路傍の如来の説法.そのニ.初夏の集いでの説法

自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て

【路傍の如来.説法録。その二】
【初夏の集いでの説法】  
初夏の集い
昨晩の雨露を含んだ青葉の繁る森を眺めながら、皆それぞれに前の集いを思い返しながら前の集いからの気付きや疑問やその間に出現した問題を振り返っていた。中には人伝てに今回初めて来た者や友人に連れられて今回初めて来た者も多く、不思議な縁に導かれて今回初めて訪れた者達も前回に増して訪れ路傍の如来の説法を聞き逃すまいと前回の集いより更に多くの人達が集まっていたが、それぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と蝉の声しか聞こえなかった。
 太陽が天中を過ぎたころ、路傍の如来は、鈴(りん)を三度打たれた。
高く鋭い音が空気を引き締め空間を貫き、木の実を集めていたリスが警戒を解き虚空に目を凝らすように、心の汚穢が脱落してゆくような透き通った余韻の中で路傍の如来は徐に隣合う空地に向かい歩を進められ、人々はそれぞれ静かに合掌して路傍の如来を迎えられた。
路傍の如来よ。
どうか、お教しえください。私達はどのように修養すればいいのでしょうか? どうすれば世界の変化を在りのままに見る事ができるのでしょうか?
路傍の如来よ、この凡俗で怠惰な私にお教え下さい
路傍の如来は頷きを向け仰った
よろしい。修養の仕方を教えよう。
先ず日々できる限り悪を避け、欲望や怒りを鎮めなさい。
修養法には二種あり。ひとつが集中であり止観とも禅那(ジャーナ)とも呼ぶ瞑想法であり、もうひとつが釈迦尊(ブッダ)が発見された透察(透視.洞察)であり観行(ヴィパッサナー)とも呼ばれる瞑想法である。
この二つの瞑想法を説明する前に、先ず皆にこの禅定.観照.内観とも称される瞑想に付いて多くの人が持っている誤解を解いておかねばならないだろう。
多くの人は禅定や瞑想と聞くと、日常生活からの逃避だとか.社会から離れた山中や瞑想道場など特別に仕立てられた場所で酷く窮屈な状態で行なうものだと誤解し縁遠いものだと思い込んだり、  何か神秘状態とか憑依状態に没頭する事だと勘違いしていて、現にそういった非日常への逃避願望や神秘体験や憑依体験を欲して瞑想する人も多く、誤解された結果として瞑想は堕落してゆき陳腐なの儀式を伴って人々をトランス状態へと誘い込む染脳手段としたり、妄想的パラノイア集団による集団催眠とか正しい瞑想とは真逆な[第三の眼][浮遊術][超能力][霊能力]などの得体の知れない能力の獲得といった精神的倒錯した欲望の罠に利用されたりしているが、正しい釈迦尊(ブッダ)の瞑想とは心の修養.心の啓発.心の発達.心の浄化を目的としている。
そして忘れてはならないのが、集中による高度な瞑想であっても、高度な瞑想によって得られる三昧といった苦しみの片鱗さえない快楽や純粋な精神的次元でさえも単なる現象に過ぎず、心によって生起し、心によって生み出された条件付けられたものであり、条件(縁起)によって生じているものは、条件(縁起)によって消滅する性質のものに過ぎず、無常でドゥッカ(苦)で移ろうものであり、それらは実存.真理.大悟.涅槃(ニルバーナ)とは無関係なものでもあり、精神的な修養の一階梯に過ぎない事を自覚しなければならず故に「悟ったと山を下りてただの豚」とも言われる実証を伴わない能書き.戯れ言.綺麗事.観念論(プラパンチャ)に自惚れてしまいがちなのである。
真の仏教の瞑想とは旧来から有った心を集中させ統一させてゆく瞑想と、釈迦尊(ブッダ)が発見され実践を以って至高なる真理(ニルヴァーナ)への到達をもたらした勧行(ヴィッパッサナー)を双修してゆくものであり「今という瞬間への集中と在るがままに観る透察」によって到達する境地を説いているのであり、釈迦尊(ブッダ)は色々なヨーガや瞑想の達人の下で修業なされ.それぞれの奥儀にも達せられたが満たされず、それらにだけによっては完全なる解放を得る事も究極実存の真理を得る事も出来ないと自らの実践により覚られ、真の到達と真の完成と真の透察を自らと天地自然の法則を灯明として実践修養し発見されたのが勧行(ヴィパッサナー)との双極の瞑想なのである。
仏教には三法印という真理があり、無常.無我.苦(ドゥッカ)によってこの世界(現象世界)は成り立っている事を観察し分析し思惟し検証し確証を得て理解する事であるが、無我に向かうにも集中に向かうにも気付く為にも心を穏やかにしておく必要がある
完璧を求めてはいけない。完璧を求めても得られるものではなく却って緊張と不安を生じさせてしまうだけ、心が平らかに安らげないようでは逆効果だ。
欲望や怒りや焦りは、貴方達を荒々しく揺さぶる。心が静かな水面のようでなければ、世界の変化を正しく映すことができないが、荒れた波が静まり漣となり揺れ動き不安定であっても心の水面に世界を映す。そうやって段々と心の水面は鏡面の如く全てを映し込んでゆけるようになる。
激しい感情にのまれそうになったら、一歩離れて眺めて今の感情という現象に気付きなさい。すっかり鎮められなくても、やがて感情は力を失い萎んでいくだろう。
止観と勧行による集中.無常.無我.気付き.透察(透視.洞察)という修養は双修して行くものである。
別に特別な場所で座禅を組まなければならないものではなく、どこであっても、椅子に座っていても、立っていても、横臥していても、何か作業をしていても、安定した姿勢を正して肩の力を抜いて、呼吸や体の部位に心を集中して五感官(眼耳鼻舌身)の刺激や感覚に気を取られないよう心をよく見張り、呼吸を調え心の集中を高めてゆき、身体の状態.感覚の状態.感情の状態.五蘊作用の状態を自覚して集中と透察(透視.洞察)を高めてゆく事が修養であり、自分という意識が脱落してゆくと自分と世界の境はなくなり.その状態自体、現象自体が世界と一体化してゆく経験をし.自分と世界が丸々ひとつになる。自分もなく、意識もなく、意識の対象もない。それがどのようなものだったか、後から思い返す事は難しく.言葉で表現できない。言葉が生まれる前の経験をしてゆく。この経験を繰り返すことによって、貴方達は、磨かれ、殻がとれ、柔軟になり、世界にむけて大きく開かれる準備ができる。
黒カバンを脇に置いた若い男が、合掌し、足を組んで申し上げた。
およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます。柔らかいものを敷いて、足は結跏に組み、もしそれがつらければ半跏でもいい。両膝が地面につくように尻には一段高く敷き物を敷きます。左手の親指を右手で包むように両手を組み、力まず自然に胸を張り、顎を引いて、そのまま体を前後、左右に揺らし、尻から頭の先までまっすぐ上に伸びたところで止めます。舌は上顎につけ、視線は一、二メートル先に見るでもなく落とし、鼻先に意識を集めて、腹の底からゆっくりと息を吐き、すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます。この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます。
人々も、倣って足を組み直した。
それを見て路傍の如来は薄笑いを浮かべて仰った。
宣しい、宣しい。大変よろしい。
高度な集中による禅定(ジャーナ).三昧によって得られる[神秘体験][集中力][愉悦感][精神的安定]は素晴らしいものである同時に先程も言ったようにそれらは条件(縁起)により生じたものであり、条件(縁起)により消え去る性質のものである事を忘れてはいけない、真の苦(ドゥッカ)の滅尽と堅固な平安.安定.歓喜.静逸.悦楽.幸せとは違う無常に含まれるものである事を忘れてはいけないよ。
さあ先ず禅定(ジャーナ)を体現し更に踏み込んで観行(ヴィパッサナー)により涅槃(ニルバーナ)を目指しなさい。
そのようにして、十分でも二十分ずつでもいい、時間を見つけて何度でも集中し物事を在るがままに観る修養を続けなさい。雑念や妄想に陥らないように心を欲見はりなさい。ゆっくりと呼吸を数えたり身体の部位に集中してその現象や変化に気付いてゆけば自ずと心の揺らぎはおさまり、すっかり鎮まり澄んだ心の湖面に無常や無我やドゥッカ(苦)の正体は映し出されて湖底に光が射すように、世界が貴方達の心の底まで届き、貴方達を透り抜けていく。その時、貴方達にはなんの自意識もなく、ただ心的エネルギーがこんこんと湧き出す泉になっている。はじめは長く続かないかもしれない。焦ることはない。時間を見つけて少しずつでも修養してゆくうちに、だんだん長く、簡単に禅定に入り勧行(ヴィパッサナー)により真理が顕現し叡智が得られるようになるその時に自我を滅して無我へ至る事を忘れてはいけない。
内観して身体.感覚.感情.意識の変化.生滅に気付いてゆく事と又、外観してたとえば茶碗でもいい、貴方達が慣れ親しんでいるものを、目を凝らしてじっと見つめなさい。かすかな汚れ、縁の歪み、釉薬のむら。ひび。細部をあくまで詳細に見つめ続けなさい。貴方達の手でもいい。手の甲の網の目のような皺が、あるところでは荒くあるところでは細かくなっている様子、細い毛が網の交わりからはえる様子、爪の生え際の皮膚との境目。
人々は、自分の手を見た。大きく分厚い手、細く白い手、日に焼けて皺の彫り込まれた手、さまざまな手があった。
細部を見つめる貴方達の目は、慣れ親しんだ「もの」に被せられた厚い皮をはがす。見つめるうちに、あなたたちは驚くだろう。貴方達の見たことのない異様な姿が、突然現われる。もはやそれをなんと呼んでいいか分からない。茶碗が茶碗でなくなる。自分の手が、手ではなくなる。決まった使い道も、名前もない。これがむきだしの「もの」の姿だ。現象の一つの形としての、ありのままの姿だ。表情のない見知らぬ顔だ。貴方達は恐ろしくなるだろう。だが、ひるまず繰り返し見つめ続けなければならない。
すぐに貴方達は知る。貴方達のそれまでの見方が、どれほど自分勝手だったか。茶碗と呼び、手と呼ぶことが、なにをもたらしてきたか。自分勝手に名前をつけ、自分勝手に用途を決め、「もの」が自分のためにいつもあると思っていた。わたしの茶碗、わたしの手。こうして執着が始まったと。
しばらく苦しい日々が続くだろう。人間の作ったあらゆる物、そして、貴方達自身の体が、貴方達を拒絶し、世界のどこに逃げても、むきだしの「もの」が貴方達を追いたてる。貴方達は、世界の中で居場所を失う。それまでの生活の身勝手さに気づいたために、身勝手だが安楽な生活から追われる。
習慣的なあり方を超えて、前とは違う仕方で世界と和解しなくてはならない。そのための修養が、全体性を破壊したり分断.分別したりせず唯、眺める練習である。難かしくはない。空でも山でもいい、街でもいい、危険のない所で、意志を働かせずに唯、眺め何処かに焦点(フォーカス)を合わせようとせず全体性を眺めるのだ、そしてそのまま目は開けて、ゆっくりと呼吸を感じながら歩いてみなさい。何ものにも焦点(フォーカス)を合わせず、いくぶん目線よりやや高い中空に視線を浮かべて。
あらゆる方向から沸き上がってくるさまざまな音が、貴方達を捉えるだろう。聞こえていたのに聞いていなかった音だ。あなた方はそれを人が小枝を踏む音だとか、車ののクラクションの音、鳥の鳴き声、水の音、木々を抜ける風の音として音も音としての全体性を分断.分別して捉えようとするが音は音であり、さまざまな音が混ざりあい溶け合った音の何れかを貴方方が分断.分別して意味付けしてしてしまうが耳と言う感覚器官が捉えているのは一つの溶け合った音が貴方達を包んでいる。街の匂い、煙の匂い、木々の匂い、さまざまな匂いにも気づくだろう。
焦点(フォーカス)を合わさずに見て聴いて嗅ぐ世界は輪郭線を失った全体性の世界なのだ。ひとつひとつの「もの」が、もはや形のある独立した存在ではなく、形のない色と光の踊りになる。ある部分は明るく.ある部分は暗い。ある部分は流れ.ある部分はざわめき.ある部分は動かない。この修養は世界を全体として在るがままに感じるための第一歩でもある 。
七つです。
元気よく少年がお答えした。
本を手にした学生がお答えした。
いいえ。そうではありません。あたりまえのことを説く如来よ。
虹は、赤から紫まで少しずつ色を変え、その間に区切りはなく、色を数えることはできません。
宣しい、宜しい、そのとおりだ。
しかし、わたしは、七つという答えも欲しかった。
路傍の如来は、少年にむけて手を伸ばされた。間違いに顔を赤くした少年は、額に如来の大きな手を感じた。
そのとおり、実際の虹の色は、段階なく変化し、数えることはできない。色鮮やかなときもあれば、ぼんやりしたときもある。しかし、貴方達は、虹と聞けば七色で美しいと思う。虹は七色で美しいと教えられて育ったからだ。五色と教えられた人は五色と思い、八色と教えられれば、八色に見る。貴方達は、このように教えられ、このように学んできた。あなたたちは、言葉によってあらかじめ決められた仕方で世界を分類し整理する方法を学び、そのようにして世界を見ている。無限に変化している一回限りの現象が、言葉によって退屈な「いつも」にされる。言葉にまとわりついた好悪、善悪、美醜といった価値のレッテルが、多様な現象をひとからげに処理する。言葉が「もの」の用途を決める。そのようして分類され整理され価値づけられた世界は、防腐剤処理された剥製のように、艶を失いひからびて、もはや走ることも、歌うことも、飛ぶこともない。これが永遠の世界だ。あなたたちは、生きて変化する世界から目をそむけ、言葉というピンで留められた永遠というひからびた世界ばかりを見てきた。 
見つめることを学び、「もの」の無我を見た貴方達は、言葉が世界のありのままの姿を歪め、自分たちのものの見方を支配していることを発見し、ひとつ深くなる。しかし、言葉の力を過大評価しすぎても、間違った解釈に陥る。言葉を操る心や意識にだけ注目するという過ちだ。
経典と呼ばれていても、すべてが釈迦尊(ブッダ)の教えに添うものでないことは、既に話した。これもそのひとつだ。つまり、世界は夢幻に過ぎず、ただ心だけがあり、言葉によって心が世界を創り出しているという考えだ。日常的なあり方の虚構性を知った貴方達は、このように説く経典や論書に魅せられるかもしれない。しかし、このような考えは、世界を内と外に分けて外界を否定し、心のしくみばかりを分析する。心が世界を妄想するといいながら、本当に妄想されているのは、いたずらに複雑化された心のしくみの方だ。
確かに世界は、存在としては存在しない。しかし、現象としては現象している。けして単なる夢幻ではない。もし、あなたたちの誰かが、世界は妄想にすぎないと思うなら、針で自分を突いてみればいい。幻の針で幻の体を突いたのなら、その痛みも幻にすぎないはずだ。
心や意識を分析するよりも、ありのままに世界を見なさい。内に目をむけるより、外に自分を開く方がずっと大切だ。
貴方達は、世界の中でなんら特別な存在ではない。貴方達も、岩や、虫や、雲や、風や、星と同じように、世界の中に世界と共に生まれた現象なのだ。あらゆる現象と対等に互いに縁起しあう現象だ。この認識が、貴方達に大いなる喜びをもたらす。 
さあ貴方達は双極の瞑想を学び、意志を働かさずに在るがままを見つめる事を学び、集中して眺め.分析して.思惟し.吟味し.検証し.洞察し.透視し理解する事も学んだ。これらの修養に磨きをかけるために、時々でかまわない、立っている時でも.座っている時でも.椅子に腰かけて居る時でも.合間があったら瞑想を愉しみなさい。特別な場所や環境や時間や作法や決まり事を拵えて行う必要など本当は何処にもないのだよ、それらは頑迷で暗愚で無思考な者達の拘りに他ならないのだから。ただ姿勢を調え心を集中させ統一へ向かう禅那(ジャーナ)と透察へ向かう勧行(ヴィパサーナ)の両極の瞑想により真理(真実.実相)に気付いて行きなさい。人里はなれた山に入っての瞑想は山の霊気により高い境地へ達するだろうと考えるのは精神的錯誤であり妄想であり邪見であり無明であり愚かなのだよ。かつて多くの聖者と呼ばれる人達が人里を離れ山に入ったのは、言うなれば現実逃避であり今の言葉でいえばスタンドプレーでしかなくまったく意味のない事なのだよ。
貴方達も、特別な場所や環境や時間や作法や決まり事を拵えて行う必要などなく、立っていようが座っていようが椅子に腰かけていようが姿勢を調え心を鎮めて集中してゆくだけなのだよ。
ここでの目的は、本質的なエネルギー(梵)によるこの現象世界を全体として感じることだ。ただ大きいだけではない。重要なことは、貴方達自身を含んだ関連の全体として世界を経験することだ。外から対象化した世界ではなく、貴方達
自身が世界のすべてとともに歌い踊り、互いに縁起しあって世界となる、そのような世界だ。世界とともにあなたたちを生みだし、貴方達を動かす本質的なエネルギー(梵)を感じて欲しい。世界を縁起の世界として外からみることは、まだたやすい。しかし、自分もその一部だと知ることは、ずっと難しい。
路傍の如来は、空を仰がれた。太陽は、すでに西の山脈にかかっていた。
わたしは多くを語った。ここからは貴方達は、自分で考えなければならない。そして、座る練習と見つめる練習、さらに見ない練習も積まなければならない。そしてある日、何かが貴方達に起こるだろう。
今日は此処までにしよう。次の機会には是非あなた方の変化や気付きを聞かせて欲しい。
焦らずに楽しみながら励みなさい。
路傍の如来は胸の前で低頭合掌なされおもむろに去っていかれた。