定を失ってしまうのである。

生死は一如なり、

人は何のために生まれ、何のために生きるのかという素朴な疑問にすら答えることが出来ないままに無明(本質的な無知)の闇を抱えたまま盲目的に手探りで暗夜行路を行くが如く.賢明に.又は何気なく. 兎に角.生きているのだが、いつの間にか仕事や学業や異性や所有物に気をとられたり気を紛らわせたりしながら、その素朴で本質的な疑問は.何時の間にか心の片隅に追い遣ったり.封印したり忘れ去って.毎日を営々と自分のため.家族のためと.生涯を費やしているのだが、人生ふとした瞬間に自分の生き方や生きた末に何とも言えない不安や恐怖や疑問や衝動を覚えたりした時、改めて何のために生まれ何のために生きるのかと問う声が甦る...更に肉体的老化や罹患や生命力の衰えを実感するとき、本質的無知(無明)の闇の中を盲目的に生きていた事に慄然と気付いたり.人は死を身近に感じる時.死を直感的に感覚的に捉えるようになり生死を妄想的に心的投射し.苦悩しだすもの、己が歩んできた人生を振り返ったり思い出したり改めて何の為に生まれ何の為に生きるべきか問い直す時.悩み悔やみ死を恐怖する。

苦(ドゥッカ)は存在欲に起因し、人間の煩悩とは存在欲の化身である。煩悩を生存の素因として煩悩により生かされているのであり生きる意欲もまた煩悩なり、喜怒哀楽も又、煩悩(存在欲)であり生存にプラスだと感じるものを貪ろうと欲し、生存にマイナスだと感じるものに怒り、生存に寄与しない結果に痴愚してる不善処な感覚を自分だと錯覚しながら生きている。

詰まりは人間とは苦(ドゥッカ)と煩悩の欲に生かされている存在だとも言え、苦(ドゥッカ)と煩悩に幻惑され生だけを見つめ、生に囚われ、生に執着しながら生きて来た一生は、死という現実の前に己の人生の真価を問われる。

懸命に精一杯に生きて来た筈が、本当に生を悔いなく過ごしただろうかと、また一つの執着に絡め取られてゆく。

生の価値観とは、死を前提条件として成り立っている事に気付けなれば、生を奥深く味わい尽くす事など出来ず、もし死を片極に有さない生というものが存在するとしたら.その生の中に価値観を見い出す事など出来ず.死と両極を成さない生とは苦(ドゥッカ)そのものだろうしかし生死は一如なものであり、生死の両極により成り立つ。

八正道(中道)に随えば、[生は楽しい事もあるから死とは悲しいものだろう][存在を失うのは怖いから存在していたい]という極論を超越して.ヤジロベエの両極の生死という錘(おもり)の中道に生きるが最上であり、生死の中道に於いて平安.歓び.悦楽.静逸が得られるのである。

そも一生とは幾許か、一生とは一息の中に在りて、一息の中に永遠を映しだす、前の一息、次の一息、何れも幻を追うに同じ。

あらゆる執着から解き放たれ「死随観」を得たれば生きるに最早、恐怖は無し。存在欲から生ずる「生死の軛」を乗り越えたれば、生きるは平安なりて死ぬるも又、平安なり。故に「楽土」なる彼の世へと逝けるのである。

「死ぬことが悲しいことではなく、幻想に翻弄され、無駄に生涯を費やしてしまう事が、悲しいことなのである。」

「死ぬことが惜しいことではなく、真の生きる意味も、命の甘露を味わうことなく逝くことが惜しいことなのである。」

「死ぬことが悲しいことではなく、他者の為に生きる事が出来ず、感謝される事なく逝くことが悲しいことなのである」

「朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなく、

朝(あした)に生きたれば、夕べに死すとも悔いなく生きる」

人の生きる「生存の素因」に煩(わずら)わされず悩まされることもなくなりたるを「煩悩の滅尽」という。

「慎みなく自制することもなしに百年生きるより、徳を積み己を律して一日を生きるほうが尊い一生である」

今という瞬間瞬間に思いをこらし没入してしっかり生きてこそ身心は存在の歓びを味わい命の有難さに真に気付く。「命は素晴らしく生きている事自体が最高の快楽なのである。」「この身は泡沫(うたかた)の如くであり、陽炎(かげろう)のように儚い本性のものであると覚ったならば、悪魔の甘い誘惑を断ち切って死の恐怖によりもたらされる渇きや後悔や一切の妄執から解き放たれ、死への恐怖を乗り越える。」 本能が造りだす感情とは全て生存欲(存在欲)なのである。

永遠に生きてゆく上で肯定的な物事に対して引き寄せたいと貪りを生じ永遠に生きてゆく上で否定的な物事に対して遠ざけたいと怒りを生じ、生きてゆくのを阻害する物事に対して恐怖や不満を生じ、生きてゆく上で不安定な状態に痴愚を生じる。

感情(貪瞋痴)に主導されると欲深くなり、あらゆる物事に執着しないでは居られなくなってゆく。

それは決して満たされることがない一時的な喜びと大きな苦悩を所有することでもあり、決して満たされることのない存在への執着により恐怖と苦しみと不満の中を流れる。

「因縁により生じ因縁により変化し因縁により滅する」

この世界が諸行無常なる現象世界であることぐらい誰でも理解できるのだが、自分自身もまたこの現象世界の現象でしかないことが潜在識に理解させることが難しいのである。何故ならば、本能域からは常に「生きていたい、存在していたい」という衝動が潜在識にもたらされていて感情(貪瞋痴)により造り出された「自我」は自分を実存であると幻想していて現象でしかないことを中々実感したがらないのである。

しかし自分もまた現象でしかないので「因縁により生じ因縁により変化し因縁により消えてゆく」

妄想により肉体を実体化したがるが心というものも実存していると妄想しているが、心というものも生命エネルギーが物色エネルギーの蘊り(あつまり)に宿り、精神エネルギー(電気エネルギー)としての流れであり「生じては変化して消えてゆく」を絶えず繰り返しているだけなのである。

「心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり」(心とは人生の中で縁に従って転じているだけなのである)

今というこの瞬間は確かに生きている、そして意志によりこの命を維持してゆくことはできる。しかし一瞬先も遥か彼方も自分の意思により操作してゆくことなど出来ないのであり、これは「今は生かされている」に過ぎないのであり、生きるとは人知の及ばない存在に「生かされている」のであり、明日は命を召上げられるかもしれない儚い本性の存在でしかないことを覚れば、「今は生かされている」事実に感謝こそすれ、あたら疎かには生きられないのではなかろうか。

生存に依って頼って執着するものは何時までも生かされるが如く叶わぬ幻想を抱き、命を大事に味わおうとはしない、全ての物事そして生命・存在というものに依存し、頼り、しがみつき執着させる渇き(渇愛・まだ足りない、もっと欲しいもっと欲しいという心)に気付き抑制してゆく先に平安はもたらされる。

もっと得たいという貪りの心も、もっと無くなれという怒りの心も、現状に満足できない痴の心も心の渇き(渇愛)の衝動に翻弄されているに過ぎないのであり、渇愛を「因」に、五蘊により感受する刺激・情報を「縁」に生じている幻想に過ぎないことを見破れば渇愛から解き放たれ平安と快楽と歓喜に満たされるのである。

しかし迷いの中を彷徨い、無明なまま流れ、無常なる物事に幻惑されて生きたならば、消えてゆく定めを覚るときには大きな失望と恐怖と後悔の中に苦悩するのである。

因縁により生じ因縁により変化してきた我が身、因縁により消えるその日まで、多いに生命の快楽を味わおう。

五十年後百年後はたまた明日かもしれない召上げられる日を恐怖して生きても詮無い事だから存在(生存)への執着から解き放たれ覚悟を定め達観し、人事を尽くして天命を待ち、朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも悔いなく、朝(あした)に生き.夕べに死すとも悔いのない日々を過ごすだけ。「智者は無心に観じ没入して時空に身をまかせるだけ」

「我が身には「我」など無いと観る者に、気付きと智慧が生じる。欲得から離れて世の中(五蘊)の何ものにも執着せずに住する。」

詰まり、人はその真理(無常)を理解し受け入れ、今という一瞬(一息)の中に自分という全存在、全宇宙、永遠を映して行くしか不安定で空虚な本質を安定化させる術はなく、そして流転の連鎖を断ち切る術は他にはないのです。

「死」と言うものを考える事を避けてみても何れは必ず訪れるものなのだから避けるばかりではなく逆に受け入れてしまい生きる事にしがみつく事から離れる方法をお教えすると「死んでしまいなさい。」「心の中で自分のお葬式を済ませてしまいなさい。」という突飛な方法である。

「我が身は此処で死に、肉体は既に朽ち果てたものと思い定めれば最早、心に罣礙(けいげ)するものなし。」

一度、死んだものと思い定め、残りの日々を余生だと思い定めれば残りの日々はおまけ(もうけもの)の人生として生命の有難さを味わって感謝して生きてゆければ拘りなく捉われなく与えられた命を楽しむ心で観る世界はきっと今までとは違った在りのままに光り輝く世界を眺められるでしょう。しかし執着から離れられない心境では、思考域でそう考えても潜在識はそう簡単には認識してはくれないのですが、思考で繰り返し心の葬式を済ませてゆくと潜在識も段々とそう認識して来るのです。そしてやがては潜在識の意識が本能域にも伝わってゆき「智慧」を生じ真理は顕現する。

何故、人は臨終に際し思い悩み苦しむのかと問えば.それは存在している. 存在していたい(生きていたい)と錯覚して.思い悩み苦しむのです。

世間でも「死んだ気になって・・・・・」と言いますが、そんな気には中々なれるものではありません。

だって心のお葬式が済んでいない上に.心に引導を渡してもいないのですから、潜在意識からの「もっと生きていたい」という衝動が意識を混乱させるだけなのです。しかし表面意識(感情ではなく理性・客観的な理解能力)で思いを定めてゆくと潜在識が理性(客観的な理解能力)からの判断を優先してゆくものなのです。

応用法として災いを転じて福と為すのは「智慧」であり、災害・事故・病気・・・災いに罹災されたときに「死んだ」と思い定めれば何を失なおうが何が壊れようが「生命が残った」という福に勝る福などない事に気付くだろう。

●臨終シュミレーション

引導を渡された最期をシュミレーションして見ると自分は大切な時間を如何に無駄に浪費したかとか、自分は本当は何をして過ごしたかったかとかが見えてくるだろう、未だ間に合うならば悔いが残らない生き方へと軌道修正して、限りある人生の一時一時、瞬間瞬間を奥深く味わう境地を得るは、覚りであり死随感(死生観)である。

死随感を得て生きる者には、きっと善い来世が訪れるもの。

 

今の世では、多くの衆生があの世など無いと宣うが、いったい誰があの世が無いと証明したるや。

そして自分の生きた価値観を認識する時、それは自分の葬式を仏壇から眺め友人やら知人やらの弔事を受ける場面を思い描く時、自分が何と表現されるかの中に在るのではないだろうか。

旅立つ身には最早脱ぎ捨ててゆく 「所有の次元」の事物(財力・地位・名誉・権威・勢力・・・)などを誉められ讃えられても嬉しくはないのではなかろうか(弔事で貶される事はなかろうし)、そこでは「存在の次元」としての人間性や人柄や行いなどを偲んでもらえたら本望なのではなかろうか。

もし生まれ変わるというこ事があるならば「きっと良い処へ逝き、きっと良い処に生まれ変わる事が叶うだろう。」と、そう思えるような生き方こそが自分の質(クオリティ)を高めてゆける道なのではないでしょうか。

エネルギーの流れ

私.自分という意識により心は汚れ…
私.自分という意識が心を貧しくさせてゆく…
私、自分という意識により人は争い…
私.自分という意識により世界を分断する…
私.自分の絡まない善こそが真の善であり…
私.自分の絡んだ善とは偽善なのだから…
私も自分を指すのに、自分は.私は.と言うが、
そこに自我意識は存在しない…
自我の妄想に侵されない為には、心を統制して.一瞬々々.物事に没入してゆくだけ…
自我の妄想に誑されないためには、自分とは変化しながら移ろいゆくエネルギーの流れに過ぎないのだと気付くだけ…
昨日、私の皮膚としてあったものは既に流れ去り、今日は今日の皮膚がここに在り…
昨日、私の心としてあったものは既に朽ち果て、今日は今日の心がここに在る…
凡そ、自分だ、私だと呼べるような実体などは.何処にも探し出すことが出来ない…
意識は存在するが、その後ろに意識主体は存在しない…
思考は存在するが、その後ろに思考主体は存在しない…
意志は存在するが、その後ろに意志主体は存在しないのです…


無明なまま百年生きるより…真理を聴いて一瞬間生きるほうが尊く価値がある…


世界とは途方もなく膨大で悠久な.その姿と形を変化生滅させてゆくエネルギーの流れであり、変化生滅しないものは存在できないこの世界.…離合集散.結合.融合.分裂.再生.再再生.膨張し、拡大し、成長し、継続しながら、安定化してゆきたいと流れゆく…
心的次元の意志(運動性)の形成力 
業(カルマ)
身体(物質)を構成するエネルギー
心的次元に供給されるエネルギー
唯物論でも唯識論.唯心論でもない

私は何かと定義するならば、心も身体(物質)も現象(化学反応)に過ぎず、身体(物質)は変化しながら別の何かになってゆく…
心とは次元形状によるエネルギーの運動性…
歪んだ形状の次元では.歪んだ心を形成し、

美しき形状の次元では美しき心を形成する…
調った楽器は美しい音色を奏で、歪んだ楽器は醜い音色を奏でるように…
身体(物質)は変化し別の何かとなろうとも、心を形成力(カルマ)次元形状はエネルギーの流れの中で美しい音色を奏でる…それに則した身体(物質)と結び目を生じて…
業(カルマ・形成力)により形成された心的次元を.一源のエネルギーはその心的次元の形状に従って善い音色或いは悪しき音色を奏でるその継続性こそ輪廻してゆく流れ…

つまり敢えて自分を定義すれば、業(カルマ.形成力)による形状の心的次元の連鎖運動なのです…
記憶という夢幻な妄想など自分でも私でもない…単なる現象に過ぎない…
日々、変化生滅してゆく身体など自分でも.私でもない…単なる現象に過ぎない…
瞬間々々、変化生滅してゆく感覚など自分でも.私でもない…単なる現象に過ぎない…
瞬間々々、変化生滅してゆく感情など自分でも.私でもない…単なる現象に過ぎない…
瞬間々々、変化生滅してゆく心の作用(五蘊)など自分でも.私でもない…単なる現象に過ぎない…

前の最後の思考瞬間を条件として、次の最初の思考瞬間を形成している…
今の身であろうが、別の何かであろうとも、そこには唯、継続し.連鎖してゆく運動性が在るだけ…
無明(無知)なまま百年生きるより、真理を聴いて一瞬間.生きる方が尊いのですから

 

無明な鸚鵡信者が死刑となったとき、無に帰すのが怖いと言ったらしいが、[無に帰す]とは、ドゥッカ(苦.痛み.虚しさ…)により成り立つエネルギーの激流である生命の連鎖運動から脱出して平安を得る(成仏)ことであり、残念無念ながら無に帰すに能わずに、その心的次元に則した何かしらとなってエネルギーの激流を流れ続け、安息は得られないのだから…
無賃乗車を謀るが如く、成仏が金銭で贖えるが如く、無明の闇に包まれで盲目的な功徳を積もうとしない者の輪廻は果てしなく.而もその流れは激しい…
■輪廻転生
この世界(時空)に繋ぎ止められた心的時空は
業(カルマ)という形成力(因果律.縁起)に遵って.この世界(時空)を別の何かになりながら、激流を流れ続ける…
この世界(時空)の繋ぎ目から解き放たれた円満な心的時空は、業(カルマ)により形成力(因果律.縁起)を生じさせる因縁から解き放たれ因果律(縁起)に遵って.天界(異空間・彼岸)に成仏する…
■心の次元
心の次元の形質(カルマ・業)
良き形状の楽器を通る振動.波動が良き音色を奏でる如く、
良き形状の心の次元を通る心的エネルギーは、善き意識を奏でる…
悪い形状の楽器でも正しく修理されれば良き音色を響かせるようになる如く、
悪い形状の心の次元でも正しく修養されれば善き意識を響かせる…
良く調律されていない楽器では良い旋律を奏でない如く、
善く調律されていない心の次元では善き精神を奏でない…
❖心の次元の形状は変化してゆくもの

❖命には色々な次元がある
天.人.修羅.畜生.餓鬼.地獄
それぞれの次元での喜びと苦しみがある
❖満足感のエネルギーの波動
❖新たなエネルギーを供給ないし引き寄せる 喜怒哀楽
但し欲望、貪り、渇愛とは真逆
それらは不満のエネルギーを造
❖高い次元では
欲のない喜び快楽を味わう
❖気持ち良いなと感じた事はあると思いますよ。何もしないで、好きな音楽も聞かないで、好きな食べ物も食べないで、好きな遊びもしないで、ただ座って自分の呼吸だけを見ている。それで何か質の違う楽な感じ、楽しみの感じ、「ああ楽だなあ、リラックスだなあ」と感じる場合があるんですね
❖貪りから放たれる幸福と言うんです。質が違う。音楽を聞いて楽しいという感じと、何も音を聞かないで落ち着いている楽しみは違うでしょう。完全な静けさを楽しむというような、そういう欲から離れた楽しみを味わう次元もあるんです
❖そういうものから離れ、清らかな心でいようとするんです。その次元は、生まれたら清らかな心です
❖欲や執着を捨てる方向へ心を持って行かなくてはいけない
❖未練があって死ねば、来世でも不幸になってしまいます。逆に今の生き方に不満を持っている人も、死ぬときは満たせなかった欲望で死ぬんです。もっと色々やりたいことがあったのに、と思います。その人は、果たせなかった欲望を持ったまま、悔しい気持で死にますので、また来世は不幸になるんです
❖長生きしようという気持ではなくて、人間としての役目を果たして、いつ死んでもそれはその時だと満足して生きることです。

そのように生きる人の来世だけは幸福になります。

大法輪

仏教の象徴として[大法輪]があります…
そして多くの仏教宗派でもよく描かれたり用いられ.新興宗教や今も世間を騒がしているカルト集団の鸚鵡系や、法輪の言葉から連想されるのが大法輪は掲げてませんが気功集団からカルト仏教集団へと変節した中華系の法輪功などがありますね…
では何故、大法輪を仏教の象徴的シンボルとするのかと言えば、色々な見解はあるでしょうが、中でも確かなものとしては
①に人間というものを荷馬車に喩えて説く処から象徴化された…
②に仏の教えの実践に於いて欠かす事が出来ない八正道を象徴化している…
③に仏教で涅槃(ニルヴァーナ)へと至る修養項目(七科三十七道品)を法輪に擬えて、大悟(涅槃)と絶対真理の象徴としての大法輪が考えられる…
出離(ネッカンマ)とも(デタッチメント)とも言い、八正道.輪廻.因果律(縁起)を象徴するた大法輪(宝輪)と共に、仏の教え仏教に於いて象徴(シンボライズ)として用いられる蓮の華もこの出離(ネッカンマ.デタッチメント)を現わす…

それらは仏教の真正な修養法の象徴でもある
①人間の心を車輪に喩えると、身体(貨車)と世界(路面)との間にあって、路面からの振動(苦楽)や揺れ(不安定性)を和らげ.安定性を保って動力をスムーズに伝えて動く(生きる)ために車輪(ホイール)があり.それは外周部(リム)と輻(スポーク)と軸受(潤滑剤.ベアリング)と車軸(ハブ)と軸棒とによって構成されています
②道路(社会)からの刺激は、リムで受け取られハブへと伝えられますが、リムとハブとを繋ぐ輻(スポーク)が曲がっていたり、傷んでいたり、歪んでいたりすると、その回転運動は荷馬車に快適.安定的には伝えられず、しかも不自然な負荷が掛かる部位を害なってしまったりします、つまりは道路からの刺激を車軸(ハブ)へ伝えて快適に軽やかに荷馬車を運行させるためにはハブとリムとを繋ぐスポークの状態が快適で安全な運行の為には大切なのです…
その快適で安全な運行の為の八正道なのです
☆力の加わる方向と材の強さの高い方向を合わせることで、車輪の強度、耐久性を高める

☆無駄な部材を削減でき、重量の軽減が可能になる。
☆通風を得ることができるため、冷却性の向上も期待でき、横風による走行安定性への悪影響も低減する
☆スポークの隙間に視界を得ることもできる
仏道の修養項目を七科三十七道品に分類
[七 科] 四念処(四品).四正断(四品).四神足(四品).五根(五品).五力(五品).七覚支(七品).八正道(八品)   計(三十七道品)
そしてよく眺め.分析し.思惟思推し.検証し.確証を得て.理解する対象が.三宝印(諸行無常.諸法無我.一切皆苦)であり、因果律(縁起)であり、四聖諦(苦集滅道)であり、五集合要素(五蘊)であり、輪廻転生なのです…
そして.それにより顕現する法果が、涅槃(ニルヴァーナ)なのですから…

最新 如来品語録

■暑中お見舞い申し上げます…
毎日.暑い日が続きますが、皆さん.無理をなさらずに熱中症にも気を付けて元気にお過ごし下さることを願って居ります…
托鉢僧は、雨安居.雪安居はしますが、夏安居.冬安居はしませんから、拙僧も相も変わらず上野不忍口にて.辻に立ち托鉢して居ります…
諸行無常な世の中なれば…燃え立つようなこの暑さも、今の一時期しか味わえない大切な瞬間なれば.味わい尽くさんとぞ心は踊り、湧き出る汗に生を実感し.頬うつ風に涼を味わい感謝しながら、立って居ります…
この夏の暑さが秋の収穫へと繋がり、美味しく食を紡ぐことが出来ることに感謝しながら、
季節の寒暖などに捉われることもなく、天空を風の如く流れそよぐ私の本音はと言えば、それでなくとも暑い毎日を.汎ゆる欲望の業火に熱せられ.煽られ、焼き尽くされんとしている人々に.暑中お見舞い申し上げます…
■大切順番
元気が1番、平和が2番、3,4がなくて、お金は5番(ご飯)…
■欲望
欲望が、不満によって引き起こされる事が理解出来ない人は、心の中を欲望で一杯にして.不満だらけの心に気付けずに、紀文のパンペンでもあるまいし.気分が悪いだけだと宣うが…
仏教徒には、不満がないから欲望もなく.無欲恬淡に生きている…
それを[足るを知る(知足)]とも言うけれど、足知を[今の状態で我慢する]と捉える愚かな人もよく見掛ける…流行りの断捨離などはその類の観念だろう…
自分に拘り、自分の感覚.感情を満たす満足などが如何に不毛で無常なものだと覚れば、本当に必要なものは既に満ち足りているを識り無明な欲望を抱きはしないだろう…
満ち足りた心に不満なく、ただ他者の為に成す行ないの至らならざるを不満とぞ思う…


空~空~唸る.龍樹の弟子は、 
利他~利他~唱え 自利を貪り…
■嘆き

人の心が欲望の炎で焼き尽くされるに従って.天変地異が頻発してくるように、人の心が貧しくなるに従って.世の中が騒がしくなってゆく…
嘆かわしい事ではあるが、無明なまま.まだまだ獣性を多く宿している人類は、平和の有り難さを味わうよりも、争い.競い.戰う高揚感を味わいたいのだろう…
五体投地
死期を覚られ、最後の旅へと立たれても尚、辻立ちと托鉢とを欠かされず行ぜられた唯一無二なる釈迦尊五体投地を以って三拝を捧ぐ.
■不思議

無明ゆえに思議できず、不思議の世界を造り出し、不思議の世界を彷徨いゆけば…
酔生夢死か夢幻抱影の如夢如露か…
■無思考

世間には[無思考]と言われる人が溢れているが、間違ってはいけないのが無思考な人とは考えるべき事を考えない人の事を言うのであり、考えるべき事を考えない代わりに、雑念したり妄想したりしているのである…感覚や感情.想念や思考を放っておける人を無思考者とは呼ばないのだから…
■所有の輝きと存在の輝き

輝きとは.歓びであり.快楽であり.幸福であり.安心である…
無明な人は、所有物の輝きを自分の輝きと錯覚している、太陽の輝きを浴びて惑星が輝いて見えるが如く…所有物を失なった時、また太陽を失った時、自らに輝きはなく、闇だけが在ることを…
綺麗な衣装で輝いて見せても、金銀財宝で輝いて見せても、地位や、名誉で輝いて見せても.脱いで見せれば、残るのは闇だけ…
名も地位も金財もなく下着姿の無一物であったとしても、存在の次元の輝きは眩い…
存在の輝きの前には闇は霧散消滅する定め…
堅固で実存的なこの上もない眩い輝きなれば…
■プラパンチャ
仏教では、如何に大層な観念や教説を説こうが、現実に自分自身が実践も実行もしてないならば.それは単なるプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.絵空事…)に過ぎない沙弥の言(未熟者)と呼ぶのです…仏の教え.仏教とは実践的に理解してゆく教えなのですから…
■妄想と錯覚

化け物の正体見たり 枯れ尾花
幽霊の正体見たり 枯れ尾花
と言われるように、世の中には妄想と錯覚に満ちあふれている事に気付かず、まして自らが妄想に覆われていては、真理(真実.事実.現実.実相)へ到達することなと出来ない…
ドゥッカ(苦)の正体見たり、五集合要素(五蘊).
グルグル回せば、苦は現れる…
つまり必要もないのに五集合要素(五蘊)という精神作用をグルグル廻し続けているから、ドゥッカ(苦)も造り続けているのですから…
無駄な五集合要素(五蘊)を回転させる無明な悪い癖から、解放されるのが.こよなき安らぎなのです…
疲れた人の心を慰めるのも、呪文や読経ではありません…欲望と雑念と妄想に塗れたゴチャゴチャ.グルグルの五集合要素(五蘊)の暴走から、解き放ってあげることこそが、慈悲なのです…
よく私は心が弱いからと自己暗示を掛けている怠け者が他力に縋ろうとしますが、自らを真に救うのは自分の努力だけなのです…
欲望と雑念と妄想に塗れたゴチャゴチャ.グルグルと回転させてる五集合要素(五蘊)の暴走から解き放たれ、こよなき安らぎと堅固な幸せを実現させるのも、暴走した五集合要素(五蘊)に焼き尽くされるのも.自分自身の自由意志なのですから…
■聖人
孝.仁.義.徳そなえたれば教え要さず教えなし…

孝なきゆえに孝の教え要し、孝の教えあり…
仁なきゆえに仁の教え要し、仁の教えあり…
義なきゆえに義の教え要し、義の教えあり…
徳なきゆえに徳の教え要し、徳の教えあり…
叡智あれば叡智の教え要さず、叡智の教えなし
叡智なきゆえに叡智の教え要し、仏道あり…
教えは夜空に輝く星の如く在れど、その光明へ到達する者は少なし…天国の門は狭く.茨の道であるが如く…
聖人と呼ばれる方々の現れた地域は、釈迦尊(仏陀)を含めて.今も昔も紛争地であったり、危険地帯であり、聖人の教えが必要とされたからであり、しかし聖人の教えでそれら地域は決して清められも高められもしてないのだから…
一方の我が日本には真に聖人と呼べるような偉大な方は現れず、大した事もなく、録でもない人でも事.足りたのは、民衆や社会に徳.智.和.善が具わっていた(社会は多様性であるからして、不徳.無知.不和.不善な者も当然存在していただろうが…)からに他ならないだろう…(精神的支柱としての天皇の存在も無関係ではないだろう)
しかし天地の理法の差配によってか、欲望の炎に煽られ、溢れ返る知識や情報に翻弄され、却って無明を深めさせている現世に、真の聖人(如来)は出世した…
中国、朝鮮に学び、孝.仁.義.徳を却って害ない.欲望に煽られ、心を貧しくするも、
中国、朝鮮を信じ、叡智を盗まれるも、
ただ無明で不徳なものが、栄えるが所以なり…
一切万象 因果応報 
一切万法 自業自得
如来、憐れみ辻に立つ…


■修行者の心得

●疑心暗鬼となって立ち尽くしては仏道修行は叶わない、かといって疑いを残したまま盲信していては真理へは辿り着けない…
仏教が信仰を否定するのが.この点でもあるのです…
世の中に溢れる信仰宗教とは、得体の知れない神仏とか霊魂.霊能力への無思考.無抵抗の盲信を強いる麻薬的な害毒に他なりません…
仏教で必要なのは、信じることではなく①見る事(観察).②知る事(分析.検証).③理解する事(確証を得る)であり、信心とは妄信や盲信ではなく確信であり、つまりは確信による真実への依存.信仰.信心なのですから…
●ふたつの道
世俗の人達は外界に意識を彷徨わせ、六根への刺激に捉われながら生きている…
修行者は外界に注意を配りながら、常に内なる心を見張れ…世俗の人達が喜びと観るものを、出世した人はそれを苦痛だと観る…
世俗の人達が苦しみと観るものを、出世した人はそれを喜びだと観る…
世俗と出世とは、真逆な道なのである…
世俗の人達は、感覚器官に刺激を与えてあげる事が喜び.幸せだと勘違いして、刺激を求めて彷徨っている…それにより苦しみを造り出している事に気付かずに…
出世した人は感覚器官への刺激からの解放を平安.幸せだと知って、捨て去り離れて苦しみを造り出さない…
●所有と存在
世俗の人は所有の次元の事物の取得に余念がないが、修行者は存在の次元の事物の取得に余念なく努め励め
如来広大の恩徳
欲望の短命なる歓喜は小楽であると識り、生命存在の堅固なる歓喜は大楽であると識る…
■犀角独歩
善き同行者が居なければ、無理に群れることなく、犀の角のように独り歩め
朱に交われば赤くなる.
阿呆と群れれば馬鹿になる
■無明な人は儀式がお好き
儀式や祭祀によって人は救われるのではなく、その行ないにより人は救われるのです…

儀式や祭祀によって人は成仏するのではなく、その行ないにより人は成仏するのです…
★乏しき中から分かち与える者は、法を実践する事になるだろう。
百千の供犠をなす者の百千の供犠も.その様な行ないを為す者の功徳の百万分の一にも値しない。
★百年間、月々千回ずつ祭祀を営むより、自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養のほうが百年の祭祀を営むよりも勝れている。
★葬儀や読経によっては、何ら死者への救いは得られない。葬儀や読経により成仏するわけではなく、その人の行い(業)と心の徳性により、彼岸に趣くのです…
★精神的倒錯
世の中に溢れる信仰とは、無明の闇の中を盲目的に生きる人々を、目覚めさせ.乗り越えさせ.解き放ちはしないのです…
それは得体の知れない神仏や眉唾な霊力によるご加護や救済を無責任に謳い、人々を多くの損失(時間.金財)と精神的倒錯へと陥れる麻薬的な害毒に他ならず、人の心を真に癒やすのは真実を直視することなのです…
お馬鹿に百年生きるより、真理を聴いて一瞬間生きるほうが尊く価値があるのですから…
人の命は消えてなくなるわけでなく、他の何かの形を以って、連鎖し.継続し.流れ続けるのですから…
このように如来は修行が完成され勝儀なる真理に到達されたときに、清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生きる者が死に、また生まれるのを観た…即ち悪しきものと善きもの.卑賤なるものと高貴なるもの.美しいものと醜いもの.幸福なものと不幸なもの.そして諸々の生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った…

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、諸々の聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。
 彼らは身体が破壊して死んだ後に悪しき処、堕ちた処、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解に基づく行為を行う。
 彼らは身体が破壊して死んだ後に善い所、天の世界に生まれた。
 このように清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生存者が死に.また生まれるのを見た。
すなわち悪しきものと善きもの、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った…

■主義

❖政治的.社会的イデオロギーを省く…

営利主義・合理主義・権威主義日和見主義・

利己主義・悲観主義血統主義・現実主義・

観念主義・実践主義・実存主義・理想主義・

刹那主義・唯物主義・平和主義・互恵主義・

禁欲主義・個人主義放任主義・差別主義・

大衆迎合主義(ポピュリズム)・ご都合主義・

懐疑主義排他主義保守主義・快楽主義・

神秘主義・完全主義・完璧主義・教条主義

虚無主義・拝金主義・退廃主義・審美主義・

理想主義・享楽主義・・など数限りなくあるが[仏教社会主義思想]に見るように、偏った見解や正義感に陥り.捉われ.拘り.執着すると、人々を平安に導く処か、闘いと憎しみしか生み出さない…

仏教は中道を心掛け、偏った見解や正義感により慈悲と平和と歓びの理念を失ってはならない…

 

■日本人の国民性

●信じる者は騙される

無思考に、権威に騙され.世評に騙され.伝統に騙され.欲望に騙され.風説に騙され.肩書に騙され.人は真理(真実)を見ようとはしない。
社会をつらつら眺むれば今まさに真の仏教思想を説く事の重要性を痛感せずには居られない。
●強い相手や権力には阿り.口をつぐむ一方.虐めたり叩いてもよさそうな奴は、徹底的に虐めたり叩いたりして憂さを晴らそうとする、そんな長いものには巻かれろ的で居ながら攻撃対象として村八分を造り出そうとする心の貧しさを併せ持つのが、多くの日本人(大衆)の国民性
付和雷同
⚫無思考
例え決まったことであっても、何処で、誰が、何の為に決めたを踏まえていなければ、唯、盲信しているだけ…そして妄信者はどうでもいい者物事.下らない者物事.つまらない者物事など小事には拘り.捉われ.執着してゴチャゴチャと考える癖に、肝心で大切な物事には感情的な主観を先立たせて、現実と妄想の狭間で藻掻いている…
 

 

如来品語録 自選集②

https://lineblog.me/bongteng/archives/2028355.html

如来品語録 自選集①

https://lineblog.me/bongteng/archives/2020440.html

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