路傍の如来の説法.その一.晩冬の集いでの説法

自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て

【路傍の如来.説法録.その一】
晩冬の集いでの説法

開経偈
南無 
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
滅する事なく生ずる事もなく、断絶も常在もなく、一つの事でも異なった事でもなく来る事も去る事もない因果律(縁起)、本質的には真実を表現できない不毛で虚妄なる言語(プラパンチャ)というものによっては、かくの如く決して表現され得ない深淵なる因果律(縁起)と三つの真理(三法印)と四つの道(四聖諦)と慈悲と叡智に依って説き教えられた釈迦尊(ブッダ)、最も勝れた説法者に礼拝致します。
一切の生きとし、生けるものたちは、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
晩冬の説法
如是我聞
晩冬の頃、大きな上野の森やアメ横へと向かう人々が往来する上野駅前の辻に立ち続けられる自らを路傍石と号される如来は、立禅のまま深く禅定(ディャーナ)に入って居られた
未だ寒風は法衣を波打たせ、木々の新芽が芽生える日も間近となった人々もまばらな昼前であった。
ある者は如来の存在を人伝てに聞き、或は夢に現れ、また不思議な縁に導かれて各地から上野の不忍へと各々の想いを胸に路傍の如来の説法を拝聴しようと人々は集まって来た。
駅前に着くと、辻に立たれる路傍の如来に向かい目を輝かせて近づき、低頭合掌して施与し説法を乞うと如来が指し示られた隣り合う空地へと一礼をして右回りに移動し腰を下ろした。時が経つにつれてその数は増え、南中を過ぎる頃には空地はすっかり人で埋め尽くされていた。晩冬の日差しは未だ弱かったが、乾いた風が梢を揺らし誰も不快だとは感じなかった。
その日集まった人々の中には、色々な問題で苦悩する人々、不満に苛まれる人々、不運を嘆く人々とともに、善行に努め励み人の悩みを聞いてその苦しみを減じることに長じた人、経典の知識が豊富な人、自分の幸福より他人の幸せを優先する事に努めて来た人、貧しい人々に多くの援助を惜しまず施してきた人なども居たが、この日集まった人々は皆よき人々であり、悪習に染まらず悪行に馴染まないよう心を汚すことを注意深く避けてきたが、ドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.迷い.悔い.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.不満.無常さ.無明.渇き)から抜け出す事が出来ず不安と満たされない想いを拭い去る事が出来ずに真の幸せへ向けて更なる一歩が踏み出す事が出来ずにいた。
晩冬の木漏れ日の中で、人々は静かに待っていた。
かたわらでは、鳩たちが羽ばたきながら餌を啄ばみ風に導かれて、枝の下を透かせば、緑もえたつ谷が広がり、そのむこうの森の傾斜が緩むあたりを、銀色の電車がゆっくりと横切り、さらにかなたの鉄塔の上には、乾きかけた刷毛でなでたような雲が、青空高く広がっていた。
やがて鳩たちの羽音が近づき、如来の肩先にそれがとまると、路傍の如来は合掌し、ゆっくりと半眼から視線を上げて人々を見渡し、静かに人々のもとへと移動され徐に語りはじめられた。
善男そして善女よ。
私の話す事は俗世の潮流に逆らい人間の利己主義的な欲望に逆らうものであり.世の中の多くの人々が当たり前だと思い込み錯覚しながら無明な闇の中を欲望に煽られ盲目的に生きる人々を目覚めさせ、乗り越えさせ、解き放つ覚醒.超越.解放.自由を説くものである。私が体現したこの真理(真実)は見難く.理解し難く.物事を在るがままに正しく前向きに捉えようと努力しない者には把握され得ないものである。世の潮流に逆らい高遠で深く微妙で難解なこの真理(真実)は欲情に打ち負かされ闇に包まれた者達には見難く理解され難いものでもあるが、新しいものは何もなく、何もかも貴方達の誰もが本当は解かっている事ばかりだ。しかし貴方達はそれを忘れている。自分への執着(我執)や物事への執着によって強固な夢幻.妄想による頑迷を造りだし、その夢幻.妄想への執着により更に自我を強め真理(真実)を歪め盲目的(ブラインドアイ)に彷徨っている。
夢幻とは妄迷であり妄想であり錯覚であり、我執とは妄想により造り出された自我への執着であり、妄迷と我執とは蘆の束のように互いに支えあって起き上がり、ますます太く強く絡みつく。真実は益々奥深く隠され見えなくなり、そして貴方達には汚れや穢れが染みつき、重く固く脆くなって暗い濁りの中に沈んでいくのだよ。
夢幻.妄迷.
妄想に惑わされていてはいけない夢幻.妄迷.妄想を捨て去り捨離し、目を見開き、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放ち解放され、見える通りに世界を見る事のできる依り高い人格を形成させてゆく事が出来る。そうすれば、いつも新鮮な光に照らしだされた自由な真実により形造られた新鮮な世界の中で、世界と共に歓び.歌うい.共に躍動することができる。その時に貴方達は、決して苦に転じることのない堅固な喜び(suka)、純粋な情感による大いなる安楽を奥深く味わえるだろう
傍らに買い物袋を置いた勤め人風の若い男が、右膝を地面につけ合掌して路傍の如来にお尋ねした。
路傍の如来よ。
私はいつも注意を怠らず目をしっかりと開けて物事を見ています。しかし私たちが見ているのとは違う別の見方があるのでしょうか? 私たちが忘れている別の見方とは何でしょうか? 決して苦に転じることのない堅固で純粋な情感の深い大いなる喜びとは何でしょうか?
路傍の如来よ。どうぞお教えください。
傍らに買い物袋を置いた若い男はその刈り上げられ調えられた後ろ髪の生え際まで晒して頭を垂れた。
路傍の如来は、おもむろに腕を伸ばし、木漏れ日に照らされた一隅を指差した。するとそこに砂塵が舞い上がり.つむじ風が起こり、瞬く間に強くなった風は、大きく梢をゆるがせて広場を一巡りした。人々は、首をすくめ、持ち物や髪を押さえたが、風は起こったときと同様に程なくおさまった
善男そして善女よ。
今、風が現われ、そして消えた。風が梢を鳴らしたが跡に音を留めては居ない。何も増えたものはなく減ったものもない。空気が動いただけであり、その量に変わりはない…
では果たして風という[もの]が存在したのであろうか?
傍らに買い物袋を置いた若い男がお答えした。
いいえ。そうではありません。風は起こっただけであり、[もの]として存在したのではありません。
宜しい、宜しい。正にその通りである。
しかし、風がまったくの夢幻だったという訳でもない。こうして枝を鳴らしその枝を折ったのだから。
路傍の如来は、傍らに落ちた小枝を拾い上げられた
貴方達も同じだ。貴方達が生まれた時も、増えたものは何もなく、貴方達が死んでも、減るものは何もない。貴方達がどの様な感覚.感情.衝動.意図.主観を生じようとも起こっているだけで、貴方という[実存的なもの]が存在しているわけではなく現象しているだけなのだ。
人々は路傍の如来の仰る意味が分からなかった。
しかし誰もなにも言わなかった。
如来は人々の疑念を察知して、再び比喩をもって説明された。
貴方達はあの公園には不忍の池という大きな池があるという。しかし池という[もの]は本当は存在しない。
溢れでる池の水は、流れさって留まることはなく実際には同じ池で泳ぐ事など出来ないものなのだよ。池という場所があり「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず」と言われるように、池といわれる場所の水も流れ去る水もありまた蒸発して空へ昇りやがて雨となって池を潤す水もある、貴方達もあの不忍の池と同様に[もの]が通り抜けていく場所であり、貴方達が生きている間、色々な要素が集まり結び付き貴方達を形造りながら通り抜けていく空間的次元のようなものであり。その間ずっと貴方達の中に留っているものは何一つないのだよ。
貴方達の体を通ったものは世界へと散っていく。あるものはある時.土となり、あるものはある時.別の動物となり、あるものはある時.草になり、あるものはある時には鳥となる。今、貴方となっているものも、かつては風で在り、土で在り、草で在り、魚で在り、虫で在り、別の人を形造っていたので在り、そのようにして今の貴方達は今のように在るのだよ。
横に買い物袋を置いた若い男が合掌して申し上げた
路傍の如来よ。
私達はただの場所ではありません。身体ばかりではありません。こうして尊い教えを聞き、考え、良い行いをすることが出来ます。
路傍の如来よ。どうか私達を善きもの。善き魂を持つものと仰って下さい。
路傍の如来は微笑みながらゆっくりと答えられた。
貴方達は[もの]ではない。貴方達は存在ではない。
風のない処で燃える蝋燭の炎を考えてみなさい。炎はじっと同じ姿でそこにあるように見える。では炎という[もの]が存在しているのだろうか?
学者風の中年の男がお答えした。
いいえ、そうではありません。蝋燭の炎は、蝋が少しずつ融けて芯をのぼり、空気と結びついて熱と光を出す酸化反応の場所です。反応を終えた蝋は次々と水蒸気と炭酸ガスに変わって散っていき、炎の中に留まるものは何もなく、まして炎という[もの]が存在するわけではありません。
人は[もの]と思う時、それを変わる事なくそれ自体で存在し何時までも存在し続ける存在と錯覚してしまうから人はものに執着するのだよ。
しかしどの様なものにも始まりが在り変化があり終わりがあり、しかも独立に自存して何時までも在り続けるものなど何もないのだよ。全ては相互に依存しあう関係性の上での出来事であり、現象として存在しているのであり、現象とは不安定で暫くは存在するがやがては消えてゆき再び他の何かに成り続ける連鎖であり移ろいであり、言い換えれば人生は移ろうのではなく、移ろいこそが人生なのだから。
善男そして善女よ。
気をつけなさい。魂.霊魂.霊体という類いの言葉に。仏の名を騙り、バラモン教を起源とするそれら魂が永遠的に輪廻転生を繰り返すと説くものに。彼らは人を救うと言いながら人に魂の穢れと浄化を説き.罪悪感を植え付け.贖罪を強い.来世の根拠のない幸せを金品ほしさに人を脅し得体の知れない神仏を持ち出し、魂の成仏と称して免罪符を売りつける。
釈迦尊(ブッダ)は無我を説かれた。間違いや誤解がおきないようにはっきりと言おう。貴方達が貴方達の本体だと考えているもの、思考の背後に居ると錯覚している思考者すなわち魂や霊魂などと言うものの存在は釈迦尊(ブッダ)によって否定されているのだ。
路傍の如来よ。
経典には真理(真実)に到達された釈迦尊(ブッダ)御自身の輪廻転生が記されています。如来となられる前の何生にもわたるの修行、善行、功徳があって釈迦尊(ブッダ)は如来になられたと・・・
宜しい。経典を読むのはよいことだ。貴方達はもっと経典を読むべきだ。自分自身で経典を読み、仏の教えとは何か、自分自身でよく考え、自分自身で吟味しなくてはならない。仏典とは釈迦尊(ブッダ)御自身が書き残すされたものではなく、直弟子や後の仏弟子達が私は釈迦尊(ブッダ)から是のようにお聞きしたと宣い記したものであり、各自.各集団の利害や都合の則して認められた釈迦尊(ブッダ)の教えに反する教説が多く含まれている事も事実である。
そんな先々を見透された釈迦尊(ブッダ)が遺されたのが「自灯明・法灯明」という無記の最上経典であると言え、自らの内にある真実を見極め、仏法を手掛かり(経糸)に、天地自然の法則(摂理)を理解する自分の知性を手掛かり(緯糸)にして織りなし顕現する叡智により妄迷を振り払い.捨て去り、真実に目覚め.覚醒し、乗り越え.超越し、解き放ち.解放されてゆかなければ本当の幸せは実現出来ないのだよ。今、実に多くの信仰を強いる輩が、仏の名を騙り人々を欺き惑わせている。自ずから経典を読み、自ずから考えて、自ら真理(真実)へと向かう[自灯明.法灯明]という.法(真理)を依り処(燈明)とし.自らに具する真理(真実)を理解する知性を依り処(燈明)とし他の一切を依り処としてはならない。法(真実.現実)に照らし.自らに具する知性に照らし、どれが釈迦尊(ブッダ)の真実の教えを説いている経典か、人を欺き惑わせる似非な経典か、そして誰が欺き惑わせているか見分ける事ができるようになる
かと言って輪廻は方便だと勘違いして軽んじてはならない。輪廻とは無知(無明)を最大の原因とし.渇望の足枷による彷徨であり、渇望が因果律(縁起・相対的相互依存関係性)に従って全てのドゥッカ(苦.心痛)と存在の継続を生じさせる。
身体機能の停止(死)によって心的.精神的エネルギーも同時に完全に停止し霧散する事なく継続する(輪廻)、それは意志.意図.存在し.継続し.増大膨張して.安定(スカ)へと向かおうとする渇望こそが、全ての命.全ての存在.全宇宙を動かしている途方もなく膨大な力なのだから。
魂や霊魂.霊体といった永続的.不変的実体などなくても生は継続してゆく事を理解しなければならない。
身体を形造ったものがやがては他の況ゆるものへと変化しながら輪廻してゆくように、心的エネルギー(生物エネルギー)も高等微生物から人類までの分解.生産.消費という生命.生物のサイクルの中を捕食の関係性に遵って輪廻してゆくのだよ
言うなればこの世界は途方もない膨大なエネルギーによる連鎖し変化し生滅しながら流動してゆく現象の世界なのだから
そして釈迦尊(ブッダ)は苦(ドゥッカ)の連鎖である輪廻を説かれたのではなく、苦(ドゥッカ)の輪廻からの解脱(解放)を説かれたのだよ。釈迦尊(ブッダ)の時代には人々は魂.霊魂の輪廻を信じていた。だから釈迦尊(ブッダ)は輪廻についても深く探求され洞察され分析され思惟され検証され、叡智により旧来から在った魂.霊魂の輪廻でもなく方便でもない正しい智慧による真実の輪廻を説かれたのだ。
釈迦尊(ブッダ)は、魂の輪廻を諸法無我として完全否定されている、実践をもって方便ではなく法則であると因果律(縁起)により説かれている、心的エネルギー界(生物エネルギー次元)の性質.運動性.負荷の輪廻からの解脱(解放)とそれに伴う堅固なるこよなき幸せに至る方法を正しい方法(八正道)により説かれている、諸行無常であり全ては常ならざる現象であり常住で実存的で実相的で永遠的な神や仏や得体の知れない怪しげな力など存在し得ない事を説かれ、因果律(縁起)と諸行無常.諸法非我を以て.一切皆苦という苦(ドゥッカ)という本質により成り立つ世界である事を説かれ、この世界において縁起.因縁により条件により生じ条件により変化し消滅してしまう苦(ドゥッカ)へと戻る性質の物事を拠り処し短命な小楽と大きな苦や不満の中を彷徨い生きる生活から脱皮し真実のみを拠り処(精神的支柱)とし、平らかな静逸.安心.安全で悦楽な歓喜に溢れる堅固なこよなき幸せへと向かう道を説かれたのだよ。
即ち他でもない、無我と縁起により得体の知れない神仏や怪しげな力への依存や永遠的.実相的な魂.霊魂への錯覚や依存により人は盲目的に妄迷に不毛に苦(ドゥッカ)から逃れようとして却って苦(ドゥッカ)を造り出しながら生きる事から目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され堅固なるこよなく幸せ(大楽)に生き、苦(ドゥッカ)の輪廻を終わらせる事こそが成仏するというのだよ。
また空の教えとは釈迦尊(ブッダ)の教えではなく釈迦尊(ブッダ)が説かれた無常を空と言い換え神格化させた観念こそが空の思想であると言え、一つのことをそれぞれ違う視点から違う言葉で説明しながら信仰対象としているのだよ。釈迦尊(ブッダ)の教えの核心は真の幸せへの道であり、四聖諦も因果律(縁起)も八正道も三法印も四向四果も輪廻も何もかも真の幸福(こよなき幸せ)への道標(アイテム)であり、これらと相容れない教えは仏教ではない。仏教だとしても、方便に過ぎないか邪見に過ぎない。
経験と顕貴(ときめき)こそが生きる味わいではあるが、保護.安全.安心への経験の記憶の他の残滓にどれ程の意味が在るというのだろうか、顕貴(ときめき)を失った過去の記憶の残滓にどれ程の魅力が在るというのだろうか。
真に価値あるものとは、今というこの瞬間に味わうの天地自然の在るがままの現象であり経験であり顕貴(ときめき)である、過去の記憶への執着やまだ到来しない未来への妄想に捉われてはいけない、それらに何程の意味や価値があろう?それら過去の記憶や未来への期待に縛られ自分自身さえも妄想しながら生きる生き方、それは今言う処のバーチャルリアリティ(仮想現実)に捉われ現実から逃避し妄想的に酔生夢死事と何ら変わらない愚かな執着に他ならない。
貴方達は本質的には苦(ドゥッカ)により生かされていて苦しいから食事し、苦しいから排泄し、苦しいから眠り、苦しいから歩き、苦しいから何かしらを探し回っている是れを生存苦というのだが、
先ずこの苦(ドゥッカ)を理解しなければならないだろう。
苦(ドゥッカ)とは単に苦しいという理解.認識ではいけない苦(ドゥッカ)とは苦しみの他に不安定さ.不完全さ.苦悩.,心痛.迷い.哀しさ.儚さ.空虚さ.恐怖.無知.弱さ.脆さ.不満.悔い.煩わしさ.負担.実質のなさ.惨めさ.無常.飽き.愚かさ.渇き.欲などが含まれる。
そして苦(ドッカ)という不安定さ恐怖から逃れ保護.安心.安全.恩恵.依り処(精神的支柱)を欲し、自己防衛の為に縋る神仏を妄想し、永遠に死なない存在として魂や霊魂を妄想し、苦(ドゥッカ)という生存苦を慰めようとしているのだよ。
本質的な存在ではない無我(アナッタ)の存在だという事を恐れ今の自分がいつまでも存在しつづけると思いたいのだ。そのために今の自分の連続性としての前世と来世や魂や霊魂の輪廻は貴方達の創った幻.妄想である。貴方達の今の自分への我執の産物なのだよ。
我々には今しかない。今の我々には、過去も未来もない。前世も来世もない。前世を思い巡らし来世を心配する暇はない。ただひたすら一刻も早く我執を離れ正しい見解を得るよう、常にこの今、一心に努力するだけだ。過去生がどうであったか、来世がどうなるか、昨日はどうだったか、明日はどうなるか。このような問いは問う意味がない。今どうありどうあるべきか、それを気にかけるべきなのだ。

善男そして善女よ。
先ほど私は、貴方達を[もの]ではなく現象だといった。では[もの]と現象はどう違うのか?
教師風の中年男性がお答えした。
人が[もの]という時、私たちは、それを変わることなくいつまでも存在し続けると考えており、現象は不安定でしばらくの間のことで、やがて終わると思っています。
宜しい、宜しい。その通りだ。
人が[もの]という時、人はそれを変わることなくそれだけで存在し続けるものと錯覚している。だから人は[もの]に執着してしまう。
しかし真実は、どのような[もの]にも、始まりがあり、変化があり、終わりがある。独立自存して、いつまでも自分自身であり続けるものなどなにひとつない。全ては条件(縁起)により生じ、条件(縁起)により変化し、条件(縁起)により終わる有為なものである。自分自身を原因として生まれるものは何ひとうなく全ては因果律(縁起)に遵った相互依存関係性の上での出来事つまりは現象に過ぎないという、この真理こそが釈迦尊(ブッダ)の説かれた無我である
路傍の如来は、小石を拾い上げられた。
この石も石と呼ばれる形で今、現象しているのであって、この石という永遠の[もの]が存在するわけではない。
[もの]という概念は、執着心が言葉によってつくりだした夢幻.妄想である。執着心が執着する対象を求めて現象を固定化して捉え、[もの]という概念を捏造する。我々が[もの]として捉えている存在は生じ変化し消えてゆく現象の持つ多くの形態の一つに過ぎない。
貴方達も例外ではない。貴方達という場所で貴方達という姿で現象している現象それが貴方達だ。自分を固定化して[もの]と錯覚していてはならない。それが自我(アートマ)であり我執なのだ。
路傍の如来よ。
あなたの仰ることは私にはあまりにも辛い事です。私達には前世も来世もない、死んでしまえばその後は何もない、そのように考えれば解脱できると仰って居られるのでしょうか?
路傍の如来は、目を細くして現代風の若い女性に微笑みかけた。
私は死のみを説くものではなく誕生も存在も変化も説くものだ。
釈迦尊(ブッダ)は、全ては無我だと言われた。何故なら、全ては縁によって他から生じたもの、縁起の現象だから。あらゆる現象
は、縁起により、他の現象により条件づけられ、生み出され、変わり、いつか終息する。貴方達だけでなく、私も、この蜂も、牛も、雲も、石も、山も、あの町並みも、この子供らも、全てが縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって世界を変え、いつか縁によって解消される。一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界を造っている。世界の一切が今あるもの全てを変え、今あるもの全てがそれぞれの仕方で世界を変え、世界の一切が今あるもの全てを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。
全ては無我であり、因果律(縁起)に遵って変化生滅する。何故なら全ては現象であるのだから。
貴方達も、世界の内にあり、世界の変化に応じて縁によって生じ、世界の変化に応じて縁によって変化し、縁によって世界を変え、世界の変化に応じて縁によって散る。貴方達という現象の場所は、世界の中の何処かで新なる集合要素を形造り、世界は貴方達という場所を引き継いでゆく。貴方達は世界と共に縁起してゆくす現象なのだよ。
会社員風の年取った男性が、合掌して申し上げた。
路傍の如来よ。
私には変化は怖ろしい。私は変化するものではなく、いつまでも変わらないものに縋りたいのです。
路傍の如来よ。
どうか、仏様や知恵の完成の教えは永遠不変の存在で、いつか必ずわたしたちを無我と縁起の変化の世界から永遠不変の世界へ救い出してくださると、仰ってください。
歳月を重ねてきた男性よ。
先程わたしは、経典を読む事を薦めた。しかし同時に一部の経典の中には、釈迦尊(ブッダ)の教えと相容れない観音思想や弥勒思想や阿弥陀仏思想や考えが忍び込み、仏説だと偽って蔓延っている。今あなたの言った永遠不変の法身仏の考えや、得体の知れない他力に救いを求める思想や、一切有情に仏の胎児が宿っているといった考えがそうだ。これらは永遠の生存を求める心や生きる苦しみから逃れたいという願望を他力によって叶えたいという無明(本質的な無知)な妄想に過ぎず、不毛な物事に対し盲目的に手探りで探し求め縋り付こうとしている事に他ならず空なるものは掴めず真の支えにはならず天地自然の理法にも因果律(縁起)にも無我という真理にも反する。これらは仏説ではない。
善男そして善女よ。
変化生滅するこの現象の世界、因果律(縁起)に遵った無我なるこの世界を変化(輪廻)しながら他の何かに成り続けるのも根源的な存在となり此の世界の無に帰し彼岸へと至るのも貴方達自身の意志と信念と努力しかなく、自らを真に救うものは自分だけなのだから。
貴方達は、大きな考え違いをしている。有りもしない自我の永遠を求めることが執着なのだ。自我に執着するから自我の永遠を妄想する。そこから苦(ドゥッカ)は増大してゆく。正しいあり方は正反対であり所有の次元の事物をはじめ汎ゆる欲望への執着を捨て去り捨離し、因果律(縁起)遵って変化生滅する現象的存在である無我な存在である事を理解し受け入れ執着から解き放たれ解放される事こそが私達の変化生滅しない堅固な喜びなのである。どうしてここから逃げ出すのか?
変化を恐れてはならない。変化は恐ろしいものではない。変化を恐れ、永遠を見つけようとするから、貴方達は変化してゆくこの世界を楽しむことができないのだよ。
世界が歌う歌、世界の躍動のリズム、世界は力(エネルギー)の振動だ。そして次元は存在の要素を吐き出し、呑み込み、結びつけ、引き離す。世界を生み出し、世界を変える。世界として凝結し、さらに自らも変化する。貴方達も、わたしも、あの山も、風も、木も、虫も、太陽も、町も、星も、すべて一源的な本質的エネルギー(梵)がそのように現象した姿だ。貴方達が見る全てのもの、そしてそれを見る貴方達も、すべて空の脈動から生まれた。貴方達も、大宇宙のリズムを打っている。大宇宙は、沸騰し、逆巻き、ねじれ、のぼりつめ、崩れ落ち、爆発する。宇宙を生み出し、無数の星となり、大きなもの、小さなものに凝結し、常に変化し壊れまた新たな現象として現れる。本質的なエネルギー(梵)は変化と多様性だけを喜ぶ。

村の教師がお尋ねした。
本質的なエネルギー(梵)がそのような力であるなら、争いも犯罪もあらゆる悪徳も、すべて本質的なエネルギー(梵)から生まれたのでしょうか? 私達の心に芽生える欲望や怒りや妬みや思い上がりも、本質的なエネルギー(梵)が生み出すのでしょうか? 本質的なエネルギー(梵)は、善なるものではないのでしょうか?
もし善でないなら、私達が日々悪行を避け善行を積もうとすることに何の意味があるのでしょうか?
・・・
そのとおりだ。すべての現象が、一源のエネルギー(梵)から生まれる。争いも犯罪もあらゆる悪徳も例外ではない。
本質的なエネルギー(梵)とは変化と多様性だけを喜ぶ。善悪や美醜などという分断された世俗の尺度で梵を計ることはできない。善悪、美醜、正邪も、正義も悪徳も変化を怖れる人間の自我という観点から見た無明な臆病さが生み出した幻影だ。
路傍の如来よ。
それでは、私達は、何を目的に生きればよいのでしょうか? すべてが本質的なエネルギー(梵)の力の現われで、善悪も正邪もなく、すべてが平等であるならば私達は、何を指針に生きればよいのでしょうか?
路傍の如来は、ゆっくりと隣町からきた娘の方へむき直られた。
目的とは行為であり、現象とは働きなのだから。
隣町からきた娘よ。
もともと無いものを探して苦しむことはもうやめなさい。いくら悩んでみたところで、ないものはない。ないものにすがろうとする気持ちが、弱さの現われであると知るべきだ。
しばしば人は自問する。わたしは何をすべきか、何になるべきか、なるべきだったかと。これもまた、我執の産物だ。自分という「存在」を世界から切り出して妄想し、そこに意味を与えようとする。しかし、元来ないところには、なにも載せられない。何?の問いは不毛だ。世界とともに躍動し変化する貴方達という現象を、できあいの言葉で手軽に価値づけられるはずがない。未来や過去の何?ではなく、今の「如何に」を問いなさい。逃げることなく、誤魔化す事なく、無我・縁起の現象として誠実に生きなさい。それだけが、あなたたちの生を尊いものにする。どこまで誠実に生きられるかを突き詰めてみなさい。その結果、聖者と呼ばれようが、罪人といわれようが、無名のまま終わろうが、それはまったく重要ではない。 
無我を知り、縁起を知り、空を知れば、目的や意味などにわずらわされることはない。
路傍の如来よ。
あなたの教えは、わたしには恐ろしい。あなたは、来世はないといわれた。おすがりできる永遠の仏様はおられないといわれた。善行は悪果をもたらすといわれた。わたしたちが解脱しようと、迷いの中をさまよおうと、本質的エネルギー(梵)は気にかけないといわれた。人生にも世界にも目的はなく、私達が罪人になってもかまわないといわれた。あなたはわたしの希望のすべてを絶やしてしまわれた。どうしてあなたの教えが喜びをもたらすのでしょう? 本質的エネルギー(梵)に慈悲はないのでしょうか?
手に数珠をかけた老婆よ。
慈悲は外に求めるものではない。内に見いだすものだ。貴方達の内から湧きあがるのだ。
貴方達の望むような慈悲は梵にはなく因果律(縁起)に遵って変化生滅してゆくだけなのだ。貴方達は、永遠を望んでいる。梵は変化を望んでいる。梵の慈悲とは、世界とともに貴方達を生みだし、世界とともに貴方達を変え、世界の中で貴方達を壊す、そのような慈悲だ。この慈悲が、貴方達に純粋で透き通った情感の混じった大いなる喜びをもたらす。
貴方達、どうしてわたしの教えを恐れるのか? どうして絶望の教えというのか? それは、あなたたちが、まだ変化を恐れ、変化を見ようとしないからだ。
世界に向けて目を開けなさい。目だけではない、心も開きなさい。風をはらむ帆のように心を解き放ち心身を貫く風と光、空の流れを感じなさい。
路傍の如来は、立ち上がり腕を広げられた
さあ、貴方達には何が見えるか? 世界で今、何が起こって何が変化しているか?
さあ、答えてくれ。
沈黙の後、教師風の男性がお答えした。
路傍の如来よ。
いつもと同じです。特になにも変わったことはありません。
善男そして善女よ。
わたしは、変化を聞きたい。あなたたちは変化を見ないから。さあ貴方達よ立ち上がり、見渡して今の変化を語ってくれ。
人々は立ち上がった。しかし、顔を見合わせるばかりで、誰も答えられない。
さあ、どうした。誰か、今なにが起こり何が変化しているか、教えてくれ。
後ろのほうから、おずおずと声が上がった
梢が風に揺れています。
路傍の如来は、手をたたいて喜ばれた。
よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
左から声が聞こえた。
虫が飛び回っています。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
娘の声がした。
上野の森の木々が揺れています。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
女性の声がした。
私達がここに集まっています。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
若者の声がした。
中東で戦争しています
宣しい、宣しい、大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
男の子が空を指差した。
飛行機雲がまっすぐ伸びていきます。
宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
年寄りの女性の声がした。
私の裏庭の梅の木の蕾がそろそろ花開きそうです。
宣しい、宣しい。大変よろしい。
今貴方達が話してくれたことは、すべて本質的エネルギー(梵)の奏でる歌であり、本質的エネルギー(梵)の舞い踊りであり、本質的エネルギー(梵)の力の脈動だ。この広い宇宙で、今この時、実に様々なことが起こっている。全ての物事は常ならず全く同じ状態に在るものは何もなく、常住するもの(神.仏.魂.超越的な力)などが存在しえない世界なのだよ。
見なさい。
路傍の如来は、天を仰がれた。すると、眉間の白毫から光が放たれ、青空を貫き、光は輪になり、輪は広がって人々を頭上からすっぽりと包んだ。いつのまにか台地は大きな蓮華となり、人々を乗せて舞い上がった。ある時は毛の先ほどに小さくなって、谷をわたる蝶に従い、羽の一打ちごとに鱗片の光沢が茜から紫へ、また茜へと映し変わる様を見た。ある時は、雪渓を吹き上がる霧の風に運ばれながら、岩稜を乗り越える風が、うなりながら新しい雲の塊を次々に湧きあがらせる様を見た。ある時は、大きな町の上方から、多くの人や車がそれぞれ勝手に忙しく動き回りながら、町全体はゆったりとしたひとつのリズムで脈動しているのを見た。ある時は、太陽にいたり、その表面にほとばしる炎が、よじれ、そりかえり、逆巻く巨大な紅蓮の虹となって飛び跳ねる中をくぐり抜けた。ある時は、漆黒と静寂の空間に佇み、燃えつきて縮んだ星が、突然輝き、すべてを放出して宇宙をまぶしく照らす様を見た。ある時は、二つの銀河が、近づき、互いの内から黒い雲を紐のようにたぐりよせあいながら、重なりあい、すれ違い、また遠ざかっていく様を眺めた。そしてその他にも、大河の砂の数ほどの様々な現象の姿を。
百千億劫の間、人々は我を忘れて見入っていた。しかし、気がついてみると、皆もとの台地に座っており、ほんのしばらくしか時は過ぎていなかった。人々は、驚嘆して口々に声を上げた。
驚くべきことです、路傍の如来よ。
私達は、今、実にさまざまなできごとを見ました。世界がどんなに多様で、どれほど激しく変化しているか、はっきりと見ました。毎日毎日同じことの繰り返しと思っていた世界が、どれほど激しく変化しているか、やっと知ることができました
宣しい、宣しい。大変よろしい。
しかし、貴方達は、大きな激しい変化にばかり心を奪われたことだろう。貴方達が変化を見ない「いつも」もまた無限の変化でできていることを、あなたたちは見なければならない。
これまで貴方達は、善行に励み、永遠ばかりを探してきた。だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない。無我を、縁起を、真理(真実.現実)を見ることがうまくない。貴方達は物事の真理(真実.事実.現実.実相)に気付いてゆかねばならない。真に安定した依り処とすべきは真実だけなのだから。
路傍の如来は、ゆったりと手を広げ人々に語り掛けられた。
今日はこれで終わろう。また貴方達に説法を施す帰その時にはその間に貴方達にどんな気付きがあったか聞かせて欲しい。
路傍の如来は、合掌して頭を垂れられた。人々も立ち上がり、合掌して低頭した。路傍の如来が手を胸の前に組みかえると、静かに歩み去っていかれた。
その姿が木々の間に見え隠れしながら遠ざかり、やがてすっかり見えなくなると、暫くのあいだ人々は路傍の如来の息吹を感じながら説法を思い返していたが、やがてそれぞれに帰っていった。