鰮の頭も信心から

「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。」

邪道が蔓延る世の中に.如来憐れみ辻に立つ、
邪法が蔓延る世の中に.如来憐れみ辻に立つ、
衆生、心.浄めたもう.貧しき心.浄めたもう、
賤しき心.浄めたもう.愚かな心.浄めたもう、
衆生、徳を積みたもう.
衆生.無明を晴らしたもう.
衆生.軛を解きたもう.

⚫愚者は流転する
正しき法を悟らぬ愚か者の輪廻は果てしない
虚空に道なく、外道に沙門なし、衆生は虚妄を喜び、如来に虚妄なし。
悪を成すのは自分.その苦を受けるのも自分。悪を取り除くのも.浄化するのも自分である。
浄も不浄も自分次第、誰も浄化はしてくれない。
虎は兎を喰らっても悪行とは考えないし、稲が人をやしなっても善行とは思っていない。
何が善か悪か、苦なのかは人それぞれ。
己の苦は己だけが知り、自分を救うのも自分だけ。
自分以外に頼るものなし、法(真理.真実.現実.実相)以外に寄る辺なし。
得体の知れない神仏や預言者への信仰は[愚の骨頂]であり、激しい流転を繰り返す。
己の心身をきちんと調えられた時、人は得難き主を得るだろう。
如何に高尚な文言で巧みに論ざれていようと
観念が現実を包摂する事などし得ない。
能書きが実践により顕現する真理(真実.現実.事実.実相)を包摂する事などし得ない。
真の仏教とはヴィカルパ(妄想.分別)な観念.形而上学的論証.戯れ言.能書き(プラパンチャ)などにより人々を依り深く盲目的信仰という不毛な思想の荒野に誘い込むものではなく、人々を真理(真実.現実.事実.実相)に目覚めさせ、無為(変化消滅しない安定的なもの)なる真理を拠り処(精神的支柱)とする事によつて得られる安定的で堅固な幸せ.平安.安泰.悦楽.歓び.静逸へと向かう道を説いているのです。
⚫人が何を信仰しようが何を信心しようが自由なのであり、[鰮の頭も信心から]と言われるように喩え鰯のような詰まらないものでも心から信心すれば有難く崇高なものに見え、プラセボ効果もあり.その人の範疇に於いては大切なものであり他人が犯すべからざるものなのである。
しかしその人が「これだけが尊い真実であり他の物事は偽りであり、天罰が当たる。」などと主張する事など許されざる事でもある。
心の中に崇高なる信仰心を持つ事は拠り処を持たずに暗夜行路を手探りで彷徨い歩くよりはよほど安定的であろう。
しかし信仰や信心に頼むのは.物事が本当には見えない状態にあるという事でもあり.真実が見えた瞬間には消滅する性質のものである事に気付かねば折角の人生を盲目的に酔生夢死してしまいかねない。

一切万象.自業自得 一切万法.因果応報
「慎みありて戒を持し.瞋る事なく.欲を増やさず.死随感を保つ人 そをバラモン(僧侶.比丘.沙門)とぞ我れは説く」
「虚空に道なく、外道に沙門なし、
衆生は虚妄を喜び、如来に虚妄なし
旧版と併せ凡そ10年間お世話になったヤフーブログも本年末にはサービス終了の由なので書き溜めとして残念に思う所見を記す。
先ず思うのが観念が実践を包摂する事など出来ないにも拘わらず.仏教を実践の中から捉えようとせず観念化してしまう「絵にかいた餅は味わえない」日本仏教の中から至高.純粋な仏教を探求しようと言う真摯な僧侶が誠に少ない現実への日本仏教僧の一人としての憂慮である。そして旧来から非僧非俗を標榜する阿弥陀教宗派は別にして、単なる見解ではなく看過し難い事実として.仏教僧は大乗であれ上座部であれ[不妻帯.不相続.無一物.不飲酒.不淫行。剃髪]などは真理(真実.現実.実相)へ向かう為の主体的な一部とする戒律であり.時代に合わせて変化していく客体的なものではなく.まして政府あるいは時の為政者の意向に阿るべき類のものではないにも拘わらず、今の日本の多くの仏教僧たちは.明治政府の神道と仏教の分離及び仏教排斥政策の一環として[妻帯しても.相続しても.財産を所有しても構わない]という甘言政策に取り込まれ堕落を深めた.そんな無明な闇に被われたまま盲目的な系譜を績ぎ偏り間違った思想の荒野を彷徨っている事に気付く事もなく、八正道に習う正見する事もなく偏り、正道を歩む者達を異端者の如く捉え自戒する事なく、易きに流れ堕落を正当化する世論操作を施し、かって上座部を小乗と見做したような自惚れた主観と慢心により妄迷な系譜を改めようという気概さ感じられず幾らか賢明な者達と言えば.部派仏教に宗旨変えするに留まり顧みる事がないのも、江戸幕府による檀家政策により有り様を変質化させ.果ては葬式仏教化し、明治政府の政策.策謀に則り世俗化し、釈迦尊(ブッダ)の御教えとは異質で.また大乗仏教とも異質な、中国仏教から変質した新仏教とも称する得体の知れない神仏のへの信仰を説く日本仏教なるものを護持し、親や家が僧侶.寺だったからと跡を取り継承するという俗世的風習で、仏道の修養を履き違え.無思考に能書きや教義や有り様を護持して疑わない者達が緩やかに真正で至高な仏教の本来の存在価値を貶める、それは世の中の詐欺師達が自らの幸せの為に「これで貴方達は幸せになりますよ、貴方は救われますよ、これをしなければ不幸になりますよ、貴方は救われませんよ」と無責任に宣いながら搾取していくような.信頼さえも喪失させ退廃させ貶めてゆき、釈迦尊(ブッダ)の至高で純粋な御教えさえも葬り去られようとしているのではなかろうか。
多様性を尊重し.他を敬い.共存すべき世の中において、料理でいえば色々な種類の食べ物があり各国の色々な料理があるのは良い事であり仏教も色々あって丁度良いように一見感じもするが、さに非ず.純粋な仏教とは客体的な嗜好品の類でも.所有の次元の事物でも.感覚的な趣味の類のものでもなく.偏った食事が不健康な体を造り出すように.心において生存苦の中を盲目的に彷徨いながら生きる人間に.偏らず堅固な拠り処(真理)を伝える完璧な心の栄養素であり.偏った食事を提供するものではなく.ビタミンはキリスト教から摂取し.タンパク質は大乗から摂取し.ミネラルはイスラム教から摂取し.必須アミノ酸上座部から摂取するものでもなく.純粋な仏教は生きる支え(精神的支柱)として安定し.健全に.平安に.安楽に.静逸.幸せに生きる為の偏りのない完璧な心の完全栄養素(真理)である。
仏道とは知識や情報を始めとして所有してゆく道に非ず、己の内の無明で盲目的なヴィカルパ(分別.妄想)とプラパンチャ(戯れ言.能書き.観念.浅薄.主観)とを捨て去り離れてゆく道であり存在としての苦悩を取り除く道であり存在の価値を磨き高める道でもある。
末那識(潜在意識)の自我意識を捨て去り.無我な心を養い.横たわる阿頼耶識の性根から浄化させ.渇望や執着を滅却し輪廻する力を削ぎ.堅固な安楽.平安.静逸.安楽.歓喜.幸福へと向かう道である。
所有の次元の事物とは便宜的.付随的なものに過ぎず必要以上に執着するからドゥッカ(苦.不満..)を生じさせる苦の根源であり、真の幸せの為に所有の次元の事物への必要以上の執着を捨て去り離れる道を説くのが僧侶であり、これは虚仮経が観音の恩恵を謳い浅薄な認識から仏教思想を謗るときに使う灰身滅智を仏教は説いている訳ではなく.仏教が説いているのは凡そドゥッカ(苦.悩み.不満.貪欲…)の根源が.利己的な欲望への執着から生じる事を実践により理解し.所有の次元の事物が手段.付随物に過ぎない便宜的な不安定な無常なものである事を覚り.得体の知れないものへの信仰を拠り処する盲目性と.所有の次元の事物を拠り処にする空性を.人々に真に教え伝える為に自ら実践により理解しなければ知識や情報や能書きと空理空論を語る無思考な偽善者に過ぎない故に.僧侶は執着の原因となる妻帯.子供.財産.飲酒.華美などから離れる事が戒律とされ要求されたのである。
仏教は悲観的でも楽観的でも迷信的でもなく刹那主義でも享楽主義でもない現実主義的な教えであり.得体の知れない神仏や力への信仰ではなく.人を盲目的に幸せだと思い込ませ一時的な気休めを与えるものではなく.真理を拠り処とした安定した幸せを実現させるものなのである。
人は苦という本質のもとに喜びと快楽を求めて生きている。人生の感覚的快楽とその痛み哀しみ、そしてそれらからの解放をも含めて完全に.客観的に理解する事により初めて本当の自由を得ることが可能だと説かれている。
「もし修行者あるいはバラモン(沙門.比丘.僧侶)が感覚的喜びによる快楽を[感覚的快楽]として、自らの意が満たされない事を[意がみたされない]事として、そうした事からの解放を[解放]として客観的に理解しなければ、彼ら自身が感覚的喜びによる欲望を完全に理解して他の人を教え導き.感覚的喜びへの欲望の無常さを完全に理解させる事は不可能である。
もし修行者あるいはバラモン(沙門.比丘.僧侶)が感覚的喜びによる快楽を[感覚的快楽]として、自らの意が満たされない事を[意が満たされない]事として、そうした事からの解放を[解放]として客観的に理解したならば、その時初めて彼ら自身が感覚的喜びによる欲望をはっきりと理解して他の人を教え導き感覚的喜びへの無常な欲望を完全に理解させる事が可能なのである。」
戒律も教えである。実践が伴なっていなければ、その教えは能書き.戯れ言(プラパンチャ)でしかなく仏道ではなく真の仏弟子とは言えないと釈迦尊(ブッダ)は説かれたもう、真正な仏教における僧侶とは所有の次元の事物という便宜的.付随的.手段的な事物への必要以上の依存や自縛がドゥッカ(苦.不満.心痛)を生じさせる原因であり.安定的な幸せを願い求めながら却って真の幸せ.喜び.安楽から遠ざかる事なく、所有の次元の事物への必要以上の執着.渇望を断滅し解放され、存在として輝きによる教え諭し導かねばならないのである。
●書き納めといってもヤフーブログでの書き納めであり他のブログで続けて行こうと思いますので宜しくお願いします・・笑
真正.至高.純粋な仏教とは

【基本的定義】
⚫ドゥッカ  (苦)
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.悔い.怖さ.迷い.哀しさ.寂しさ.憂い.飽き.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無常さ.欲.渇き.不満.失望.無明さ
※条件(縁起)により生起するもの全ては本質的には楽という姿を以って一時的に現れた※ドゥッカに他ならず、条件(縁起)による変化生滅によりドゥッカの本性を現わす。
無常な快楽.喜びで人を魅入らせ.惑わせ.執着させドゥッカの中を彷徨わせる。
⚫ス カ    (楽)
車軸が安定していて車輪が潤滑に廻ってゆく状態
安楽.安泰.平安.静逸.幸福
⚫無明 (本質的無知)
無知.盲目的.手探り.妄想的.偏り誤った観念や思想
※偏り.歪み.曇り.惑い.妄迷.錯覚.暗愚
無思考.思い込み.勘違い.錯覚.先入観.固定観念.既成概念.社会的価値観.偏見.誤り偏った思想.知識.情報.権威.看板.世評.風聞.主観.噂話.迷信.伝説.伝聞.習俗.歴史.文化.伝統.風格.外見.主張.洗脳(染脳).暗示.常識感(セオリー)
⚫対立.分別的概念
善悪.良不良.迷悟.長短.否定肯定.信不信.優等劣.好嫌.生死.生滅.苦楽.有無.0-1.聖俗.愛憎.貧富.明暗.光陰.寒暖.表裏.運不運.幸不幸.賢愚.深浅.静騒.快不快.条理不条理.正誤.福厄.天地.清濁.損得.敵味方.主観客観.理性感情.自覚不覚.取捨……
※自我の偏見を捨て去り.物事の両極を超越(中道)
⚫所有の次元の事物(小楽)
※無常な夢幻.便宜的な物
(事物の一時的位や輝きが自らの輝きと錯覚させる)
金.財.物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.威力.承認.評価.評判.理解.伴侶.家族.思い出.愛欲.美.健康.寿命.安心.安全.平穏.感覚的喜び.仲間.主義.主張.見解・・・欲するもの  
※その所有量を存在の価値.判断基準と錯覚する
※喩え所有の次元の事物(金財…)が天から雨のように降って来ようとも真の満足など得られない、更なる欲望に身を焦がし不満の中を生きてゆく事になる。真に満足をもたらすものは[足るを知る]心だけ。
※「我慢は身の毒、足るを知れ」
忍耐は自分を磨くが.我慢は不満を溜め込ませ何処かで反跳(リバウンド)を招くもの.真の満足.喜び.悦楽.幸せをもたらすものは[足るを知る]心だけ。
※条件(縁起)によって変化生滅する性質のものにである[所有の次元の事物(生.美.賞賛…)]への執着.渇望の消滅こそが涅槃(ニルヴァーナ)である。
⚫存在の次元 (大楽)※真実に依存した堅固な楽
(自らの存在の輝き)
人徳.知性.人格.人柄.品格.性質.度量.器量.精神性.境地.覚醒.超越.解放.自由.叡智……の育成により、連鎖し継続させていた輪廻を生じさせるエネルギーが生成されなくなり成仏ないし近縁種の善い処へと再誕してゆく。

多々方路傍石 語録ーNo.8

                         阿耨多羅三藐三菩
   自分を変え、世界を変える純粋仏教
           目覚め 乗り越え 解き放て
 
「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。」SP
一切の、輪廻し.連鎖し流れゆく、生きとし(生存への意志=心的エネルギー=心)をもち、生きるものたちは、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
   「 お互い様とお陰様 」
一切万象.自業自得.一切万法.因果応報

諸行無常なこの世界.人間いつも初体験
顕貴く如き感動.歓び.興奮.愉悦な出合い

死する宿業   生業(なりわい)にするは
業深く  激しき輪廻を  流れ逝くgogogo~! 
 
 路傍の如来.讃歌
道に迷い立ち尽した時.
苦しみに打ち拉がれた時
私は路傍の如来の御元に額ずく
人知を超えた如来の力で私は目覚め、乗り越える事ができる
人知を超えた如来の力で幾多の難渡海も進んでゆける
如来の微笑みの力で.今の自分を高めてゆける

如来の力で頂上に立てる
如来が支えてくれる時、私は強く居られる
如来の力で冬の荒海も渡ってゆける
如来の微笑みの力で.私は福徳に包まれる

生命を愉しむものに福楽は訪れ、
生命を愉しめぬものに不運は訪れ、
生命を惜しむものに災厄は訪れる。

      妄 迷
世の中はそれと気付く事なく妄迷に埋め尽くされている
無明に手探りで生きてる人間ならば、世の中は疑問と不思議で一杯の筈、しかし皆一様に理解していると錯覚しながら何も知らない。
巷に溢れる当てにならない知識や情報を鵜呑みにし、半端で偏り誤ったような先入観や通説に染脳(洗脳)され、思い込み.迷信.錯覚を信じ込み、虚妄に誑かされ、疑問を抱くこともなく、先に進む事が出来ない、何故ならば先へ進む為には疑問を無くす必要があるのだ。
過ぎ去った昨日や.未だ来ぬ明日に捉われ想いを巡らせてゴチャゴチャと妄想しながら生きている。今を生きると宣いながら今というこの一瞬の実存に踏み留まる事を知らない。
五感管(五根)の刺激で生じる現象に過ぎない感覚.感情に捉われ執着する価値もない無常な喜びや快感を漁り続ける事が幸福だと勘違いして沢山のドゥッカ(苦.迷い.悩み.心痛.怒り.不満.不安定.無常…)と.僅かなスカ(快楽.喜び.安定)の波間を漂い流れ.やがてはたと気付く時、悔いを残して次の何かへと流れ続ける。

独立自存して生は在らず、また独立自存して死もなく、生も死も万物の留まる事のない流転の一こまを切り取って固定化して捉えた錯覚に過ぎず、現象を存在と錯覚しているだけ物質エネルギー体が流転してゆき他の何かを形造ってゆく因果律(縁起)を観るは容易かれど、心的エネルギー(意思.性質.運動性)か流転してゆき他の何れかの生命を形造る因果律(縁起)を観るは見難し。生という実相もなく.死という実相もなく.変化生滅しながら流転してゆく途方もないエネルギーの流動こそ、この大宇宙の実相なのだから。
 
苦楽は、外界からもたらされたものの多寡には関係なく、自身の心の満足度.如何である。
心が貧しい者は.欲深く満たされる事なし。
心が豊かな者は.例え得られるものが少なかろうと.足るを知る

如来は嘆かれた。「宗教と信仰」という真逆な性質のものを分別できず、「所有と存在」との其々の次元的価値を自覚できず、「幸福や歓び」を宣いながら幸福や歓びを定義できず「妄想と現実」とを分別できず、剰え主観と客観とを識別できない、知識人という知識は在れども智慧のない者達に感化される大衆を。

      哲学と哲理
哲学とは何なのかと問うならば「その人が追求して得た独自の深い考え」と言う事であって決して哲理(真理.摂理)を語っているとは言い難い代物に過ぎない事後評価的なものであり諸行無常.諸法無我なこの世界に於いては単なる主観への拘り.捉われであり、唯心論にしても唯物論にしても妄想的な形而上学的観念に他ならない。
愚かな人達は.思議し得ない不思議に時めき.虚妄を渇望し.神秘主義に魅入られて.得体の知れない神や仏を持ち出して天地自然の法則を破戒する力を介在させ哲理(真理.摂理)を語っていると錯覚させ.人々を盲目的にさせ不毛なる思想の荒野へと誘う。
     
     言語の表現力
全体性とは因果律(縁起)に遵った全ての物事の相対的な相互依存関係性の連鎖の中に見い出せるものであって文言で正確に敷延してゆく事などできず、唯一、冷徹なる知性による深淵なる集中の中に顕現する叡智により透察し得るもの。
言語とは各論的な伝達手段であり、それは同時に全体性を分断化.断片化.破戒する性質のもので伝達能力に於いても限界があり誤認.誤解.未達を生じさせる、全体性を破戒.犠牲にした各論に於いての論理的帰結能力に惑わされ.それがまるで真理(真実.事実.現実.実相)を言い現わし語っていると錯覚させるが、全体性に立ち戻れば.単なるヴィカルパ(妄想的)なプラパンチャ(戯れ言.浅薄.能書き.形而上学的観念)に過ぎない事に気付かされる。洞察力が劣る無思考な者達は、この言語により高尚に表現された単なる推測や空理空論に誑かされている。

   「朝が来ない夜はない」
諸行無常なこの世界は、沈んだ日も朝にはまた昇ってくる[空あれば楽あり]な世界だが、[朝の来ない夜はない]とは真意は異なるのであり今生に言えば災害や災難など被らなければ夜.眠りに就いて朝に目覚める事なく.朝が来ない事を[死]と呼ぶ。朝が来ない夜が有る事を自覚して今という限られた瞬間を有意義に生きるべきであり.無明な者は策謀ある者に染められて刹那的.享楽的.楽観的.盲目的に生を費やし悔いを残して旅立つ事となる。
それでも[朝が来ない夜はない]のであり、その朝が因果律(縁起)に遵った輪廻の継続性(連鎖性)により快晴か雨天か曇天か、はたまた地獄か極楽か、微生物か人間か、此岸か彼岸に目覚めるのかは、一因に縁らず一法に立せず.然れども明々暦々.一因一法を晦まさず.転生すべき処に朝を迎えるのである。
理法(プロビデンス)は冷徹厳峻なり。
大宇宙から眺むれば微生物の如き身で霊能者.超越者.神仏の使徒を騙る者達や宗教家などが凡そ極悪人より下位の地獄に赴き微生物からやり直すのは業(カルマ)深き由縁かな。
その境涯を透視しては涙する。
如来憐れみ.辻に立つ
「朝に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなし。
 朝に生きたれば 夕べに死すとも悔いなし。」
 
       新興宗教
煩悩の欲望に添うものを.愚か者は求めて止まず、ドゥッカ(苦悩.心痛.不安定さ.迷い…)にやられ.理性(知性)を信じ切れない者は得体の知れないものや怪しげな力でも縋り付く。
愚かな者は思い通りに成らない世界で.欲望に焼き尽くされ傷ついた心の.意に添う甘く香しい妄想世界を渇愛し.無明な心を晴らし進化する道を外れて.人を盲目的にさせる不毛な道を
選択して酔生夢死してゆく者は.輪廻の激流に翻弄されてゆくドゥッカ(生存苦.無常.空性…)の連鎖を知らず
如来は憐れみ辻に立つ
       慚 愧
「悪口を言い.また悪意を起こして聖者を毀る者は、膨大な年数の間.地獄に赴く事となる」「聖者の流れに入りもはや畜生として生まれる事がない.苦しみの再生の因縁(迷いの生存)は終滅する」と経典に説かれる。
生涯がたった1分程度の生き物がいれば、500年くらい生きる動物がいて人間は精々が120年位らしい、細胞の分裂限界だとか心拍数だとか言われるが、生物とは一つの器(色.物質.身体)に生じる電気的.化学的な働きに心的次元が形成されたものであり、一つの器に形成された生体次元の生体振動数は一定なのである。微生物から人類に至るまでは平均で一億回の流転を繰り返すものだが、心貧しく.心賤しいものが再び人類に辿り着くは果てしなく永く険しい。

       知 足 
「テレビやネットに煽られて 欲深く.足るを知らない愚か者 恨み辛みを携えて」
「真の満足を齎すものは足るを知る心だけ」
足るを知るものは.所有の次元の事物への執着を乗り越え離れ.自ずと無一物へと向かう。
智慧の悟りは.悦楽の中に顕現する。
「我慢は身の毒、足るを知れ」
忍耐は自分を磨くが.我慢は不満を溜め込ませ何処かで反跳(リバウンド)を招くもの.真の満足.喜び.悦楽.幸せをもたらすものは[足るを知る]心だけ。

     自燈明と法燈明
仏教を行してると思い込んでいる人は多いが仏教が理解出来る人はすくない。
信仰.信心.盲信を持つ人は多いが、自ら確かめる人は少ない。
釈迦尊(ブッダ)の権威を崇める人は多いが、教えをリスペクト(尊敬)する人は少ない。
無記の最上経典.自燈明経典.法燈明経典を知る人は多いが、理解する人は少ない。
無記の最上経典.自燈明経典.法燈明経典を軽んじる人は多いが、冷徹厳峻なる理法に准じる人は少ない。
仏教経典は多いが、真実を語る経典は少ない
自らに具された知性.感知.識別.理解力に依り自ら眺め.観察し.分析し思考し.検証し.確証が得られたものを信じる事が自燈明であり、確証が得られた真理(ダンマ-真実.事実.現実.実相)を語る法(法則.経典)を依り処(燈明)とし安定を得る道を説くのか仏教であり、偏ったり間違った法(法則.経典)や得体の知れない神仏や怪しげな力を依り処(燈明)とした不安定で無明な盲目的な生き方から.目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、真の自由による甘露を味わう教えであり、それは同時に条件(縁起)により変化生滅する不安定な依り処からの解放なのである。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
誰であれ自分を啓発し.克己し.妄迷な物事に捉われる事なく真理(真実.現実.事実.実相)を実現してゆく事が覚醒.超越.捨離.解放.自由への道である「現代人 頭の中はゴミ屋敷 要らぬ知識を詰め込んで 生きる知識が埋もれて」
「君子 基地外に近寄らず」

        予言者
最近 地震予知情報が飛び交い 尻馬に乗って如何わしい預言者なる輩がかまびかしいが、地震列島日本 いつ来ても可笑しくない
来るぞ!来るぞ!と言ってれば何時かは当たるに決まってる 的中率100%の預言者の不的中率はなんと10000%なのだから
誰にでも何かしら当て嵌まる曖昧な暗示と、無責任で恥を知らない性悪な予言者などに振り廻されてはいけません。
備えあれば憂いなしでは有るけれど。
インチキ霊能者や予言者の見分け方→全員がインチキです。笑

彼を知り己を知るは百戦危うからず
言葉は知れども意味を知らず、意味は知れども真髄を知らず、
真髄を知れども智慧を知らず、智慧を知れども用法を知らず、
用法を知れども実践を知らず、実践を知れども時を知らず、
用いる術(すべ)に用いられ、型にはまりて自由を知らず、
至宝の教えも無益な能書き.戯れ言(プラパンチャ)と化す
百戦百勝は善の善なるに非ざるなり、
戦わずして己れの愚を屈するは善の善なる者なり

世の中は思い通りにならねども、
因果律(縁起)に遵いて.成るようになるもの
意志と信念と智慧と努力を以って、前向きに生きれば道は必ず拓けるもの、折角の人生愉しく創り出そう、鶏頭となるも牛後となるなかれ
      
       安 寧
決して満たされる事のない煩悩(存在欲)の要求に捉われず.愚かな物事.下らない物事.どうでもいい物事.つまらない物事に捉われなくなって初めて安寧は訪れる。
煩悩(存在欲)に翻弄され.愚かな物事.下らない物事.どうでもいい物事.つまらないもの物事に捉われている者達には堅固な満足も安寧も得ることは出来ない

       オマケ
グリコアーモンドキャラメルは食べる為にあるのであり、食玩で遊ぶのは単なるオマケ
目は危険を避ける為にあるのであり、可愛い姉ちゃんを眺めるのは単なるオマケ
耳は危険を聞き分ける為にあるのであり、名曲を聴いて涙するのは単なるオマケ
鼻は危険を嗅ぎ分ける為にあるのであり、芳しい香りを愉しむのは単なるオマケ
舌は危険を味見する為にあるのであり、味覚を堪能するのは単なるオマケ
触覚は危険を感知する為にあるのであり、感触に打ち震えるのは単なるオマケ
意識は危険を識別する為にあるのであり、あれこれ思索を巡らせるのは単なるオマケ
肉食動物の目が前に在るのは獲物を捕らえる為であり、愛嬌があるのは単なるオマケ
草食動物の目が横にあるのは逃げる為のものであり、愛らしいのは単なるオマケ
知識は危険を避ける為にあるのであり、他人に披露してイイネ!をせがむのは単なるオマケ
 

       凋 落 
近年の日本の凋落は必然なこと、
戦後、猿真似と揶揄されながらもアメリカを真似、技術を学び手先の器用さで築いた繁栄も、自らに自惚れて慢心して硬直化している間に日本を真似、日本に学んだ周辺諸国が肩越しに追い付き追い越していっただけの事。

       👾宇宙人👽
巷に溢れるUFOや宇宙人話には懐疑的な否定派の一人であるが.この大宇宙には数千億の銀河と数兆個の恒星(太陽)と数百兆個の惑星と数千兆個の衛星があるのだから人類以外にも発達した科学を有する高等生物が存在してるだろうとは考えている。しかし人類の今の科学力で隣の恒星(約四光年)まで人を送るのに一万年位かかるらしいのだからこの大宇宙の壮大な距離をこなして地球までやって来る事は至難だろう。しかし私も宇宙人を渇望する一人であるのは.人類とは敵や大いなる脅威が出現しなければ真に団結する事など出来ない.自分の立場に固執した自我の優越.安心.快感の為に妄想的に差別し.区別し.争い続ける愚かな存在であり、人類という共通認識を育成する努力もなく能天気な偽善者が宣う全世界的な自由.平等.平和.博愛.共存など幻想に過ぎない儚い言葉に酔っている、全世界的な団結.平和.博愛.共存の達成には宇宙人の来訪は是非にも欠かせないのではなかろうか...笑、Welcome ET!

                   君よ 豊かな者であれ
仏教では金持ちだから.財産家だから.権威ある人だから.地位ある人だから.権力ある人だから.学識ある人だからと言って決して豊かな人だとは観ない、夢幻の如き無常なる便宜的な客体は何処までいっても真実は映さない所有の次元の投影に過ぎず、真の幸せ.歓び.安心.安全.静逸.満足を補完する事物とも見做さない。何が在ろうが無かろうが.心.貧しくなるなかれ.心豊かな人となれ。何を持とうが持たざるが.心.貧しくなるなかれ.心.豊かな人となれ。これぞ人が堅固なる幸せ.歓び.安心.安全.静逸.満足を得る最上の宝なり。

他人は立てるものであり.貶すものではなく
他人は上げるものであり.降ろすものはでなく
他人は認めるものであり.認めさせるものでなく
他人は慈しむものであり.憎み恨むものではない
これこそか自らの幸福の道なのだから
   
   実るほど頭を垂れる稲穂かな
稲の穂は実るほど穂先が低く下がるものだという有名な言葉ですが、人も品格.品質.器量.境地.精神性などが高まり.磨かれ.深まり.育成されるに従って謙虚さ.礼儀.状況判断.思い遣りなどが具わり、自然と丸くなってゆくもの
しかし幸せへの便宜的な付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物(金.財.物.地位.名誉.称号.権威.権力.世評.承認.認知...)が自分の存在的価値基準であり生きる目的だと錯覚する者はものは煩悩の渇望に翻弄され執着し満たされる事を知らず(上には上がある)折角の人生を費やし逝きて実りなく、この世に悔いと未練を残す。それらが条件(縁起)により生起し条件(縁起)により消滅する無常な性質のものである事を識らず、この渇望により下層からの輪廻が定められる。

      監視社会
世の中は監視社会という窮屈な社会に成りつつあるが此れも必然とぞ感じる
今や無宗教時代とも言え、神仏への願い事は多々するが神仏から監視されてる意識など喪失し、軛が外れ自分勝手な欲望や犯罪は露見しなければ勝ちであるが如く考える愚か者が
主流をなしている。神仏は妄想なれど人には善処良心は宿る筈、しかし監視の目が届かなければ仏心も悪魔に魅入られ易い.脆く儚い存在.それが自分に甘える人間の弱さなのだから

     弁 え(わきまえ)
[顕現]とは、自覚が現れる事
自覚と不覚
自己認識.自己反省.自己意識(反自我意識)
⚫自分の置かれている位置.状態.価値.能力などに明確に気付く。
⭕所有の次元に於ける位置.状態.価値.能力
⭕存在の次元に於ける位置.状態.価値.能力
⚫自分を知り.弁える事とその弁まえ。
身の丈.身の分.身の程を知り、弁まえる。
付随物(手段)に過ぎない存在の次元の事物への執着が、諸悪と苦しみ(ドゥッカ)の根源
三覚(三つの覚醒)三菩提
①対象を明確に感知する、心処
②妄想を断じ妄念を離れている状態
③涅槃(ニルヴァーナ)の理を覚った上での智慧と叡智 
[弁え]とは、物事の真偽.善悪.主従.浄不浄.正誤.道理.礼儀.立場.場所柄.状況の判断とその対処。
所有の次元の輝きは付随なる着飾りし所有物の短命な輝きを自らの輝きと錯覚させる。
存在の次元の輝きは脱ぎ去り.捨て離れた素地なる自らの輝き。
凡俗は真の輝きは見難く、見易い所有の次元の儚い輝きに目を眩ませている。
○真に必要なものは.知識でも情報でも声望でも権威でもなく実現である。
仏道は彼岸に渡る筏であり、着飾りし大きな船に乗っても実践(出航)せねば彼岸は遠し
 
      ■祈 り
今更どう仕様もない物事を
受け入れる心の平穏が現れますように
 
まだ変える事が出来る物事を
変えてゆく勇気が現れますように
 
そして変えられる物事と出来ない物事を見分ける賢さが現れますように
        
        退 廃
我が日本は決して仏教国ではないが、日本を始め仏教国といわれるタイ.ミャンマー.スリランカの仏教の退廃ぶりには目を背けるほどである。
タイの守銭奴集金仏教は今に始まった事でもないがミャンマーロヒンギャ問題やスリランカの仏教過激派なるものが存在する事など他宗も敬う事を説く釈迦尊(ブッダ)の教えを蔑ろにするものに他ならず仏教が国教ならばこそ他宗を敬い.他宗を労り.他宗を保護してゆくべきであり、それが如来の教えであり。暗愚なものが上にふんぞり教団経営に忙しく教えや教義を矮小に捉え他宗への攻撃を先導し他宗への暴力を看過し他宗への保護を放棄するならば、最早それは仏教ではなく.僧(比丘.沙門.バラモン)とも呼べない、僧業者に過ぎないのである

人生万事 ひとくふう(一功夫)
人生万事 ひとひねり(一捻り)
今や無くてはならぬスマートフォン.何の発明も改良もなく.相違と功夫で既存部品を組み立てただけの大発明。
別に奇をてらう事が良いわけではないが、他人と同じように考え、他人と同じように行ない、他人と同じように生きていては革新.斬新.進歩を生みだせる筈もなく、大衆に埋もれてしまうだけ。
人の行く 裏の道ゆき 花の山...と言うではないか。
自己解放
汚れ、不浄とは執着.愛着なり...
執着.愛着から自己解放される事こそが浄化である。
自己解放は、人が自ら真理(真実)を実現する事によって得られるものであり、神や仏あるいは外的な力から従順な善い行ないや信仰心に対する報いとして与えられるものではない。
汚れと無明(無知)の消滅は物事を知り、物事が見える人にとってのみ可能なことであり、物事を知らず、物事が見えない人には不可能なのである。大切なのは信じる事ではなく、知る事、見る事であり、明確に理解し定理.定義する事である。如来は道を示すだけ。

      顕貴(ときめき)
一瞬一瞬.新しい身体、新しい心、新しい世界で在るがままの真理の顕貴(ときめく)中道(情緒と論理)を奥深く味わう
       
       不易流行
芸術ならいざ知らず、この世界の真理について説く仏教も時代に合わせて変わるべきだなどと捉える浅薄な者には泣かされる。
この世界の開闢から終滅まで唯一変わらぬ無為なるものが天地自然の法則(真理)であり無明な者が新たに真理を発見するとは邪見を捨てて釈迦尊(ブッダ)が説かれた仏教を理解する事と同義であると言え、ころころ変わるものは始めから真理などは語って居らず、真理と宣い騙っているだけである。

     聖者は孤独なもの
精舎を寄進され、教団化した集団の中に居られ多くの人と居られても釈迦尊(ブッダ)も孤独で在られただろう。善き釈迦尊(ブッダ)の奥深さと教えの一番の理解者でも在られた舎利子(シャリプトラ)が存命の時はまだしも、舎利仏(シャリプトラ)が早世された後に一番弟子を自認した摩訶迦葉(マハカッサバ)を始め教団の繁栄や経営に忙しい弟子達には釈迦尊(ブッダ)を本当に理解できたかは疑問であり、釈迦尊(ブッダ)から眺めて見ても弟子以上にも以下にも見えなかっただろう。故に釈迦尊(ブッダ)は教団を眺めては[聖者は孤独なもの]と考え孤独を愉しんで居られた事だろう。
自我の妄想の中に住む多くの人々は妄想世界では自分が王様.絶対神であり、その王様.絶対神は上からの物言いに聞こえる話や、自分が否定されるような話を素直に受け入れる事が出来ないものなのだから、話や説法も自分に合わせようとせず他人に合わせ、他人を否定せず受け入れる自分は当然に孤独になるもの、そんな孤独を楽しむのが聖者なのだろう。

世の人が信じて疑わない思い込みに一句
「解脱まで修行を積むのが仏僧なれど
   悟りしと錯覚.妄想 甚だし
     山を下りれば ただの豚
      似非の坊主は 寺に居る」
      如来品正師 多々方路傍石
      
     出る杭は打たれる
出る杭は打たれる、平安に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 安楽に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 静逸に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 幸福に在るには程々がいい
出る杭は打たれる 程々に生きてる今がいい
 
      仏道とは
仏道を習うとは.自己を習う事なりて、
自己を習うとは.自分を脱落忘れる事なり。
仏道を習うとは知識や見識を深めるに非ずして
知識見識という色眼鏡を捨て去り離れる事なり仏道を修めるとは妄想を断じ真理に遵う事なり
真理に遵うとは現象.現実.事実.実相を受け入れ理解すら事なりて、能書き.世迷言.戯れ事(プラパンチャ)を慎む事である。
条件(縁起)により生滅する物事の無常を識りて
条件(縁起)に生滅する物事への執着から解き放たれ(解放).捨て去りて離れ(捨離)自由なる叡智により真理を依り処とする平安.安楽.静逸.歓喜堅固なるこよなき幸せへ到達する道である
全てが因果律(縁起)に遵った悠久なる流れなるを大悟すべし

自我への執着(我執)はドゥッカ(苦悩)を流れる
自我意識とは妄想に過ぎす、五つの要素が結合(五蘊)して意識を生じる時、自分という意識を妄想.錯覚させる、自分とは現象に過ぎず何処にも固定的.自存的.実相的.永続的な自分など存在しないにも関わらず、自我意識の思惑.意図.目論見.目算.見込み.期待などに執着して、そうそう物事は思い通りには運ばない諸行無常(常ならざる)の世の中では苦(ドゥッカ)や不満や怒りの中を流れてゆく事となるは必定であり、自我の執着を捨て去りて離れて自我を脱落させた無我(無私)な心で、全てを受け入れ物事を分別.分断化せずに在るがまま成るがままに流れゆく時、世界は審美を現わし.躍動を現わし.不思議を現わし.真理を現わす。世界は心の投影である。

    記憶なんて頼りないもの
分断化された記憶なんかに頼っていては、いざという時には役立てる事が出来ないもので、整理統合して、身に具え智慧にして初めて心は理解するもの。
記憶なんて実に頼りないもので耳で聴いてせいぜい10%位、眼で読んでせいぜい20%位、口ずさんでせいぜい30%位、繰り返し見て聴いて口ずさんで必死に暗記して漸く記録出来るもの。
若い時ならいざ知らず、そんな記録も時間に伴ない失われてゆくもの。断片的な記憶を繋ぎ合わせて歪な記憶を捏造してゆく

        横綱は幕下の土俵には上がらない
下らない者や物事、つまらない者や物事、どうでもいい者や物事、愚かな者や物事などに、馴染まず.捉われず.拘らず.執着せず.心乱される事なく.振り回されず.相手にもせず.歯牙にも掛けず.考えもせず.低レベルの土俵にも上がらず。
 
       四苦八苦
生存苦.老いの苦.病いの苦.死の苦.求不得苦(求めても得られない苦).愛別離苦(愛する者と別離の苦).怨憎会苦(嫌な人と出会ってしまう苦).五蘊盛苦(心身が思い通りにならない苦.五蘊作用により造りだされる妄想苦)
✍常ならざる無常な世界である事を真に理解し受け入れ、全ては両極より成り立つを覚り覚醒し、片極を分断して捉えたり拘ったり執着する愚かさを乗り越え超越し、自我の妄想から生じる苦(ドゥッカ)から解き放たれ解放され、自由で平安で静逸で歓喜と悦楽な堅固で安定的なこよなき幸せへ到達する。

       気 紛 れ
凡俗の生きるとは、唯、気を紛らわそうと彼是
外界を彷徨い歩いている
気を紛らわすとは、今、不安定だから安定したいと、今が不満だから満足を得たいと、不満と不安的の中を幸せと喜びの感覚を求めている事に他ならず、現象に過ぎない感覚は気紛れだから、直ぐに飽きてまたぞろ気を紛らわそうと五感官を駆使して外界を暴れ馬のように彷徨う。
心が満ち足り、安定した心は気を紛らわそう五感官を外界へ向ける事なし

    刹那に生きず杞憂に生きず
世の中、心配性の人と言うのは案外多いもので社会不安が喧伝されたりすると居ても立っても居られないらしい。
金の心配をし、家族を心配し、事故災害を心配し、人からどう観られてるか心配し、着る物を心配し、心配事が思い浮かばない事を心配し、汎ゆる物事を杞憂し、凡そ心配の中を生きている
人事を尽くして天命を待つとは、凡そ自分の出来る手立てなど高が知れて居るを知り、分を超えて備えようと欲すし杞憂に奔る愚かさを諌める言葉でもあり、人間の能力とは元来、不安定で不完全で未熟な存在でしかなく物事が自分の思い通りに何時も運ぶとは限らないものを自分に拘り執着して物事を自己中心的に自分勝手に捉えれば世の中は不満だらけの中を生きる事となるように、今が良ければそれでいいと刹那的に生きたり、かと言って心配ばかりが先に立って今を疎かにするのも愚かしく、身の分.身の丈.身の程を知って出来る事を成し、結果を真摯に受け入れてゆくだけであり、刹那にニ境ありて刹那享楽に生きるとは明日まだ在ると思い感覚的に生きるさま、刹那冷徹峻厳に生きるなれば当ら無駄には生きられぬ、刹那享楽に生きず杞憂に生きず、在るがままに在るがままの生を受け入れて甘露に味わいゆく。

    凡骨砕身(ポンコツさいしん)
凡骨(ポンコツ)が、凡骨(ポンコツ)なるを覚るは賢者なりて 凡骨(ポンコツ)なるを識らぬ小賢しい凡骨(ポンコツ)こそ暗愚なり
凡骨(ポンコツ)は、下らない物事.どうでも良い物事.詰まらない物事に拘り.捉われ.執着してるこれを粉骨砕身ならぬ凡骨砕身(ポンコツさいしん)とぞ言わん
木魚応えて鳴らん ポン!ポン!ポン!ポン! コツ!コツ!コツ!コツ!
      
      因果律(縁起)
修行僧は 因果律(縁起)を見極める
釈迦尊(ブッダ)が托鉢を欠かさざるも故にあり
条件(縁起)により生起するものは条件(縁起)により消滅する性質のものに過ぎず、条件(縁起)により生じている幸せ.歓び.満足.悦楽.平安.静逸.安定は有為無常なり、苦(ドゥッカ)の一時の仮体に過ぎす執着し.見誤り.錯覚し.妄想すれば苦(ドゥッカ)は何れその姿を現わす。 
条件(縁起)により生起する類いを捨て去り離れ無一物にて顕現するものこそ偽りなき真価なり真の姿を見定めて条件(縁起)による生起.変化.消滅のない堅固なる幸せ.歓び.満足.悦楽.平安.静逸.安定を得ん。
暗愚.観念.錯覚.浅薄な闇を晴らして、戯れ事(プラパンチャ).綺麗事.能書き垂れて酔生夢死する無明な者とは成らんが為なり

人間皆んな路傍石 磨けば輝く珠なれど 珠.磨かざれば輝りなし
磨く事を怠りて 色付け着飾り装飾で輝いてると錯覚する石ばかり
水に漬かり、塵に塗れ、装飾古び、石ころのままの己れに気付く

幸せは 己れ自身の心掛け
自分が自分がの我で生きず、お陰お影のげで生きろ

    考える事と知る事とは別物
知及せるもの.またくあらず(道元禅師)
百聞は一見に如かず
戯れ事(プラパンチャ).能書き.綺麗事.世迷言を宣い実行の伴わない者とは、本当は真実を全く知らぬ者なり、観念が実践を包摂できぬが如し

       意 欲
人の心は喜び.快感.快楽を求めて彷徨う。
何事に依らず喜び.快感.快楽を見い出せない物事は苦痛となり、負担量が少ない内は気付かないが、やがて負担量が増し負担と感じた瞬間から苦痛から逃れようと藻掻きながらドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.悩み.心痛.哀しみ.迷い.悔み.儚さ.脆さ.弱さ.空虚さ.惨めさ.実質のなさ.無常.不満.無明.欲)を深めて行く
自らが自らの主であり、人は自らを制御し.克己し.励まし.努力する必要がある。
意欲も欲なり。

     捨離は涅槃に通ずる
条件により生起する性質のものは、条件により消滅する性質のもの(現象)
堅固な無為な生起であるのか現象的なものに過ぎないのかを見定める辻立ちでもある
釈迦尊(ブッダ)が説かれた核心は縁起と空であり、あたりまえな事だと宣う厚顔無恥な輩こそ釈迦尊(ブッダ)の教えを真に理解できない者であり、三法印も四聖諦も縁起(因果律)も苦の教えも無明な感覚主義から目覚め覚醒し、乗り越え超越し、捨て離れ捨離し、解き放ち、自解放し、自由で平安で静逸な安楽な幸福を得る為の方便(手段.アイテム.方法.材料.道標.知識)に過ぎず、釈迦尊(ブッダ)の教えの核心.目的は堅固なこよなき幸せへの道であり、不満や渇望に冒されながら、また条件により生起しているだけに過ぎない満足や幸せを以て、観念論を積み上げ.能書き戯れ言(プラパンチャ)や綺麗事を垂れ.縋りつく対象として得体の知れない神仏や力を持ち出しても、真に人を救う事など出来ない事を痛感され、探求し実践し検証し発見され到達された真の堅固なこよなき幸せを得る道を説く教えこそ真正な仏教である。

         苦を知らぬ者
もし苦(ドゥッカ)というものを知らぬ者が居たとしたら、彼こそが一番の実不幸な人である
苦は楽の種であり楽は苦の種であり、苦を前提に楽があり、楽を前提に苦があるのだから。
苦を知らぬ者には楽もなく、苦楽があってこその生命なのである。
          
         空と言う神への信仰
釈迦尊(ブッダ)が説かれた真正な仏教により得体の知れない神仏や霊力を否定された、バラモン教を核としチベット仏教に機縁する大乗という信仰宗教が妄想した新たな神仏こそ無常の理法.空性から阿弥陀した「空」という諸仏を隠れ蓑にした此の世界を差配する空という得体の知れない神仏への信仰こそ.その本質であり、故に言語の虚妄性(プラパンチャ)を説きながら観念的な言葉の戯れ言(各論.道程.パーツ.アイテムに過ぎないもの)に終始し捉われ拘り目的地(涅槃.ニルバーナ)へ到達する事が出来ないのである。
  SP-318
今未だに事柄を理解せず嫉妬心のある下らない者(愚者)に親しみ司えるならば真理(理法)を弁え知ることなく疑いを超えずに死に至る。
それ故に実に聡明にして学識の深い立派した人に親しめ、物事を識って実践しつつ真理を理解した人は安楽を得るだろう。
       SP-208
既に生じた煩悩の芽を断ち切って新たに植える事なく、現に生ずる煩悩を長じめる事が無いならば、この独り歩む者を聖者(如来)と名付ける。muni
かの大聖者が絶対なる平安の境地を見た如く
  SP-327
真理を楽しみ.真理を歓び.真理に安住し.真理の定めを知り.真理を害なう言葉を口にせず.真理に基づいて話せ、物事と真理と自制と清らかな行ないとを心に憶い、且つ実行せよ
  
   如来品正師 多々方路傍石.語録
 
もし輪廻など方便だよと軽んじて享楽的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて観念的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて刹那的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて欲望利得に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて自我に拘り生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて煩悩次第で生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて酔生夢死に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて恥を知らずに生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて感覚的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて情知らずに生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて主観的に生きる者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと軽んじて成仏の免罪符を贖う者こそ輪廻する
もし輪廻など方便だよと節操もなく能書き垂れて生きる者こそ輪廻する
輪廻の因果は冷徹峻厳、ブツはブツでも微生物からやり直し
もし輪廻が無いならば心の浄化も解脱も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良いもし輪廻が無いならばカルマも汚穢も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば心の陰善も陰徳も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば心を高め磨く事も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば悟りも解脱も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
もし輪廻が無いならば利他も慈悲も不必要、無明なままに暗夜行路を行くが良い
この輪廻してゆく究極の生存苦からの解放こそが仏の指し示す道、もし輪廻が無いならば仏の教えも人生相談.処世術.はたまた無明な信仰に如かず
天国.極楽価格付け成仏の免罪符、自我に塗れて自利の暮らしを追い求め、輪廻の激流思い知る 
成仏 DP(法句経.ダンマパタ)
葬儀によっては何ら死者の救いは得られない。
葬儀により成仏するのではなく、その人の徳性によって天上に赴くのである。(葬儀は世俗の儀式)
例え山野で朽ち果てようが災害に見舞われようが身を慎み他を慈しみ功徳を積み清めるものに天上の門は開かれる
全ての生きとし生きるものたちは平安であれ.幸せであれ.安楽であれ.
 
悟り(大悟)は悦楽から生まれる
悟りの前には悦楽が在り、悦楽の前には自分を探し自分を発見する必要があり、自分の愚かさ弱さに気付き受け入れる強さを必要とする。
最高の悟り(大悟)は先ず自分という存在、そして自分と時空との関係を識る処から始まる。
有為なるこの世界の本質、無為なるこの世界の天地自然の摂理(マクロの力学.ミクロの量子力学.物理法則)を洞察し悟りの智慧(叡智)へ到る道程こそ修行である
知性はあるが智慧のない「私」などという存在に理解出来る筈のない有難き生命の無限な働き(輪廻転生を含む)に感謝して「朝(あした)に道を聞かば
夕べに死すとも悔いなく、朝(あした)に生きたれば 夕べに死すとも悔いなく生きる」
 
●辻立ち 即 説法
 辻立ち.即.慈悲
 辻立ち.即.利他
 辻立ち.即.菩提
 辻立ち.即.涅槃
輝ける磨かれし珠なれど、識って語らず、路傍の石の如く、辻に立つ
一切万象自業自得 一切万法因果応報
心.無明な者達を、心.貧しき者達を、
心.卑しき者達を、心.渇きし者達を、
如来 憐れみ 辻に立つ
如来は道を示すだけ
自らを真に救うのは自分自身の心掛け
自己の依り処は自己のみなり他に如何なる依り処があろうか
自己を善く調御せられたる時、人は実に得難き依り処を得る dp-160
下劣の法に従うべからず
放逸に住すべからず
邪見に従うべからず
能書きに惑わされるべからず
世俗の徒となるべからず dp-167
無常なる世界で、無情なる人々の中で
無条件なる歓びに包まれて、
無上なる正等覚を得ん
阿耨多羅三藐三菩

如来品正師.多々方路傍石.語録
適時に用いられない記憶を情報と言い適時に用いられる記憶を知識と言い、適処に用いられた記憶を智慧と言う也
情報あれど知識なく知識はあれど智慧がなし者はドゥッカを生ず
我らは悦楽に生きよう
不満だらけの世の中で不満を持たず
自我に病んだ社会で病むことなく
貪欲なる世界で離欲恬淡に
我らは悦楽に生きよう
物事に心を乱されず
精神の悦楽を活力として
光音天の神々の如く
我らは平らかに静逸に生きよう

動物愛護法という法律 NIMBYネスな現代社
動物の愛護及び管理に関する法律」というこの崇高な理念に基づいた法律は法治国家.先進国家としての我が国の誇りとするものでもあり、少しずつだが啓蒙も進み、世の中に浸透して来ているようで東京都でも愛護動物の殺処分ゼロへと向かっているようで非常に喜ばしい事だが反面、一部の人間の驕りや思い違い.間違った解釈.浅薄な理解.手前勝手な都合などにより動物愛護の精神が蔑ろにされている事は否めない事実である。
何故に動物愛護法が制定されたのかを考えて見るならば愛玩動物(ペット)の飼い方や動物飼育関係者や関連業者の在り方への指針を示す為ばかりではなく社会が整備されてゆくに従って自然環境やそこで暮らす愛護すべき動物達に対する配慮を欠き共生している同じ生き物を排除してゆくような情操と精神性を喪失させた社会としないよう伴に共生する自然環境と愛護すべき動物達の保護と愛護を謳うのであり、人間は自分たちの都合ばかりを優先して共生している動物達への配慮.理解.尊重を忘れがちになるのを戒めるものであり、同じ生き物として排除や虐待や殺傷する事のないようにするのみでなく人間と動物が共に共生していける社会を目指し、適正な関係性を定めた法律であり、そこには保護としてTNRの精神(※注1)に基づき第2条に於いて社会で適切なる保護.愛護(給餌.給水を含む)しなければならず、第44条に於いて虐待の防止とともに社会に於ける適切な保護活動を妨害したり非難したりする虐待と言う犯罪行為を助長したり強制する事を禁じTNRの精神に基づき適切に保護.愛護してゆく事こそが社会的コンセンサスであるにも関わらず自分の事しか考えない手前勝手な論理で「餌やり」は犯罪だと主観的に錯覚し生命尊重.共生.友愛.平和.情操の涵養(かんよう)の精神が踏みにじられ喪失する事により自分の幸せの為に他の共生する生き物に対する排除の論理へ陥る事への反省と戒めの為の法律でもあるのです
※注1 
TNR trap      捕獲
    neuter  避妊.去勢
    return   元の場所に戻す
 
心の浄化

世の中の一つの流行りに断捨離が有ったが、無明(本質的無知)なままに勢いで物事を捨てても後に残るのは後悔だけだったのだろうか何時しか影を潜めた観さえある。
しかし所有の次元の事物に捉われ拘り執着し貪る空しさ.苦しさ.哀しさ.儚さ.愚かさに多少なりとも気付く事が出来たのは真の生きる目的を見失い利得を追う事を前提条件として成立する物質文明と資本主義社会に翻弄される無常さを肌で感じたからに他ならないだろう。
仏教では心の浄化を説くがこれを浅薄に理解すれば自利に傾く心を利他へと向ける心の浄化となる善行だと捉えるが、それは金財の利得にばかり囚われる人にとっての心の浄化であり、物に囚われる人にとっての心の浄化が断捨離であり、地位や名誉に拘り囚われる人にとっての心の浄化は地位や名誉の返上であり、権力.勢力に拘り囚われる人にとっての心の浄化は整理縮小であり、愛欲に囚われる人にとっての心の浄化は清算であり、理解.承認.評価に拘り囚われる人にとっての心の浄化は自覚する事であり、戦場で百万の敵を打ち破るより己自身を制し己一人に打ち克つ事こそ最上の心の浄化であり人生の勝利者だと言え、しいては大いなる福徳をもたらすのである。
 
    お釈迦さまでも気が付くメェ~
世の中ではお釈迦さまが色々と例えに用いられて居ますが「お釈迦になる」とは「ひ」と「し」が曖昧な江戸っ子の鍛冶職人が火加減が強過ぎ使い物にならない不良品を洒落て釈迦尊(ブッダ)の灌仏会(誕生日)の四月八日(しがつよび)で使い物にならない不良品となった事を掛けたと言われます。
また「お釈迦さまでも気が付くめぇ~」とこれは切られ与三郎得体の台詞ですが得体の知れない妄想的な神仏に釈迦尊(ブッダ)を擬えてその悪事の周到さを奢ったものですが、私が想っているのは、お釈迦さまの深い洞察力でも2500有余年を過ぎた21世紀の世に於いても無明の闇に閉ざされた精神的倒錯したカルトとか絵空事で妄想的な得体の知れない神仏や怪しげな力を騙る信仰が溢れ返って居ようとは「お釈迦さまでも想うメェ~」
 
       純 粋 仏 教      
私の追求する純粋仏教とは何んぞやと言うならば、色々と派生し.色々と解釈され.色々と捏造されて来た釈迦尊(ブッダ)の御教えを釈迦尊(ブッダ)の真正な仏教へと蘇らせる事だと言え、当然に大乗(マハーヤーナ)然りであり若し私自身が無思考に気付く事も探求する事もなく宗派の教えや勤行や読経に随い一生を費やしたとしたら釈迦尊(ブッダ)の正しい教えも釈迦尊(ブッダ)の心も釈迦尊(ブッダ)の願いも理解出来ないまま折角の人生を無明なままに終える処だったと言え、一方より釈迦尊(ブッダ)の正しい御教えに近いとは言える上座部(ヒナヤーナ・テーラワーダ)にしても、三度に渡る結集とサンガ(集まり)の分裂によりそれぞれの阿羅漢の見解に基づき各派が編纂した釈迦尊(ブッダ)が真に仰った御言葉からは明らかに逸脱した多くの思想も経(スッタ・スートラ)として登用され、それらも時代を経て散逸の憂き目に在ったものを偉大なるブッダゴーサの尽力で後世に多くの部分が伝わったのは幸いであり事実だが、上座部(ヒーナ.ヤーナ・テーラワーダ)はブッダゴーサの見解と散逸を逃れた部分(御言葉)という枠(第六蓋)を超えて釈迦尊(ブッダ)の真正で純粋な教えを追求する事が出来ない部派仏教に過ぎず真の到達への道を中途で終える事になる事を直観したからに他ならず事実、浅薄な人達からは邪道だとか逸脱だとか曲解だとか揶揄されるが「釈迦尊(ブッダ)の如く眺め、釈迦尊(ブッダ)の如く思惟し、釈迦尊(ブッダ)の如く分析し、釈迦尊(ブッダ)の如く行いない、釈迦尊(ブッダ)の如く考え、釈迦尊(ブッダ)の如く語り、釈迦尊(ブッダ)の如く生き、釈迦尊(ブッダ)の如く努め、釈迦尊(ブッダ)の如く励めば、他の人々が信じようが信じまいが叡智により光明なる真理(真実.現実.事実.実相.摂理)は眼前に顕現する」そして堅固なる平らかで静かなる満ち足りた境地へと到るのです

路傍の如来の説法.その一.晩冬の集いでの説法

自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て

【路傍の如来.説法録.その一】
晩冬の集いでの説法

開経偈
南無 
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
滅する事なく生ずる事もなく、断絶も常在もなく、一つの事でも異なった事でもなく来る事も去る事もない因果律(縁起)、本質的には真実を表現できない不毛で虚妄なる言語(プラパンチャ)というものによっては、かくの如く決して表現され得ない深淵なる因果律(縁起)と三つの真理(三法印)と四つの道(四聖諦)と慈悲と叡智に依って説き教えられた釈迦尊(ブッダ)、最も勝れた説法者に礼拝致します。
一切の生きとし、生けるものたちは、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
晩冬の説法
如是我聞
晩冬の頃、大きな上野の森やアメ横へと向かう人々が往来する上野駅前の辻に立ち続けられる自らを路傍石と号される如来は、立禅のまま深く禅定(ディャーナ)に入って居られた
未だ寒風は法衣を波打たせ、木々の新芽が芽生える日も間近となった人々もまばらな昼前であった。
ある者は如来の存在を人伝てに聞き、或は夢に現れ、また不思議な縁に導かれて各地から上野の不忍へと各々の想いを胸に路傍の如来の説法を拝聴しようと人々は集まって来た。
駅前に着くと、辻に立たれる路傍の如来に向かい目を輝かせて近づき、低頭合掌して施与し説法を乞うと如来が指し示られた隣り合う空地へと一礼をして右回りに移動し腰を下ろした。時が経つにつれてその数は増え、南中を過ぎる頃には空地はすっかり人で埋め尽くされていた。晩冬の日差しは未だ弱かったが、乾いた風が梢を揺らし誰も不快だとは感じなかった。
その日集まった人々の中には、色々な問題で苦悩する人々、不満に苛まれる人々、不運を嘆く人々とともに、善行に努め励み人の悩みを聞いてその苦しみを減じることに長じた人、経典の知識が豊富な人、自分の幸福より他人の幸せを優先する事に努めて来た人、貧しい人々に多くの援助を惜しまず施してきた人なども居たが、この日集まった人々は皆よき人々であり、悪習に染まらず悪行に馴染まないよう心を汚すことを注意深く避けてきたが、ドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.迷い.悔い.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.不満.無常さ.無明.渇き)から抜け出す事が出来ず不安と満たされない想いを拭い去る事が出来ずに真の幸せへ向けて更なる一歩が踏み出す事が出来ずにいた。
晩冬の木漏れ日の中で、人々は静かに待っていた。
かたわらでは、鳩たちが羽ばたきながら餌を啄ばみ風に導かれて、枝の下を透かせば、緑もえたつ谷が広がり、そのむこうの森の傾斜が緩むあたりを、銀色の電車がゆっくりと横切り、さらにかなたの鉄塔の上には、乾きかけた刷毛でなでたような雲が、青空高く広がっていた。
やがて鳩たちの羽音が近づき、如来の肩先にそれがとまると、路傍の如来は合掌し、ゆっくりと半眼から視線を上げて人々を見渡し、静かに人々のもとへと移動され徐に語りはじめられた。
善男そして善女よ。
私の話す事は俗世の潮流に逆らい人間の利己主義的な欲望に逆らうものであり.世の中の多くの人々が当たり前だと思い込み錯覚しながら無明な闇の中を欲望に煽られ盲目的に生きる人々を目覚めさせ、乗り越えさせ、解き放つ覚醒.超越.解放.自由を説くものである。私が体現したこの真理(真実)は見難く.理解し難く.物事を在るがままに正しく前向きに捉えようと努力しない者には把握され得ないものである。世の潮流に逆らい高遠で深く微妙で難解なこの真理(真実)は欲情に打ち負かされ闇に包まれた者達には見難く理解され難いものでもあるが、新しいものは何もなく、何もかも貴方達の誰もが本当は解かっている事ばかりだ。しかし貴方達はそれを忘れている。自分への執着(我執)や物事への執着によって強固な夢幻.妄想による頑迷を造りだし、その夢幻.妄想への執着により更に自我を強め真理(真実)を歪め盲目的(ブラインドアイ)に彷徨っている。
夢幻とは妄迷であり妄想であり錯覚であり、我執とは妄想により造り出された自我への執着であり、妄迷と我執とは蘆の束のように互いに支えあって起き上がり、ますます太く強く絡みつく。真実は益々奥深く隠され見えなくなり、そして貴方達には汚れや穢れが染みつき、重く固く脆くなって暗い濁りの中に沈んでいくのだよ。
夢幻.妄迷.
妄想に惑わされていてはいけない夢幻.妄迷.妄想を捨て去り捨離し、目を見開き、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放ち解放され、見える通りに世界を見る事のできる依り高い人格を形成させてゆく事が出来る。そうすれば、いつも新鮮な光に照らしだされた自由な真実により形造られた新鮮な世界の中で、世界と共に歓び.歌うい.共に躍動することができる。その時に貴方達は、決して苦に転じることのない堅固な喜び(suka)、純粋な情感による大いなる安楽を奥深く味わえるだろう
傍らに買い物袋を置いた勤め人風の若い男が、右膝を地面につけ合掌して路傍の如来にお尋ねした。
路傍の如来よ。
私はいつも注意を怠らず目をしっかりと開けて物事を見ています。しかし私たちが見ているのとは違う別の見方があるのでしょうか? 私たちが忘れている別の見方とは何でしょうか? 決して苦に転じることのない堅固で純粋な情感の深い大いなる喜びとは何でしょうか?
路傍の如来よ。どうぞお教えください。
傍らに買い物袋を置いた若い男はその刈り上げられ調えられた後ろ髪の生え際まで晒して頭を垂れた。
路傍の如来は、おもむろに腕を伸ばし、木漏れ日に照らされた一隅を指差した。するとそこに砂塵が舞い上がり.つむじ風が起こり、瞬く間に強くなった風は、大きく梢をゆるがせて広場を一巡りした。人々は、首をすくめ、持ち物や髪を押さえたが、風は起こったときと同様に程なくおさまった
善男そして善女よ。
今、風が現われ、そして消えた。風が梢を鳴らしたが跡に音を留めては居ない。何も増えたものはなく減ったものもない。空気が動いただけであり、その量に変わりはない…
では果たして風という[もの]が存在したのであろうか?
傍らに買い物袋を置いた若い男がお答えした。
いいえ。そうではありません。風は起こっただけであり、[もの]として存在したのではありません。
宜しい、宜しい。正にその通りである。
しかし、風がまったくの夢幻だったという訳でもない。こうして枝を鳴らしその枝を折ったのだから。
路傍の如来は、傍らに落ちた小枝を拾い上げられた
貴方達も同じだ。貴方達が生まれた時も、増えたものは何もなく、貴方達が死んでも、減るものは何もない。貴方達がどの様な感覚.感情.衝動.意図.主観を生じようとも起こっているだけで、貴方という[実存的なもの]が存在しているわけではなく現象しているだけなのだ。
人々は路傍の如来の仰る意味が分からなかった。
しかし誰もなにも言わなかった。
如来は人々の疑念を察知して、再び比喩をもって説明された。
貴方達はあの公園には不忍の池という大きな池があるという。しかし池という[もの]は本当は存在しない。
溢れでる池の水は、流れさって留まることはなく実際には同じ池で泳ぐ事など出来ないものなのだよ。池という場所があり「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず」と言われるように、池といわれる場所の水も流れ去る水もありまた蒸発して空へ昇りやがて雨となって池を潤す水もある、貴方達もあの不忍の池と同様に[もの]が通り抜けていく場所であり、貴方達が生きている間、色々な要素が集まり結び付き貴方達を形造りながら通り抜けていく空間的次元のようなものであり。その間ずっと貴方達の中に留っているものは何一つないのだよ。
貴方達の体を通ったものは世界へと散っていく。あるものはある時.土となり、あるものはある時.別の動物となり、あるものはある時.草になり、あるものはある時には鳥となる。今、貴方となっているものも、かつては風で在り、土で在り、草で在り、魚で在り、虫で在り、別の人を形造っていたので在り、そのようにして今の貴方達は今のように在るのだよ。
横に買い物袋を置いた若い男が合掌して申し上げた
路傍の如来よ。
私達はただの場所ではありません。身体ばかりではありません。こうして尊い教えを聞き、考え、良い行いをすることが出来ます。
路傍の如来よ。どうか私達を善きもの。善き魂を持つものと仰って下さい。
路傍の如来は微笑みながらゆっくりと答えられた。
貴方達は[もの]ではない。貴方達は存在ではない。
風のない処で燃える蝋燭の炎を考えてみなさい。炎はじっと同じ姿でそこにあるように見える。では炎という[もの]が存在しているのだろうか?
学者風の中年の男がお答えした。
いいえ、そうではありません。蝋燭の炎は、蝋が少しずつ融けて芯をのぼり、空気と結びついて熱と光を出す酸化反応の場所です。反応を終えた蝋は次々と水蒸気と炭酸ガスに変わって散っていき、炎の中に留まるものは何もなく、まして炎という[もの]が存在するわけではありません。
人は[もの]と思う時、それを変わる事なくそれ自体で存在し何時までも存在し続ける存在と錯覚してしまうから人はものに執着するのだよ。
しかしどの様なものにも始まりが在り変化があり終わりがあり、しかも独立に自存して何時までも在り続けるものなど何もないのだよ。全ては相互に依存しあう関係性の上での出来事であり、現象として存在しているのであり、現象とは不安定で暫くは存在するがやがては消えてゆき再び他の何かに成り続ける連鎖であり移ろいであり、言い換えれば人生は移ろうのではなく、移ろいこそが人生なのだから。
善男そして善女よ。
気をつけなさい。魂.霊魂.霊体という類いの言葉に。仏の名を騙り、バラモン教を起源とするそれら魂が永遠的に輪廻転生を繰り返すと説くものに。彼らは人を救うと言いながら人に魂の穢れと浄化を説き.罪悪感を植え付け.贖罪を強い.来世の根拠のない幸せを金品ほしさに人を脅し得体の知れない神仏を持ち出し、魂の成仏と称して免罪符を売りつける。
釈迦尊(ブッダ)は無我を説かれた。間違いや誤解がおきないようにはっきりと言おう。貴方達が貴方達の本体だと考えているもの、思考の背後に居ると錯覚している思考者すなわち魂や霊魂などと言うものの存在は釈迦尊(ブッダ)によって否定されているのだ。
路傍の如来よ。
経典には真理(真実)に到達された釈迦尊(ブッダ)御自身の輪廻転生が記されています。如来となられる前の何生にもわたるの修行、善行、功徳があって釈迦尊(ブッダ)は如来になられたと・・・
宜しい。経典を読むのはよいことだ。貴方達はもっと経典を読むべきだ。自分自身で経典を読み、仏の教えとは何か、自分自身でよく考え、自分自身で吟味しなくてはならない。仏典とは釈迦尊(ブッダ)御自身が書き残すされたものではなく、直弟子や後の仏弟子達が私は釈迦尊(ブッダ)から是のようにお聞きしたと宣い記したものであり、各自.各集団の利害や都合の則して認められた釈迦尊(ブッダ)の教えに反する教説が多く含まれている事も事実である。
そんな先々を見透された釈迦尊(ブッダ)が遺されたのが「自灯明・法灯明」という無記の最上経典であると言え、自らの内にある真実を見極め、仏法を手掛かり(経糸)に、天地自然の法則(摂理)を理解する自分の知性を手掛かり(緯糸)にして織りなし顕現する叡智により妄迷を振り払い.捨て去り、真実に目覚め.覚醒し、乗り越え.超越し、解き放ち.解放されてゆかなければ本当の幸せは実現出来ないのだよ。今、実に多くの信仰を強いる輩が、仏の名を騙り人々を欺き惑わせている。自ずから経典を読み、自ずから考えて、自ら真理(真実)へと向かう[自灯明.法灯明]という.法(真理)を依り処(燈明)とし.自らに具する真理(真実)を理解する知性を依り処(燈明)とし他の一切を依り処としてはならない。法(真実.現実)に照らし.自らに具する知性に照らし、どれが釈迦尊(ブッダ)の真実の教えを説いている経典か、人を欺き惑わせる似非な経典か、そして誰が欺き惑わせているか見分ける事ができるようになる
かと言って輪廻は方便だと勘違いして軽んじてはならない。輪廻とは無知(無明)を最大の原因とし.渇望の足枷による彷徨であり、渇望が因果律(縁起・相対的相互依存関係性)に従って全てのドゥッカ(苦.心痛)と存在の継続を生じさせる。
身体機能の停止(死)によって心的.精神的エネルギーも同時に完全に停止し霧散する事なく継続する(輪廻)、それは意志.意図.存在し.継続し.増大膨張して.安定(スカ)へと向かおうとする渇望こそが、全ての命.全ての存在.全宇宙を動かしている途方もなく膨大な力なのだから。
魂や霊魂.霊体といった永続的.不変的実体などなくても生は継続してゆく事を理解しなければならない。
身体を形造ったものがやがては他の況ゆるものへと変化しながら輪廻してゆくように、心的エネルギー(生物エネルギー)も高等微生物から人類までの分解.生産.消費という生命.生物のサイクルの中を捕食の関係性に遵って輪廻してゆくのだよ
言うなればこの世界は途方もない膨大なエネルギーによる連鎖し変化し生滅しながら流動してゆく現象の世界なのだから
そして釈迦尊(ブッダ)は苦(ドゥッカ)の連鎖である輪廻を説かれたのではなく、苦(ドゥッカ)の輪廻からの解脱(解放)を説かれたのだよ。釈迦尊(ブッダ)の時代には人々は魂.霊魂の輪廻を信じていた。だから釈迦尊(ブッダ)は輪廻についても深く探求され洞察され分析され思惟され検証され、叡智により旧来から在った魂.霊魂の輪廻でもなく方便でもない正しい智慧による真実の輪廻を説かれたのだ。
釈迦尊(ブッダ)は、魂の輪廻を諸法無我として完全否定されている、実践をもって方便ではなく法則であると因果律(縁起)により説かれている、心的エネルギー界(生物エネルギー次元)の性質.運動性.負荷の輪廻からの解脱(解放)とそれに伴う堅固なるこよなき幸せに至る方法を正しい方法(八正道)により説かれている、諸行無常であり全ては常ならざる現象であり常住で実存的で実相的で永遠的な神や仏や得体の知れない怪しげな力など存在し得ない事を説かれ、因果律(縁起)と諸行無常.諸法非我を以て.一切皆苦という苦(ドゥッカ)という本質により成り立つ世界である事を説かれ、この世界において縁起.因縁により条件により生じ条件により変化し消滅してしまう苦(ドゥッカ)へと戻る性質の物事を拠り処し短命な小楽と大きな苦や不満の中を彷徨い生きる生活から脱皮し真実のみを拠り処(精神的支柱)とし、平らかな静逸.安心.安全で悦楽な歓喜に溢れる堅固なこよなき幸せへと向かう道を説かれたのだよ。
即ち他でもない、無我と縁起により得体の知れない神仏や怪しげな力への依存や永遠的.実相的な魂.霊魂への錯覚や依存により人は盲目的に妄迷に不毛に苦(ドゥッカ)から逃れようとして却って苦(ドゥッカ)を造り出しながら生きる事から目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され堅固なるこよなく幸せ(大楽)に生き、苦(ドゥッカ)の輪廻を終わらせる事こそが成仏するというのだよ。
また空の教えとは釈迦尊(ブッダ)の教えではなく釈迦尊(ブッダ)が説かれた無常を空と言い換え神格化させた観念こそが空の思想であると言え、一つのことをそれぞれ違う視点から違う言葉で説明しながら信仰対象としているのだよ。釈迦尊(ブッダ)の教えの核心は真の幸せへの道であり、四聖諦も因果律(縁起)も八正道も三法印も四向四果も輪廻も何もかも真の幸福(こよなき幸せ)への道標(アイテム)であり、これらと相容れない教えは仏教ではない。仏教だとしても、方便に過ぎないか邪見に過ぎない。
経験と顕貴(ときめき)こそが生きる味わいではあるが、保護.安全.安心への経験の記憶の他の残滓にどれ程の意味が在るというのだろうか、顕貴(ときめき)を失った過去の記憶の残滓にどれ程の魅力が在るというのだろうか。
真に価値あるものとは、今というこの瞬間に味わうの天地自然の在るがままの現象であり経験であり顕貴(ときめき)である、過去の記憶への執着やまだ到来しない未来への妄想に捉われてはいけない、それらに何程の意味や価値があろう?それら過去の記憶や未来への期待に縛られ自分自身さえも妄想しながら生きる生き方、それは今言う処のバーチャルリアリティ(仮想現実)に捉われ現実から逃避し妄想的に酔生夢死事と何ら変わらない愚かな執着に他ならない。
貴方達は本質的には苦(ドゥッカ)により生かされていて苦しいから食事し、苦しいから排泄し、苦しいから眠り、苦しいから歩き、苦しいから何かしらを探し回っている是れを生存苦というのだが、
先ずこの苦(ドゥッカ)を理解しなければならないだろう。
苦(ドゥッカ)とは単に苦しいという理解.認識ではいけない苦(ドゥッカ)とは苦しみの他に不安定さ.不完全さ.苦悩.,心痛.迷い.哀しさ.儚さ.空虚さ.恐怖.無知.弱さ.脆さ.不満.悔い.煩わしさ.負担.実質のなさ.惨めさ.無常.飽き.愚かさ.渇き.欲などが含まれる。
そして苦(ドッカ)という不安定さ恐怖から逃れ保護.安心.安全.恩恵.依り処(精神的支柱)を欲し、自己防衛の為に縋る神仏を妄想し、永遠に死なない存在として魂や霊魂を妄想し、苦(ドゥッカ)という生存苦を慰めようとしているのだよ。
本質的な存在ではない無我(アナッタ)の存在だという事を恐れ今の自分がいつまでも存在しつづけると思いたいのだ。そのために今の自分の連続性としての前世と来世や魂や霊魂の輪廻は貴方達の創った幻.妄想である。貴方達の今の自分への我執の産物なのだよ。
我々には今しかない。今の我々には、過去も未来もない。前世も来世もない。前世を思い巡らし来世を心配する暇はない。ただひたすら一刻も早く我執を離れ正しい見解を得るよう、常にこの今、一心に努力するだけだ。過去生がどうであったか、来世がどうなるか、昨日はどうだったか、明日はどうなるか。このような問いは問う意味がない。今どうありどうあるべきか、それを気にかけるべきなのだ。

善男そして善女よ。
先ほど私は、貴方達を[もの]ではなく現象だといった。では[もの]と現象はどう違うのか?
教師風の中年男性がお答えした。
人が[もの]という時、私たちは、それを変わることなくいつまでも存在し続けると考えており、現象は不安定でしばらくの間のことで、やがて終わると思っています。
宜しい、宜しい。その通りだ。
人が[もの]という時、人はそれを変わることなくそれだけで存在し続けるものと錯覚している。だから人は[もの]に執着してしまう。
しかし真実は、どのような[もの]にも、始まりがあり、変化があり、終わりがある。独立自存して、いつまでも自分自身であり続けるものなどなにひとつない。全ては条件(縁起)により生じ、条件(縁起)により変化し、条件(縁起)により終わる有為なものである。自分自身を原因として生まれるものは何ひとうなく全ては因果律(縁起)に遵った相互依存関係性の上での出来事つまりは現象に過ぎないという、この真理こそが釈迦尊(ブッダ)の説かれた無我である
路傍の如来は、小石を拾い上げられた。
この石も石と呼ばれる形で今、現象しているのであって、この石という永遠の[もの]が存在するわけではない。
[もの]という概念は、執着心が言葉によってつくりだした夢幻.妄想である。執着心が執着する対象を求めて現象を固定化して捉え、[もの]という概念を捏造する。我々が[もの]として捉えている存在は生じ変化し消えてゆく現象の持つ多くの形態の一つに過ぎない。
貴方達も例外ではない。貴方達という場所で貴方達という姿で現象している現象それが貴方達だ。自分を固定化して[もの]と錯覚していてはならない。それが自我(アートマ)であり我執なのだ。
路傍の如来よ。
あなたの仰ることは私にはあまりにも辛い事です。私達には前世も来世もない、死んでしまえばその後は何もない、そのように考えれば解脱できると仰って居られるのでしょうか?
路傍の如来は、目を細くして現代風の若い女性に微笑みかけた。
私は死のみを説くものではなく誕生も存在も変化も説くものだ。
釈迦尊(ブッダ)は、全ては無我だと言われた。何故なら、全ては縁によって他から生じたもの、縁起の現象だから。あらゆる現象
は、縁起により、他の現象により条件づけられ、生み出され、変わり、いつか終息する。貴方達だけでなく、私も、この蜂も、牛も、雲も、石も、山も、あの町並みも、この子供らも、全てが縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって世界を変え、いつか縁によって解消される。一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界を造っている。世界の一切が今あるもの全てを変え、今あるもの全てがそれぞれの仕方で世界を変え、世界の一切が今あるもの全てを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。
全ては無我であり、因果律(縁起)に遵って変化生滅する。何故なら全ては現象であるのだから。
貴方達も、世界の内にあり、世界の変化に応じて縁によって生じ、世界の変化に応じて縁によって変化し、縁によって世界を変え、世界の変化に応じて縁によって散る。貴方達という現象の場所は、世界の中の何処かで新なる集合要素を形造り、世界は貴方達という場所を引き継いでゆく。貴方達は世界と共に縁起してゆくす現象なのだよ。
会社員風の年取った男性が、合掌して申し上げた。
路傍の如来よ。
私には変化は怖ろしい。私は変化するものではなく、いつまでも変わらないものに縋りたいのです。
路傍の如来よ。
どうか、仏様や知恵の完成の教えは永遠不変の存在で、いつか必ずわたしたちを無我と縁起の変化の世界から永遠不変の世界へ救い出してくださると、仰ってください。
歳月を重ねてきた男性よ。
先程わたしは、経典を読む事を薦めた。しかし同時に一部の経典の中には、釈迦尊(ブッダ)の教えと相容れない観音思想や弥勒思想や阿弥陀仏思想や考えが忍び込み、仏説だと偽って蔓延っている。今あなたの言った永遠不変の法身仏の考えや、得体の知れない他力に救いを求める思想や、一切有情に仏の胎児が宿っているといった考えがそうだ。これらは永遠の生存を求める心や生きる苦しみから逃れたいという願望を他力によって叶えたいという無明(本質的な無知)な妄想に過ぎず、不毛な物事に対し盲目的に手探りで探し求め縋り付こうとしている事に他ならず空なるものは掴めず真の支えにはならず天地自然の理法にも因果律(縁起)にも無我という真理にも反する。これらは仏説ではない。
善男そして善女よ。
変化生滅するこの現象の世界、因果律(縁起)に遵った無我なるこの世界を変化(輪廻)しながら他の何かに成り続けるのも根源的な存在となり此の世界の無に帰し彼岸へと至るのも貴方達自身の意志と信念と努力しかなく、自らを真に救うものは自分だけなのだから。
貴方達は、大きな考え違いをしている。有りもしない自我の永遠を求めることが執着なのだ。自我に執着するから自我の永遠を妄想する。そこから苦(ドゥッカ)は増大してゆく。正しいあり方は正反対であり所有の次元の事物をはじめ汎ゆる欲望への執着を捨て去り捨離し、因果律(縁起)遵って変化生滅する現象的存在である無我な存在である事を理解し受け入れ執着から解き放たれ解放される事こそが私達の変化生滅しない堅固な喜びなのである。どうしてここから逃げ出すのか?
変化を恐れてはならない。変化は恐ろしいものではない。変化を恐れ、永遠を見つけようとするから、貴方達は変化してゆくこの世界を楽しむことができないのだよ。
世界が歌う歌、世界の躍動のリズム、世界は力(エネルギー)の振動だ。そして次元は存在の要素を吐き出し、呑み込み、結びつけ、引き離す。世界を生み出し、世界を変える。世界として凝結し、さらに自らも変化する。貴方達も、わたしも、あの山も、風も、木も、虫も、太陽も、町も、星も、すべて一源的な本質的エネルギー(梵)がそのように現象した姿だ。貴方達が見る全てのもの、そしてそれを見る貴方達も、すべて空の脈動から生まれた。貴方達も、大宇宙のリズムを打っている。大宇宙は、沸騰し、逆巻き、ねじれ、のぼりつめ、崩れ落ち、爆発する。宇宙を生み出し、無数の星となり、大きなもの、小さなものに凝結し、常に変化し壊れまた新たな現象として現れる。本質的なエネルギー(梵)は変化と多様性だけを喜ぶ。

村の教師がお尋ねした。
本質的なエネルギー(梵)がそのような力であるなら、争いも犯罪もあらゆる悪徳も、すべて本質的なエネルギー(梵)から生まれたのでしょうか? 私達の心に芽生える欲望や怒りや妬みや思い上がりも、本質的なエネルギー(梵)が生み出すのでしょうか? 本質的なエネルギー(梵)は、善なるものではないのでしょうか?
もし善でないなら、私達が日々悪行を避け善行を積もうとすることに何の意味があるのでしょうか?
・・・
そのとおりだ。すべての現象が、一源のエネルギー(梵)から生まれる。争いも犯罪もあらゆる悪徳も例外ではない。
本質的なエネルギー(梵)とは変化と多様性だけを喜ぶ。善悪や美醜などという分断された世俗の尺度で梵を計ることはできない。善悪、美醜、正邪も、正義も悪徳も変化を怖れる人間の自我という観点から見た無明な臆病さが生み出した幻影だ。
路傍の如来よ。
それでは、私達は、何を目的に生きればよいのでしょうか? すべてが本質的なエネルギー(梵)の力の現われで、善悪も正邪もなく、すべてが平等であるならば私達は、何を指針に生きればよいのでしょうか?
路傍の如来は、ゆっくりと隣町からきた娘の方へむき直られた。
目的とは行為であり、現象とは働きなのだから。
隣町からきた娘よ。
もともと無いものを探して苦しむことはもうやめなさい。いくら悩んでみたところで、ないものはない。ないものにすがろうとする気持ちが、弱さの現われであると知るべきだ。
しばしば人は自問する。わたしは何をすべきか、何になるべきか、なるべきだったかと。これもまた、我執の産物だ。自分という「存在」を世界から切り出して妄想し、そこに意味を与えようとする。しかし、元来ないところには、なにも載せられない。何?の問いは不毛だ。世界とともに躍動し変化する貴方達という現象を、できあいの言葉で手軽に価値づけられるはずがない。未来や過去の何?ではなく、今の「如何に」を問いなさい。逃げることなく、誤魔化す事なく、無我・縁起の現象として誠実に生きなさい。それだけが、あなたたちの生を尊いものにする。どこまで誠実に生きられるかを突き詰めてみなさい。その結果、聖者と呼ばれようが、罪人といわれようが、無名のまま終わろうが、それはまったく重要ではない。 
無我を知り、縁起を知り、空を知れば、目的や意味などにわずらわされることはない。
路傍の如来よ。
あなたの教えは、わたしには恐ろしい。あなたは、来世はないといわれた。おすがりできる永遠の仏様はおられないといわれた。善行は悪果をもたらすといわれた。わたしたちが解脱しようと、迷いの中をさまよおうと、本質的エネルギー(梵)は気にかけないといわれた。人生にも世界にも目的はなく、私達が罪人になってもかまわないといわれた。あなたはわたしの希望のすべてを絶やしてしまわれた。どうしてあなたの教えが喜びをもたらすのでしょう? 本質的エネルギー(梵)に慈悲はないのでしょうか?
手に数珠をかけた老婆よ。
慈悲は外に求めるものではない。内に見いだすものだ。貴方達の内から湧きあがるのだ。
貴方達の望むような慈悲は梵にはなく因果律(縁起)に遵って変化生滅してゆくだけなのだ。貴方達は、永遠を望んでいる。梵は変化を望んでいる。梵の慈悲とは、世界とともに貴方達を生みだし、世界とともに貴方達を変え、世界の中で貴方達を壊す、そのような慈悲だ。この慈悲が、貴方達に純粋で透き通った情感の混じった大いなる喜びをもたらす。
貴方達、どうしてわたしの教えを恐れるのか? どうして絶望の教えというのか? それは、あなたたちが、まだ変化を恐れ、変化を見ようとしないからだ。
世界に向けて目を開けなさい。目だけではない、心も開きなさい。風をはらむ帆のように心を解き放ち心身を貫く風と光、空の流れを感じなさい。
路傍の如来は、立ち上がり腕を広げられた
さあ、貴方達には何が見えるか? 世界で今、何が起こって何が変化しているか?
さあ、答えてくれ。
沈黙の後、教師風の男性がお答えした。
路傍の如来よ。
いつもと同じです。特になにも変わったことはありません。
善男そして善女よ。
わたしは、変化を聞きたい。あなたたちは変化を見ないから。さあ貴方達よ立ち上がり、見渡して今の変化を語ってくれ。
人々は立ち上がった。しかし、顔を見合わせるばかりで、誰も答えられない。
さあ、どうした。誰か、今なにが起こり何が変化しているか、教えてくれ。
後ろのほうから、おずおずと声が上がった
梢が風に揺れています。
路傍の如来は、手をたたいて喜ばれた。
よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
左から声が聞こえた。
虫が飛び回っています。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
娘の声がした。
上野の森の木々が揺れています。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
女性の声がした。
私達がここに集まっています。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
若者の声がした。
中東で戦争しています
宣しい、宣しい、大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
男の子が空を指差した。
飛行機雲がまっすぐ伸びていきます。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
年寄りの女性の声がした。
私の裏庭の梅の木の蕾がそろそろ花開きそうです。
宣しい、宣しい。大変よろしい。
今貴方達が話してくれたことは、すべて本質的エネルギー(梵)の奏でる歌であり、本質的エネルギー(梵)の舞い踊りであり、本質的エネルギー(梵)の力の脈動だ。この広い宇宙で、今この時、実に様々なことが起こっている。全ての物事は常ならず全く同じ状態に在るものは何もなく、常住するもの(神.仏.魂.超越的な力)などが存在しえない世界なのだよ。
見なさい。
路傍の如来は、天を仰がれた。すると、眉間の白毫から光が放たれ、青空を貫き、光は輪になり、輪は広がって人々を頭上からすっぽりと包んだ。いつのまにか台地は大きな蓮華となり、人々を乗せて舞い上がった。ある時は毛の先ほどに小さくなって、谷をわたる蝶に従い、羽の一打ちごとに鱗片の光沢が茜から紫へ、また茜へと映し変わる様を見た。ある時は、雪渓を吹き上がる霧の風に運ばれながら、岩稜を乗り越える風が、うなりながら新しい雲の塊を次々に湧きあがらせる様を見た。ある時は、大きな町の上方から、多くの人や車がそれぞれ勝手に忙しく動き回りながら、町全体はゆったりとしたひとつのリズムで脈動しているのを見た。ある時は、太陽にいたり、その表面にほとばしる炎が、よじれ、そりかえり、逆巻く巨大な紅蓮の虹となって飛び跳ねる中をくぐり抜けた。ある時は、漆黒と静寂の空間に佇み、燃えつきて縮んだ星が、突然輝き、すべてを放出して宇宙をまぶしく照らす様を見た。ある時は、二つの銀河が、近づき、互いの内から黒い雲を紐のようにたぐりよせあいながら、重なりあい、すれ違い、また遠ざかっていく様を眺めた。そしてその他にも、大河の砂の数ほどの様々な現象の姿を。
百千億劫の間、人々は我を忘れて見入っていた。しかし、気がついてみると、皆もとの台地に座っており、ほんのしばらくしか時は過ぎていなかった。人々は、驚嘆して口々に声を上げた。
驚くべきことです、路傍の如来よ。
私達は、今、実にさまざまなできごとを見ました。世界がどんなに多様で、どれほど激しく変化しているか、はっきりと見ました。毎日毎日同じことの繰り返しと思っていた世界が、どれほど激しく変化しているか、やっと知ることができました
宣しい、宣しい。大変よろしい。
しかし、貴方達は、大きな激しい変化にばかり心を奪われたことだろう。貴方達が変化を見ない「いつも」もまた無限の変化でできていることを、あなたたちは見なければならない。
これまで貴方達は、善行に励み、永遠ばかりを探してきた。だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない。無我を、縁起を、真理(真実.現実)を見ることがうまくない。貴方達は物事の真理(真実.事実.現実.実相)に気付いてゆかねばならない。真に安定した依り処とすべきは真実だけなのだから。
路傍の如来は、ゆったりと手を広げ人々に語り掛けられた。
今日はこれで終わろう。また貴方達に説法を施す帰その時にはその間に貴方達にどんな気付きがあったか聞かせて欲しい。
路傍の如来は、合掌して頭を垂れられた。人々も立ち上がり、合掌して低頭した。路傍の如来が手を胸の前に組みかえると、静かに歩み去っていかれた。
その姿が木々の間に見え隠れしながら遠ざかり、やがてすっかり見えなくなると、暫くのあいだ人々は路傍の如来の息吹を感じながら説法を思い返していたが、やがてそれぞれに帰っていった。

路傍の如来の説法.そのニ.初夏の集いでの説法

自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て

【路傍の如来.説法録。その二】
【初夏の集いでの説法】  
初夏の集い
昨晩の雨露を含んだ青葉の繁る森を眺めながら、皆それぞれに前の集いを思い返しながら前の集いからの気付きや疑問やその間に出現した問題を振り返っていた。中には人伝てに今回初めて来た者や友人に連れられて今回初めて来た者も多く、不思議な縁に導かれて今回初めて訪れた者達も前回に増して訪れ路傍の如来の説法を聞き逃すまいと前回の集いより更に多くの人達が集まっていたが、それぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と蝉の声しか聞こえなかった。
 太陽が天中を過ぎたころ、路傍の如来は、鈴(りん)を三度打たれた。
高く鋭い音が空気を引き締め空間を貫き、木の実を集めていたリスが警戒を解き虚空に目を凝らすように、心の汚穢が脱落してゆくような透き通った余韻の中で路傍の如来は徐に隣合う空地に向かい歩を進められ、人々はそれぞれ静かに合掌して路傍の如来を迎えられた。
路傍の如来よ。
どうか、お教しえください。私達はどのように修養すればいいのでしょうか? どうすれば世界の変化を在りのままに見る事ができるのでしょうか?
路傍の如来よ、この凡俗で怠惰な私にお教え下さい
路傍の如来は頷きを向け仰った
よろしい。修養の仕方を教えよう。
先ず日々できる限り悪を避け、欲望や怒りを鎮めなさい。
修養法には二種あり。ひとつが集中であり止観とも禅那(ジャーナ)とも呼ぶ瞑想法であり、もうひとつが釈迦尊(ブッダ)が発見された透察(透視.洞察)であり観行(ヴィパッサナー)とも呼ばれる瞑想法である。
この二つの瞑想法を説明する前に、先ず皆にこの禅定.観照.内観とも称される瞑想に付いて多くの人が持っている誤解を解いておかねばならないだろう。
多くの人は禅定や瞑想と聞くと、日常生活からの逃避だとか.社会から離れた山中や瞑想道場など特別に仕立てられた場所で酷く窮屈な状態で行なうものだと誤解し縁遠いものだと思い込んだり、  何か神秘状態とか憑依状態に没頭する事だと勘違いしていて、現にそういった非日常への逃避願望や神秘体験や憑依体験を欲して瞑想する人も多く、誤解された結果として瞑想は堕落してゆき陳腐なの儀式を伴って人々をトランス状態へと誘い込む染脳手段としたり、妄想的パラノイア集団による集団催眠とか正しい瞑想とは真逆な[第三の眼][浮遊術][超能力][霊能力]などの得体の知れない能力の獲得といった精神的倒錯した欲望の罠に利用されたりしているが、正しい釈迦尊(ブッダ)の瞑想とは心の修養.心の啓発.心の発達.心の浄化を目的としている。
そして忘れてはならないのが、集中による高度な瞑想であっても、高度な瞑想によって得られる三昧といった苦しみの片鱗さえない快楽や純粋な精神的次元でさえも単なる現象に過ぎず、心によって生起し、心によって生み出された条件付けられたものであり、条件(縁起)によって生じているものは、条件(縁起)によって消滅する性質のものに過ぎず、無常でドゥッカ(苦)で移ろうものであり、それらは実存.真理.大悟.涅槃(ニルバーナ)とは無関係なものでもあり、精神的な修養の一階梯に過ぎない事を自覚しなければならず故に「悟ったと山を下りてただの豚」とも言われる実証を伴わない能書き.戯れ言.綺麗事.観念論(プラパンチャ)に自惚れてしまいがちなのである。
真の仏教の瞑想とは旧来から有った心を集中させ統一させてゆく瞑想と、釈迦尊(ブッダ)が発見され実践を以って至高なる真理(ニルヴァーナ)への到達をもたらした勧行(ヴィッパッサナー)を双修してゆくものであり「今という瞬間への集中と在るがままに観る透察」によって到達する境地を説いているのであり、釈迦尊(ブッダ)は色々なヨーガや瞑想の達人の下で修業なされ.それぞれの奥儀にも達せられたが満たされず、それらにだけによっては完全なる解放を得る事も究極実存の真理を得る事も出来ないと自らの実践により覚られ、真の到達と真の完成と真の透察を自らと天地自然の法則を灯明として実践修養し発見されたのが勧行(ヴィパッサナー)との双極の瞑想なのである。
仏教には三法印という真理があり、無常.無我.苦(ドゥッカ)によってこの世界(現象世界)は成り立っている事を観察し分析し思惟し検証し確証を得て理解する事であるが、無我に向かうにも集中に向かうにも気付く為にも心を穏やかにしておく必要がある
完璧を求めてはいけない。完璧を求めても得られるものではなく却って緊張と不安を生じさせてしまうだけ、心が平らかに安らげないようでは逆効果だ。
欲望や怒りや焦りは、貴方達を荒々しく揺さぶる。心が静かな水面のようでなければ、世界の変化を正しく映すことができないが、荒れた波が静まり漣となり揺れ動き不安定であっても心の水面に世界を映す。そうやって段々と心の水面は鏡面の如く全てを映し込んでゆけるようになる。
激しい感情にのまれそうになったら、一歩離れて眺めて今の感情という現象に気付きなさい。すっかり鎮められなくても、やがて感情は力を失い萎んでいくだろう。
止観と勧行による集中.無常.無我.気付き.透察(透視.洞察)という修養は双修して行くものである。
別に特別な場所で座禅を組まなければならないものではなく、どこであっても、椅子に座っていても、立っていても、横臥していても、何か作業をしていても、安定した姿勢を正して肩の力を抜いて、呼吸や体の部位に心を集中して五感官(眼耳鼻舌身)の刺激や感覚に気を取られないよう心をよく見張り、呼吸を調え心の集中を高めてゆき、身体の状態.感覚の状態.感情の状態.五蘊作用の状態を自覚して集中と透察(透視.洞察)を高めてゆく事が修養であり、自分という意識が脱落してゆくと自分と世界の境はなくなり.その状態自体、現象自体が世界と一体化してゆく経験をし.自分と世界が丸々ひとつになる。自分もなく、意識もなく、意識の対象もない。それがどのようなものだったか、後から思い返す事は難しく.言葉で表現できない。言葉が生まれる前の経験をしてゆく。この経験を繰り返すことによって、貴方達は、磨かれ、殻がとれ、柔軟になり、世界にむけて大きく開かれる準備ができる。
黒カバンを脇に置いた若い男が、合掌し、足を組んで申し上げた。
およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます。柔らかいものを敷いて、足は結跏に組み、もしそれがつらければ半跏でもいい。両膝が地面につくように尻には一段高く敷き物を敷きます。左手の親指を右手で包むように両手を組み、力まず自然に胸を張り、顎を引いて、そのまま体を前後、左右に揺らし、尻から頭の先までまっすぐ上に伸びたところで止めます。舌は上顎につけ、視線は一、二メートル先に見るでもなく落とし、鼻先に意識を集めて、腹の底からゆっくりと息を吐き、すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます。この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます。
人々も、倣って足を組み直した。
それを見て路傍の如来は薄笑いを浮かべて仰った。
宣しい、宣しい。大変よろしい。
高度な集中による禅定(ジャーナ).三昧によって得られる[神秘体験][集中力][愉悦感][精神的安定]は素晴らしいものである同時に先程も言ったようにそれらは条件(縁起)により生じたものであり、条件(縁起)により消え去る性質のものである事を忘れてはいけない、真の苦(ドゥッカ)の滅尽と堅固な平安.安定.歓喜.静逸.悦楽.幸せとは違う無常に含まれるものである事を忘れてはいけないよ。
さあ先ず禅定(ジャーナ)を体現し更に踏み込んで観行(ヴィパッサナー)により涅槃(ニルバーナ)を目指しなさい。
そのようにして、十分でも二十分ずつでもいい、時間を見つけて何度でも集中し物事を在るがままに観る修養を続けなさい。雑念や妄想に陥らないように心を欲見はりなさい。ゆっくりと呼吸を数えたり身体の部位に集中してその現象や変化に気付いてゆけば自ずと心の揺らぎはおさまり、すっかり鎮まり澄んだ心の湖面に無常や無我やドゥッカ(苦)の正体は映し出されて湖底に光が射すように、世界が貴方達の心の底まで届き、貴方達を透り抜けていく。その時、貴方達にはなんの自意識もなく、ただ心的エネルギーがこんこんと湧き出す泉になっている。はじめは長く続かないかもしれない。焦ることはない。時間を見つけて少しずつでも修養してゆくうちに、だんだん長く、簡単に禅定に入り勧行(ヴィパッサナー)により真理が顕現し叡智が得られるようになるその時に自我を滅して無我へ至る事を忘れてはいけない。
内観して身体.感覚.感情.意識の変化.生滅に気付いてゆく事と又、外観してたとえば茶碗でもいい、貴方達が慣れ親しんでいるものを、目を凝らしてじっと見つめなさい。かすかな汚れ、縁の歪み、釉薬のむら。ひび。細部をあくまで詳細に見つめ続けなさい。貴方達の手でもいい。手の甲の網の目のような皺が、あるところでは荒くあるところでは細かくなっている様子、細い毛が網の交わりからはえる様子、爪の生え際の皮膚との境目。
人々は、自分の手を見た。大きく分厚い手、細く白い手、日に焼けて皺の彫り込まれた手、さまざまな手があった。
細部を見つめる貴方達の目は、慣れ親しんだ「もの」に被せられた厚い皮をはがす。見つめるうちに、あなたたちは驚くだろう。貴方達の見たことのない異様な姿が、突然現われる。もはやそれをなんと呼んでいいか分からない。茶碗が茶碗でなくなる。自分の手が、手ではなくなる。決まった使い道も、名前もない。これがむきだしの「もの」の姿だ。現象の一つの形としての、ありのままの姿だ。表情のない見知らぬ顔だ。貴方達は恐ろしくなるだろう。だが、ひるまず繰り返し見つめ続けなければならない。
すぐに貴方達は知る。貴方達のそれまでの見方が、どれほど自分勝手だったか。茶碗と呼び、手と呼ぶことが、なにをもたらしてきたか。自分勝手に名前をつけ、自分勝手に用途を決め、「もの」が自分のためにいつもあると思っていた。わたしの茶碗、わたしの手。こうして執着が始まったと。
しばらく苦しい日々が続くだろう。人間の作ったあらゆる物、そして、貴方達自身の体が、貴方達を拒絶し、世界のどこに逃げても、むきだしの「もの」が貴方達を追いたてる。貴方達は、世界の中で居場所を失う。それまでの生活の身勝手さに気づいたために、身勝手だが安楽な生活から追われる。
習慣的なあり方を超えて、前とは違う仕方で世界と和解しなくてはならない。そのための修養が、全体性を破壊したり分断.分別したりせず唯、眺める練習である。難かしくはない。空でも山でもいい、街でもいい、危険のない所で、意志を働かせずに唯、眺め何処かに焦点(フォーカス)を合わせようとせず全体性を眺めるのだ、そしてそのまま目は開けて、ゆっくりと呼吸を感じながら歩いてみなさい。何ものにも焦点(フォーカス)を合わせず、いくぶん目線よりやや高い中空に視線を浮かべて。
あらゆる方向から沸き上がってくるさまざまな音が、貴方達を捉えるだろう。聞こえていたのに聞いていなかった音だ。あなた方はそれを人が小枝を踏む音だとか、車ののクラクションの音、鳥の鳴き声、水の音、木々を抜ける風の音として音も音としての全体性を分断.分別して捉えようとするが音は音であり、さまざまな音が混ざりあい溶け合った音の何れかを貴方方が分断.分別して意味付けしてしてしまうが耳と言う感覚器官が捉えているのは一つの溶け合った音が貴方達を包んでいる。街の匂い、煙の匂い、木々の匂い、さまざまな匂いにも気づくだろう。
焦点(フォーカス)を合わさずに見て聴いて嗅ぐ世界は輪郭線を失った全体性の世界なのだ。ひとつひとつの「もの」が、もはや形のある独立した存在ではなく、形のない色と光の踊りになる。ある部分は明るく.ある部分は暗い。ある部分は流れ.ある部分はざわめき.ある部分は動かない。この修養は世界を全体として在るがままに感じるための第一歩でもある 。
七つです。
元気よく少年がお答えした。
本を手にした学生がお答えした。
いいえ。そうではありません。あたりまえのことを説く如来よ。
虹は、赤から紫まで少しずつ色を変え、その間に区切りはなく、色を数えることはできません。
宣しい、宜しい、そのとおりだ。
しかし、わたしは、七つという答えも欲しかった。
路傍の如来は、少年にむけて手を伸ばされた。間違いに顔を赤くした少年は、額に如来の大きな手を感じた。
そのとおり、実際の虹の色は、段階なく変化し、数えることはできない。色鮮やかなときもあれば、ぼんやりしたときもある。しかし、貴方達は、虹と聞けば七色で美しいと思う。虹は七色で美しいと教えられて育ったからだ。五色と教えられた人は五色と思い、八色と教えられれば、八色に見る。貴方達は、このように教えられ、このように学んできた。あなたたちは、言葉によってあらかじめ決められた仕方で世界を分類し整理する方法を学び、そのようにして世界を見ている。無限に変化している一回限りの現象が、言葉によって退屈な「いつも」にされる。言葉にまとわりついた好悪、善悪、美醜といった価値のレッテルが、多様な現象をひとからげに処理する。言葉が「もの」の用途を決める。そのようして分類され整理され価値づけられた世界は、防腐剤処理された剥製のように、艶を失いひからびて、もはや走ることも、歌うことも、飛ぶこともない。これが永遠の世界だ。あなたたちは、生きて変化する世界から目をそむけ、言葉というピンで留められた永遠というひからびた世界ばかりを見てきた。 
見つめることを学び、「もの」の無我を見た貴方達は、言葉が世界のありのままの姿を歪め、自分たちのものの見方を支配していることを発見し、ひとつ深くなる。しかし、言葉の力を過大評価しすぎても、間違った解釈に陥る。言葉を操る心や意識にだけ注目するという過ちだ。
経典と呼ばれていても、すべてが釈迦尊(ブッダ)の教えに添うものでないことは、既に話した。これもそのひとつだ。つまり、世界は夢幻に過ぎず、ただ心だけがあり、言葉によって心が世界を創り出しているという考えだ。日常的なあり方の虚構性を知った貴方達は、このように説く経典や論書に魅せられるかもしれない。しかし、このような考えは、世界を内と外に分けて外界を否定し、心のしくみばかりを分析する。心が世界を妄想するといいながら、本当に妄想されているのは、いたずらに複雑化された心のしくみの方だ。
確かに世界は、存在としては存在しない。しかし、現象としては現象している。けして単なる夢幻ではない。もし、あなたたちの誰かが、世界は妄想にすぎないと思うなら、針で自分を突いてみればいい。幻の針で幻の体を突いたのなら、その痛みも幻にすぎないはずだ。
心や意識を分析するよりも、ありのままに世界を見なさい。内に目をむけるより、外に自分を開く方がずっと大切だ。
貴方達は、世界の中でなんら特別な存在ではない。貴方達も、岩や、虫や、雲や、風や、星と同じように、世界の中に世界と共に生まれた現象なのだ。あらゆる現象と対等に互いに縁起しあう現象だ。この認識が、貴方達に大いなる喜びをもたらす。 
さあ貴方達は双極の瞑想を学び、意志を働かさずに在るがままを見つめる事を学び、集中して眺め.分析して.思惟し.吟味し.検証し.洞察し.透視し理解する事も学んだ。これらの修養に磨きをかけるために、時々でかまわない、立っている時でも.座っている時でも.椅子に腰かけて居る時でも.合間があったら瞑想を愉しみなさい。特別な場所や環境や時間や作法や決まり事を拵えて行う必要など本当は何処にもないのだよ、それらは頑迷で暗愚で無思考な者達の拘りに他ならないのだから。ただ姿勢を調え心を集中させ統一へ向かう禅那(ジャーナ)と透察へ向かう勧行(ヴィパサーナ)の両極の瞑想により真理(真実.実相)に気付いて行きなさい。人里はなれた山に入っての瞑想は山の霊気により高い境地へ達するだろうと考えるのは精神的錯誤であり妄想であり邪見であり無明であり愚かなのだよ。かつて多くの聖者と呼ばれる人達が人里を離れ山に入ったのは、言うなれば現実逃避であり今の言葉でいえばスタンドプレーでしかなくまったく意味のない事なのだよ。
貴方達も、特別な場所や環境や時間や作法や決まり事を拵えて行う必要などなく、立っていようが座っていようが椅子に腰かけていようが姿勢を調え心を鎮めて集中してゆくだけなのだよ。
ここでの目的は、本質的なエネルギー(梵)によるこの現象世界を全体として感じることだ。ただ大きいだけではない。重要なことは、貴方達自身を含んだ関連の全体として世界を経験することだ。外から対象化した世界ではなく、貴方達
自身が世界のすべてとともに歌い踊り、互いに縁起しあって世界となる、そのような世界だ。世界とともにあなたたちを生みだし、貴方達を動かす本質的なエネルギー(梵)を感じて欲しい。世界を縁起の世界として外からみることは、まだたやすい。しかし、自分もその一部だと知ることは、ずっと難しい。
路傍の如来は、空を仰がれた。太陽は、すでに西の山脈にかかっていた。
わたしは多くを語った。ここからは貴方達は、自分で考えなければならない。そして、座る練習と見つめる練習、さらに見ない練習も積まなければならない。そしてある日、何かが貴方達に起こるだろう。
今日は此処までにしよう。次の機会には是非あなた方の変化や気付きを聞かせて欲しい。
焦らずに楽しみながら励みなさい。
路傍の如来は胸の前で低頭合掌なされおもむろに去っていかれた。



























路傍の如来の説法.その三 秋口の集いでの説法

自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て.
【路傍の如来.説法録 その三】
【秋口の集いでの説法】
そんな人々も、しっとりと露を含んだ青葉の繁る上野公園を背景にした不忍口までやって来ると、秋口の日差しを背に受けて光背を背負うが如く立って居られる路傍の如来を目にとめると、皆、目を輝かせて路傍の如来へ歩み寄り、施与を施し合掌低頭して路傍の如来の周りを右回りに回ると、隣り合う空地へと移動して敷物に腰をおろして路傍の如来が行を終えられるのを静かに待っていた。
初夏の集まりよりも更に多くの人が集まっていたがそれぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と虫の声しか聞こえなかった。
太陽が一番高いところを過ぎたころ、路傍の如来は、今日の良き日を祝福なされるように鈴(りん)を打たれた、その高く鋭い音が空気を貫く透きとおった長い余韻の中で人々は染み入るような鈴の音色を静かに聴きながらそれぞれに合掌して路傍の如来が来られるのを待った。
路傍の如来は今日集まった人々を見渡すと微笑みを浮かべながら胸の前で合掌して仰った。
皆、健やかそうで頂上である。
皆の心もだいぶ鎮まり安定して来ている様子が感じ取れ、真に頂上に思う。
教えをよく理解して正しい修養を積まれているようだ。
心の集中.統一の瞑想(禅那)と物事を在るがままに観る瞑想(観行)の双修によって得られる真理の理解による平らかな心の静逸と安定感が増して来ているのが感じ取れる。
全ての物事の外面に騙されてはいけない
集中の瞑想と.
在るがままに観る瞑想の双修により何か新しい真実に気付き.何か新しい発見を得て.何か新しい事が
起こった人もいるようだ
人々はその現代風の髪型をした若い女性に注目した
路傍の如来よ。最初に告白せねばなりません。
一昨年、私が東京にきた時、私は世の中のあらゆる人々を憎み蔑んでいました。中学の頃からずっとそうでした。人々がしている何もかもがつまらない物事、下らない物事、どうでもいい物事に熱中しているように思えて仕方なかったからなのです。かと言って自分が立派なことをしているからではありません。それどころか自分が何ひとつ有意義なことをしていないからこそ、その苛立ちを周囲の人に向けていたのだと思います。
毎日毎日いらいらと落ち着きなく、何も有意義だと思えるものも持てず、何処かしら明確な方向に向かっても進んでもいかない毎日...空しく同じような問いや妄想ばかりをゴチャゴチャとしながら「何をすればいいのか?何をすべきなのか?真に価値ある目的とは何なのか?」
何もかも教えて頂いた通りのことが起きました。束の間の時間でも双修の瞑想を繰り返すうちに、ほんの暫くに過ぎませんが自分が空っぽになる時があり、何度も何度も集中力を高めていると、それが少しずつ深く長く集中出来るようになって、今では集中している間、自分という意識とともに今、何処、何、どうして、という捉われが無くなり気付かないうちにただ時間が過ぎているようになりました。集中が解けてしばらくの間は、心がしんと落ち着いて、静かないい気持ちを味わえます。見るもの聞くもの、何もかも心に染み入って、見慣れた町の景色も、音も、人々の暮らしも、自分が旅人になってはじめて訪れた土地のように顕貴(ときめき)のある新鮮なものに感じました。
そしてある日、在るがままに詳細に眺める修養を試してみました。すると一時間もしないうちに、仰っていたことが起こりました。いつも使っている手帳が、突然得体の知れない、不気味なものに感じられ、いいえ、ものというより映像というか物体といったほうが相応しい存在観なのかもしれません。いま俯瞰していると気付きながら.客観していると気付きながら.集中して眺めてゆくと皮表紙の油の染み、すりきれた縁の縫い取り、折り癖がついて浮き上がったページの重なり。なにもかも細かなところまでくっきりと見えその変化と過程が察せられ、何処かしらあやふやで胡散臭い認識では、これはわたしの手帳だと分かるのに、気持ちは一体どういう存在なのかと訝っている掴もうとしてもそこに実体のない三次元の幻影のようでもあり手を出すのが怖く躊躇してしまう何処か遠くの別世界のものを見ているようで、手に持っていても触感と映像が結びつかないのです。
それ以来、目を凝らしてみると何もかもがそのように見え感じるようになりました。それまで慣れ親しんでいたはずのものばかりなのに、まるで私という存在が目だけであり体がなくなったかのようで、遠くから秘密の鏡でこっそり知らない世界を覗いているような、不安で気味の悪い感覚です。何一変わらないのに全てがすっかりすりかえらてしまったようでおかしいのです。町並みの建物も、見えている表面だけで、その向こうの質量が感じられず、馴染みのお客さんの話を聞いていても、皺やほくろに気を取られてしまい、いったんそうなると、声が遠くなり、意味のないただの音になってしまいました。目や口や鼻がばらばらなものとなり、顔が無機物を眺めているようになるのです。無理に話を合わせていても、違うだろう、ごまかすな、おまえは嘘をついている、芝居をしていると、別の自分が私を責めるのです。つらい毎日でした。

でも、不思議なことに、大空や山や木といった自然は、見つめても大空であり山であり木であり続け姿を変えません。どっしりと在るがままにそこにあったのです。泰然とそびえる大木を仰いでいると、自分の小ささが情けなく思われ、同時にまた勇気づけられるような気もしました。ともかく山に行けば追い立てられずにすみました。それで自然に山へ行き、集中する修練に加えて、在るがままに見る修練もするようになりました。谷を登る風に、寄せる波のようにゆれる草の斜面で、自分も風に吹かれているのは、自分の中にたまった悪いものが吹き飛ばされていくようで、追いつめられた私にとって救いでした。
やがて私は、路傍の如来の仰っていたことの意味が少しずつ分かるようになりました。たとえば、どのように言えばいいでしょう、大空には沸き立つように雲が彩りを加え、山には実に沢山の草が茂っています。しかし詳細に眺めていると雲はただ雲と言い切ってしまう事など出来ない形を千変しながら雄々しく流れてゆき、草にしてもただ[]と言い切ってしまう事など出来ない実に多様な植物達で満ち溢れていて丸い葉、長い葉、切れ込みの入った葉、大きな葉、小さな葉、艶のある厚い葉、毛の生えた柔らかな葉。色も違えば、葉脈の走り方もさまざまで、どうしてこんなにたくさんの種類が同じ所にあるのか、見つめれば見つめるほど不思議さは募り、その時、路傍の如来の「一源のエネルギー梵は変化と多様性を喜ぶ」という言葉を思い出しました。草木も虫も鳥も大地も、助け合い、利用しあい、せめぎあって、一つの世界をつくっていました。これが縁起の世界だろうかと思いました。

ひと月ほど前でした。いつものように尾根に登って、集中する練習、内の世界.外の世界を在るがままに見る練習の後、谷の向こうの潅木の斜面で裏返された葉が白い波紋のように広がり、風が通っているのが分かりました。足元の草がさわさわと震えていました。虫の声が低く重なりあい、そこかしこの草むらでとぎれとぎれに鳥が鳴き、その声がかすかに木霊していました。青々した匂いに、朽ちた木の匂いが混じっていました。光が溢れ、常緑樹の固い深緑の葉も、一年草の柔らかな黄緑も、それぞれの仕方で光を反射し透かしていました。山肌を雲の影が形を変えながら同じ速さで滑り、あらゆる木が、草が、生き物が、日の光と風を楽しんでいました。
うまく説明できません。こうして言葉にすると全体性としてなりたっている世界が分断さればらばらになってしまいます。その時は、これらの事や、そのほか言葉にできないすべてのことが、ひとつのかたまりになって、大きな繭のようにしっかりとわたしを包み込みました。そして、ふいにそれが小さく縮んで、ぎゅっと締めつけられたように感じた瞬間、逆にはじけとび、大きな大きな喜びが込み上げて、体中に溢れ、溢れだし、沸き上がり、谷も山も空も満たしました。あるいは世界に溢れていた喜びが、私の中にどっと流れ込んできたのかもしれません。その瞬間、まったく新しい私が、まったく新しい世界とともに生み出されたのです。雲や木や風や鳥や虫たちといっしょに今ここに生まれた、世界のすべてとつながっている、世界と一体化しているひとつなのだという喜び。大きな力が、今、世界といっしょに私を生み出したという喜び。無数のものを吹き上げて沸き上がる大いなる一源のエネルギーの力。この途方もない膨大なエネルギーが一瞬一瞬世界となってほとばしり、世界とともに私が生み出されている。
言葉とは何てまどろっこしいものなのでしょう。
今、言った全ての事がひとつの意識されない大きな感情となって、私は言い様のない幸せに満たされました。
八月の末の休日でした。その日も朝から山に入り、いつもの尾根にしばらくいた後、帰る途中でした。沢筋まで降りて、池のほとりにさしかかった時、道の先に動くものがありました。近づいてみると小さなトカゲです。ひび割れた黄色い土の上で炎天の日にさらされ、砂粒をまとって捩じれていました。思わず足を止めて見つめていました。半分干上がって細くなった体に何匹も蟻をたからせたまま偶に僅かに動くだけでほとんど動かないもう死にかけているトカゲで死んでしまったのかと思っていると、突然激しくもがき、またすぐ動かなくなるのです。長い間隔をおいてそれが何度も繰り返されました。ちりちりと煎るような太陽の下、蟻の群れに責められながら、このトカゲの死はゆっくりと時間をかけて近づいていました。
それまでも私は、何度も死に接しています。自分でもたくさんの虫や魚を殺しました。友人や家族の死にも巡り会いました。でも、これまでは、何度死に接しても、いつものありふれた毎日が変わることなく続いてきました。息を引き取る瞬間に立ち会った祖母の時も、口も目もすぐに閉じられ、化粧まで施され、儀式で整えられた死になってしまい焼き場で骨を拾う時ですら、祖母の死を実感できませんでした。そんな自分は棚に上げて家族や親戚が妙に生き生きと食事や車の段取りをつけるのをさめた目で観察していました。死でさえもありふれた日常の中に塗り込めてしまうほどいつも当たり前が、わたしを深く支配していたのです。
路傍の如来のお教えに従い、修養を続け、ようやく在るがままに見ることを学んだ後で、刻々と進む死を赤裸々に見るのは、これが初めての経験でした。
苦しくなって、わたしは目を上げました。すると、いつのまにそれほど時がたっていたのか、太陽が池の向こうにまわり、さざ波に日が照って、たくさんの小魚がひとつところで跳ねるように、水面にぴちぴちとミルク色の光が踊っていました。蝉がかなかなと鳴き、鳶が谷の上の高いところに弧を描いていました。やがて東の山際から、空は薄墨を流したように光を失っていき、西をふりむけば、捩じれた紐のようなあずき色の雲が茜の空を上下に分けて、その縁は金色に輝いていました、杉の木立は、夜にむけてもう眠る準備をしているように静かで、明星が、捩じれた雲の上のみどりがかった空にまたたき始めました。
世界は実に美しかったのです。干上がったトカゲの死をそこに残したまま。
私は考えざるを得ませんでした、一源のエネルギーが醸し出す現象の世界はこんなに美しいけれど、このトカゲの死も含んでいる、トカゲだけではなく今この瞬間、沸き上がる一源のエネルギーの変化生滅する世界の中で、大河の砂の数を大河の砂の数だけ掛け合わせたほどの有情な生命が、苦しみながら死んでいく。変化する世界の喜びは、滅び逝く無数の有情な生命の苦しみともひとつだったのです。わたしは、改めて闇に呑み込まれようとする山の景色を眺めました。
有情な生命たちのこの苦しみに対して、私は何もできません。もがきながら死んでいくトカゲにも、見つめることしかできなかったように。生まれ、生きて、死んでいく、喜びと悲しみ。一切の有情の生命のこの喜びと悲しみを思い私は涙を流していました
私は、この苦しみを受け入れる強さを持ちたいと思います。
すでに釈迦尊は、生老病死の四苦を説かれています。これらの苦は、私たちが縁起の現象である以上、避けられないものです。一源のエネルギーの不安定から安定化への多様な喜びと苦しみが一体化した現象.運動と同様、現象としての私たちの存在の本質に根差しているからに他ならず、言うなれば苦楽一如.生死一如の苦.死という一極なのですね。それでもあえてこれを避けようとすれば、それはもはや我執であり妄想であり、却って別の濁ったドゥッカ(苦)までもたらし、さらには変化生滅する世界の喜びをも見えなくします。
私達の苦には、二種類あると思います。避けられない苦、大いなる因果律(縁起)に遵った喜び(スカ)とドゥッカ(苦)と、私たち自身が我執や妄想によって造り出す無用の苦しみ、因果律(縁起)に遵った現象としての喜びさえをも見えなくする苦が・・・
路傍の如来よ。どうして彼らは、苦しまなくてもいい苦しみを造り出すのでしょうか? どうして自分を縛り、お互いに重しを結び合うのでしょうか? 我々は縁起の現象であり、いつか縁によって解消される現象であるのに、なぜ変化生滅の力による喜びを見ることもなく、いらぬ苦しみを造り出し、互いに苦しめあわなければならないのでしょうか?
路傍の如来よ。
私は、彼らに濁った苦しみを創り出すことを止めさせたい、我執の自縛から、溢れ出す変化生滅の力による喜びへ解き放ってやりたい。
ーーー
路傍の如来は微かに微笑みながら仰った
貴方は透察により透き通った悲しみを知った。大きな慈悲の心を現わした。貴方は世界を在るがままに観てとれる観自在な菩薩(ボディサットバー)となられた。
もっと言うならば死があるから生に価値が見い出せ、死のない生など苦痛そのものに他ならないだろう。
空腹という苦があるから食事をし.楽を得る、やがてその縁も消化吸収され苦に変化し排泄し楽を得るという循環であり、苦しいから眠り.楽を得て、やがてその縁も飽きが生じ苦に変化し苦しいから起きだして、座っているのも苦しくなると立ち上がり、やがてその縁も苦に変化して又座る…生きるとは苦により欲を生じさせ楽を求めて彷徨い何かしら楽を得てもやがては縁により苦に変化し苦しいから何かしら楽を求めて彷徨う、生きるとは苦により成り立ち、苦楽の間を彷徨っているだけ、苦は楽の種であり.楽は苦の種である、苦楽は一如なものなのだよ。
因果律(縁起)に遵った変化生滅の力によって生まれた無我なる現象も同様なのだから。では、有情な生命とはなにか? ドゥッカ(不安定.不完全.苦しみ.悩み.迷い.悔み.痛み.哀しみ.儚く.弱く.脆く.空しく.惨め.実質のなさ.怒り.怨み.妬み.不満.無明.欲.執着)とスカ(安心.安定.安楽.歓び)の両極を移ろうものたちだ。それこそが有情なる生命なのだ。解脱し解放されれば叡智は顕現し究極のスカが見出せるだろう又、無明の闇に包まれ不毛な観念や見解に捉われた者は少しの喜びや快さと多くのドゥッカ(苦脳.心痛.不満)の中を生きるだろう。解脱の前と後でなにが違うのか? 解脱とは自由への解放であり捨て去り離れる事であり俗世の人々が幸せや喜びの為にせっせと苦の種を拾い集めながら暮らしているのだが、解脱とは捉われる物事、縛られる物事から解放され執着から解放される事なのだよ。己の仏性を鵜呑みにして信じて仏であると自惚れる心は鬼である、自分の中に鬼も住む事を識り仏の心を開放し鬼の心を牢獄に縛り付ける事が浄化であることに気付く事こそ解脱への道であるのだ。
しかし、今はまず自分の修養に打ち込むことだ。貴方達の修養は、貴方達自身の為であると同時に、一切衆生のためでもある。単に貴方達も何時か解脱し涅槃(ニルバーナ)に到達して衆生を救うべきだからという理由だけではない。貴方達の自分に捉われず今という一瞬一瞬に集中しての励む姿、真摯なあり方が、人々に何かを感じさせ知るともなく語らずとも人々を導いてゆく、そして単なる知識や情報としてではなく実体験による生きた言葉により人々を正しい方向へと導く事が出来る。そのようにして自我意識に縛られた自分を離れようと発心する人が増えてくる。貴方達の日々の生活こそが、もっとも雄弁な説法なのだよ。
自我への執着、物事への執着から解放された貴方達は思いそして感じるだろう。変化する世界の素晴らしさ、世界の全てとともに現象している歓び、途方もなく膨大な一源のエネルギーの力により存在している全ての物質、全ての空間、全ての次元への感嘆。そして自らドゥッカ(苦)を造り出していた自我への執着の愚かさに気付く。私は何を苦しんでいたのか、悩んでいたのか。悲しむ必要もなかった。苦しむ必要もなかった。気付いてみれば容易い事だがしかし気付く事は難しいものである。物事を安易に鵜呑みにし信じる者や無思考に従おうとする者は気付く事が出来ない。心にドゥッカ(苦悩.心痛.不満)を積み重ねてゆくもの、無明に苦しみ.悩み.迷い.哀しみ.恨み.悔いていても何も変えてゆくことは出来ない。無暗に無抵抗に信じ込み当たり前だと諦めない者だけが気付く事ができるのだ。
私達は因果律に遵った縁起により、大宇宙をも動かしている途方もなく膨大な一源のエネルギー梵の力で、一方的に変えられるばかりではない。私たちにも一源のエネルギーにより形造られている。
私達も因果律(縁起)によって世界を変えている。今のほんの些細なことが、未来に大きな結果となって現れる。蟻巣の奥の砂を一粒動かすことがきっかけとなって、大河の流れも変わるのだ。未来は無限に多様な可能性を持つ。どれほど不可能に見えることでも、実現の可能性はある。貴方達、縁を得てこの教えに触れ得たことを大切にして欲しい。きわめて希なことなのだから。自分を無力だと考えてはいけない。たとえば、貴方達の誰かがこの教えをたった一人の友人に伝えたとしても、その友人がまた友人に伝え、そのうちに教えに触れる人が増え、その中から真理を説法するのに長けた偉大な如来が現れ、多くの人を救うかもしれない。貴方達自身がその如来かもしれない。貴方達の発心によって救われる衆生がおり、貴方達の発心がなければ救われない衆生がいることを忘れてはならない
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路傍の如来よ。
貴方は、実に真理に長けたお方です。
かつて貴方は、慈悲は外に求めるものではなく、内に沸き上がるものだと教えて下さいました。今やっとその意味が分かりました。
告白します。これまで私は、貴方の説かれる事を独覚的で仏教ではないのではないかとさえ疑ってもおりました。しかしやっとそれが間違いであった事に気付く事ができました。
この至高な教えを聞けるという得難い縁に恵まれたことに感謝します。私自身は年老いて老い先短い身で解脱できるかどうか分かりませんが、残された日々を人々のために更に励むことを誓います。
道標にしがみついていても目的地は近づかない貴方達は自分自身の修養で自ら正しい道を見出して歩まねばならない。やがては釈迦尊(ブッダ)の真意をも理解し、自分が正しい道を歩んできたことを知るだろう。如来の教え仏教はそれが意図した処まで人を運べば、川を渡り終えた筏のように無用なものとなる。どうか貴方達は修養に励み、わたしの言葉の真意をつかみ、わたしの言葉をも捨てて更に先へ自分の実践体験の中に見い出していって欲しい。
もう一度お願いしよう。大切なのは毎日の修養であり気付いた時には是非修養に努めて欲しい。節度を守って心を騒がせないように。煩悩を制御する事が心地よくなるまで修養して欲しい。それは心の集中力を高めて行く練習と、内界と外界とを在るがままに観る練習である。経典を選び正しい経典や正しいアビダルマ(論蔵)を読み、私の言葉を思い出し、自分で考えなさい。瞑想だけでも、また考察だけでも、十分ではない。両方が補いあって、貴方達は自分自身の力で新しい智慧を見つける。真理に裏打ちされた堅固で力強い智慧
善男そして善女よ。
この縁を大切にして更に修養に励んで欲しい。
貴方達が助けを必要とする時、必ず良い果報は訪れる。ゆっくりとでも諦める事なく正しく歩み続けていれば、目指す処へは確実に近づく。だから苦しくとも歩み続けて欲しい。善因は善果を生じ悪因は悪果を生じ.自業は自得であり.自因果は応報である。貴方達自身と、貴方達が縁となって救われるであろう多くの衆生のために。
路傍の如来は合掌して低頭すると手を胸の前に組みかえ軽々とした足取りで立ち去っていかれた。
人々は立ち上がり路傍の如来のその後ろ姿に合掌しながら、至高な教えに触れることのできた縁に感謝していた。
路傍の如来の御姿が木々の間に遠ざかり、やがて影の中に見えなくなると人々はそれぞれの生活の場所で修養に励むべく帰っていった。















路傍の如来の説法.その四・顕貴(ときめき)

自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て.

【初冬の集いでの説法】

僅かに吹く風にも冷たさが感じられる初冬の上野不忍口前にいつものように路傍の如来は立って居られた。
上野の森の絨毯を引き詰めたような紅葉の彩を際立たせているお天道様が天中へ昇る少し前頃、路傍の如来の説法に欠かさずいつも参加している口数少なく発言も凡そしない若い学生が同じ年齢ぐらいであろう学生風の若者達五人を伴って訪れ低頭合掌してから施与を済ますと路傍の如来に語り掛けた。
路傍の如来よ、今日、如来の辻立ちの邪魔となりご迷惑だろうとも思いましたが路傍の如来がお帰りになる前に是非とも私達の悩みと疑問を聞いて頂きたいと皆で相談して今日参りました。
宜しい、宜しい、疑問を持つ事は大変良い事である
当たり前な事と慰めたり、仕方ないと諦めたり、偏り間違った知識や情報を鵜呑みにして居ては先には進めないばかりか歪んだ見解や色のついた主観で物事を判断するようになったり、無思考に盲目的に時間を浪費してしまい悔いと不満を造り出してゆく。
さあ学生達よ、君達のドゥッカ、悩み.苦しみ.迷い.空しさを話してごらん。
学生達は顔を見合わせ予め示し合わせたようにいつも集いに参加している学生が口を開いた。
路傍の如来よ、私達はときめきのない毎日と先の見えない毎日の中で不安と恐怖と空しさに包まれています。
前の集いで路傍の如来は[何故生きるか]ではなく[如何に生きるか]を問えと仰りました。それを友人達に話したら皆んなも全くその通りだと合点してどう生きるようかと物事を前向きに捉えるように変わる事が出来ました。
しかし世の中を見廻し知識や情報を集めどう生きたら幸せに生きられるだろうかと考えた時、皆どうしても金や財産や地位や世間体やら持ち物などだと考えてしまうのですが、路傍の如来は以前それら所有の次元の事物は手段(付随物)でしかなく決して目的物ではなく無明ゆえにそれらを目的物と錯覚して執着してしまうのだと仰りましたが.実は皆んなそこに迷っています。
そして時めきのない毎日は明らかに物足りなく.苦しみであり.悩みであり.空しいものです。どうしたら納得のいく真に満ち足りた生き方を見つける事が出来るのでしょうか? お教え下さい。
路傍の如来は緩やかに深く息を吸い込まれてから徐ろにお応えになられた。
貴方達がときめきが失われてゆく事を嘆くのは当然である、煩悩の欲望に従って物欲を追う事の空しさ儚さを嘆くのも当然である。
寧ろ嘆くべき事を嘆かず、気を紛らわせようと煩悩に翻弄されて所有の次元の事物に魅入られ盲目的に生きる無明な者は憐れである。
これらは[存在と所有]との関係性、[大楽と小楽]との関係性および涅槃(ニルヴァーナ)への到達にも欠かせない重要な顕貴(ときめき)を含むものであり多少長い説法となるだろう。
もし貴方達がそれでも聴きたいと望むのであれば今日のこの日を真に三宝のご加護のある[初冬の集いし説法]としよう。
釈迦尊(仏)が説かれた真の仏法(法)を正しく理解した僧(菩薩.如来)による説法や集い(僧)に三宝のご加護.福徳は現われるのだから。
若い学生は即座に応えた。
「有難い教えを拝聴できるのは無上の喜びであり、皆んな長くとも構いません。」
他の学生達も目を輝かせ相槌を打った。
路傍の如来は頷き、先ず[所有と存在]を語られ次に[小楽と大楽]を語られた。
参照 
所有と存在
苦楽一如(大楽と小楽) 
路傍の如来は少し間をおいてから語られた。
諸行は滅の性質の性質のものである。[所有の次元の事物]の本質的な価値と[存在の次元]の本質的な価値が真に理解できたならば当然に所有の次元の事物によってもたらされる小楽(喜び.快感)が如何に短命で.儚く.空しい便宜的なものなのかが理解でき、存在の次元による大楽という歓喜や悦楽が堅固なものなのか理解できるだろう。
悦楽の修養の中に大いなる涅槃は顕現する。
人は喜びや快楽を求めて生きている。
それは短命な現象に過ぎない内分泌物質による喜びや快楽を求めて病まない薬物中毒の患者と左程変わらないとも言え、喜びを求めてそれが得られると満たされ一時的な満足感を得て、やがて消え去るとまたぞろ喜びや快感を血眼になって探し回っている。
それら所有の次元の事物によりもたらされる喜びや快感とは、実はドゥッカ(苦.不満.心痛・・)が[]という姿を以て化けて現れているに過ぎない事に気付けないからに他ならず盲目的な無明なまま手探りで暗夜行路(暗闇)を歩いているようなものなのだよ。
単なる現象に過ぎない感覚を放っておく事が出来ずに翻弄されていては真理(真実.実相)を見る事など不可能であり、感覚器官で捉えられるもの全ては、世界(全体性)を分断し.切り出して捉えた断片に過ぎず、世界でも真実でも実相でもないのだ。つまりは真理(真実.実相とは感覚器官では捉え難いものなのであり
感覚的.感情的.主観的.自我的に真実だと捉え理解しているつもりになっているだけの捏造.錯覚.無明の中を盲目的に生きているのだ。
だから主観.感情.感覚.記憶.自我という五蘊作用に依存して生きる者は苦や不満から逃れられないのだよ。これを五蘊盛苦とも言う。
これら主観.感情.感覚.記憶.自我を離れた客観的知性(理性)による智慧により涅槃の理(この世界の真理.実相)の自覚を現わし(顕現)、叡智によりニルヴァーナ(涅槃)へ至る。
その涅槃(ニルバーナ)の核心でもある顕貴(ときめき)について語ろう。それは多くの人が魅入られている[所有の次元の事物]により得られる喜びや幸せや満足や時めきなどは短命なものであり却ってドゥッカ(苦.悩み痛み.迷い・・・)を造り出している事が理解できれば所有の次元の事物が決して目的ではなく手段(付随物)としての存在である事も理解でき、執着から離れる事ができるだろう。
幼い時代は何もかもが新しく鮮やかで胸躍り時めく事が出来た筈なのにいつの間にか自我の芽生えと前後して毎日が別段変わり映えもしないように見えだし同じような毎日を惰性的に生きているようにも感じられ、そんな毎日から逃れようと益々と盲目的に[所有の次元の事物]にのめり込み魅入られ捨て去り離れる事が出来なくなる。
恋愛や青い鳥や見てくれや見栄なども含めて所有の次元の事物による時めきは実に短命なもので体験や発見などによる時めきは一度きりの瞬間的なものでしかなく、その胸躍るような高揚感や多幸感はやがて飽きや倦怠感へと変化してゆく性質のものでもある。
そんな所有の次元の事物の[時めき]とは明らかに異なる別次元の高い幸福感である存在の次元における堅固で安定的な顕貴(ときめき)があるのだよ。
この世界は変化生滅の現象世界であり、この世界に於いて二つの連続する瞬間を通じて同一であり続けるものなど何一つなく、全ては因果律(縁起)に遵って一瞬ごとに生じ.一瞬ごとに変化し.一瞬ごとに消え、その一つの消滅が次の生起を条件つけながら流転している。この変化生滅する世界の今という瞬間と一瞬先に訪れる新たなる未来を叡智に基づいて観自在に見る事ができれば、常に新しい身体で、新しい心で、新しい世界を在るがままに見て感じ味わう事ができる現象世界の変化生滅という新しき出会いの、堅固なる顕貴(ときめき)による高度な多幸感.高揚感.平安.歓喜.静逸.安心.大楽が顕現するのだよ。そして世の中では本当は到達してもいない人達があれこれと宣うが、此れこそが真の涅槃(ニルバーナ)であり実存的なものなのだよ。
変化生滅して移ろい現象してゆくこの世界に於ける[無為なる実存]とは天地自然の法則と一瞬間の存在性だけなのだから、その法則と存在の中に顕貴(ときめき)は実存するのだ。
釈迦尊(ブッダ)が仰ったように「悦楽の中で智慧の涅槃(ニルヴァーナ)へと至る」
人は今という瞬間に集中し留まる事が苦手で
先へ先へと次の瞬間へ向かって何かしら求め続けずには居られない。
つまりはそんな衝動に突き動かされ今という瞬間に顕貴(ときめき)奥深く味わう事が出来ない
そんな人達はいつもゴチャゴチャと、どうでもいい物事.詰まらない物事.下らない物事に何気なく捉われ妄想(ヴィカルパ)したりしていながらも、難解で煩雑だと心象する物事は避けようとする。それが例え.一見どうでもいい物事であったとしてもよく眺め.分析し.思惟し.吟味し.検証し.現れていない真理(真実)を理解すれば自ずと智慧は顕現する。
今という瞬間々々を真理(真実.現実)に基づいて真に味わい深く顕貴(ときめき)かせる為には意志と信念が必要であり、自らが前向きに克己し啓発し努力し智慧により目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され.観自在な心で叡智を顕現させて行かなけれはならないのだよ。
学生たちよ、君達も是非に[所有の次元の事物]の真の価値と[存在の次元]の真の価値を理解して小楽に魅入られ惑わされる事なく、大楽を得て満ち足りて豊かな心で生きてもらいたい、金財などに魅入られ有益にもちいる事が出来ず盲目的に集めようと欲得に執着する不毛で心の貧しく.卑しく不浄な者となるなかれ、肩書や地位や称号などこの世での一時の位に過ぎないものに執着し徳を失い.礼を失い.存在的価値を汚すような者となるなかれ、自分の愚かな面には目を背け、他人の眼や世間体ばかりに気を取られ、妄想に陥り、承認欲に取りつかれ、自分を真摯に見る事も出来ずに自惚れ自我意識に従って自己中心的.自分勝手な者とはなるなかれ。
彼らが良いとか悪いとかは言わない、ただ一つ確かな事は彼らは必ず小さな喜びと大きなドゥッカ(苦.不満.悩み.心痛.不安.悔・・・・)の中を生きることとなるのだから。
路傍の如来は一息つかれると「さあ多少長くなってしまったが今日はこれで終わろう、質問も多々あろうが自身でよく思い返し.よく考え.よく吟味して.よく検証して理解できない処について質問してほしい。その時にはもっと深い処まで説いても理解できるだろう。…既に教えた集中(ジャーナ)と透察(ヴィパサーナ)との双極の瞑想の中に偉大なる叡智は啓く、しかし前にも話したように忘れずに注意し自覚していてほしい。条件(縁起)により生起するものは.条件(縁起)により消滅する性質のものでありドゥッカ(苦.迷い)に含まれるものであり、高度な瞑想によって得られる普通の意味での苦しみの片鱗もなく高度に統一された精神的次元も.心地よさ或いは不快といった感覚を超越し純粋に鎮静した意識の次元も大悟.解脱.涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係なひとつの神秘体験.思議できない感覚.現象に過ぎずドゥッカ(苦.迷い)に含まれる、これら全ては心によって生起し.心によって生み出される縁起によって条件付けられたものであり、真理.実存.涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係なものである事を忘れてはいけないよ。しかし高度な双極の瞑想の中に叡智ともいうべき大悟.解脱.涅槃(ニルヴァーナ)への道しるべは顕現するだから呉々もそれらの神秘体験.不思議な感覚.不思議な現象を追い求め.取り込まれ.惑わされて精神的倒錯に陥り叡智を取り逃してはいけないよ…
今日、集いし君達に至高なる真理が現われんことを! 三宝にご加護あれ! と路傍の如来は学生達を祝福されると仰、金剛鈴を三度打ち鳴らされた後、胸の前で低頭合掌され立ち去っていかれた。学生達も路傍の如来のその後ろ姿に向かい、路傍の如来の御姿が見えなくなるまで低頭合掌していた。
諸行無常なこの世界 人間いつも初体験
顕貴くような感動.歓び.興奮.愉悦な出合い」
●ドゥッカの定義
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.迷い.哀しさ.悔い.怖さ.心痛.恨み.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.実質のなさ.惨めさ.不満.無明さ.欲など

勝利への道

いくら平和を掲げ.友愛を謳い.平等を標榜し.利他を説き.安心安全を願い祈ろうが、生きるとは戦いであり社会とは戦場である現実.事実の前ではそれに向かって戦って居ないならば単なる綺麗事を並べ立てているだけの脳天気な自己満足に過ぎず、また知識や情報を誇り権威を積み上げ多くを語ろうとそれに向かって戦って居ないならば単なる能書きか戯れ言(プラパンチャ)を並べ立てている自我意識の自惚れに過ぎない、戦後生まれの私にとって先の対戦の災禍は記録でのみ知る身であり確かに今の平和な日本を実感もするが、その戦争は形態を変えながら今なお続き人々は戦い争い他者を傷つけ奪い抹殺しながらも平和という仮面を被りながら社会を戦場として戦い争い続けて居る。
●今の戦争とは所有の次元の事物の争奪戦
所有の次元の事物とは、
金.財(動産.不動産.権利).地位.名誉.称号など一時の位.権力.勢力.承認.支持(主義.主張.観念.見解).安心安全.健康.長寿・・・・
所有の次元の事物とは手段としての付随物に過ぎず決して目的物ではないのだが、手に入れた瞬間に煩悩が感じる直ぐに色褪せ失せてしまう快感に魅入られて煩悩が要求する決して満たされる事のない欲望に翻弄され、幸福だと思える欲望が叶い手に入れても直ぐに別の不幸.不満.不平が生まれるだけであり煩悩に主導されて居るかぎり四苦八苦から免れる事が出来ない。
(煩悩の要求に従って所有の次元の事物がドゥッカな本質のものである事に気付かずに魅入られ翻弄され空虚な幻の如き喜び.幸せ(小楽)を追い続ける事となる)
苦楽は、外界からもたらされたものの多寡には関係なく、自身の心の満足度.如何である。
心が貧しい者は欲深く満たされる事なし。
心が豊かな者は例え得られるものが少なかろうと.足るを知る。
●形を変えた戦争
経済戦争.情報戦争.心理戦争.受験戦争.就職戦争.受注戦争.出世戦争.権利戦争・勢力戦争・・・
煩悩に塗れ欲望に満ちた社会にあって決して満たされる事のない煩悩の炎は燃え盛り、それら煩悩や欲望を一時的にでも満たす事が幸せだと錯覚して.もっと新しい車.もっと大きな家.もっと高い地位.もっと多くの金財.もっと大きな勢力権力を得ようと競い争い戦いながら、欲望を満たす事が幸せだと錯覚しながら煩悩と自我の尽きる事のない欲望の炎は却って不満を生じ燃え盛り燎原の焔となり我が身と社会とを焼き尽す。
誰かの利得は誰かの損失であり、奪う人が居れば奪われる人が居る道理は軽んじられ富める者は更に富み.貧しい者は更に貧しくなる社会を生じさせ.報われない不満と.苛まれる苦しみと.格差への怨みと.やり場のない怒りが社会を更にドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦悩.心痛.悔み.迷い.哀しみ.儚さ.弱さ.脆さ.空虚.無常さ.無明.欲望)へと向かわせる事に気付き省みる事もなく戦い争い傷付けあう。
孫子の兵法
この戦いによって成り立つ社会に於いて孫子の兵法と釈迦尊(ブッダ)の教えとは一見.違う土俵.違う次元.違う領域のものに見えるが実は同じ方向を指し示し同じ目的へと向かわせるものである。
孫子の兵法の概略
(下策)百戦百勝を目指す 勝ちに拘る 猪突猛進・力攻め
☆激しい味方の損害や消耗を伴う
(中策)彼を知り己を知れば百戦殆うからず
☆敵の作戦.行動.習性が解り自分の状況や能力を正しく判断出来れば殆うい戦いは無くなる
☆負けるが勝ち
目先の勝利や成果に拘り勝ちを急ぎ大局を見誤るような愚を避け深慮遠謀を以って深く現況を推し量り先を見通す。例えれば今戦は負けといて兵力.戦力を温存し要となる決戦の為に温存する智慧
(上策)戦わずして勝つ
♤上の下 己の威力.勢力.能力.戦闘力などを見せつけて敵の戦意を挫く
♡上の上 生きる事は戦いであり、その目的は勝利であり、勝利の目的とは歓び.満足.安全.安心.幸福(スカ)を得る事であり、敗北とは苦しみ.悩み.痛み.悔い.迷い.哀しみ.不満.儚さ.弱さ.脆さ.虚無さ.惨めさ.実質のなさ.不安定さ.不完全さ.無明.欲情である(ドゥッカ)を得る事である。 
所有の為の下策.中策.上の下の戦いには必ず痛みや犠牲が伴い英雄は累々たる屍(しかばね)の上に築かれ更には夢幻の如く儚いものでしかなく勝者も敗者もドゥッカから逃れる事が出来ない。
仏道とは上の上たる勝利を獲得する道である
ここで留意すべきは人は煩悩(存在欲)を生存の素因として煩悩の欲望により生かされているのであり、意欲もまた欲であり煩悩を滅却したり煩悩の炎を消すという事は生きる意欲を失う事を意味する、必要なのは煩悩を消す事ではなく煩悩の欲求や執着の暴走.膨張を抑制(コントロール)する事であり、煩悩が制御コントロールされて欲望(渇望)が減るに連れて生きる自由度は増し、物事を冷静に観自在に見れるようになり現実世界と私(仮体)との差異は無くなり、自我も消えてゆく。
釈迦尊(ブッダ)は仰った。
「戦場に於いて百万の敵に打ち勝つよりも己一人に打ち勝つ者こそ、実に最上の勝者である。」「何故なら彼は煩悩の軍団(悪魔の軍団)に打ち勝ち堅固なる歓びと平安と静逸と幸せを得ているのだから。」
「正見する人の目は世間の人達の目とは正反対なものであり、人々が安楽(スカ)であると称し信じて疑わないものを諸々の聖人(如来)は苦悩(ドゥッカ)であると言う。多くの人が苦悩(ドゥッカ)であると称し信じて疑わないものを諸々の聖人(如来)は安楽(スカ)であると知る。この解き難き真理(真実.現実.事実)を観よ、無明(無知)なる者は此処に迷っているのである。」
「凡夫は欲望と貪りとに執着するが目ある者はそれらを捨てて道を歩み、この世の地獄を超えよ」
●人生とは儚いもので、例え人身を極め.英雄と称され.天下人となった人でさえもが人生夢の如し(人生如夢)、重い荷を背負いて坂道を昇る如し、ただ風の前の塵の如しと嘆く辞世の句を遺して逝ったように煩悩の自我欲望に翻弄されて所有の次元の事物を必死に追い求め、それがゆめまぼろしの如き儚いものであった事に気付いた時に慄然として悔い嘆くような勝利は真の勝利ではなく、無明(本質的な無知)なまま煩悩の欲望に誑かされた酔生夢死でしかなく目覚め(覚醒し)乗り越え(超越し)解き放たれ(解放され)、叡智により此の世界と彼の世界との真理(真実.現実.事実.摂理.ダンマ)を顕現させ煩悩への執着による欲望(渇望)を抑制コントロールし自我の妄想を振り払い到達した実相と生きる自由度による堅固な安定.静逸.歓喜.幸せ.満足の中で命を奥深く味わいながら人様の役に立つ存在として生き、笑って死んでゆく人生こそ真の勝利なのではないだろうか。そしてこの真の勝利はこの現象世界に於ける生命エネルギーの輪廻(継続の激流)からの解脱乃至善き母の腹に宿る縁をも意味し絶対安定世界(仏界.天上界.虚空.彼岸)への成仏する真の勝利への道と言えるのではないだろうか。
●生きるとは戦いであり、最良の味方も最悪な敵もその一身の内にあり、頼るべき味方は意欲と智慧であり、伏すべき敵は無明と自我である。
⚫宝 経
  • ○ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む者たちも、一切の精霊は、心喜ぶがよい。そして、我が語るところを謹しんで聞くがよい。
  • ○それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ。人間に慈しみを垂れるがよい。昼夜に供物を持ち来る人々を、怠ることなく護るがよい。
  • ○此の世、あるいは来世における如何なる富も、また天上にある如何なる妙宝も、我らの如来に等しきものあらず。此は仏陀が勝宝たる由縁なり。此の真実により幸いがあらんことを。
  • 釈迦牟尼が到達されし禅定は、煩悩の滅尽、離貪、不死の境地で優れたるものなり。その法(禅定)に等しきものあらず。此は法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○最勝たる仏陀が、清浄なりと賛嘆せし禅定は「無間」と呼ばれる。彼の禅定に等しきものは存せず。此は法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○仙人たちが賞讃せし者は、彼の八輩即ち四双の者たちなり。彼ら善逝(ブッダ)の弟子たちは布施.供養を受くに値す。彼らに施されしものには大果あり。此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により幸いがあらんことを。
  • ○堅く決意し、ゴータマ(ブッダ)の教えに基づきよく励み、欲から離れている彼らは達すべき境地に達して、不死なる境地を体得し、その涅槃を余すところなく享受せり。此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○[城の]主柱が地に立ちてあるならば、四方の風に揺らぐことはない。四聖諦を如実に観ぜし仙人[預流果の者]は、是の如く喩えらるると我は言う。此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○深き智慧により正しく説かれたる。四聖諦を実践する者たちはたとい後に大いに放逸になろうとも、八回目の転生を引き寄せること有らず。此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • 知見[四聖諦の明知]の成就と共に、以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られる。有身見、疑、あらゆる戒禁取なり。また四悪趣に陥ることを離脱し、六重罪を為すことは能わず。此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○身、口、意にて悪を犯すことになりても、彼はそれを隠蔽すること能わず。知見に達した者は隠蔽すること能わずと言わるるなり。此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○夏の最初の月(春)叢林の枝先に花咲き満てるが如く、その如く最高の利益となる涅槃に導く尊き教法を説き給いし。此は仏陀が勝宝たる由縁なり此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○至善にして至善を知り、至善を与え至善へ導く無上士は、最上の至善たる教法を説き給いし。 此は仏陀が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○「古き[業]は尽き、新しき[業]は生ぜず」。再び生まるることに未練はない。種子[業]が尽きた。貪欲を根絶やしにした。彼の賢者たちは、灯明の如く寂滅す。 此は僧伽(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
  • ○(以下は精霊たちの仏陀に対する応答の言葉である)ここに集いし諸々の精霊は、地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。仏陀に礼拝奉る。幸いがあらんことを。
  • ○ここに集いし諸々の精霊は、地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。法(ダンマ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。
  • ○ここに集いし諸々の精霊は、地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。僧伽(サンガ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。
  • 祈願文
    この真理の言葉の力によって 皆さんのドゥッカ(苦)がなくなりますように。
    • ⚫勝利の経
    • ○歩く、立つ、座る、横たわる、伸ばす、縮む。身体の動きはこれだけです。
    • ○(この身体は)骨と腱で組み立て、肉と皮膚で舗装されている。
    • 皮膚に隠れているので在りの儘には観れない。
    • ○身体は腸に充ち、胃に充ち、また肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓があります。
    • ○(この身体には)鼻汁・唾液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。
    • ○またその九つの孔からは、常に不浄物が流れ出る。目からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁が出る。口からはあるときは(食べたものを)吐く。
    • またあるときは胆汁を、あるときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
    • ○またその頭蓋骨の空室は脳髄に充ちている
    • しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
    • ○また身体が死んで横たわるとき、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられる。
    • 親族もこれを顧みない。
    • ○犬や野や狐こや狼や虫類がこれを喰らい、烏や鷲やその他の生き物がこれを啄ばむ。
    • ブッダの言葉を聞いて、智慧ある修行者は、この身体のことを完全に了解する。
    • 在るがままにのみ観る。
    • ○〈かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、自分の身体に対する欲をも、他人の身体に対する欲をも、離れるべきである。
    • ○愛欲を離れた智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニッバーナ(涅槃)という最高の境地に達した。
    • ○不浄で、悪臭を放つ、この身体を人間が守っている。
    • 種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。
    • ○このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、彼れは〈観る能力が無い〉という以外の何だろう。
    • ⚫自分の身体に余りにも愛着すると修行が後退する事となる。
    • 身体を気にし過ぎる事は愛着(執着)である。
    • 執着を捨て去る為の実践を成就させるには[在りのままの身体を観察する]ことが重要です。
    • 釈迦尊(ブッダ)の時代には修行者たちがこの文言を日夜唱えて「身体の事が気になって修行に励めない」という心のわだかまりを解いて解脱.解放を目指した勝利を得る為の経典である

    勝利の経 Vijaya suttaṃ 







この真理の言葉の力によって 皆さんの恐怖がなくなります