十二因縁

資本主義社会.物質文明の真っ只中を生きている現代人は.好むと好まざるとに係わらず、感覚.感情.情緒.主観.自我意識につけ込む.所有の次元の事物への欲望(金欲.財欲.物欲.色欲.知識欲.情報欲.地位欲.権威欲.名誉欲.権力欲.健康欲.長寿欲.…)を煽る.偏り.如何わしく.作為的で不善な情報.媒体.知識.染脳(洗脳)に満ちて溢れた社会に晒され翻弄されながら豊かな社会の中で貧しい心を育んでいる事に気付く事も.疑う事もなく苦悩と不満を深めている…
そんな社会には自分の意見を持たぬ依存的無思考な人達が増え.多数意見には無抵抗に賛同し.少数意見には耳を塞ぐような偏った人達が主流を形成するようになったり、[自分さえ良ければいい]という身勝手な風潮が醸成され易くなり.社会の本質的要素である[弱肉強食]がその姿を現わし.無明で善良な人間の欲望に漬け込み.手管を駆使して理性的判断を狂わす自分の利得の為には何でもありの詐欺師達が跋扈するようになる…
■欲望という罠への道(十二因縁)
①[無明]世の中には人に欲望を懐かせる罠が張り巡らされている…
②[行]その事に気付かず身.句.意により、無謀に心に喜びを与えてくれる物事を探し求める
…性分
③[ 識 ]心に掛かる物事に意識は向かい捉われる…重要度
④[名色]目的意識.選択意識が発動する…
⑤[六処]六根(眼耳鼻舌身意)の刺激への欲求が生じる…
⑥[ 触 ]その刺激が心に接触する…
⑦[感受]対象との接触により苦楽.良悪.好嫌.愛憎.快不快などの想いを抱かせる…
⑧[渇愛]その想いに対して(気にいる)(気にいらない)などの判断が働く…ドゥッカの生起
⑨[ 取 ]それに対し(欲しい)という貪欲、排除したい否定(怒)が生じる…
⑩[ 有 ]その想いを心に有する…
⑪[ 生 ]その想いを有している状態…
⑫[老死]飽きたり.諦めたり心変わりして興味を失なう…
★【人は.この心理過程を繰り返している】


そうとは気付かずに耳障りのよい物事.魅惑的な物事.一攫千金の話などに迂闊に近づくと…

知らずに手管に惑わされて.欲望を刺激され.欲望の炎をたぎらせ冷静さと理性(知性)を喪失しながら染脳(洗脳)されてゆく…
■智者の満足.愚者の満足
愚かな人は日々の世俗的満足や感覚器官に与える適度な刺激を幸福だ快楽だと錯覚したり思い込んだりしている…
それは本当の美味なるご馳走に気付かず、雑草を美味しい..美味しいと食べるようなもの…彼れの満足とは、真理を実践する智者のそれとは比ぶべきもない…
命は素晴らしい…
生きていること自体、最高の快楽だ…
智者は.この当たり前のことを死に直面せずとも識っている…
ところが凡夫ときたら、幻想に過ぎない名利や所有の次元の事物の為に、大事な命を削り、命の意味を捻じ曲げている…
そしてやがて旅立ちの時…執着.愛着を残しながら真実に.はたと気付き.悔い.哀しみ.嘆くのである.
心の安らぎに勝る美味なるものを.私は知らず
生きている事実に勝る快楽も.私は知らない…
因果律と輪廻転生

因果律(縁起)とは、他の物事を条件付け、他の物事に条件付けられる相対的な依存関係性を解き明かした仏教思想の根幹を成す此の世界(現象世界)の天地自然の法則(物理法則.摂理)です。努力して内観している修行者に諸々の物事が因果関係の連鎖を成していることが顕わになったとき、太陽が天空を照らすかのように、悪魔の軍勢を打ち破って立つ。

▶生と死および連鎖
存在とは肉体的(物質)心的(精神)のエネルギーのコンビネーション(集合要素)に過ぎず、死とは肉体的身体の全体的機能の停止を言う…
しかしこの身体的機能の停止によりエネルギーの流動.連鎖が止まってしまう訳ではなく、全ての不安定性からの安定化運動の意志.意図.欲望は継続し.連鎖し増大してゆこうとする渇望は、全ての生命.全ての存在.大宇宙を動かす途方もないエネルギーの流動を生じさせている…
そして肉体的身体が機能しなくなってもエネルギーが死んで消えてしまう訳ではなく、物質的エネルギーは物質として心的エネルギーは心的エネルギーとして別の姿.形をもって継続し.連鎖してゆくのです…
永続的な実体(魂.霊魂)など存在しないが、ある瞬間から次の瞬間へと途切れなく継続してゆく[連鎖運動]であり、昨日の自分と今日の自分とは厳密には別人ではないが同一人物でもないのであり、死と次の別の何かしらへの生も、思考瞬間の違いだけであって、今生の最後の思考瞬間が、次の生の最初の思考瞬間を条件付けている(縁起)のです…
死後の新たな生は不思議でも神秘でもなく自然法則なのです…
存在しよう…存在していたいという執着.愛着.渇望がある限り、この輪廻という連鎖運動は継続してゆくのです…
何も無い処から[生じる]は有り得ず…滅すれば[何もなくなる]という事も.また有り得ない…
縁により生じ、縁により滅す…
滅の縁により.次の何かしらが生じてゆく…


(十二縁起の順逆を断滅しつくす)

[ドゥッカの滅尽] 疑念はすべて消える。
★全ての物事は他の存在及び現象を条件付けると同時に条件付けられている。     
相対的な関係性の上に存在している。   
★全てが相対的で、相互依存の関係性の中に存在している以上、意志や意識でさえ自由に存在しえず、条件付けられ存在し他の生起を条件付けているのである。物事は因果律に随って生起し、生起するものは消滅する性質のものでもあり一つの消滅が、次の生起を条件付けている。★因果律とは縁起の理法であり、輪廻転生を十二縁起で説くならば、        
①誕生(生成)を条件として、老死が条件付けられ生起する。            
☆誕生により老いて死ぬという法が条件付けられるのである。            
②老死を条件として、無知(無明)が条件付けられ生起する。                  
​​☆老死が条件付けられた事により無知が条件付けられるのです。         

③無知(無明)を条件として、行(欲求の動機)が条件付けられ生起する。     
☆無知(不安定)を条件としてカルマ(業)が生起するのです。         
④行(業・カルマ)を条件として識(欲求の意識)が条件付けられ生起する。     
☆ここで条件付けているものは無知であり、生命(心的)エネルギー及び物質エネルギーの本質である(不安定)という業・カルマが条件付けられる(万物が根源的に一源である根拠でもある)             
⑤識(欲求の意識)を条件として名色(欲求へと向かう精神・肉体的現象)が条件付けられ生起する。 ☆条件付けているのは無知である。 ⑥名色 (欲求へと向かう精神的肉体的現象)を条件として六処(六感官)が条件付けられ生起する☆煩悩(存在欲)であり、条件付けているのは無知である。           
⑦六処(六感官)を条件として、接触が条件付けられ生起する。          
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
接触を条件として、感受が条件付けられ生起する。               
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
⑨感受を条件として、渇望(渇愛)が条件付けられ生起する。           
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
⑩渇望(渇愛)を条件として、執着が条件付けられ生起する。          
☆条件付けているのは無知(不安定)です。
⑪執着を条件として、有(所有欲・煩悩)が条件付けられ生起する。       
☆条件付けているのは無知(不安定)です。⑫有(所有・煩悩)を条件として誕生(再生成)が条件付けられ生起する。      
☆つまりは輪廻という完結する輪状の連鎖を繰り返させ継続させる再生成を生起させる条件性は、命を含む所有の次元への執着なのである。
「これを逆に辿るのが、仏道修行であり涅槃への道であり、輪廻転生からの解脱である」 
【消滅の過程・逆観】
①無知(無明)の完全な消滅を条件として、行(意図・カルマ)が消滅する。
☆行を生起させるのは、盲目的な無知(不安定)による。
②行(業・カルマ・欲求の動機)の消滅を条件として意識(欲求の意識)が消滅する。 ☆識を生起させるのは、盲目的な無知による行である。
③識(欲求の意識)の消滅を条件として、名色(選択欲求)が消滅する。
☆名色を生起させるのは、盲目的な無知による意識である。
④名色(選択欲求)の消滅を条件として、六処(六感官)が消滅する。
☆六処を生起させるのは、盲目的な無知による名色である。
⑤六処(六感官)の消滅を条件として、接触が消滅する。
接触を生起させるのは、盲目的な無知による六処である。
接触の消滅を条件として、受(感知)が消滅する。
☆感知を生起させるのは、盲目的な無知による接触である。
⑦受(感知)の消滅を条件として、渇望(渇愛)が消滅する。
☆渇望を生起させるのは、盲目的な無知による感知である。
⑧渇望(渇愛)の消滅を条件として、執着が消滅する。
☆執着を生起させるのは、盲目的な無知による渇望である。
⑨執着の消滅を条件として、有(所有欲・生存欲)が消滅する。
☆煩悩を生起させるのは、盲目的な無知による執着である。
⑩有(煩悩)の消滅を条件として、生成(誕生)が消滅する。、
☆生成を生起させるのは、盲目的な無知による煩悩である。
⑪誕生の消滅を条件として老死が消滅する
☆老死を生起させるのは、盲目的な無知(無明)である。
誕生の消滅により老い死、悲嘆、痛みなどが消滅する。
⑫老死の消滅を条件として、無知(無明)が消滅する。
☆ドゥッカを乗り越え(超越)、光明(真理)を得る。
★無知(無明)を叡智(真理)にと入れ替えてゆく事により、盲目的な煩悩(生存欲・所有欲)を乗り越えてゆく(超越)
煩悩への盲目的な執着が消え⇒事物への盲目的な執着が消え⇒渇望・渇愛への盲目的な執着が消え⇒感知への盲目的な執着が消え⇒接触への盲目的な執着が消え⇒六感官への盲目的な執着が消え⇒選択・選別意識への盲目的な執着が消え⇒精神的・肉体的現象への盲目的な欲求の意識への執着が消え⇒欲求の動機への盲目的な執着が消え⇒業(カルマ)を生起させていた盲目的な意図的行為が消え⇒覚醒(目覚める)
★軽安(パッサッディ)禅定(サマティ)などの何かしらに依存した条件により生起する快楽・悦楽・歓喜・平安などや神秘的な心的創造などから解き放たれ(開放・捨離)、あらゆる執着を乗り越え(超越)、真理(叡智・智慧)を顕現(覚醒)させた処に、ニルバーナ(涅槃)という実存的な境地が存在するのです。       
●地中の微生物から、至高の存在である人間までの捕食の関係性(連鎖)と基本的な六界(地獄界・分解者⇒微生物類・菌類)
(餓鬼界・生産者⇒植物類)
(畜生界・一次消費者⇒草食動物類)
(修羅界・二次消費者⇒肉食動物類)
(人 界・雑食消費者⇒ 人 類 )
(天 界・休 息⇒人格者・積徳者・高質者・至高の境地)
(仏 界・解脱者⇒聖人・尊者・覚醒者・到達者)
●輪廻とは運動則(運動性)であり、熱であれ生物であれ精神であれ物質であれ全ては因果律に随って、高い処から低い処へと流れ、それを条件として低い処に在るものは高い処へと向かう循環により成り立っている。
【 縁起の理法 】        
 「吾、作る処にも非ず、また余人の作る処にも非ず、如来の世に出ずるも出でざるも、法則は常住なり。如来はこの法を自ら覚りて等正覚を成し、諸々の衆生の為に分別し開発顕示するのみなり」               
「全ての物事には固定的な実体など無い。」「全ては移ろいゆく時間と移ろいゆく空間による暫定的な出会いによる現象である。」故に、諸行は無常であり。諸法は非我なのであるが、大乗の龍樹が「故に空なり」と宣い、それに続く大乗僧達は空を標榜するのであるが、この現象世界は無常な世界なのであり、決して空なる世界では無いのであり、すべての関係性(条件)に依り生起し、関係性(条件)により消滅し、その消滅が次の生起を条件つけている縁起により存在している変化生滅する無常なる流転である空相なのである。この世界を途方もない大いなるエネルギーの流れとして見るならば、空なる領域(無色・非物質)に、源エネルギー結合が生じ、空間に物質(色)が生じる事により時間が生じ、源エネルギーは拡散し離合集散(バーン)し結合(結び目)により各種素粒子を生じ、素粒子は離合分散(バーン)し結合(結び目)により各種原子を生じ、原子は離合集散(バーン)し結合(結び目)により各種分子を生じ、分子は離合集散(バーン)し結合(結び目)により色形(物質)を生じている。全てが一時的な仮の姿であり固定定・普遍的な実体ではなく分子の離合集散による色形(物質)は現象として全ての関係性の上に離合集散(バーン)によりその色形を変化させてゆくのであり、空なる縁起法則による無常(常なく変化してゆく)なのものなのであり現象世界には源エネルギー状態で満ち満ちて在するもの、素粒子の状態で在するもの、原子の状態で在するもの、分子の状態で在するもの、色形(物質)の状態で在するもの、その何れもが関係性と無常なる流転の中で移り変わって行く。(宇宙が輪廻している)              
縁起(えんぎ)の法は、釈迦牟尼の悟りの本質とも言われ、「縁起」のサンスクリット原語は、「プラティーティヤ・サムトパーダ」であり、これを解釈すると、「一切のものは種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じる」により、縁起の法は、「すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しているのではなく他を原因・条件として(他に依存して、他との関係性により)生起している」と説いている。   
因果とは、縁が生起するか不生起によりて成立するが故に「因縁起果報」こそが因果の流れなのであり、「全ては移ろいゆく空間を因とし移ろいゆく時間を縁とし生起・不生起の働き(起)による暫定的な出会いによる現象(結果)であり、報い(業)を生ずる」のであるが世の中には神や仏や神秘的な力などの妄想的なものを介在させて、暫定的な現象である(結果)をそれらの摩訶不思議な力のよる選択と差別分別による確定的で運命的な物の如く捉えて説くものは愚者乃至悪意ある者達の手管に他ならない。  縁起の理法は「過去の原因のために未来の結果がある」といった時間的な因果律に限った法則ではなく「時間と空間」を包括した全ての事物にかかわる現象世界の法則として解釈されている物質的・現象的な因果律である。そして精神的な因果律が成立する要因が、人格や心境などの心の状態なのであり感受を因となし想念により縁を生じ、生起・不生起という意思(行、衝動)により認識(果)を得て重要度、必要度、判断、見解などの(報)を積み上げてゆくのです。       
[此れ在れば.彼れ在り、
此れ生ずれば.彼れ生ず。     
此れ無ければ.彼れなく、
此れ滅すれば、彼れ滅す。]   
縁起の理法は「すべてのものは独立して存在せず、他を条件として生起しているのであり、すべてのものは、それを生起させている条件がなくなれば消滅すること」を意味するそして、縁起の理法に基づいて「すべてのものは、固定的な実体がない仮りの姿である=無常である」という結論が導き出される。これを大乗は空と表現しているのである。     
また、「無自性」とは「自性がない」という意味であり、自性とは「それ自身で独立している実体、孤立的に存在する本体」をいう。そして、縁起の法に基づいて「すべての物質も現象も想念も実相は無自性であり縁起による暫定的な常ならざる現象である」…縁起の理法が言わんとするところをよく理解するために、私たちが「現実」と呼んでいるものが如何に縁起の法に基づいているかを考察してみよう。    
私たちが、日常において感じているものは、実際に外界に存在しているものを直接とらえたものではなく、私たちの独自の「五感」を通して入ってきた情報を脳で処理しそれを日常の知識や知性で解釈した物に過ぎず、それは「自分の五感と脳による情報処理」であって、「実際に外界に存在しているもの自体」ではないのです。
よって、同じ対象を見ても、「人間の目」で見た場合と、「他の生き物の目」で見た場合は違って感じられるし「顕微鏡」「電子顕微鏡」で見た場合は大きく違う。      
つまり生物が経験している「現実」というものは、一つしかないものではなく、それをとらえる生物の側の、さまざまな肉体的・精神的な条件などにより、さまざまに作り出されるものである。よって、「現実とは、生物の数だけ存在する」ということにもなるり、これを言い換えれば、「現実」とは、その「現実」を「観察する側」から独立した実体を有しておらず、「観察する側」が変わるとまったく変わってしまう、固定的な実体を有していないものなのだ。それは、「観察する側」(主体)と「観察される側」(客体)との相互関係により現れてくるものに他ならない。よって、縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説かれるのです。 
また、これを理解すれば、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」と説く仏教の思想(例えば唯識派の思想)もよく理解できるだろう。私たちがとらえる「現実」とは、私たちの「外」にあるのではなく、私たちの「五感と脳の中の情報処理」の結果として生じる効果にほかならないからなのです。   
もちろん、この場合でも、外界には、何もないというわけではない。そこには人間の認識能力では捕らえ切れない(人間の脳は流動的な変化生滅を固定的に捕らえようとしてしまう)物質的エネルギーと生命エネルギーの大いなる変化生滅の流れなのである。つまりは少なくとも、私たちが感じているものは「外界そのもの」ではなく心が捏造しているものであり、私たちが感じているようには、実際の外界は存在していないのです。  
「人々が現実と呼んで、その中で泣いたり笑ったりしているこの世界は、貪り、瞋り、愚かさなどに汚された人間の心が、つくりだした幻影、夢、かげろうなのである。それなのに人間は、五感や思考がとらえる現実こそが、唯一の拠り所だと錯覚している。所が、現実とはもっと多層的であり、人間とは其々が違った心の在り様をしている者達、例えば動物や餓鬼や地獄の住人には、現実がまったくちがう相貌をしている。人にはただの河と見えるものが、餓鬼には膿の河に見えると説かれる如く、現実とは、それぞれの生物が、彼らの生命条件にあわせて自ら創りだしているものなのです。」
現実とは心が創りだすものであり、そうで在ってみれば今、貴方がいるこの場所も、三悪趣にいるものたちの心をもって見れば、たちどころに三悪趣の現実に変貌してしまう。同じように、ありきたりの人間の心に束縛されていれば、この場所が同時に浄土であることがわからない。「私たちが五感でとらえ、日常的な知性でとらえているこの世界は、さまざまな姿、形、現象であふれている。この形やあらわれでつくりだされた現実を、私たちは確かな実体のあるものだと思いこんでいる。ところがその現実とは、水に映った月、幻影、蜃気楼のようなもので、実際その場にはなんの実体もないものなのです。   しかしこの虚像にすぎないものが、生き物たちをあざむく恐るべき力をふるっている。目に映る形、耳にきく音、鼻に感ずる匂い、舌の味覚、身体の触感などがあたえる感覚にひきずられ、実体のない現実のふるう幻影にほんろうされ、生き物たちは輪廻におちこんでしまう。それは出口のない鎖の輪のようなもので、生き物たちはその中で浮沈をくりかえしている。」    
十二縁起 (因果律
因果律とは、他の物事を条件付け、他の物事に条件付けられる相対的な依存関係性を解き明かした仏教思想の根幹を成す此の世界(現象世界)の天地自然の法則(物理法則・摂理)です。           
★全ての物事は他の存在及び現象を条件付けると同時に条件付けられている相対的な関係性の上に存在している。       
★全てが相対的で、相互依存の関係性の中に存在している以上、意志や意識でさえ自由に存在しえず、条件付けられ存在し他の生起を条件付けているのである。物事は縁起(関係性・繋がり・依存性)に随って生起し、生起するものは消滅する性質のものでもあり,一つの消滅が、次の生起を条件付けている。   ★因果律とは縁起の理法であり、輪廻転生を十二縁起で説くならば、        
①誕生(生成)を条件として、老死が条件付けられ生起する。          
★解説 誕生により老いて死ぬという法が条件付けられるのである。         
②老死を条件として、無知(無明)が条件付けられ生起する。          
★解説 老死が条件付けられる事により無知が条件付けられるのです。     
③無知(無明)を条件として、行(欲求の動機)が条件付けられ生起する。      
★解説 無知(不安定)を条件としてカルマが(業)生起するのです。         
④行(業・カルマ)を条件として、識(欲求の意識)が条件付けられ生起する。     
★解説 ここで条件付けているものは無知(不安定)である。          
⑤識(欲求の意識)を条件として、名色(欲求へと向かう精神的・肉体的現象)が 条件付けられ生起する。
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑥名色(欲求へと向かう精神的肉体的現象)を条件として、六処(六感官)が、条件付けられ生起する。 
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑦六処(六感官)を条件として、接触が条件付けられ生起する。        
★解説 条件付けているのは無知(無明)です。
接触を条件として、感受が条件付けられ生起する。              
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑨感受を条件として、渇望(渇愛)が条件付けられ生起する。          
★解説 条件付けているのは無知(無明)です⑩渇望(渇愛)を条件として、執着が条件付けられ生起する。          
★解説 条件付けているのは無知(不安定)です                    
⑪執着を条件として、有(所有欲・煩悩)が条件付けられ生起する。        
★解説 条件付けているのは無知(不安定)です。                    
⑫有(所有欲・煩悩)を条件として、誕生(再生成)が条件付けられ生起する。     
★つまりは輪廻という完結する輪状の連鎖を繰り返させ,継続させる再生成を生起させる条件は、生命を含む所有の次元への執着なのです。
これを逆に辿るのが仏道であり涅槃への道であり輪廻転生からの解脱なのである。軽安(パッサッディ)禅定(サマティ)などの何かしらに依存した条件により生起する快楽・悦楽・歓喜・平安などや神秘的な心的創造などから解き放たれ(開放・捨離)、あらゆる執着を乗り越え(超越)、真理(叡智・智慧)を顕現(覚醒)させた処に、ニルバーナ(涅槃)という実存的な境地が存在するのです。
   
「無常が空を包括すれども、空が無常を包括することなし、理論が実践を包括できぬが如しなり、空なれば縁起は生起せず、無常により縁起は生起する。」          
「常によく気を付けて、無常なる世界を空であると観ぜよ」 

承認欲求(自己顕示欲)

大衆や社会から承認されたい.認めて貰いたいと過度に思うのは、本当は自分に自信がない証であり、他人や社会からの承認や是認により不安を取り除きたいと欲しているのである。
しかしそうした無明の闇を、無明(本質的無知)な大衆や.偏り.歪んだ社会から承認され.認められる為に、大衆迎合的に社会迎合的に自分の信念や存在感を緩やかに殺して他人の尺度で生きてゆく事を選択する事に等しく、真理(真実.事実.現実.実相.本質)から遠ざかってゆく事に他ならない…
まして奥深く微妙で難解なこの大宇宙の真理を説いている仏の教え仏教を大衆や社会に理解させるのは実に困難で骨が折れるものであり、何しろ世間と言うものには、事実を素直に認めるという性格は持って居らず、利得.感覚.感情.主観.直感などを頼りとしているのであり
伝統的なこと.思い込み.権威.信仰.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観...などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものである…
他人は他人…自分は自分であり、良しにつけ悪いにつけ、人の振り見て我が振り直す為には役立つが、他人の牛を幾ら数えても、自分の牛になるわけではないように、他人と比べて見ても優れていると思う人には憧れたり嫉妬したり、等しいと思う人には変なライバル心を燃やしたり荒を探したり、劣っていると思う人には侮蔑したり敬いを忘れ自己満足に浸ったりと凡そ根拠の薄弱な妄想を膨らませて、無明の闇を深めてゆくものである…[大概の苦や不満(ドゥッカ)は無明から生じる]
人それぞれの価値観(生き方)があり、自分には自分の価値観がある筈であり、例えばお金を異常に愛しているような人は多いが、他人から守銭奴.人否人と蔑まれようが自分が愛と満足に包まれて生きているのなら.それはそれで良いのである…


未熟な人の直感などは当てにはならない、
自らを制し自分の心をよく見つめ、研ぎ澄まされた洞察力を閃きとも直感ともいうのであって、無明なまま我欲に翻弄された主観や直感で生きてはならない…
金を始め所有の次元の事物は便宜的付随的な手段であって決して目的ではない…
建前ではなく、例えば医者が、例えば起業家が、例えば政治家が、例えば教師が、例えば発明家が、例えば僧侶が、その中に世の為.人の為になる有益性や使命感を目的とせず、権威や地位や利得や名声を目的と錯覚して行なうならば、例え権威.地位.利得.名声を得たとしても[ただ風の前の塵に同じ]無常で空虚で夢幻とも呼べる便宜的な付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物に魅入られ.翻弄されて大切な人生を無価値なものに貶めて悔いと執着の中を輪廻の激流を繰り返すことがないように克己して行かなければいけません…
欲望と怒りは表裏一体なものなのです。欲望の裏側には怒りが潜んでいます。ですから欲望が強ければ強いほど、裏で怒りとか不満が繁殖してゆき.更に心を貧しく.卑しく.欲深くさせて行くのですから…
僧侶や如来が道を説くのは.承認欲求でも自分をアピールしている訳でも、自己主張してアイデンティティを高めたい訳でもなく.道だからである…
自らが満ち足りずして、真の道は説けない…
自らが悟らずして、悟りとその道は説けない…
悟りは自らが道を実践して啓くもの…
幾ら仏典に精通していようが位階を重ね仏の教えを理解した積りで居ようが、欲望の炎と承認欲求が残る限り、無明なままなのである…
大悟とは無明の滅尽であり、解脱の道も.成仏の道も.涅槃(ニルバーナ)への道も.また無明の滅尽なり…
梵天勧請
私の悟ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
処がこの世の人々は、執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている。
さて執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている人々には、(是れを条件として彼れが在る)という.即ち縁起という道理は見難たい。
また全ての形成作用の鎮まること、すべての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、安らぎ(ニルバーナ)というこの道理もまた見難たい。
だから、私が理法を教しえ説いたとしても、もしも他の人々が私のいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。
私には憂慮があるだだ…                   このようにして、折角、啓いた悟りを広く開示することなく、ひとり胸にしまっておこうとされた…
その時、世界の主・梵天(ブラフマン)が現れて、お釈迦さまに向かって合掌・敬礼して「たとえ汚れた泥沼のような世の中であっても、その泥沼の中から頭をもたげ白く美しく咲く蓮の華のように、この至高なる理法を理解できる人もいるでしょう…是非ひろく教えを説いてほしい」と懇請する。
 この教えは知者に属するものであって、愚者に属せずと考えられて.ひとたびは説法を断念したお釈迦様であったが、梵天の説得により、広く説かれる道を選ばれたのでした…


縁起という[見難たい]法則性を教義とし、無明(本質的無知)の闇を晴らし、悟りという[達し難たい]真実に目覚め.本質的な苦からの解放を目的とし、涅槃という堅固な安らぎの境地へと至る道を指し示した仏教を宗教として位置づけ.世界の三大宗教のひとつと言いながら、いったい何人の信者や修行者や僧侶がその教義を理解し、何人が悟りを啓き涅槃の境地へと到達しただろうか?
その深淵で難解な真理の前に、悟りは神秘的な秘儀と捉えられ、真摯な修行者を苦しめ悩ませ、理解する事が出来えない多くの脱落者を生み出し、そんな脱落者や邪見者や信者はバラモン思想へと逆戻りしながら現実から乖離した得体の知れない妄想的な神.仏や怪しげな力に救済や守護を求める大衆迎合的な大乗思想や分別部派を生み出す結果を招いた…
呪術.呪文.真言.読経.題目などに自己暗示以上の思議しえない不思議な力を謳い、「仏教とは無じゃよ.空じゃよ」などと訳の解らない悟りの世界を嘯きながら金勘定に忙しい高僧や、因果律(縁起)に反する祟りや因縁や霊障を主張して民衆を脅しこみながら除霊.浄霊.呪術を生業(なりわい)とするような如何わしい霊能者やペテン師や怪僧が絶えないのも真理(真実.事実.現実.実相)などが見難く.深淵で.難解で.微妙であるせいなのである…

存在

存在
何れは朽ち果て、消え去る我が身かな…
笑って生きるも一生ならば、
泣いて生きるもまた一生なり…
諸行無常を覚り.欲望から離れ自由と喜びに満たされて生きるも一生ならば、
欲望に身を焦がし.空しさと失望の内に消え去るもまた一生なり…

何れは朽ち果て、消え去る我が身かな…

無明の闇を打ち払い.目覚め乗り越え生きるも一生ならば、
無明の闇の中を手探りで.盲目的に生きるもまた一生なり…
自分という存在を探求し続け.見い出すも一生ならば、
世間という存在を探求し続け.見い出すもまた一生なり…
歴史に名でも残さんと.生きるも一生ならば、
路傍で民草に寄り添って.生きるもまた一生なり…
芭蕉は、船の上に生涯を浮かべ、馬の口を捕らえて老いを迎える人も又、旅にして旅を住処としている過客と見たり…
生きるとは唯、状態的なものに過ぎず…唯、現象的なものに過ぎず…
何れは朽ち果て、消え去る我が身かな…

人の身に生まれし誉れ.有り難しかな…

運不運

世界は常なく変化生滅しながら流れゆく…
そこには幸運も不運もなく、ただ捉える者が.その都合によって分別しているに過ぎない…
万事は.そうそう何時々々も思い通りに運ぷべきもないものであるのに、それを受け入れる事が出来ない無明さが不運なのであり、そうした負のエネルギーを連鎖させてゆく人を不幸な人というのです…
重要なのは何が生じ、何が滅し、何がどう変化してゆこうとも現実を正面から受け入れて前向きに智慧を働かせて対処してゆく事が、運気を上げてゆく秘訣なのです…
本当の幸運とは.励んだ努力の運気が積み上がってゆき、その努力が報われる事であり、その一方.一生懸命に努力を重ねても運気が積み上がらすに途中で崩れてしまうような人が不運な人であると言え、その原因と問題とを明確に理解して正しく対処して変えて行く事が出来れば、人生を180°転換させてもゆけるのです…
言語では説明しずらいのですが、苦楽一如なものであるように.良いも悪いも同じものであり、物事には[振幅]というものがあるのです…
日々、時々の小さな[振幅]の、良い振幅に感謝し.悪い振幅を受け止めてゆくと[運気の振幅]は上昇してゆく性質があり…また一方、日々、時々の小さな良い振幅を軽んじ当然のように受け止め.悪い振幅は受け止めようとせず不満を抱きながら、一喜一憂していると[運気の振幅]は下降してゆく性質があるのです…
小さな福にも感謝を忘れず、小さな禍に心痛めず泰然と受け止めてゆく姿勢こそ、大福を呼び込む秘訣でもあるのです…
人間 万事 塞翁が馬なのですから…
【運気の障害となるもの】
⬛無思考と言われる雑念や妄想思考
ユトリ教育世代の若者に多く見受けられる暗記型思考、一定の与えられた物事や課題を熟していく適応力は具えているが、自分自身で考え未開な荒野を切り拓いて行くような創造性に欠け、変化に対して弱く挫折しやすい…
物事を一定の範囲内でゴチャゴチャと雑念.妄想し続け、[後ろ向き]な見解に陥りやすい…
⬛自己暗示
運不運に付いての相談で多いのが、[自分は悪い星の下に生まれているのか、何をやっても上手くいかず、良いかな…?と思うと何かしら邪魔が入ったりして壊れてしまう…]とか、[人の縁が薄いのか、人に裏切られたり去られたり失ったりして孤独から逃れられない…]とか、中には祟りとか霊障が原因だと本当に妄信したり、自己暗示をかけている人
福、受け尽くさば、縁.必ず孤なり…
縁、受け尽くさば、運気.必ず衰退へと向かう

三毒
貪り.瞋恚(激しい怒り).痴愚
プラスだと欲するものは引き寄せようと貪り、
マイナスだと欲するものは遠ざけようと怒り、
解らないものには拒否反応と不満を生じる…
自我意識(エゴ)による我欲に基づいて生きてゆけば、必ずドゥッカ(苦.不満.怒り…)の中を盲目的に生きる事となり、幸運を取り逃がす…
⬛後ろ向きなマイナス思考

⬛吝嗇(りんしょく)
吝嗇とは極度な物惜しみ.下卑など心の貧しさを言う
幸福と不幸の分かれ道とは、足るを知り自我の欲求の制御コントロールであり、自分の感覚.感情.主観への刺激への愛着.執着を乗り越え超越した[与える][他人に対し.その人の為になるものを与える]そんな心根(業・カルマ.形成力)から、生まれるものであり、決して所有の次元の事物の所有量ではないのです…

福も同じく[福が来たから喜ぶのではなく、喜ぶから福が来るのであり…

不幸が連鎖するのは、悩むから連鎖するのである]

得られたら.与える…とも違い、自分のものだと.しがみつく貧しい吝嗇な心を乗り越えて[与える][他に役立つ]から、周りから運気.人気.金運.福などが与えられるのである。

♥分け与える

◆不幸.不満な人生の日々を好転させる唯一の方法とは、節制とは似て非なる[自分のものだ]と物惜しみ.しがみつく貧しい心を乗り越え超越して[与える]ことなのです。

それは仕事でも人間関係でも恋愛でも、全ての人は.自分に対して何かしら[プラス]になるものを与えてくれる相手とか物事は受け入れ.引き寄せたいと欲し、無価値かマイナスになるものは排除し.遠ざけてゆこうとする天地自然の流れでもあり、その理法(貪瞋痴)に則った[与える][他の役に立つ]という行為が福徳の善いい波動を生じさせ.また自分の物だと.しがみつき物惜しむ行為が貧しい悪い波動を生じさせ、運気の流れを変えてもゆくのです。
本当の引き寄せの法則とは[与える][役立つ]という因の行為(起運動)の果報として廻り巡る(スパイラル運動)による悪因悪果または善因善果として運気の流れを引き寄せてゆく摂理法則なのです

一信懸命

それが例え.愚かな先達が興した偏った信仰であったとしても盲信することなく、信念を以って懸命に一信するならば心の平安を得ることが出来る…
それが.無明の闇を晴らし、目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、真理を依り処(精神的支柱)とする頂乗仏教であったとしたら尚更、堅固である…
懸命とは命懸けの意味でありますが、一生を命懸けで生きるのは些か骨が折れそうであり、一処で懸命に生きるのも狭っ苦しそうでもあり、人間、自由に.自分の意志と信念と智慧に殉じて懸命に生きてこそ報われるのではないでしょうか…
人間は.無明(本質的無知)に生まれ付いているのです…それに気付かず自惚れて.煩悩(存在欲)が創り出した自我意識(エゴ)に翻弄され確証もない仮説や知識.情報.空論.観念.戯れ言.能書き(プラパンチャ)に惑わされ[自分は正しく.従って他は間違っている]という邪見に蓋われ.閉じこもり、無明の闇の中を盲目的に彷徨い生きる事となるのです…
人間とは無明ゆえ一寸先の闇に不安定.不安.恐怖.心配.欲望.渇き…(ドゥッカ)を抱えながら手探りで生きているのです…
だから人間は何かしら精神的な支えを必要として.得体の知れない信仰であっても.自己防衛.自己保存の為に安定.安心.安全.守護を得ようとしがみつき.一時はもたらされる儚い安らぎに.無くてはならないものだと錯覚してしまうのです…
しかし霞の如く.幻の如き変化生滅するものへ永く.堅固に安定.安心して寄り掛かることは難儀であり余程の信念が要求されるでしょう…
では堅固で安定的で変化生滅してゆく事のない依り処(精神的支柱)など在るのでしょうか?
それこそがお釈迦様が発見された絶対真理(ダルマ・真実.事実.現実.実相)という.この世界で唯一無二の無為(変化生滅してゆかないもの)を確信とした自分を依り処(精神的支柱)とする教えなのです…
⬛至高な存在から崇高な存在へ
人間存在こそが至高であり、人間は自らの主である…人間より高い位置から人間の運命を審判できる得体の知れない神や仏など存在し得ない変化生滅してゆく諸行無常な世界である…
[自らが自らの依り処であり、自らの知性と努力によって真理を見い出すことによって、汎ゆる束縛から自らを自由にすることが出来るのだから…自らの信念を啓発して自らを解放できるのだから…]
自己解放は人が自ら真理を実現することによって得られるものであり、神仏あるいは外的な霊力などによって.その信心に対する報いとして与えられるものではないのです…
物事を鵜呑みにして信じる事は愚の骨頂であり、疑わず信じるとは物事を本当は見えていないまま盲目的に追随してゆく事に他ならず先に進むためには疑問をなくして理解してゆく必要がある…
愚かさと不純さの消滅には物事を真に理解し物事が見える人にとってのみ可能な事であり、物事が本当は見えず.識らず.ただ盲目的に妄信し.追随する人には不可能なのである…
重要なのは知識あるいは叡智を以って.知ること.見ることにより生じる信念であり、信心とか信じる事ではないのです…
自らの伝統と権威を唯一の真実だと信じ込み不毛で盲目的な系譜を紡ぐ者達とそれを取り巻く者達が.自らの見解に固執し.真摯に仏道を励む修行者を見下し.誹謗すること...如来はそれを捉われと呼ぶ…
仏教とは人を.安全.平安.こよなき幸せ.静逸.涅槃へと導く為のものであり、無明の闇の中を神仏の助けを借りて盲目的に暗夜行路を歩かせる為のものではないのです…

自業自得と因果応報

一切万象 自業自得
一切万法 因果応報
実は[運不運]を書いている途中だったのだか、今回のコロナ禍に関連した記事の中に.看過出来ない記事を見つけたので急遽、[自業自得と因果応報]に付いて記そうと思いたった次第である…
それは自粛警察と揶揄される人達がコロナ風邪の罹患者を間違った正義(本当は不満の解消)で.非難中傷したり攻撃したりする時の論拠が[自業自得]という自己責任論であり、諸外国と比べて突出しているという記事である…
何を言いたいのかと言えば、コロナ禍を含めた全ての現象(結果)には原因があり結果があり、自業自得とは[偶然による発生][原因もなく突然に生じる事][神仏の意志による現象]などないのだという否定と共に.自己責任という短絡的な因果関係ではなく.全ての現象として現れた相互関係性は大宇宙的な関連性.相補性によって現れてくるのであり、人間には認知し得ず.計り難い森羅万象の深淵な働きにより現れる現象であり.そんな因果律(縁起)による現象に対し、人間が対処出来るのは[自分の身を真に守り.救うのは自分自身だけ]という意志と信念に基づき、その為に業(カルマ)という意志や行為の[形成力]を高め.磨き.調えなさいと説かれるのであり、詳細は.ここでは省きますが、その為の自我意識からの超越であり、無明の闇からの覚醒であり、人としての質.格.境地.器量などの育成に努め励み存在の次元の価値という果報を得ることなのです…
もし短絡的に捉えるならば、例えば人相ひとつ取っても攻撃を受け易いと言われる人がいるし、また受け難いと言われる人がいますが、人相が為に他人から攻撃を受けるのは自業自得だから仕方がないと括って諦めろと言うのであろうか、人相など全く影響しないと言っているのではなく、人相ひとつで結果へと繋がって行く影響力などせいぜい10%〜20%位の要素でしかなく別の因果律(縁起)に従った相互関係性と意志や信念による形成力などか重要な要素なのですから…
■精神性により各次元に見い出す価値観や形成力(カルマ)は変わってゆく。
低次元に於ける階梯  

渇望と存在欲に発する衝動による執着。

①肉体的.物質的レベル(自我的)

②感覚.感情レベル(自我的)

③知識レベル(自我的)

④知性レベル

⑤精神性レベル

⑥覚醒.超越レベル


①肉体的・物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し,本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく、それ以上の価値観を持ち得ません。ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく、宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てないのであり、物質的.肉体への価値判断が、精神的・存在的価値判断を上廻ってしまうのです。 
②感覚・感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く、好き嫌い・快不快・美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します。これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し、感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し、善悪.浄不浄などという倫理感を上廻ったります。妄想的・神秘的な信仰に興味を持ちやすく、儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります。
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、[第三の目]や[超能力]とかや[霊力]といった得体の知れない物事を求める傾向があり読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)       このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。    「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」

⑥覚醒.超越.精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(くびき・連鎖運動)を断滅した.無我なる心的エネルギーから顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」

人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのである。
【浄化(カタルシス)】
運命を変えたければ、
性格を変えてゆけ…

性格を変えたければ、
習慣を変えてゆけ…

習慣を変えたければ、
行動を変えてゆけ…

行動を変えたければ、
言葉を変えてゆけ…

言葉を変えたければ、
考え方を変えてゆけ…

考え方を変えるには、
今の自分を変えてゆけ…

今の自分を変えて行くには、
今日まで造り積み上げてきた自分を、カタルシス(浄化)させてゆけ…

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      頂乗仏教学舎

霊験灼然(れいげんいやちこ)

     (れいけんあらたか)

うつ病.パニック障害などで苦労されていた方々から、依存症や副作用もない頂乗仏教の超越瞑想(安寧の瞑想)が、最良だという報告を多数.頂戴しています。

メンタルの悩みを抱えていらっしゃる方は是非、お気軽にご相談下さい。

    如来品聖師 多々方路傍石

純粋仏教ブログへはこちらから

頂乗仏教学舎ブログ https://bongteng.hatenablog.jp

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如来品正師.多々方路傍石です貴方の幸せ.平安.安楽.静逸のお役に立てる事を心掛け本欄とブログを作成していますご意見.ご質問.ご相談など有りましたら是非お気軽にご相談下さい。

如来とは神でも救世主でも妄想的な仏でもなく、真理と智慧に基づき人々を真の幸福、真に価値ある人生へと導く正しい師である。聖なる如来の導きにより人は誰もが菩薩へと生まれ変わる。

資質は皆が具している、ただ正しい方向へと導く正師に巡り合えずに盲目的な系譜に連なって来てしまった如来は無明を乗り越え(超越)目覚め(覚醒)解き放たれ(解放)自由で真の幸せを授ける。」

仏教とは幸せに生きる為の宗(むね)となる教えであり、得体の知れないものへの信仰ではなく釈迦尊(ブッダ)は無明なものへの信仰を明確に否定され釈迦尊(ブッダ)在世当時において歴史と権威とにより人々に信仰を強いていた[バラモン教]の説く神々の存在を体験的に修養により目覚め.乗り越え.解き放たれ.到達され発見された真理に基づき明確に否定された[目覚めた人]こそ釈迦尊(ブッダ)である

大乗仏教(マハー.ヤーナ)も相互依存の関係性(縁起)に於ける悟りの深さを象徴化(シンボライズ)した天部.菩薩.如来への敬虔な信仰心を.得体の知れないものへの信仰へ誘う本質を有し.小乗仏教(ヒーナ.ヤーナ)とも呼ばれる上座部仏教も、頑な部派仏教でしかなく教論(アビダルマ)に捉われ到達を自ら阻んでいる煩悩に征服され.虚妄に勤しみ.権威に阿る.退廃した現世に出世なされた如来は人々を堅固な[こよなき幸せ]へ導く聖なるお釈迦様の教え純粋な仏教(ダルマ.ヤーナ)を差し示す。
因縁起果報

 

★先祖崇拝は在家の習俗であり仏法ではない

★輪廻を真に理解できなければ仏法は理解できない。

★仏法は信仰や妄信を戒める。

信心ではなく理解する事が仏法ある

★仏法は厭世的でも刹那的でも享楽的でも妄想的でも階層的でもなく、現実的で真に平等な教えである。

 

◇世界は燃えている。利己的な欲望の炎で燃え盛っている。その利己的な欲望の炎により国家.集団.個人に至るまでが争い.殺し合い.騙し合い.憎み合ってゆく、その利己的な欲望こそが.諸悪の根源である事に気付くこともなく。

◇人は誰でも無知(無明)で生まれている。そして人は無知(無明)の闇の中を手探りで盲目的に生きている事に気付くことが出来ないまま、諸行無常な世の中で.何かしらの変化や移ろいに直面したときにドゥッカ(苦しみ.悩み.憂い.哀しみ.迷い.悔い.心の痛み.恐怖.虚しさ.儚さ.弱さ.脆さ.惨めさ.実質のなさ.無常.無明.不安定さ.不完全さ.欲望…)に気付く。
◇人は自分の無知(無明)に気付けなければ、成長してゆくことも出来ないものである。

◇人はいつまでも無知(無明)のまま生きて行くと渇望(煩悩)により感覚的に生きてゆく事となり主観的な自我意識に翻弄される

◇人は自分の無知(無明)に気付けないと主観的に考えるようになり、能力が全く達していなくとも自分に自惚れて、学んでゆくことが出来ないから何時までも無知(無明)なままである

◇人は自分の無知(無明)によりあらゆる物事に縛られ、自分に拘り捉われ自縛してゆき、窮屈な生き方をしてゆく事となる

◇人は自分の無知(無明)に気付けなければ、本質的に虚無(空)でしかない自分に拘わり捉われ縛られ、あらゆる物事に縛られ不安定な渇望に翻弄され、矢張り本質的には空虚でしかない便宜的な付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物への欲望と執着により満足や喜びや快楽を得ようとするが、決して満たされる事も尽きる事もない煩悩の要求により、無知(無明)で虚無な存在(自分)は空虚な人生を送ってゆく事となる

◇人間は本質的なドゥッカ(不完全.不安定.苦.痛み.悩み.哀しさ.脆さ.弱さ.儚さ.虚無(空相).怖れ.愚かさ.本質の無さ.惨めさ.無知(無明).欲など)のエネルギーにより生きている。

◇その本質による根深い自己防衛・自己保存への欲により、子供が親に自分の保護・安全・安心・恩恵などを渇望するように、自己防衛の欲により神や仏や超越的な力の存在を妄想し投影した。

また自己保存欲により永遠的で主宰的.実存的.実体.実相的である魂・霊魂・霊体などを妄想する。

◇それらは欲心の投影(幻影)に過ぎない。

◇無知(無明)で虚無な存在である自分が、空虚で付随物(手段)でしかない事物に翻弄され、その上に心の投影(幻影)でしかない妄想の中を錯覚して生きてゆくほど空しい人生はない

釈迦尊ブッダ)は無知(無明)による斯うした迷信的・倒錯的・妄想的・非現実的な妄迷な寝呆けた幻想から、乗り越え(超越)解き放たれ(解放)目覚める(覚醒)事を促されたのである。

◇虚無な自我や空虚な物事や妄想的幻想などを依り処(精神的支柱)としないで、この世界の中で唯一絶対的な実存である真理「摂理」を依り処(精神的支柱)とする。

◇真理だけを拠り処とし、安定した心の状態が涅槃(ニルバーナ)であり実存的な平安と悦楽と静逸な世界を体現できる。

如来は人々への、愛と慈しみと憐れみから、真理を説くのである。

◇真理を覚り、目覚めてゆく人々こそが真に幸せな人々と成ってゆくのである。

◇今持っている偏ったり間違ったりした見解や概念や観念や思想を捨てる事が智慧である

◇知識や情報や記憶など何の役にも立たず、心が理解した智慧こそが真に自分を助ける。

◇自分という存在の真の価値や意義は、心の浄化であり徳を積む事であり人としての質(クオリティ)を高め、人格を磨いて、光り輝く存在に成ってゆく事により叡智が現われてくる

◇「業(カルマ)」とは、精神的な境地であり、存在の性質(本質的意志)こそ精神である。

              

         【  祝福の啓示 】  

諸国を行脚しながら、猛暑の夏.寒中の冬も厭わず托鉢.辻立ちの幾星霜の日々…縁あって上野不忍口を[心の沐浴場]と定め、右手には暮らし貧しき者達が群れ、左手には心の貧しい者達が行き交う.辻に立ちて凡そ十五年が過ぎし夕刻、天空.俄かに明らみ、世界はその動きを止め.光音天の調べと.法華の芳しき香りに我れ包まれたりし時…

梵天は緒天を随えて勧請になされた

「嗚呼、今のままでは此の世は終わる、今のままでは此の世は壊れる。

汝、完成者よ、清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を天と神仏は祝福するだろう…

大地は喜びに打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう

我れは汝に釈迦牟二(シャキムニ)に授けたる如く三如を授けん、既に達したる六神通と三如の神通力により九神通へと至るものである。その法力により天と地上と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり、そして釈迦牟尼(シャキムニ)の至りたる無上なる等正覚は如来であり新たなる如来の誕生であり弥勒の出現である。 

この懇請を受けしは如来なり今より汝は如来品である」と賜号なされた 

帝釈天が緒神を随えて来迎なされた

「嗚呼、今のままでは此の世は終わる、今のままでは此の世は壊れる。

汝、完成者よ、清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を、天と諸神仏は祝福するだろう。大地は喜びに打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう。その法力により天と地上と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請

するものなり、この釈迦尊ブッダ)の達したる無上なる正覚は如来であり新たなる如来の誕生である。そして人間界への審判を汝に委ねるものである。汝が彼岸に至るとき、この人間界の存続か断滅して新たなる命の世界を創造すべきかを神仏は問うであろう。

汝の審判により人間界は滅しもし栄えもしようこの勧請は無上等正覚者を祝す」    

仏界より釈尊が諸仏を随えて降臨なされた

「嗚呼、今のままでは此の世は終わる、今のままでは此の世は壊れる。我が頂上なる弟子よ、完成者よ、過ぎ去る時空は我が教えさえも無常なるものと成し、真理に到達する者少なく、大悟を顕現して仏界に至る者は絶え至難とも成りたる、罣礙なく清浄なる梵天界にまで到達し仏界に達したる其の成道を吾れと緒仏、緒天、緒神、精霊に至るまでの天神仏と悪魔、餓鬼、悪鬼までもが祝福するものなり。大地は歓喜に打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう…

         

〇頂乗仏教 修養項目

僧侶(比丘)とは修行する出世俗者であり、剃髪し粗衣を身に纏い托鉢で暮らしている。このような慎ましい生活を送るのは負債や

生活苦の為なのではなく、我らの心身を蝕む苦悩や煩悩から解脱し自由になるためであり、真正なる釈迦尊の教えを実践する聖道跡

であるからである。

とこしえの平安を得るため、とこしえの平安を伝えるため、修行をするのである。成功や名声のためでも人の上に立つためでもなく、

智慧と真理を啓き 徳を高め衆え生に真の功徳を廻向し施さんが為に、衆生に慈悲を施さんが為に、此のような生活を送るのである。

三帰依   
帰依仏陀 ・ 帰依仏法 ・ 帰依仏僧

〇戒律 

在家五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)

沙弥十戒(不殺生・不偸盗・ 不淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不非時食・不蓄金銀宝戒 )

僧 侶  二百五十戒

具足戒(波羅夷・僧残・不定・捨堕・波逸提・提舎尼・衆学・滅諍)

・三摩邪戒パーティモッカの戒律

六波羅密   

布 施 . 忍 辱 .持 戒 .精 進 . 禅 定 .智 慧

〇三 宝 印

◆諸行は無常なり 一切の形成されたものは常ならざるものなり。

諸行無常    この世に存在するすべては、すがたも本質も常に変化生滅するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持

することができないことをいう。

諸行とは一切のつくられたものの意であり、無常とは変化生滅しないものは存在できない世界(欲界・色界)であると説いている。

◆諸法は非我なり 一切の事物は我ならざるものなり。 

主体的な実体としての我は存在しない諸法非我(諸法無我

諸法非我の[法]とは[存在]という意味であり、[非我]とは[永遠に続くものはない]という意味であり、

諸法非我とは

「一切の存在は永続的なものではなく、仮のものである」ということ。「諸行無常」が、時間的流れのなかで一切のものが変転していくものであることが説かれ、「諸法非我」とは、空間的に一切のものは固定的な実体ではなく全ての存在は時空な中での暫定的な存在である」という思想なのです

◆一切は皆苦なり <一切皆苦> 

 一切の事物は空しく不満・不安定・苦により成り立つ。

「色は苦なり」「受想行識も苦なり」と説かれる。パーリ語聖典ではドゥッカ(dukkha)であり日本語の「苦しい」という意味だ

けではなく「不満」の意味も持つ。

大宇宙も生命も本質として空しく不安定で苦と不満のエネルギーにより存在している事を説いている。

別格◆ 涅槃は寂静なり 

〇自燈明と法燈明 

自らを燈明とし自らを拠り所とし他人を拠り所とはせず法を燈明とし法を拠り所とし他を拠り所とはせず己の信じた道を正しい方向へと進め

〇正信 と 妄信 

伝説を鵜呑みにするな。教典をそのまま信じるな。伝統が全て正しいと思ってはならない。如何に論理的な言葉であろうと誰もが揃って支持しようと、

例をあげて証明されようと、己の主観と合致していようと権威ある人の言葉であろうと、全てを安易に正しいと信じてはならない。

自ら確かめる事なく受け入れることを「妄信」という。本当の確証を得て信じることを「正信」という。

(世界を懐疑の目で眺め物事の本質を如実にしる事で無明が取り除かれる)

〇邪念 と 正念     

仮の姿を真実だと思い込んだり間違った観念や見解を抱いていると真理には到達できない。 「真理は真理、虚仮は虚仮と知る。」

〇三学 と 三毒 (気付きと三欲) 

三学(持戒・禅定・智慧)を修めよ。

三毒(貪欲・瞋恚・迷妄)を断ぜよ。

持戒 心に刺激が入り込まぬよう感覚器官を見張り、心を不安定にする行いを慎む

☆禅定 持戒により心を安定させ正しい精神集中により想念を一点に止め、雑念を芽生えさせない。                       

智慧 心は澄んだ水面の如く一切を映す。命の実相を見、大宇宙の法則を理解し全てを在るがままに受け入れる

〇三 毒 (貪瞋痴)(不善処)

★貪欲  

欲を貪り、欲により心の平静を乱す。

(肯定する欲望)

★瞋恚  

激しい怒り、怨み。(否定する欲望)

★痴愚  

迷妄や無明から生ずる迷いや妄念、愚痴しい行い。不満(生存欲)

◎自我への執着や偏見が無くなれば真理は依り明らかに見えてくる 智慧はおのずと啓かれる

◎快楽の中の修行の成果を味わい生きる事の素晴らしさを享受し、命の意味を覚る。 「智慧の修行は甘美なる果実を収穫する。」

◎八 正 道       

本質への正しい見解 

正見.正思.正業.正語.正命.正精進.正念.正定

正念に始まり正智に終わると言われるが、八道を同時進行的に修養してゆく

参考

智慧の章 https://blogs.yahoo.co.jp/bhagavat_buddha/66120873.html

戒律の章 https://blogs.yahoo.co.jp/bhagavat_buddha/66121771.html

禅定の章 https://blogs.yahoo.co.jp/bhagavat_buddha/66122875.html

〇十二縁起(因果律) 

「此れ有れば 彼れ有り」

「此れ無くば 彼れ無し」

「此れ生ずれば 彼れ生ず」

「此れ滅すれば 彼れ滅す」

無明(妄念)⇒ 行(欲求の動機)⇒ 識(欲求の意識)⇒ 名入(選択)⇒六処(六根)⇒ 触(接触)⇒ 受(感受)⇒ 愛(愛憎・渇愛)⇒取(取捨)

⇒有(所有)⇒生(生の所有)⇒老死(老化虚無)    

◆十二縁起の順観・逆観  因縁因果

〇四 聖 諦      

苦諦  この世界は苦に満ちていると明らかに気付く。 

四苦八苦

生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦

集諦  

苦の原因が何んであるかに明らかに気付く

(煩悩により苦が発生することを明らかに気付く。)  

滅諦 苦の原因を滅すれば苦も滅することに明らかに気付く

道諦 苦の滅を実現する道を明らかに気付く

苦を滅するには遍知・滅除・成就・修習・八正道」の五道を実践

☆「遍知」苦は知り尽くすべき

☆「滅除」苦の原因は滅すべき

☆「成就」苦の滅は実現すべき

☆「修習」苦の滅を実現する道は実践すべき

◆三転十二行相  

十二縁起により、如実知見を得る。

(眼が生じ,知識が生じ,智慧が生じ,明知が生じ,光明が生じる。)

☆ 三転  

示・ 内容の確認⇒勧・どうすべきかの確認⇒ 証・了解・体得の確認

☆十二行相

【苦聖諦】   

苦聖諦とはこのようなものである。(示)

苦聖諦を完全に知るべきである。 (勧)

苦聖諦を既に完全に知り終えた。  (証)

【集聖諦】   

集聖諦とはこのようなものである。(示)

集聖諦を断ずべきである。     (勧)

集聖諦を既に断じ終えた。     (証)

【滅聖諦】     

滅聖諦とはこのようなものである。(示)

滅聖諦を目の当りに見るべきである(勧)

滅聖諦を既に目の当りに見終えた。 (証)

【道聖諦】   

  道聖諦とはこのようなものである。(示)

道聖諦を繰り返し修すべきである。(勧)

道聖諦を繰り返し修し終えた。  (証) 

〇五  蘊 (五集合要素)

【色 蘊】色かたち、「私」を分析すると、色かたちが見つかる。名称と形態

 ルーパ   体とは常に変化生滅してゆき「私」という実体はない 

【受 蘊】感受作用 五官(眼鼻耳舌身)を観察すると苦と痛みが見つかる

ヴェ-ダナー  負担に感じる量の痛み・苦が消える事が、楽である。

【想 蘊】表象作用 五官により得た情報を確認・再確認・妄想ている。

サンニャー 「花だ」「猫だ」「私は医者だ」「あれは何だ?」 

【行 蘊】意志作用 何かをしたい・何かしなくてはという気持ちがある。

サンカーラ 前の状態から次の「何かしたい」という力が変化しながら流れてゆく。

【識 蘊】認識作用、識別作用

 頭が知る事ではなく心が識ること。

区別判断・好嫌

ヴィンニャーナ(心)  

命・生きている認識・心のはたらき

◎区別判断するための情報や価値基準を想蘊をつかって識蘊が識別.判断している。

心(ヴィンニャーナ)が働く為に、受(ヴェ-ダナー)と想(サンニャー)が必要で、そこには必ず行(サンカーラ)が働く        

〇四無量心           

慈(マイトリー)誰れ彼れの区別・差別ない慈しみと友愛の心 楽を与える

悲(カルナー )  他人の苦しみ悲しみへ同化する心       苦を抜く

喜(ムディター)他人の喜びに嫉妬することなく同慶を感じる心

捨(ウペクシャー)極端な感情の起伏を制御した拘りのない平静な心

〇構成要素 

五つの構成要素の集まり(五蘊)と六つの感官(六根)

 六つの認識対象(六境)とを合わせた十二の領域(十二処)

十二の領域に六つの認識作用を合わせた十八要素(十八界)

☆五 蘊 

<色蘊(肉体)受蘊(感受) 想蘊(表象) 行蘊 (意思)識蘊(認識・識別) >

☆六 根  

< 眼・耳・鼻・舌・身・意 > 

☆六境

< 色・声・香・味・触・法 >  

☆十二処 ( 六根と六境 )

☆十八界 六根と六境(十二処)に、感覚器官の六つの認識を加えたもの 

(眼界.耳界.鼻界.舌界.身界.意界)

(色界.声界.香界.味界.触界.法界)

(眼識界.耳識界.鼻識界.舌識界.身識界.意識界)

〇重要修行項目

◎四 念 処   八正道の重要項目

1. 身念処  此処に身体において身体を観察して、正念正智して貪欲と憂いとを制御する。     呼吸の自覚

kaya  ⇒この身は不浄である 

2.受念処  此処に感受(楽・不苦不楽・苦)において感受を観察して正念正智して貪欲と憂いをと制御する。

感覚の自覚

vedana⇒感受するものは苦である。

3.心念処  此処に心において心を観察して、正念正智して貪欲と憂いとを制御する。    心の状態の自覚

citta⇒心は無常であり不安定である

4.法念処  此処に法において法を観察して正念正智して貪欲と憂いとを制御する         観念の自覚

dhamma⇒すべての事物は非我である

〇四 精 進 

 1.今生じてない悪(貪瞋痴)が生じないよう注意深く精進する

2.既に生じた悪(貪瞋痴)をなくすよう注意深く精進する。

3.今生じていない善(戒定慧)を行うことを決意し精進する。

4.既に生じている善(戒定慧)を安定させ修習し完成を決意し精進する。

〇五根   

<信根・精進根・念根・定根・慧根>

〇五力   

<信力・精進力・念力・定力・慧力>

〇四 神 足   

1.欲神足   欲求について意のまま集中し思念をもち実践する能力を修める

2.勤神足 精進について意のまま集中し思念をもち実践する能力を修める

3.心神足 思索について意のまま集中し思念をもち実践する能力を修める4.観神足 観察について意のまま集中し思念をもち実践する能力を修める「このように 私(釈迦尊)は四神足(瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。即ち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そして諸々の生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。

実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解に基づく行為を行う。

かれらは身体が破壊して死んだ後に善い所、天の世界に生まれた。

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。

すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」 

◎ 七 覚 支 

覚りの完成への七つの法「七つの覚り(完全な智慧)と支(部品)」

1.念 覚 支  心を平らかで過去や将来にも捉われず、今という瞬 間へ気付き、今を観察する。 

⇒妄想が能力を蝕む。今の瞬間に気付き妄想をとめる。

2.択法覚支 教えの中から真実なるものを選び取り、偽りの教え を捨てる。     因果関係の発見

 ⇒気付きを充分に実践していると自動的に「こうだから、こうなっている。」というような情報を依り明確に見て 分析する能力が現われてくる。

3.精進覚支 一心に精進し気付き分別能力を高め、因果関係の理解に精進する。

⇒気付き分別能力が身に備わると、やる気が増して因果関係の理解に精進できる。

4.喜 覚 支 真実の教えを実行する喜び、因果関係の理解の喜びに住する。

⇒葛藤や誘惑に打ち克ち精進してゆくと大楽が現れてくる

因果関係が如実に理解でき本質が見えてくる

5.軽安覚支 喜覚支が充分に深まってくると心が宇宙空間に居るかの如く軽やかになる

⇒心を自縛する不善処(貪欲・怒り・痴愚・渇愛・執着・怠け・疑)などの重石なくなった状態である

6.定 覚 支 禅定な状態であり心が集中、統一された状態となる。

サマーディ(禅定)

⇒普通の人の識る世界は、五官から入ってくる情報に限られていて、そこから入った情報を「意」で捏造して妄想している。そして

妄想 により達した結論を真理であり事実であると誤解し主観を形成。

正しい実践によりサマーディに達すれば五感の次元を超越し普通の人々には知りえない情報を識ることが出来る。

 この能力を「神 通」という。

7.捨 覚 支  対象への捉われを捨て気付きや因果法則を観る能力が具わり寂静を得る解脱へと至る。

⇒気付きが修養され因果法則を如実に観ることができ努力精進し、心を統一し安定させる能力が具わり、極限の冷静と寂静を得たれば捨覚支 へと進み「解脱」する。

☆世界は無常・苦・非我であると極限的な冷静をもって観察し明智する。

☆サマーディも因縁によって生起してものであり因縁が変われば消えてしまうものである

☆どんな楽であっても、所詮は執着する必要のない無常な現象にすぎない。

〇禅定 

禅 初禅⇔第二禅⇔第三禅⇔第四禅 

(瞑想・観照)          定 空無辺処定⇔識無辺処定⇔無所有処定⇔非想非非想定

☆ 入境(トランス状態に入る) 

梵(ブラフマナ)  想受滅     

梵天界(真理)へ座す。

◆ 禅とは徹底思惟であり、定とは心の定むる処なり    

   <全ては一息の内にあり。>

◆禅(徹底思惟)⇒定(思惟停止・止観)⇒梵(トランス状態)⇒定(無念無想)⇒

禅(正念正智)⇒解脱

◆大悟への瞑想

徹底思惟の瞑想 

(禅)ヴィッパサナー瞑想

精神統一の瞑想 

(定)サマティー瞑想 無念無想

気付きの瞑想     

ヴィッパサナー瞑想

平安の瞑想⇔開放の瞑想⇔歓喜の瞑想⇔感謝の瞑想⇔慈悲の瞑想⇔無所有の瞑想⇔明知の瞑想

 ★四つの条件を揃え、五つの蓋を超えると正しい禅定となり四つの心三昧が現われる

第一の初禅とは、思いが在り考えがあり欲を捨てて生じる。歓喜を体験し無欲の歓喜で満たされる。

第二の禅とは、思いがなく考えがなく想を捨てて生じる。歓喜を体験し無想の歓喜で満たされる。

 第三の禅とは正念があり正智がある喜を捨てて生じる。大楽を体験し無喜の大楽で満たされる。

第四の禅とは大楽がなく清浄がある楽を捨てて生じる。空性を体験し無楽の空性で満たされる。

★定は、釈迦牟二(シャキムニ)の瞑想法である。

しかし大悟して解脱し涅槃に成道させるのは[高度な瞑想]ではなく[智慧と叡智]である事を忘れてはならない。   

◎如実知見とは「在りのままに見て、在りのままに知る」 

〇八つの解脱    

1.初  禅 内心において「物質的なもの」という想いの者が、 外において物質的なものを見る。       

2.第二禅  内心において「物質ならざるもの」という想いの者が、外において物質的なものを見る。     

3.第三禅  己とは不浄なものであり世界とは清浄なるものであると覚る 

4.第四禅 「物質的なもの」という想いを超越、し抵抗感を消滅 し「別のもの」という想いを起こさず.個々に存在するのではなく全て無辺なる虚空」であると観じ、空無辺処に達する。 

5.空無辺処定 全てが法と真理のもとにあり」と観じ、識無辺処 に達する

6.識無辺処定 全てが無辺なる識であり虚空を分断するは無辺なる識であると観じ、無所有処に達する。   

7.無所有処定 在るのはただ想いだけであり「想いが虚空と一体 化した」と観じ、非想非非想処に達する。            

8.非想非非想定 想いが在るでもなし無いでもない境地。その境地を超越し「表象も感受も消滅する境地」 

9.滅想受定(トランス状態)に達する。

内々観 

Transcend 無意識層に安定 

                  

〇五  蓋 瞑想を妨げる五つの条件

1.貪欲蓋 2.瞋恚蓋 3.昏眠蓋 4.掉悔蓋 5.愚痴蓋

〇十結と四向四果   

★五下分結 (人を欲界に結びつける五つの煩悩)           

★四向四果 

1.有身見   我という不変な存在が有るという誤った見解    

 ☆欲界→感覚で認知できる世界 ☆色界→物質的条件として認知できる世界

2.疑 惑   何が真実か判らない状態 無知の状態       

 ☆無色界→欲望も物質的条件も超越し精神作用だけの世界・禅定に

   住まう。

3.戒禁取見 拘り仕来りや苦行などに色々な事に捉われた状態  

☆1、2、3(三結)を完全に断滅すると「預流果」を得る。

   須陀含(シュダオン)

4.欲 貪   激しい欲、欲情   ☆4・5が薄くなると「一来果」を得る。 

斯陀含(シュダゴン

5.瞋 恚   激しい怒り    

☆4・5を完全に断滅すると「不還果」を得る

阿那含(アナゴン)

★五上分結(人を色界・無色界に結びつける五つの煩悩)

1.色 貪  色界に対する執着、意識界の禅定への執着

2.無色貪  無色界に対する執着、無意識界の禅定への執着

3.掉 挙 私は到達したという意識界・無意識界の微妙な高揚

4.我 慢 私は成したという慢心、意識・無意識界の微妙な慢心

5.無 明  最後まで僅かに残っている根本的な無知       

☆五上分結を完全に断滅すると「阿羅漢果」を得る。

応 供(アラハット)

★応供に到達し叡智の顕現により大悟を得て成道を果たし無上正等覚者・如来(athagataタターガタ―)となる

【四向四果】

預 流  

涅槃に暮らし、唯、時空に身を預け、流れ行く。 預流に向かい、預流の果を得る

一 来   

涅槃に暮らし、時空を超越し、戻りもしたる境地。 一来に向かい、一来の果を得る。

不 還   

時空を超越し、世界を俯瞰する者なり不還に向かい、不還の果を得る。

阿羅漢  

現世に在り、現世になし(空観)  

阿羅漢に向かい、阿羅漢の果を得る。

〇梵我一如の六態

第一態  閉眼、座禅定。止観・正念正智による空境への入境

⇒沈思により梵天界(色界)への入境⇒滅想受により無色界へ入境

第二態  半眼、座禅定。止観・正念正智による空境への入境

⇒沈思により梵天界(色界)への入境⇒滅想受により無色界へ入境

第三態  開眼、座禅定。止観・正念正智による空境への入境

⇒沈思により梵天界(色界)への入境⇒滅想受により無色界へ入境

第四態  閉眼、立禅定。止観・正念正智による空境への入境

⇒沈思により梵天界(色界)への入境⇒滅想受により無色界へ入境

第五態  半眼、立禅定。止観・正念正智による空境への入境

⇒沈思により梵天界(色界)への入境⇒滅想受により無色界へ入境

第六態  開眼、立禅定。止観・正念正智による空境への入境

⇒沈思により梵天界(色界)への入境⇒滅想受により無色界へ入境

〇六神通  六種の神通力・観自在な境地・通常の次元を超えた深い洞察力 

如来の法力

★神足通(iddhi-vidha-ñāṇa)- 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。

★天耳通(dibba-sota-ñāṇa) ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。

★他心通(ceto-pariya-ñāṇa) 他人の心を知る力。

★宿命通(pubbe-nivāsānussati-ñāṇa) 自分の過去世(前世)を知る力。

★天眼通( dibba-cakkhu-ñāṇa)

★死生智(Cutūpapāta-ñāṇa) 一切衆生の過去世(前世)を知る力

★漏尽通(āsavakkhaya-ñāṇa)自分の煩悩が尽きて、今生を最後に生まれ変わることはなくなったと知る力。

〇 感謝のお便り (数多くの頂戴した感謝のお便りの一部を掲載)

如何なる不運・問題・災厄・悪因縁・業病から真に救う事のできる

如来の法力

 

〇心の悩み                        

愛知県蒲郡市 幸田(女性)

私は3年も付き合っていた彼にある日突然に別れてくれと言われ何が何だかわからなくなり頭の中が真っ白に

なってしまいました。

それからというもの仕事をしても手に付かず街の中を彼の姿を探してしまい情緒も不安定になっていました。

それから暫くして風の便りで彼が結婚したことを知りました。私はショックのあまりいっそ死んでしまおうか

と考えたりして死ぬことに憑りつかれたようになっていた時、如来品正師のブログに偶然に巡り合い[]死随観]

というページに心を癒され思い切って如来品正師多々方様にメイルさせて頂きました。

優しく心のこもった返信を頂き、私の前世の事や運命の事や今の私の状態と本当の自分を取り戻す方法を指導

して頂き、前世の業と運命の障害を取り除く法力をお願いしました。

今ではやさしい主人と巡り合い二人の子供にも恵まれとても幸せな日々を送らせていただいています。

もし如来品正師様と巡り会う事ができなかったら、あの時に一歩踏み出せなかったらと思うと、幾ら感謝して

も感謝しきれません。本当に有難うございました。

〇業 病(悪性腫瘍・癌)           

山梨県甲府市 若杉(男性)

五年前、念願だった新築住宅を購入し家族三人で暮らし始めた頃に何故かそれまで一度も経験したことのない

体の痛み(特に下腹から尾骶骨)と漠然とした不安感で夜も眠れない日々が続きました。

思い切って病院で検査すると大腸癌と膵臓にも転移しているので手術ではなく薬物療法で経過をみると言われ

癌薬による治療をしていたのですが癌は肥大化してゆき体は明らかに衰えてゆき、内心では「死」を覚悟した

のですが残される家族を思うと居ても立ってもいられない気持ちでした。

そんな時に友人から私のような病人を救ったという如来品正師(如来)の話を聞き、藁にも縋る想いで連絡させ

て頂きました。

とても心のこもった対応をして頂き、私の前世のことや.運命のこと.私の今の状態(因果律に遵った縁起).正常

な状態へ戻す道(方法)などを教えられ、早速、前世の業と運命の障害を取り除く法力で救って下さるよう懇願

いたしました。

本当に不思議なのですが半ば諦めかけていた癌がその後、お医者様が驚く位に癌は小さくなってゆき.転移して

いた腫瘍もいつの間にか消滅していました。

癌薬の効果だという人もいるでしょうが私より軽度の患者さんでも死んでしまう事も数多くある現実を考える

と、私は法力で救って頂いたと心から感謝しています。

今では家族そろっての幸せを取り戻すことができ、皆、元気に暮らして居ります。

多々方.如来品正師様、有難うございました。 

パニック障害統合失調症          

東京 赤羽 阿部(女性)

多々方様にご指導頂ける仏縁に恵まれ、専門医からも見放された精神障害から完全に回復する事が出来、平安で幸せ

な日々を取り戻す事が出来ました。本当に有難う御座います。

躁鬱病                                  

三重県 松坂市 笠原(女性)

私も重度の躁鬱病を患い、医者からも匙を投げられ安定剤や眠剤とか大量の薬漬けにされて居ましたが幸いにも多々方如来品正師に巡り合う事ができ教えに従い努力し社会復帰することができました。命の恩人とさえ言えるお方だと心より感謝申し上げます。

 ≪ 相談無料 ≫  

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    🏣333-0866                                                  埼玉県川口市 芝 頂乗学舎

        如来品正師  多々方 路傍石

  Eメイル bongteng@live.com