承認欲求(自己顕示欲)

大衆や社会から承認されたい.認めて貰いたいと過度に思うのは、本当は自分に自信がない証であり、他人や社会からの承認や是認により不安を取り除きたいと欲しているのである。
しかしそうした無明の闇を、無明(本質的無知)な大衆や.偏り.歪んだ社会から承認され.認められる為に、大衆迎合的に社会迎合的に自分の信念や存在感を緩やかに殺して他人の尺度で生きてゆく事を選択する事に等しく、真理(真実.事実.現実.実相.本質)から遠ざかってゆく事に他ならない…
まして奥深く微妙で難解なこの大宇宙の真理を説いている仏の教え仏教を大衆や社会に理解させるのは実に困難で骨が折れるものであり、何しろ世間と言うものには、事実を素直に認めるという性格は持って居らず、利得.感覚.感情.主観.直感などを頼りとしているのであり
伝統的なこと.思い込み.権威.信仰.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観...などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものである…
他人は他人…自分は自分であり、良しにつけ悪いにつけ、人の振り見て我が振り直す為には役立つが、他人の牛を幾ら数えても、自分の牛になるわけではないように、他人と比べて見ても優れていると思う人には憧れたり嫉妬したり、等しいと思う人には変なライバル心を燃やしたり荒を探したり、劣っていると思う人には侮蔑したり敬いを忘れ自己満足に浸ったりと凡そ根拠の薄弱な妄想を膨らませて、無明の闇を深めてゆくものである…[大概の苦や不満(ドゥッカ)は無明から生じる]
人それぞれの価値観(生き方)があり、自分には自分の価値観がある筈であり、例えばお金を異常に愛しているような人は多いが、他人から守銭奴.人否人と蔑まれようが自分が愛と満足に包まれて生きているのなら.それはそれで良いのである…


未熟な人の直感などは当てにはならない、
自らを制し自分の心をよく見つめ、研ぎ澄まされた洞察力を閃きとも直感ともいうのであって、無明なまま我欲に翻弄された主観や直感で生きてはならない…
金を始め所有の次元の事物は便宜的付随的な手段であって決して目的ではない…
建前ではなく、例えば医者が、例えば起業家が、例えば政治家が、例えば教師が、例えば発明家が、例えば僧侶が、その中に世の為.人の為になる有益性や使命感を目的とせず、権威や地位や利得や名声を目的と錯覚して行なうならば、例え権威.地位.利得.名声を得たとしても[ただ風の前の塵に同じ]無常で空虚で夢幻とも呼べる便宜的な付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物に魅入られ.翻弄されて大切な人生を無価値なものに貶めて悔いと執着の中を輪廻の激流を繰り返すことがないように克己して行かなければいけません…
欲望と怒りは表裏一体なものなのです。欲望の裏側には怒りが潜んでいます。ですから欲望が強ければ強いほど、裏で怒りとか不満が繁殖してゆき.更に心を貧しく.卑しく.欲深くさせて行くのですから…
僧侶や如来が道を説くのは.承認欲求でも自分をアピールしている訳でも、自己主張してアイデンティティを高めたい訳でもなく.道だからである…
自らが満ち足りずして、真の道は説けない…
自らが悟らずして、悟りとその道は説けない…
悟りは自らが道を実践して啓くもの…
幾ら仏典に精通していようが位階を重ね仏の教えを理解した積りで居ようが、欲望の炎と承認欲求が残る限り、無明なままなのである…
大悟とは無明の滅尽であり、解脱の道も.成仏の道も.涅槃(ニルバーナ)への道も.また無明の滅尽なり…
梵天勧請
私の悟ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
処がこの世の人々は、執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている。
さて執着の拘りを楽しみ、執着の拘りに耽り、執着の拘りを嬉しがっている人々には、(是れを条件として彼れが在る)という.即ち縁起という道理は見難たい。
また全ての形成作用の鎮まること、すべての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、安らぎ(ニルバーナ)というこの道理もまた見難たい。
だから、私が理法を教しえ説いたとしても、もしも他の人々が私のいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。
私には憂慮があるだだ…                   このようにして、折角、啓いた悟りを広く開示することなく、ひとり胸にしまっておこうとされた…
その時、世界の主・梵天(ブラフマン)が現れて、お釈迦さまに向かって合掌・敬礼して「たとえ汚れた泥沼のような世の中であっても、その泥沼の中から頭をもたげ白く美しく咲く蓮の華のように、この至高なる理法を理解できる人もいるでしょう…是非ひろく教えを説いてほしい」と懇請する。
 この教えは知者に属するものであって、愚者に属せずと考えられて.ひとたびは説法を断念したお釈迦様であったが、梵天の説得により、広く説かれる道を選ばれたのでした…


縁起という[見難たい]法則性を教義とし、無明(本質的無知)の闇を晴らし、悟りという[達し難たい]真実に目覚め.本質的な苦からの解放を目的とし、涅槃という堅固な安らぎの境地へと至る道を指し示した仏教を宗教として位置づけ.世界の三大宗教のひとつと言いながら、いったい何人の信者や修行者や僧侶がその教義を理解し、何人が悟りを啓き涅槃の境地へと到達しただろうか?
その深淵で難解な真理の前に、悟りは神秘的な秘儀と捉えられ、真摯な修行者を苦しめ悩ませ、理解する事が出来えない多くの脱落者を生み出し、そんな脱落者や邪見者や信者はバラモン思想へと逆戻りしながら現実から乖離した得体の知れない妄想的な神.仏や怪しげな力に救済や守護を求める大衆迎合的な大乗思想や分別部派を生み出す結果を招いた…
呪術.呪文.真言.読経.題目などに自己暗示以上の思議しえない不思議な力を謳い、「仏教とは無じゃよ.空じゃよ」などと訳の解らない悟りの世界を嘯きながら金勘定に忙しい高僧や、因果律(縁起)に反する祟りや因縁や霊障を主張して民衆を脅しこみながら除霊.浄霊.呪術を生業(なりわい)とするような如何わしい霊能者やペテン師や怪僧が絶えないのも真理(真実.事実.現実.実相)などが見難く.深淵で.難解で.微妙であるせいなのである…