路傍の如来の説法−2〈初夏の集い〉

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【路傍の如来.説法録。その二】
【初夏の集いでの説法】  

上野の森の木々も勢いを増した日差しを浴びて萌えるような緑に覆われ、吹く風もだいぶんと温かく感じられる蝉も穴から這い出しちらほらと啼きだした初夏の頃、人々は別段に示し合わす事もなく再び導かれるように集まってきた。上野駅の不忍口に着くと前回と同じように辻に立たれる路傍の如来を拝してその湧き上る歓喜を抑えつつ近づき低頭合掌し鉢に僅かな施与をし路傍の如来が微笑み指し示す空地へと右回りに移動して路傍の如来が行を上げられるのをお待ちした。
昨晩の雨露を含んだ青葉の繁る森を眺めながら、皆それぞれに前の集いを思い返しながら前の集いからの気付きや疑問やその間に出現した問題を振り返っていた。中には人伝てに今回初めて来た者や友人に連れられて今回初めて来た者も多く、不思議な縁に導かれて今回初めて訪れた者達も前回に増して訪れ路傍の如来の説法を聞き逃すまいと前回の集いより更に多くの人達が集まっていたが、それぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と蝉の声しか聞こえなかった。
太陽が天中を過ぎたころ、路傍の如来は顔前でゆったりと鈴(りん)を三度打たれた。
高く鋭い音が空気を引き締め空間を貫き、木の実を集めていたリスが警戒を解き虚空に目を凝らすように、心の汚穢が脱落してゆくような透き通った余韻の中で路傍の如来は徐ろに隣合う空地に向かい歩を進められ、人々はそれぞれ静かに合掌して路傍の如来を迎えられた。

黒カバンを脇に置いた若い男が合掌してお尋ねした。

路傍の如来よ。
どうか、お教しえください。私達はどのように修養すればいいのでしょうか? どうすれば世界の変化を在りのままに見る事ができるのでしょうか?

路傍の如来よ、この凡俗で怠惰な私にお教え下さい
路傍の如来は頷きを向け仰った
よろしい。修養の仕方を教えよう。
先ず日々できる限り悪を避け、欲望や怒りを鎮めなさい。
修養法には二種あり。ひとつが集中であり止観とも禅那(ジャーナ)とも呼ぶ瞑想法であり、もうひとつが釈迦尊(ブッダ)が発見された透察(透視.洞察)であり観行(ヴィパッサナー)とも呼ばれる瞑想法である。
この二つの瞑想法を説明する前に、先ず皆にこの禅定.観照.内観とも称される瞑想に付いて多くの人が持っている誤解を解いておかねばならないだろう。
多くの人は禅定や瞑想と聞くと、日常生活からの逃避だとか.社会から離れた山中や瞑想道場など特別に仕立てられた場所で酷く窮屈な状態で行なうものだと誤解し縁遠いものだと思い込んだり、何か神秘状態とか憑依状態に没頭する事だと勘違いしていて、現にそういった非日常への逃避願望や神秘体験や憑依体験を欲して瞑想する人も多く、誤解された結果として瞑想は堕落してゆき陳腐なの儀式を伴って人々をトランス状態へと誘い込む染脳手段としたり、妄想的パラノイア集団による集団催眠とか正しい瞑想とは真逆な[第三の眼][浮遊術][超能力][霊能力]などの得体の知れない能力の獲得といった精神的倒錯した欲望の罠に利用されたりしているが、正しい釈迦尊(ブッダ)の瞑想とは心の修養.心の啓発.心の発達.心の浄化を目的としている。
そして忘れてはならないのが、集中による高度な瞑想であっても、高度な瞑想によって得られる三昧といった苦しみの片鱗さえない快楽や純粋な精神的次元でさえも単なる現象に過ぎず、心によって生起し、心によって生み出された条件付けられたものであり、条件(縁起)によって生じているものは、条件(縁起)によって消滅する性質のものに過ぎず、無常でドゥッカ(苦)で移ろうものであり、それらは実存.真理.大悟.涅槃(ニルバーナ)とは無関係なものでもあり、精神的な修養の一階梯に過ぎない事を自覚しなければならず故に「悟ったと山を下りてただの豚」とも言われる実相を伴わない感覚的.感情的.主観的な能書き.戯れ言.綺麗事.観念論(プラパンチャ)に自惚れてしまいがちなのである。
真の仏教の瞑想とは旧来から有った心を集中させ統一させてゆく瞑想と、釈迦尊(ブッダ)が発見され実践を以って至高なる真理(ニルヴァーナ)への到達をもたらした勧行(ヴィッパッサナー)を双修してゆくものであり「今という瞬間への集中と在るがままに観る透察」によって到達する境地を説いているのであり、釈迦尊(ブッダ)は色々なヨーガや瞑想の達人の下で修業なされ.それぞれの奥儀にも達せられたが満たされず、それらにだけによっては完全なる解放を得る事も究極実存の真理を得る事も出来ないと自らの実践により覚られ、真の到達と真の完成と真の透察を自らと天地自然の法則を灯明として実践修養し発見されたのが勧行(ヴィパッサナー)との双極の瞑想なのである。

仏教には三法印という真理があり、無常.無我.苦(ドゥッカ)によってこの世界(現象世界)は成り立っている事を観察し分析し思惟し検証し確証を得て理解する事であるが、無我に向かうにも集中に向かうにも気付く為にも心を穏やかにしておく必要がある
完璧を求めてはいけない。完璧を求めても得られるものではなく却って緊張と不安を生じさせてしまうだけ、心が平らかに安らげないようでは逆効果だ。
欲望や怒りや焦りは、貴方達を荒々しく揺さぶる。心が静かな水面のようでなければ、世界の変化を正しく映すことができないが、荒れた波が静まり漣となり揺れ動き不安定であっても心の水面に世界を映す。そうやって段々と心の水面は鏡面の如く全てを映し込んでゆけるようになる。
激しい感情にのまれそうになったら、一歩離れて眺めて今の感情という現象に気付きなさい。すっかり鎮められなくても、やがて感情は力を失い萎んでいくだろう。
止観と勧行による集中.無常.無我.気付き.透察(透視.洞察)という修養は双修して行くものである。
別に特別な場所で座禅を組まなければならないものではなく、どこであっても、椅子に座っていても、立っていても、横臥していても、何か作業をしていても、安定した姿勢を正して肩の力を抜いて、呼吸や体の部位に心を集中して五感官(眼耳鼻舌身)の刺激や感覚に気を取られないよう心をよく見張り、呼吸を調え心の集中を高めてゆき、身体の状態.感覚の状態.感情の状態.五蘊作用の状態を自覚して集中と透察(透視.洞察)を高めてゆく事が修養であり、自分という意識が脱落してゆくと自分と世界の境はなくなり.その状態自体、現象自体が世界と一体化してゆく経験をし.自分と世界が丸々ひとつになる。自分もなく、意識もなく、意識の対象もない。それがどのようなものだったか、後から思い返す事は難しく.言葉で表現できない。言葉が生まれる前の経験をしてゆく。この経験を繰り返すことによって、貴方達は、磨かれ、殻がとれ、柔軟になり、世界にむけて大きく開かれる準備ができる。

黒カバンを脇に置いた若い男が、合掌し、足を組んで申し上げた。
およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます。柔らかいものを敷いて、足は結跏に組み、もしそれがつらければ半跏でもいい。両膝が地面につくように尻には一段高く敷き物を敷きます。左手の親指を右手で包むように両手を組み、力まず自然に胸を張り、顎を引いて、そのまま体を前後、左右に揺らし、尻から頭の先までまっすぐ上に伸びたところで止めます。舌は上顎につけ、視線は一、二メートル先に見るでもなく落とし、鼻先に意識を集めて、腹の底からゆっくりと息を吐き、すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます。この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます。

黒カバンを傍らに置いた若い男は、自分で言ったとおりに座り、息を数えはじめた。
人々も、倣って足を組み直した。

それを見て路傍の如来は薄笑いを浮かべて仰った。
宣しい、宣しい。大変よろしい。
高度な集中による禅定(ジャーナ).三昧によって得られる[神秘体験][集中力][愉悦感][精神的安定]は素晴らしいものである同時に先程も言ったようにそれらは条件(縁起)により生じたものであり、条件(縁起)により消え去る性質のものである事を忘れてはいけない、真の苦(ドゥッカ)の滅尽と堅固な平安.安定.歓喜.静逸.悦楽.幸せとは違う無常に含まれるものである事を忘れてはいけないよ。
さあ先ず禅定(ジャーナ)を体現し更に踏み込んで観行(ヴィパッサナー)により涅槃(ニルバーナ)を目指しなさい。
そのようにして、十分でも二十分ずつでもいい、時間を見つけて何度でも集中し物事を在るがままに観る修養を続けなさい。雑念や妄想に陥らないように心を欲見はりなさい。ゆっくりと呼吸を数えたり身体の部位に集中してその現象や変化に気付いてゆけば自ずと心の揺らぎはおさまり、すっかり鎮まり澄んだ心の湖面に無常や無我やドゥッカ(苦)の正体は映し出されて湖底に光が射すように、世界が貴方達の心の底まで届き、貴方達を透り抜けていく。その時、貴方達にはなんの自意識もなく、ただ心的エネルギーがこんこんと湧き出す泉になっている。はじめは長く続かないかもしれない。焦ることはない。時間を見つけて少しずつでも修養してゆくうちに、だんだん長く、簡単に禅定に入り勧行(ヴィパッサナー)により真理が顕現し叡智が得られるようになるその時に自我を滅して無我へ至る事を忘れてはいけない。
内観して身体.感覚.感情.意識の変化.生滅に気付いてゆく事と又、外観してたとえば茶碗でもいい、貴方達が慣れ親しんでいるものを、目を凝らしてじっと見つめなさい。かすかな汚れ、縁の歪み、釉薬のむら。ひび。細部をあくまで詳細に見つめ続けなさい。貴方達の手でもいい。手の甲の網の目のような皺が、あるところでは荒くあるところでは細かくなっている様子、細い毛が網の交わりからはえる様子、爪の生え際の皮膚との境目。
人々は、自分の手を見た。大きく分厚い手、細く白い手、日に焼けて皺の彫り込まれた手、さまざまな手があった。

細部を見つめる貴方達の目は、慣れ親しんだ「もの」に被せられた厚い皮をはがす。見つめるうちに、あなたたちは驚くだろう。貴方達の見たことのない異様な姿が、突然現われる。もはやそれをなんと呼んでいいか分からない。茶碗が茶碗でなくなる。自分の手が、手ではなくなる。決まった使い道も、名前もない。これがむきだしの「もの」の姿だ。現象の一つの形としての、ありのままの姿だ。表情のない見知らぬ顔だ。貴方達は恐ろしくなるだろう。だが、ひるまず繰り返し見つめ続けなければならない。
すぐに貴方達は知る。貴方達のそれまでの見方が、どれほど自分勝手だったか。茶碗と呼び、手と呼ぶことが、なにをもたらしてきたか。自分勝手に名前をつけ、自分勝手に用途を決め、「もの」が自分のためにいつもあると思っていた。わたしの茶碗、わたしの手。こうして執着が始まったと。

しばらく苦しい日々が続くだろう。人間の作ったあらゆる物、そして、貴方達自身の体が、貴方達を拒絶し、世界のどこに逃げても、むきだしの「もの」が貴方達を追いたてる。貴方達は、世界の中で居場所を失う。それまでの生活の身勝手さに気づいたために、身勝手だが安楽な生活から追われる。

習慣的なあり方を超えて、前とは違う仕方で世界と和解しなくてはならない。そのための修養が、全体性を破壊したり分断.分別したりせず唯、眺める練習である。難かしくはない。空でも山でもいい、街でもいい、危険のない所で、意志を働かせずに唯、眺め何処かに焦点(フォーカス)を合わせようとせず全体性を眺めるのだ、そしてそのまま目は開けて、ゆっくりと呼吸を感じながら歩いてみなさい。何ものにも焦点(フォーカス)を合わせず、いくぶん目線よりやや高い中空に視線を浮かべて。
あらゆる方向から沸き上がってくるさまざまな音が、貴方達を捉えるだろう。聞こえていたのに聞いていなかった音だ。あなた方はそれを人が小枝を踏む音だとか、車ののクラクションの音、鳥の鳴き声、水の音、木々を抜ける風の音として音も音としての全体性を分断.分別して捉えようとするが音は音であり、さまざまな音が混ざりあい溶け合った音の何れかを貴方方が分断.分別して意味付けしてしてしまうが耳と言う感覚器官が捉えているのは一つの溶け合った音が貴方達を包んでいる。街の匂い、煙の匂い、木々の匂い、さまざまな匂いにも気づくだろう。
焦点(フォーカス)を合わさずに見て聴いて嗅ぐ世界は輪郭線を失った全体性の世界なのだ。ひとつひとつの「もの」が、もはや形のある独立した存在ではなく、形のない色と光の踊りになる。ある部分は明るく.ある部分は暗い。ある部分は流れ.ある部分はざわめき.ある部分は動かない。この修養は世界を全体として在るがままに感じるための第一歩でもある 。

さて、善男そして善女よ。
虹の色はいくつあるか?

七つです。
元気よく少年がお答えした。

本を手にした学生がお答えした。
いいえ。そうではありません。あたりまえのことを説く如来よ。
虹は、赤から紫まで少しずつ色を変え、その間に区切りはなく、色を数えることはできません。

宣しい、宜しい、そのとおりだ。
しかし、わたしは、七つという答えも欲しかった。
路傍の如来は、少年にむけて手を伸ばされた。間違いに顔を赤くした少年は、額に如来の大きな手を感じた。
そのとおり、実際の虹の色は、段階なく変化し、数えることはできない。色鮮やかなときもあれば、ぼんやりしたときもある。しかし、貴方達は、虹と聞けば七色で美しいと思う。虹は七色で美しいと教えられて育ったからだ。五色と教えられた人は五色と思い、八色と教えられれば、八色に見る。貴方達は、このように教えられ、このように学んできた。あなたたちは、言葉によってあらかじめ決められた仕方で世界を分類し整理する方法を学び、そのようにして世界を見ている。無限に変化している一回限りの現象が、言葉によって退屈な「いつも」にされる。言葉にまとわりついた好悪、善悪、美醜といった価値のレッテルが、多様な現象をひとからげに処理する。言葉が「もの」の用途を決める。そのようして分類され整理され価値づけられた世界は、防腐剤処理された剥製のように、艶を失いひからびて、もはや走ることも、歌うことも、飛ぶこともない。これが永遠の世界だ。あなたたちは、生きて変化する世界から目をそむけ、言葉というピンで留められた永遠というひからびた世界ばかりを見てきた。

見つめることを学び、「もの」の無我を見た貴方達は、言葉が世界のありのままの姿を歪め、自分たちのものの見方を支配していることを発見し、ひとつ深くなる。しかし、言葉の力を過大評価しすぎても、間違った解釈に陥る。言葉を操る心や意識にだけ注目するという過ちだ。
経典と呼ばれていても、すべてが釈迦尊(ブッダ)の教えに添うものでないことは、既に話した。これもそのひとつだ。つまり、世界は夢幻に過ぎず、ただ心だけがあり、言葉によって心が世界を創り出しているという考えだ。日常的なあり方の虚構性を知った貴方達は、このように説く経典や論書に魅せられるかもしれない。しかし、このような考えは、世界を内と外に分けて外界を否定し、心のしくみばかりを分析する。心が世界を妄想するといいながら、本当に妄想されているのは、いたずらに複雑化された心のしくみの方だ。
確かに世界は、存在としては存在しない。しかし、現象としては現象している。けして単なる夢幻ではない。もし、あなたたちの誰かが、世界は妄想にすぎないと思うなら、針で自分を突いてみればいい。幻の針で幻の体を突いたのなら.その痛みも幻にすぎない筈だ
心や意識を分析するよりも、ありのままに世界を見なさい。内に目をむけるより、外に自分を開く方がずっと大切だ。
貴方達は、世界の中でなんら特別な存在ではない。貴方達も、岩や、虫や、雲や、風や、星と同じように、世界の中に世界と共に生まれた現象なのだ。あらゆる現象と対等に互いに縁起しあう現象だ。この認識が、貴方達に大いなる喜びをもたらす。
さあ貴方達は双極の瞑想を学び、意志を働かさずに在るがままを見つめる事を学び、集中して眺め.分析して.思惟し.吟味し.検証し.洞察し.透視し理解する事も学んだ。これらの修養に磨きをかけるために、時々でかまわない、立っている時でも.座っている時でも.椅子に腰かけて居る時でも.合間があったら瞑想を愉しみなさい。特別な場所や環境や時間や作法や決まり事を拵えて行う必要など本当は何処にもないのだよ、それらは頑迷で暗愚で無思考な者達の拘りに他ならないのだから。ただ姿勢を調え心を集中させ統一へ向かう禅那(ジャーナ)と透察へ向かう勧行(ヴィパサーナ)の両極の瞑想により真理(真実.実相)に気付いて行きなさい。人里はなれた山に入っての瞑想は山の霊気により高い境地へ達するだろうと考えるのは精神的錯誤であり妄想であり邪見であり無明であり愚かなのだよ。かつて多くの聖者と呼ばれる人達が人里を離れ山に入ったのは、言うなれば現実逃避であり今の言葉でいえばスタンドプレーでしかなくまったく意味のない事なのだよ。
貴方達も、特別な場所や環境や時間や作法や決まり事を拵えて行う必要などなく、立っていようが座っていようが椅子に腰かけていようが姿勢を調え心を鎮めて集中してゆくだけなのだよ。
ここでの目的は、本質的なエネルギー(梵)によるこの現象世界を全体として感じることだ。ただ大きいだけではない。重要なことは、貴方達自身を含んだ関連の全体として世界を経験することだ。外から対象化した世界ではなく、貴方達自身が世界のすべてとともに歌い踊り、互いに縁起しあって世界となる、そのような世界だ。世界とともにあなたたちを生みだし、貴方達を動かす本質的なエネルギー(梵)を感じて欲しい。世界を縁起の世界として外からみることは、まだたやすい。しかし、自分もその一部だと知ることは、ずっと難しい。
路傍の如来は、空を仰がれた。太陽は、すでに西の山脈にかかっていた。

わたしは多くを語った。ここからは貴方達は、自分で考えなければならない。そして、座る練習と見つめる練習、さらに見ない練習も積まなければならない。そしてある日、何かが貴方達に起こるだろう。

今日は此処までにしよう。次の機会には是非あなた方の変化や気付きを聞かせて欲しい。
焦らずに楽しみながら励みなさい。
路傍の如来は胸の前で低頭合掌なされおもむろに去っていかれた。

路傍の如来の説法−1〈晩冬の集い〉

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自分を高め世界を変える真正な仏教
覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て

【路傍の如来.説法録.その一】
晩冬の集いでの説法
開経偈
南無 
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
到達者であり正覚者たる彼の釈迦尊(ブッダ)を礼拝します
滅する事なく生ずる事もなく、断絶も常在もなく、一つの事でも異なった事でもなく来る事も去る事もない因果律(縁起)、本質的には真実を表現できない不毛で虚妄なる言語(プラパンチャ)というものによっては、かくの如く決して表現され得ない深淵なる因果律(縁起)と三つの真理(三法印)と四つの道(四聖諦)と慈悲と叡智に依って説き教えられた釈迦尊(ブッダ)、最も勝れた説法者に礼拝致します。
一切の生きとし、生けるものたちは、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。

晩冬の説法如是我聞晩冬の頃、大きな上野の森やアメ横へと向かう人々が往来する上野駅前の辻に立ち続けられる自らを路傍石と号される如来は、立禅のまま深く禅定(ディャーナ)に入って居られた未だ寒風は法衣を波打たせ、木々の新芽が芽生える日も間近となった人々もまばらな昼前であった。ある者は如来の存在を人伝てに聞き、或は夢に現れ、また不思議な縁に導かれて各地から上野の不忍へと各々の想いを胸に路傍の如来の説法を拝聴しようと人々は集まって来た。駅前に着くと、辻に立たれる路傍の如来に向かい目を輝かせて近づき、低頭合掌して施与し説法を乞うと如来が指し示られた隣り合う空地へと一礼をして右回りに移動し腰を下ろした。時が経つにつれてその数は増え、南中を過ぎる頃には空地はすっかり人で埋め尽くされていた。晩冬の日差しは未だ弱かったが、乾いた風が梢を揺らし誰も不快だとは感じなかった

その日集まった人々の中には、色々な問題で苦悩する人々、不満に苛まれる人々、不運を嘆く人々とともに、善行に努め励み人の悩みを聞いてその苦しみを減じることに長じた人、経典の知識が豊富な人、自分の幸福より他人の幸せを優先する事に努めて来た人、貧しい人々に多くの援助を惜しまず施してきた人なども居たが、この日集まった人々は皆よき人々であり、悪習に染まらず悪行に馴染まないよう心を汚すことを注意深く避けてきたが、ドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.迷い.悔い.哀しさ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.不満.無常さ.無明.渇き)から抜け出す事が出来ず不安と満たされない想いを拭い去る事が出来ずに真の幸せへ向けて更なる一歩が踏み出す事が出来ずにいた。
晩冬の木漏れ日の中で、人々は静かに待っていた。

かたわらでは、鳩たちが羽ばたきながら餌を啄ばみ風に導かれて、枝の下を透かせば、緑もえたつ谷が広がり、そのむこうの森の傾斜が緩むあたりを、銀色の電車がゆっくりと横切り、さらにかなたの鉄塔の上には、乾きかけた刷毛でなでたような雲が、青空高く広がっていた。
やがて鳩たちの羽音が近づき、如来の肩先にそれがとまると、路傍の如来は合掌し、ゆっくりと半眼から視線を上げて人々を見渡し、静かに人々のもとへと移動され徐に語りはじめられた。

善男そして善女よ。
私の話す事は俗世の潮流に逆らい人間の利己主義的な欲望に逆らうものであり.世の中の多くの人々が当たり前だと思い込み錯覚しながら無明な闇の中を欲望に煽られ盲目的に生きる人々を目覚めさせ、乗り越えさせ、解き放つ覚醒.超越.解放.自由を説くものである。私が体現したこの真理(真実)は見難く.理解し難く.物事を在るがままに正しく前向きに捉えようと努力しない者には把握され得ないものである。世の潮流に逆らい高遠で深く微妙で難解なこの真理(真実)は欲情に打ち負かされ闇に包まれた者達には見難く理解され難いものでもあるが、新しいものは何もなく、何もかも貴方達の誰もが本当は解かっている事ばかりだ。しかし貴方達はそれを忘れている。自分への執着(我執)や物事への執着によって強固な夢幻.妄想による頑迷を造りだし、その夢幻.妄想への執着により更に自我を強め真理(真実)を歪め盲目的(ブラインドアイ)に彷徨っている。

夢幻とは妄迷であり妄想であり錯覚であり、我執とは妄想により造り出された自我への執着であり、妄迷と我執とは蘆の束のように互いに支えあって起き上がり、ますます太く強く絡みつく。真実は益々奥深く隠され見えなくなり、そして貴方達には汚れや穢れが染みつき、重く固く脆くなって暗い濁りの中に沈んでいくのだよ。
夢幻.妄迷.妄想に惑わされていてはいけない夢幻.妄迷.妄想を捨て去り捨離し、目を見開き、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放ち解放され、見える通りに世界を見る事のできる依り高い人格を形成させてゆく事が出来る。そうすれば、いつも新鮮な光に照らしだされた自由な真実により形造られた新鮮な世界の中で、世界と共に歓び.歌うい.共に躍動することができる。その時に貴方達は、決して苦に転じることのない堅固な喜び(suka)、純粋な情感による大いなる安楽を奥深く味わえるだろう

傍らに買い物袋を置いた勤め人風の若い男が、右膝を地面につけ合掌して路傍の如来にお尋ねした。
路傍の如来よ。
私はいつも注意を怠らず目をしっかりと開けて物事を見ています。しかし私たちが見ているのとは違う別の見方があるのでしょうか? 私たちが忘れている別の見方とは何でしょうか? 決して苦に転じることのない堅固で純粋な情感の深い大いなる喜びとは何でしょうか?
路傍の如来よ。どうぞお教えください。
傍らに買い物袋を置いた若い男はその刈り上げられ調えられた後ろ髪の生え際まで晒して頭を垂れた。

見なさい。
路傍の如来は、おもむろに腕を伸ばし、木漏れ日に照らされた一隅を指差した。するとそこに砂塵が舞い上がり.つむじ風が起こり、瞬く間に強くなった風は、大きく梢をゆるがせて広場を一巡りした。人々は、首をすくめ、持ち物や髪を押さえたが、風は起こったときと同様に程なくおさまった

善男そして善女よ。
今、風が現われ、そして消えた。風が梢を鳴らしたが跡に音を留めては居ない。何も増えたものはなく減ったものもない。空気が動いただけであり、その量に変わりはない…
では果たして風という[もの]が存在したのであろうか?

傍らに買い物袋を置いた若い男がお答えした。
いいえ。そうではありません。風は起こっただけであり、[もの]として存在したのではありません。

宜しい、宜しい。正にその通りである。
しかし、風がまったくの夢幻だったという訳でもない。こうして枝を鳴らしその枝を折ったのだから。
路傍の如来は、傍らに落ちた小枝を拾い上げられた
貴方達も同じだ。貴方達が生まれた時も、増えたものは何もなく、貴方達が死んでも、減るものは何もない。貴方達がどの様な感覚.感情.衝動.意図.主観を生じようとも起こっているだけで、貴方という[実存的なもの]が存在しているわけではなく現象しているだけなのだ。

人々は路傍の如来の仰る意味が分からなかった。 しかし誰もなにも言わなかった。
如来は人々の疑念を察知して、再び比喩をもって説明された。
貴方達はあの公園には不忍の池という大きな池があるという。しかし池という[もの]は本当は存在しない。
溢れでる池の水は、流れさって留まることはなく実際には同じ池で泳ぐ事など出来ないものなのだよ。池という場所があり「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず」と言われるように、池といわれる場所の水も流れ去る水もありまた蒸発して空へ昇りやがて雨となって池を潤す水もある、貴方達もあの不忍の池と同様に[もの]が通り抜けていく場所であり、貴方達が生きている間、色々な要素が集まり結び付き貴方達を形造りながら通り抜けていく空間的次元のようなものであり。その間ずっと貴方達の中に留っているものは何一つないのだよ。
貴方達の体を通ったものは世界へと散っていく。あるものはある時.土となり、あるものはある時.別の動物となり、あるものはある時.草になり、あるものはある時には鳥となる。今、貴方となっているものも、かつては風で在り、土で在り、草で在り、魚で在り、虫で在り、別の人を形造っていたので在り、そのようにして今の貴方達は今のように在るのだよ。

横に買い物袋を置いた若い男が合掌して申し上げた
路傍の如来よ。
私達はただの場所ではありません。身体ばかりではありません。こうして尊い教えを聞き、考え、良い行いをすることが出来ます。
路傍の如来よ。どうか私達を善きもの。善き魂を持つものと仰って下さい。

路傍の如来は微笑みながらゆっくりと答えられた。
貴方達は[もの]ではない。貴方達は存在ではない。
風のない処で燃える蝋燭の炎を考えてみなさい。炎はじっと同じ姿でそこにあるように見える。では炎という[もの]が存在しているのだろうか?

学者風の中年の男がお答えした。
いいえ、そうではありません。蝋燭の炎は、蝋が少しずつ融けて芯をのぼり、空気と結びついて熱と光を出す酸化反応の場所です。反応を終えた蝋は次々と水蒸気と炭酸ガスに変わって散っていき、炎の中に留まるものは何もなく、まして炎という[もの]が存在するわけではありません。

宜しい、宜しい。その通りだ。
釈迦尊(ブッダ)が[蠟燭の喩え]や[火の喩え]で説かれているように、身心とは炎のようなものであり[もの]というものではなく、炎と同じように、貴方達という場所であなた達の身体と意識とが現象している。貴方達は現象なのだ。貴方達が正しい教えを喜び善い行いをするのも、炎が光や熱を発するのと同じく現象であって、善い魂.悪い魂というような、何か実体的.実存的.実相的.永続的な[もの]が存在しているわけではないのだよ。
人は[もの]と思う時、それを変わる事なくそれ自体で存在し何時までも存在し続ける存在と錯覚してしまうから人はものに執着するのだよ。
しかしどの様なものにも始まりが在り変化があり終わりがあり、しかも独立に自存して何時までも在り続けるものなど何もないのだよ。全ては相互に依存しあう関係性の上での出来事であり、現象として存在しているのであり、現象とは不安定で暫くは存在するがやがては消えてゆき再び他の何かに成り続ける連鎖であり移ろいであり、言い換えれば人生は移ろうのではなく、移ろいこそが人生なのだから。
善男そして善女よ。
気をつけなさい。魂.霊魂.霊体という類いの言葉に。仏の名を騙り、バラモン教を起源とするそれら魂が永遠的に輪廻転生を繰り返すと説くものに。彼らは人を救うと言いながら人に魂の穢れと浄化を説き.罪悪感を植え付け.贖罪を強い.来世の根拠のない幸せを金品ほしさに人を脅し得体の知れない神仏を持ち出し、魂の成仏と称して免罪符を売りつける
釈迦尊(ブッダ)は無我を説かれた。間違いや誤解がおきないようにはっきりと言おう。貴方達が貴方達の本体だと考えているもの、思考の背後に居ると錯覚している思考者すなわち魂や霊魂などと言うものの存在は釈迦尊(ブッダ)によって否定されているのだ。

人々の中にざわめきが広がった。
本を携えた学生が右膝を地につけ合掌してお尋ねした。
路傍の如来よ。
経典には真理(真実)に到達された釈迦尊(ブッダ)御自身の輪廻転生が記されています。如来となられる前の何生にもわたるの修行、善行、功徳があって釈迦尊(ブッダ)は如来になられたと・・・
宜しい。経典を読むのはよいことだ。貴方達はもっと経典を読むべきだ。自分自身で経典を読み、仏の教えとは何か、自分自身でよく考え、自分自身で吟味しなくてはならない。仏典とは釈迦尊(ブッダ)御自身が書き残すされたものではなく、直弟子や後の仏弟子達が私は釈迦尊(ブッダ)から是のようにお聞きしたと宣い記したものであり、各自.各集団の利害や都合の則して認められた釈迦尊(ブッダ)の教えに反する教説が多く含まれている事も事実である。
そんな先々を見透された釈迦尊(ブッダ)が遺されたのが「自灯明・法灯明」という無記の最上経典であると言え、自らの内にある真実を見極め、仏法を手掛かり(経糸)に、天地自然の法則(摂理)を理解する自分の知性を手掛かり(緯糸)にして織りなし顕現する叡智により妄迷を振り払い.捨て去り、真実に目覚め.覚醒し、乗り越え.超越し、解き放ち.解放されてゆかなければ本当の幸せは実現出来ないのだよ。今、実に多くの信仰を強いる輩が、仏の名を騙り人々を欺き惑わせている。自ずから経典を読み、自ずから考えて、自ら真理(真実)へと向かう[自灯明.法灯明]という.法(真理)を依り処(燈明)とし.自らに具する真理(真実)を理解する知性を依り処(燈明)とし他の一切を依り処としてはならない。法(真実.現実)に照らし.自らに具する知性に照らし、どれが釈迦尊(ブッダ)の真実の教えを説いている経典か、人を欺き惑わせる似非な経典か、そして誰が欺き惑わせているか見分ける事ができるようになる
善男そして善女よ。
経典には輪廻が多く記されている。しかし魂や霊魂の輪廻が肯定されているのでは無く、高等微生物から人類に至るまで複雑に絡み合う意志(チェータナー)を形成させる一種のエネルギーである心的エネルギー界(生命エネルギー次元)の輪廻を説いているのであり、魂や霊魂の存在や輪廻は仏の教えではないのだよ。
かと言って輪廻は方便だと勘違いして軽んじてはならない。輪廻とは無知(無明)を最大の原因とし.渇望の足枷による彷徨であり、渇望が因果律(縁起・相対的相互依存関係性)に従って全てのドゥッカ(苦.心痛)と存在の継続を生じさせる。
身体機能の停止(死)によって心的.精神的エネルギーも同時に完全に停止し霧散する事なく継続する(輪廻)、それは意志.意図.存在し.継続し.増大膨張して.安定(スカ)へと向かおうとする渇望こそが、全ての命.全ての存在.全宇宙を動かしている途方もなく膨大な力なのだから。
魂や霊魂.霊体といった永続的.不変的実体などなくても生は継続してゆく事を理解しなければならない。
身体を形造ったものがやがては他の況ゆるものへと変化しながら輪廻してゆくように、心的エネルギー(生物エネルギー)も高等微生物から人類までの分解.生産.消費という生命.生物のサイクルの中を捕食の関係性に遵って輪廻してゆくのだよ
言うなればこの世界は途方もない膨大なエネルギーによる連鎖し変化し生滅しながら流動してゆく現象の世界なのだから
そして釈迦尊(ブッダ)は苦(ドゥッカ)の連鎖である輪廻を説かれたのではなく、苦(ドゥッカ)の輪廻からの解脱(解放)を説かれたのだよ。釈迦尊(ブッダ)の時代には人々は魂.霊魂の輪廻を信じていた。だから釈迦尊(ブッダ)は輪廻についても深く探求され洞察され分析され思惟され検証され、叡智により旧来から在った魂.霊魂の輪廻でもなく方便でもない正しい智慧による真実の輪廻を説かれたのだ

遠隔の町からきた婦人がお尋ねした。
路傍の如来よ。どうぞお教えください。
正しい知恵とはなんでしょうか? 魂の輪廻を否定され方便ではないとして、釈迦尊(ブッダ)は何を説かれたのでしょうか?

路傍の如来は、遠隔の町からきたという婦人にお答えになった。
釈迦尊(ブッダ)は、魂の輪廻を諸法無我として完全否定されている、実践をもって方便ではなく法則であると因果律(縁起)により説かれている、心的エネルギー界(生物エネルギー次元)の性質.運動性.負荷の輪廻からの解脱(解放)とそれに伴う堅固なるこよなき幸せに至る方法を正しい方法(八正道)により説かれている、諸行無常であり全ては常ならざる現象であり常住で実存的で実相的で永遠的な神や仏や得体の知れない怪しげな力など存在し得ない事を説かれ、因果律(縁起)と諸行無常.諸法非我を以て.一切皆苦という苦(ドゥッカ)という本質により成り立つ世界である事を説かれ、この世界において縁起.因縁により条件により生じ条件により変化し消滅してしまう苦(ドゥッカ)へと戻る性質の物事を拠り処し短命な小楽と大きな苦や不満の中を彷徨い生きる生活から脱皮し真実のみを拠り処(精神的支柱)とし、平らかな静逸.安心.安全で悦楽な歓喜に溢れる堅固なこよなき幸せへと向かう道を説かれたのだよ。
即ち他でもない、無我と縁起により得体の知れない神仏や怪しげな力への依存や永遠的.実相的な魂.霊魂への錯覚や依存により人は盲目的に妄迷に不毛に苦(ドゥッカ)から逃れようとして却って苦(ドゥッカ)を造り出しながら生きる事から目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され堅固なるこよなく幸せ(大楽)に生き、苦(ドゥッカ)の輪廻を終わらせる事こそが成仏するというのだよ。
また空の教えとは釈迦尊(ブッダ)の教えではなく釈迦尊(ブッダ)が説かれた無常を空と言い換え神格化させた観念こそが空の思想であると言え、一つのことをそれぞれ違う視点から違う言葉で説明しながら信仰対象としているのだよ。釈迦尊(ブッダ)の教えの核心は真の幸せへの道であり、四聖諦も因果律(縁起)も八正道も三法印も四向四果も輪廻も何もかも真の幸福(こよなき幸せ)への道標(アイテム)であり、これらと相容れない教えは仏教ではない。仏教だとしても、方便に過ぎないか邪見に過ぎない。
さて、では本を持つ学生よ。
不意に声をかけられて、得心していなかった学生は、驚いて顔を上げた。
輪廻から、解脱.解放される意味や歓びが理解できるであろうか? また死に、また生まれ変わる苦(ドゥッカ)を本質とした生存と、また眠りまた目覚める日々の生活とどれほどの違いがあるのか理解できるであろうか?

学生は、しばらく考えてお答えした。
いいえ、路傍の如来よ。
何度輪廻を繰り返そうとも、苦(ドゥッカ)という本質で成り立つ生存というものは苦(ドゥッカ)であり負担でもあり永続する事は恐怖でもあります。せめて人の身として生まれ変わる事が出来ればが未だしも微生物から人間の何に生まれ変わるかと思えば可惜愚かには生きられません。そして輪廻し次の何かに生まれ変わるという事と、眠り目覚める毎日の生活とは本質においてなんら変わる処はありません。

宣しい、宣しい。その通りだ。
ではさらに尋ねよう。この中に前世のことを覚えているものはいるか?
誰も答えなかった。
路傍の如来の肩先で蜂が首を傾げながら前足で触覚をなでていた。
前世の記憶など元来が夢幻の如きものである、何時.何処で.誰が.何をしたのかと言う断片化した記憶の残滓とその心象が記憶であり単に断片を環境.時間.状態により繋ぎ合わせ捏造しているだけでしかなく、本当は何も覚えても居ないか断片化された記憶の残滓を情緒的に再構成しただけの捏造された記憶にどれ程の執着する価値があるというのだろうか
経験と顕貴(ときめき)こそが生きる味わいではあるが、保護.安全.安心への経験の記憶の他の残滓にどれ程の意味が在るというのだろうか、顕貴(ときめき)を失った過去の記憶の残滓にどれ程の魅力が在るというのだろうか
真に価値あるものとは、今というこの瞬間に味わうの天地自然の在るがままの現象であり経験であり顕貴(ときめき)である、過去の記憶への執着やまだ到来しない未来への妄想に捉われてはいけない、それらに何程の意味や価値があろう?それら過去の記憶や未来への期待に縛られ自分自身さえも妄想しながら生きる生き方、それは今言う処のバーチャルリアリティ(仮想現実)に捉われ現実から逃避し妄想的に酔生夢死事と何ら変わらない愚かな執着に他ならない。
貴方達は本質的には苦(ドゥッカ)により生かされていて苦しいから食事し、苦しいから排泄し、苦しいから眠り、苦しいから歩き、苦しいから何かしらを探し回っている是れを生存苦というのだが、先ずこの苦(ドゥッカ)を理解しなければならないだろう。
苦(ドゥッカ)とは単に苦しいという理解.認識ではいけない苦(ドゥッカ)とは苦しみの他に不安定さ.不完全さ.苦悩.,心痛.迷い.哀しさ.儚さ.空虚さ.恐怖.無知.弱さ.脆さ.不満.悔い.煩わしさ.負担.実質のなさ.惨めさ.無常.飽き.愚かさ.渇き.欲などが含まれる。
そして苦(ドッカ)という不安定さ恐怖から逃れ保護.安心.安全.恩恵.依り処(精神的支柱)を欲し、自己防衛の為に縋る神仏を妄想し、永遠に死なない存在として魂や霊魂を妄想し、苦(ドゥッカ)という生存苦を慰めようとしているのだよ。
本質的な存在ではない無我(アナッタ)の存在だという事を恐れ今の自分がいつまでも存在しつづけると思いたいのだ。そのために今の自分の連続性としての前世と来世や魂や霊魂の輪廻は貴方達の創った幻.妄想である。貴方達の今の自分への我執の産物なのだよ。
我々には今しかない。今の我々には、過去も未来もない。前世も来世もない。前世を思い巡らし来世を心配する暇はない。ただひたすら一刻も早く我執を離れ正しい見解を得るよう、常にこの今、一心に努力するだけだ。過去生がどうであったか、来世がどうなるか、昨日はどうだったか、明日はどうなるか。このような問いは問う意味がない。今どうありどうあるべきか、それを気にかけるべきなのだ…
まだ納得のいかない人も多いようだ。しかし、無我を正しく理解して我執を晴らせば、わだかまりも消える。今日はじっくりと考えてみよう。
善男そして善女よ。
先ほど私は、貴方達を[もの]ではなく現象だといった。では[もの]と現象はどう違うのか?

教師風の中年男性がお答えした。
人が[もの]という時、私たちは、それを変わることなくいつまでも存在し続けると考えており、現象は不安定でしばらくの間のことで、やがて終わると思っています。

宜しい、宜しい。その通りだ。
人が[もの]という時、人はそれを変わることなくそれだけで存在し続けるものと錯覚している。だから人は[もの]に執着してしまう。
しかし真実は、どのような[もの]にも、始まりがあり、変化があり、終わりがある。独立自存して、いつまでも自分自身であり続けるものなどなにひとつない。全ては条件(縁起)により生じ、条件(縁起)により変化し、条件(縁起)により終わる有為なものである。自分自身を原因として生まれるものは何ひとうなく全ては因果律(縁起)に遵った相互依存関係性の上での出来事つまりは現象に過ぎないという、この真理こそが釈迦尊(ブッダ)の説かれた無我である

路傍の如来は、小石を拾い上げられた。
この石も石と呼ばれる形で今、現象しているのであって、この石という永遠の[もの]が存在するわけではない。
[もの]という概念は、執着心が言葉によってつくりだした夢幻.妄想である。執着心が執着する対象を求めて現象を固定化して捉え、[もの]という概念を捏造する。我々が[もの]として捉えている存在は生じ変化し消えてゆく現象の持つ多くの形態の一つに過ぎない。
貴方達も例外ではない。貴方達という場所で貴方達という姿で現象している現象それが貴方達だ。自分を固定化して[もの]と錯覚していてはならない。それが自我(アートマ)であり我執なのだ。

現代風な若い女性がお尋ねした。
路傍の如来よ。
あなたの仰ることは私にはあまりにも辛い事です。私達には前世も来世もない、死んでしまえばその後は何もない、そのように考えれば解脱できると仰って居られるのでしょうか?

路傍の如来は、目を細くして現代風の若い女性に微笑みかけた。
私は死のみを説くものではなく誕生も存在も変化も説くものだ。
釈迦尊(ブッダ)は、全ては無我だと言われた。何故なら、全ては縁によって他から生じたもの、縁起の現象だから。あらゆる現象は、縁起により、他の現象により条件づけられ、生み出され、変わり、いつか終息する。貴方達だけでなく、私も、この蜂も、牛も、雲も、石も、山も、あの町並みも、この子供らも、全てが縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって世界を変え、いつか縁によって解消される。一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界を造っている。世界の一切が今あるもの全てを変え、今あるもの全てがそれぞれの仕方で世界を変え、世界の一切が今あるもの全てを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。
全ては無我であり、因果律(縁起)に遵って変化生滅する。何故なら全ては現象であるのだから。
貴方達も、世界の内にあり、世界の変化に応じて縁によって生じ、世界の変化に応じて縁によって変化し、縁によって世界を変え、世界の変化に応じて縁によって散る。貴方達という現象の場所は、世界の中の何処かで新なる集合要素を形造り、世界は貴方達という場所を引き継いでゆく。貴方達は世界と共に縁起してゆくす現象なのだよ。

会社員風の年取った男性が、合掌して申し上げた。
路傍の如来よ。
私には変化は怖ろしい。私は変化するものではなく、いつまでも変わらないものに縋りたいのです。
路傍の如来よ。
どうか、仏様や知恵の完成の教えは永遠不変の存在で、いつか必ずわたしたちを無我と縁起の変化の世界から永遠不変の世界へ救い出してくださると、仰ってください。

歳月を重ねてきた男性よ。
先程わたしは、経典を読む事を薦めた。しかし同時に一部の経典の中には、釈迦尊(ブッダ)の教えと相容れない観音思想や弥勒思想や阿弥陀仏思想や考えが忍び込み、仏説だと偽って蔓延っている。今あなたの言った永遠不変の法身仏の考えや、得体の知れない他力に救いを求める思想や、一切有情に仏の胎児が宿っているといった考えがそうだ。これらは永遠の生存を求める心や生きる苦しみから逃れたいという願望を他力によって叶えたいという無明(本質的な無知)な妄想に過ぎず、不毛な物事に対し盲目的に手探りで探し求め縋り付こうとしている事に他ならず空なるものは掴めず真の支えにはならず天地自然の理法にも因果律(縁起)にも無我という真理にも反する。これらは仏説ではない。

善男そして善女よ。
変化生滅するこの現象の世界、因果律(縁起)に遵った無我なるこの世界を変化(輪廻)しながら他の何かに成り続けるのも根源的な存在となり此の世界の無に帰し彼岸へと至るのも貴方達自身の意志と信念と努力しかなく、自らを真に救うものは自分だけなのだから。
貴方達は、大きな考え違いをしている。有りもしない自我の永遠を求めることが執着なのだ。自我に執着するから自我の永遠を妄想する。そこから苦(ドゥッカ)は増大してゆく。正しいあり方は正反対であり所有の次元の事物をはじめ汎ゆる欲望への執着を捨て去り捨離し、因果律(縁起)遵って変化生滅する現象的存在である無我な存在である事を理解し受け入れ執着から解き放たれ解放される事こそが私達の変化生滅しない堅固な喜びなのである。どうしてここから逃げ出すのか?
変化を恐れてはならない。変化は恐ろしいものではない。変化を恐れ、永遠を見つけようとするから、貴方達は変化してゆくこの世界を楽しむことができないのだよ。

見なさい。何もかもが常なく変化している。これが無常である。雲も、鳥も、山も、町も、木も、風も、台地も、太陽も、貴方達も。すべてが歌い、踊り躍動している。今は見えないこの土の中でも既に草木がやがて芽吹き花を咲かせる準備を懸命にしている事だろう。貴方達は、どうしてこれらを止めようとするのか? 何故この変化生滅の流れに身を任せ、共に流れ移ろい.共に味わい.共に歓び.共に踊り躍動しようとしないのか?

今、貴方達の目の前で、全ての物事は常なく変化しているが貴方達は、それを見ず、永遠不変という夢幻.妄想に心を奪われ、人から聞いた空の話を頭の中で解釈しようとしている。
見えるままに世界を見なさい。聞こえるままに世界を聞きなさい。
世界が歌う歌、世界の躍動のリズム、世界は力(エネルギー)の振動だ。そして次元は存在の要素を吐き出し、呑み込み、結びつけ、引き離す。世界を生み出し、世界を変える。世界として凝結し、さらに自らも変化する。貴方達も、わたしも、あの山も、風も、木も、虫も、太陽も、町も、星も、すべて一源的な本質的エネルギー(梵)がそのように現象した姿だ。貴方達が見る全てのもの、そしてそれを見る貴方達も、すべて空の脈動から生まれた。貴方達も、大宇宙のリズムを打っている。大宇宙は、沸騰し、逆巻き、ねじれ、のぼりつめ、崩れ落ち、爆発する。宇宙を生み出し、無数の星となり、大きなもの、小さなものに凝結し、常に変化し壊れまた新たな現象として現れる。本質的なエネルギー(梵)は変化と多様性だけを喜ぶ。

村の教師がお尋ねした。
本質的なエネルギー(梵)がそのような力であるなら、争いも犯罪もあらゆる悪徳も、すべて本質的なエネルギー(梵)から生まれたのでしょうか? 私達の心に芽生える欲望や怒りや妬みや思い上がりも、本質的なエネルギー(梵)が生み出すのでしょうか? 本質的なエネルギー(梵)は、善なるものではないのでしょうか?
もし善でないなら、私達が日々悪行を避け善行を積もうとすることに何の意味があるのでしょうか?
・・・
そのとおりだ。すべての現象が、一源のエネルギー(梵)から生まれる。争いも犯罪もあらゆる悪徳も例外ではない。
本質的なエネルギー(梵)とは変化と多様性だけを喜ぶ。善悪や美醜などという分断された世俗の尺度で梵を計ることはできない。善悪、美醜、正邪も、正義も悪徳も変化を怖れる人間の自我という観点から見た無明な臆病さが生み出した幻影だ。

貴方達は、これまで善行を積み悪行を避けてきた。今限りそれは拘り善行を積むのをやめなさい。善悪にとらわれている限り、悪行のみならず、善行も悪果をもたらす。無私な慈悲に基づかない善行は慢心や偽善を起こすから。貴方達は自分が善行をなし、自分が功徳を受けると考える。貴方達の善行は、貴方達の我執を更に強くする。慢心は、貴方達に染みつき、貴方達を重く固く脆くする。世界とともに躍動する日は、却って遠ざかる。

世俗の悪ばかりではなく私達が解消すべき我執さえも本質的なエネルギー(梵)の振動パターンによって生まれる。我執に捉われ、欲に走り、幻を追うことも、また一つの本質的なエネルギー(梵)の振動パターンを決定付ける心的次元が奏でる旋律であり、本質的なエネルギー(梵)の舞いなのだ。
私達にとって、二つのあり方、つまり、我執にとらわれて凝り固まり重く濁っているのと、我執を離れてはつらつと透明に弾んでいるのとでは、まったく違う。しかし本質的エネルギー(梵)の側からすれば、どちらも本質的なエネルギー(梵)の力の現われである事に変わりはない。

隣町から来たという娘が、お尋ねした。
路傍の如来よ。
それでは、私達は、何を目的に生きればよいのでしょうか? すべてが本質的なエネルギー(梵)の力の現われで、善悪も正邪もなく、すべてが平等であるならば私達は、何を指針に生きればよいのでしょうか?

路傍の如来は、ゆっくりと隣町からきた娘の方へむき直られた。
我々には、菩薩心(慈悲の心)を以て努力すべきことがある。しかし真理(真実)としては、人生に目的はない。人生ばかりではない。世界にはそもそも目的などなく、この世界の運動は不安定性の安定化への運動によって成り立っている。これが現象という働きであり、行為ではないのだよ。
目的とは行為であり、現象とは働きなのだから。
隣町からきた娘よ。
もともと無いものを探して苦しむことはもうやめなさい。いくら悩んでみたところで、ないものはない。ないものにすがろうとする気持ちが、弱さの現われであると知るべきだ。
しばしば人は自問する。わたしは何をすべきか、何になるべきか、なるべきだったかと。これもまた、我執の産物だ。自分という「存在」を世界から切り出して妄想し、そこに意味を与えようとする。しかし、元来ないところには、なにも載せられない。何?の問いは不毛だ。世界とともに躍動し変化する貴方達という現象を、できあいの言葉で手軽に価値づけられるはずがない。未来や過去の何?ではなく、今の「如何に」を問いなさい。逃げることなく、誤魔化す事なく、無我・縁起の現象として誠実に生きなさい。それだけが、あなたたちの生を尊いものにする。どこまで誠実に生きられるかを突き詰めてみなさい。その結果、聖者と呼ばれようが、罪人といわれようが、無名のまま終わろうが、それはまったく重要ではない。
無我を知り、縁起を知り、空を知れば、目的や意味などにわずらわされることはない。

手に数珠をかけた老婆がお尋ねした。
路傍の如来よ。
あなたの教えは、わたしには恐ろしい。あなたは、来世はないといわれた。おすがりできる永遠の仏様はおられないといわれた。善行は悪果をもたらすといわれた。わたしたちが解脱しようと、迷いの中をさまよおうと、本質的エネルギー(梵)は気にかけないといわれた。人生にも世界にも目的はなく、私達が罪人になってもかまわないといわれた。あなたはわたしの希望のすべてを絶やしてしまわれた。どうしてあなたの教えが喜びをもたらすのでしょう? 本質的エネルギー(梵)に慈悲はないのでしょうか?

手に数珠をかけた老婆よ。
慈悲は外に求めるものではない。内に見いだすものだ。貴方達の内から湧きあがるのだ。
貴方達の望むような慈悲は梵にはなく因果律(縁起)に遵って変化生滅してゆくだけなのだ。貴方達は、永遠を望んでいる。梵は変化を望んでいる。梵の慈悲とは、世界とともに貴方達を生みだし、世界とともに貴方達を変え、世界の中で貴方達を壊す、そのような慈悲だ。この慈悲が、貴方達に純粋で透き通った情感の混じった大いなる喜びをもたらす。
貴方達、どうしてわたしの教えを恐れるのか? どうして絶望の教えというのか? それは、あなたたちが、まだ変化を恐れ、変化を見ようとしないからだ。
世界に向けて目を開けなさい。目だけではない、心も開きなさい。風をはらむ帆のように心を解き放ち心身を貫く風と光、空の流れを感じなさい。

路傍の如来は、立ち上がり腕を広げられた
さあ、貴方達には何が見えるか? 世界で今、何が起こって何が変化しているか?
さあ、答えてくれ。

沈黙の後、教師風の男性がお答えした。
路傍の如来よ。
いつもと同じです。特になにも変わったことはありません。

善男そして善女よ。
わたしは、変化を聞きたい。あなたたちは変化を見ないから。さあ貴方達よ立ち上がり、見渡して今の変化を語ってくれ。

人々は立ち上がった。しかし、顔を見合わせるばかりで、誰も答えられない。
さあ、どうした。誰か、今なにが起こり何が変化しているか、教えてくれ。

後ろのほうから、おずおずと声が上がった
梢が風に揺れています。
路傍の如来は、手をたたいて喜ばれた。
よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
左から声が聞こえた。
虫が飛び回っています。

宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
娘の声がした。
上野の森の木々が揺れています。

宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
女性の声がした。
私達がここに集まっています。

宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
若者の声がした。
中東で戦争しています。

宣しい、宣しい、大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
男の子が空を指差した。
飛行機雲がまっすぐ伸びていきます。

宣しい、宣しい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。
年寄りの女性の声がした。
私の裏庭の梅の木の蕾がそろそろ花開きそうです。

宣しい、宣しい。大変よろしい。
今貴方達が話してくれたことは、すべて本質的エネルギー(梵)の奏でる歌であり、本質的エネルギー(梵)の舞い踊りであり、本質的エネルギー(梵)の力の脈動だ。この広い宇宙で、今この時、実に様々なことが起こっている。全ての物事は常ならず全く同じ状態に在るものは何もなく常住するもの(神.仏.魂.超越的な力)などが存在しえない世界なのだよ
見なさい。
路傍の如来は、天を仰がれた。すると、眉間の白毫から光が放たれ、青空を貫き、光は輪になり、輪は広がって人々を頭上からすっぽりと包んだ。いつのまにか台地は大きな蓮華となり、人々を乗せて舞い上がった。ある時は毛の先ほどに小さくなって、谷をわたる蝶に従い、羽の一打ちごとに鱗片の光沢が茜から紫へ、また茜へと映し変わる様を見た。ある時は、雪渓を吹き上がる霧の風に運ばれながら、岩稜を乗り越える風が、うなりながら新しい雲の塊を次々に湧きあがらせる様を見た。ある時は、大きな町の上方から、多くの人や車がそれぞれ勝手に忙しく動き回りながら、町全体はゆったりとしたひとつのリズムで脈動しているのを見た。ある時は、太陽にいたり、その表面にほとばしる炎が、よじれ、そりかえり、逆巻く巨大な紅蓮の虹となって飛び跳ねる中をくぐり抜けた。ある時は、漆黒と静寂の空間に佇み、燃えつきて縮んだ星が、突然輝き、すべてを放出して宇宙をまぶしく照らす様を見た。ある時は、二つの銀河が、近づき、互いの内から黒い雲を紐のようにたぐりよせあいながら、重なりあい、すれ違い、また遠ざかっていく様を眺めた。そしてその他にも、大河の砂の数ほどの様々な現象の姿を。
百千億劫の間、人々は我を忘れて見入っていた。しかし、気がついてみると、皆もとの台地に座っており、ほんのしばらくしか時は過ぎていなかった。人々は、驚嘆して口々に声を上げた。

驚くべきことです、路傍の如来よ。
私達は、今、実にさまざまなできごとを見ました。世界がどんなに多様で、どれほど激しく変化しているか、はっきりと見ました。毎日毎日同じことの繰り返しと思っていた世界が、どれほど激しく変化しているか、やっと知ることができました

宣しい、宣しい。大変よろしい。
しかし、貴方達は、大きな激しい変化にばかり心を奪われたことだろう。貴方達が変化を見ない「いつも」もまた無限の変化でできていることを、あなたたちは見なければならない。
これまで貴方達は、善行に励み、永遠ばかりを探してきた。だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない。無我を、縁起を、真理(真実.現実)を見ることがうまくない。貴方達は物事の真理(真実.事実.現実.実相)に気付いてゆかねばならない。真に安定した依り処とすべきは真実だけなのだから。

路傍の如来は、ゆったりと手を広げ人々に語り掛けられた。
今日はこれで終わろう。また貴方達に説法を施す帰その時にはその間に貴方達にどんな気付きがあったか聞かせて欲しい。

路傍の如来は、合掌して頭を垂れられた。人々も立ち上がり、合掌して低頭した。路傍の如来が手を胸の前に組みかえると、静かに歩み去っていかれた。
その姿が木々の間に見え隠れしながら遠ざかり、やがてすっかり見えなくなると、暫くのあいだ人々は路傍の如来の息吹を感じながら説法を思い返していたが、やがてそれぞれに帰っていった。

依り処(精神的支柱)

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無明に生まれし人の身は、本質的.盲目的なドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.不安.恐怖.迷い……)により、保護.安全.安心.恩恵を渇望し、自己保存.自己防衛の為には何かしらを依存する依り処(精神的支柱)として.一時的安定を辛うじて保ちながら生きている存在であり、妄迷と迷信に被われた世界に出現した革新的な教説が仏教であり、得体の知れないものへ依存し依り処(精神的支柱)として盲目を深める人々に、真の救いである真理(真実.現実.事実.実相)を依り処(精神的支柱)とした堅固で開明的な安らぎの世界がある事を説いたのが智慧(叡智)を前提とする如来の教えであり、如来が指し示す真理(真実.事実.摂理.実相)こそが神であり仏であり、真理である理法は物理法則も自然法則も量子法則も根源法則も人の姿をしては居ないのです。

子のある者は、子について憂い、
また牛のある者は、牛について憂う。
人間の憂いは執着する拠り処により起る、実に執着する拠り処のない人は憂うる事がない
自己の拠り処は自己のみなり
他に如何なる拠り処が有ろうか
自己のよく調御せられたる時、
人は得難き拠り処を得る。

物質文明の真っ只中に生きる現代人は、ストレス.知識.情報.妄迷.欲望.無明.暗愚により安定的な依り処(精神的支柱)を見失い、便宜的な手段.付随的要素に過ぎない所有の次元の事物(金.財.所有物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.承認.健康.寿命…)を安定的で堅実な依り処(精神的支柱)と錯覚し.存在の次元がある事に気付く事もなく.却ってドゥッカ(苦しみ.悩み.心痛.迷い.哀しさ.怖さ.不安定さ.不完全さ.儚さ.悔い.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.無明.欲望)を深めている。
それは言わば真の芸術とは自己完結しているものであり、他人の評価や価値観に依存するものではなく、どんなに権威.名声.信頼があろうが評価.価値判断とは単にその人の主観.感覚.概念と一致しただけであり.決して真理を語ってはいないように、世間でいう好感度という類の.凡そ真実を形容しないひとつの感覚的なものに過ぎないものだと言えよう。

人間の本能とは自己防衛性と自己保存性と客観的理解認識能力(理性.知性)という三要素(純質・激質・暗質)により成り立ち[誕生]による無明(本質的無知)を条件として生起する
無知(無明)による本質的なドゥッカ(生存苦.不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.悔い.心痛.弱さ.渇き.怖さ.哀しさ.儚さ.空しさ.惨めさ.無常さ.実質のなさ等)による根深い自己防衛欲により自分の保護.安全.安心.恩恵のために神や仏を妄想して精神的支柱(拠り処)とし、また根深い自己保存欲により永遠的な実体としての魂.霊魂.霊体などを妄想して精神的支柱(拠り処)として、本質的な不安定性を辛うじて安定化させているのであり、己の理性.知性(客観的理解認識能力)や現実が幾ら疑問を呈してもそれらを自分という存在にとって必須な無くてはならない精神的支柱(拠り処)だと錯覚して、それらにしがみ付き乗り越える事が出来ない。それらを否定される事は自分の存在の否定だと捉え怒り恐れ狼狽るのだか、しかし単に信じると言う事は[虚妄]を依り処(精神的支柱)として依存する事であり.それは無明な人を更に盲目的にさせる事であり不安定な本質を更に不安定化させる事に他ならず.自分という存在の真の意義や価値観を放棄し他人の意義や価値感で生きる事を意味するのである。神や仏の価値観を否定している訳ではなく、各人が何を信じ.何を選択し.何を精神的支柱(拠り処)として生きようが悪事に向かわせるものでない限りに於いては自由であり、精神・肉体両面における本質的な不安定状態を一時的にせよ安定状態へ向かわせるものであるならば一定の価値観は見い出せるのだが、真に人を無明の闇の中から目覚め覚醒させ.乗り越え超越させ.解き放たれ解放される道とは真逆な道でもある。それでも何れの道であろうと安定を維持させてゆくことが幸せに生きてゆく為の絶対条件であり、真に堅固で安定的な依り処(精神的支柱)とは真理(真実.現実.事実.実相)をおいて他にはないのである。しかし現代社会においては得体の知れない信仰と、本来的な宗教(宗となる教え・人が人として生きて行く為の精神的支柱.(拠り処)とすべき教訓・倫理・道理・徳目・死生観)を混同し同じものの様に捉え、現代人の中には得体の知れない信仰を捨て去る時に同時に真の宗教観(精神的支柱)さえも放棄してしまい、肉体的.精神的な本質的不安定を安定化させるための精神的支柱(拠り処)を所有の次元の事物(金銭.財産.物欲.地位.名誉.称号.身分.権威.権力.勢力.家族.承認.評価.見栄.健康.長寿…)に盲目的に求めた結果として、それらに魅入られ誑かされ執着し、却って苦や悩みや不満や恨みや争いを造り出して不安定な人生に翻弄されているのではなかろうか。
「汝らは自らを燈明とし自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法(真理)を燈明とし法(真理)を依り処(精神的支柱)とし、他を拠り処とせすに在れ」
※自らが正しく眺め理解した真理(法・真実.摂理.自然法則)を精神的支柱とし、他人の説を依り処とするな、この世界の真理(無常の理法・縁起の理法・輪廻の理法)を精神的支柱とし、他のものを精神的支柱とはするな。
⚫では何を精神的支柱(拠り処)として生きてゆくべきなのかと言えば、真理(真実.事実.現実.実相)であり、諸行無常(常ならず変化生滅している)のこの世の中においては、凡そ全ての物事はその関係性・相対性における縁起(条件によって生起し、条件によって消滅する)という因果律(物理法則・摂理)に支配されているから、所有の次元の事物は皆、いつか必ず去っていったり.壊れたり.失なったり.盗まれたり.飽きたりと価値が変わったりと条件性を前提とする事物なのだから必ず苦や悩みや不満や恨みや争い空虚や不安定(ドゥッカ)へと還り付く性質のものなのであり、この世界の中で真に精神的支柱(拠り処)とすべきものは条件によって変化したり消えたり逃げたりしない唯一、絶対的(無為)な真理(真実)という堅固なものを精神的支柱(拠り処)とすべきだと、お釈迦様は説かれたのであり真に安定的な幸せの為には.真理の発見とその修養の道を[自燈明]自らの内にある真理を認識し理解する能力による(叡智)を精神的支柱(拠り処)とし、[法燈明]法則(真理)という安定的な実体(条件により生起し条件により消滅しない唯一のもの)を精神的支柱(拠り処)とし、他の一切を精神的支柱(拠り処)にしてはならないとお釈迦様は説かれているのです。
「頭ではなく心(サンニャサンカーラ・想行蘊)が無常なる流転の法を理解できたら、全てのドゥッカ(苦・悩み・空……)から解放される。」

仏 道

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釈迦尊(ブッダ)が到達された至高の真理(実現.事実.現実.実相)は、ナーガルジュナ(龍樹.マハーヤーナ)やブッダゴーサ(上座部.ヒーナヤーナ)を乗り越えた処に、顕現する。

 
仏道とは自己を習うことなり、
自己を習うとは自分を冷徹厳峻に見つめ、分析し、思惟し、気付き、自覚し、理解する事である。
道元禅師がいう自己を忘れるとは、私という自我意識とそれに発する感覚的妄想を脱落させる事であり、自我と妄想を断滅し自由な水の一滴とならん。
 
「人の心のその奥に仏も住むが鬼も住む」
理解しているようで理解できていないのが自分であり、制御しているようで感覚や煩悩に支配されているのに気付けず自分の心だと錯覚していたり.主人の意志に反して.従業員が勝手に振る舞っているような人もよく居るもの。
 
心の中を主観を差し挟まず客観的に眺めると.そこには整合性もない色々な自分が見出せる筈であり.どうでもいい物事.つまらない物事.下らない物事に捉われ.拘り.執着してしまい制御できない未熟な自分を見い出したり.自分を騙し誑かそうと走り逃げ回る気紛れで捉え処のない自分が居たり.素直な自分や我がままな自分が居たり.前向きで誇れる自分も居るだろう。(それらの中には人の身と生まれるまで輪廻してきた多くの生命の心の残滓も含まれるのである。)
 
仏教を勝利の書として機能させるには.自分という存在をダークサイドを含めて冷静に認識し自覚してゆくからであり、「敵を知り己を知れば、百戦して百勝危うからず」と孫子の兵法でも言うように、血生臭い殺戮を伴うような争いでなくとも.人生とは自分との戦いであり.社会や他人との戦いであり、無明や性(さが)との戦いであり、戦いの放棄も又.一つの戦いであり、己を知る事は.あらゆる勝利への入り道なのである。

[一句の実践]と言うように.経典は良い事があるように唱えるためのものでも拝むためのものでもなく.実践するためのものであり.一切の経典は解答への方向性を指し示す参考書の類に過ぎず、経典の中に決して解答を見い出す事など出来ないもの。何かしらの経典の偈を以って.ああだこうだと喧しく自説に自惚れてしまい自分を幾分も浄めようと実践に努め励む事のない学者外れの頭でっかちな観念論者や信仰.信心に安らぎを求め.自分の精進をなおざりにしてしまう虚妄愛好家ばかりが増殖しているが、十人十色と言われるように多様性によって立つ世界において.仏教経典とは.言わば人が十人居れば十種の経典が必要となり.人が万人居れば万種の経典が必要ともなる.皆一様に諭せる文字.言語による経典など存在し得ないのであり、それを充分に認識なされて居られたお釈迦様は説法はその人のレベルと状態に合わせて対機説法を以ってなされ、至宝の遺訓により全ての人々に.無記のニ巻一対の最上経典[自燈明経典]と[法燈明経典]を遺されたのであり、自燈明を紐解けば[真理は.自分の中に全て具されているから心の中をよく眺め.分析し.熟考し.発見し.検証し.理解する事であり決して他人を頼りとして間違ったり偏ったりしたものに染められるな」という教えであり、法燈明を紐解けば法(仏法.天地自然法則.物理法則)を燈明として眺め.分析し.熟考し.検証してゆくと三法印(無常法則.無自我法則.皆苦法則)に行きつき、因果律に従って縁起(相互依存関係性)している空性な現象に過ぎない実相を心が悟るのである。
心に注意を向ければ苦悩(ドゥッカ)の本当の原因も見えてくる。
厄介な事に人は感覚を放置せず、感覚に概念や価値判断.感情をすぐさま加える、そこには自我.主観による[私]の計らった.比較.善悪.好嫌.愛憎…という偏った見解に縛られる。
「例え、為になる事を数多く語るにしても.それを実践しないならば.それは怠った愚か者に過ぎないのである。牛飼いが他人の牛を数えているようなもので幾ら数えていても自分のものにはならない。彼れは修養する人の部類には入らない。」
存在であれ.非存在であれ.物事であれ.縁起のシステムであれ.思考であれ意識であれ.ドゥッカ(苦.不安定さ.無常さ…)であれ.業(カルマ.形成力)であれ.連鎖継続の輪であれ.渇望によりし叡智により消滅する生起する性質のものは消滅する性質のものであり
生起の芽も消滅の芽も五集合要素(五蘊)の内に含まれている、つまりは.この身の丈の内に.世界および世界の生滅.世界の生滅に至る道.浄不浄.幸不幸.ドゥッカ(苦.心痛.迷い.不安定さ…)の生滅の全ての要素も.顕現する堅固な涅槃(ニルバーナ).直感智.透察などの要素も在るのであり、それら全ての生起と消滅を司る外的な力など実際は存在しないのである。
「清まるも.汚れるも各自の事柄である。」
自分という存在を法を道標に.理性的にそして客観的に冷徹厳峻に眺め.見つめ.観察し.分析し.思惟し.思推し.思考し.気付き.自覚し.検証し.理解し.目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され、無明を捨て去りて離れて、堅固な幸せという真の勝利を獲得する理法が仏の教え(仏教)なのです。
 
 

物 欲

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物欲は果てしなく.空しきものなりて.しかも物欲に満たされることなし   

人は[あれが有れば][これが欲しい]と生きる為には然程も必要でもないものにまで物欲に翻弄され短命な感覚的な喜びを積み重ねて幸福だと錯覚ながら真に満たされる事がない。
その本質を見極めて行けば、それは手段(付随物)としての便宜的な客体に過ぎないものであり、決して生きる主体的な目的でもなく苦(ドゥッカ)という本質が喜びという姿で一時的に現れている仮体に過ぎず、遠からず苦(ドゥッカ)は正体を現す。
それは取得した瞬間から毀損.劣化.破壊.盗難.喪失.維持.管理など汎ゆるドゥッカ(苦.悩み.心痛.哀しみ.不満…)の種は実ってゆくのだから。
物欲に魅入られる者は、主には金銭財欲に魅入られているだろう。金財があれば凡そ色々な欲を満たすことが出来ると勘違いしていて.便宜的な付随物に過ぎないものに魅入られて.恰も目的物や魔力を秘める宝だと錯覚し盲目的に貪り執着から目覚めることができない。
本質的には、金銭とは紙であり銅やニッケルなどであり、空腹を満たすことさえ出来ない代物に便宜的に価値観を付加させているだけであり.仮に動物に肉片と万札を差し出せば凡そ万札など欲しはしないだろうし、砂漠に行けば喉の渇きも癒せない。
それらの紙や金属片に、金銭という相互承認のもとに便宜的手段としての価値と威力を発揮させている夢幻的要素は、相互承認を喪失した途端に只の紙や只の金属片へと戻ってしまう本質のもの。
要するに「自分が幸せに生きたい」「自分の自我を安定化させるために喜びや快楽を得たい」という欲を満たそうとして魅入られたとき.短命で一時的ではあるが感覚的な喜びを与えてくれる現象に誑かされ目的物で有るかの如く錯誤して、物や金財を貪り執着してしまうのである。
しかしこれら[所有の次元の事物]とは.天から雨のように降り注ごうが.泉の如く湧き出て来ようが決して満たされる事など出来ない.更なる欲望を翻弄され儚い喜びと大いなる不満の中で.それでも必要以上に[所有の次元の事物]しがみついて生きる事に他ならない。
そして世の中には「愛」などという観念が満ち溢れて美徳の如く、持て囃されるが、これも本質的には自愛でしかなく、決して慈愛などではなかろう。
結局は自分が幸せに生きるための手段として欲している我欲に過ぎない一種の物欲でしかないのである。
人は皆、幸せや喜びを欲して生きているのである。これから死のうとする者でさえ、その中に幸せを見い出すからに他ならない。
しかし[物欲]や[愛]などでは真の幸せを得ることは出来ない。
物事や愛によって得た幸せは一時的なものに過ぎず、時間の経過(変化生滅)により苦や不満へと戻ってゆく性質(本質)のものなのである
物や愛により一時的に幸福感・快感・喜び・満足感などを得るが、やがては新しい物が欲しくなったり、飽きたり、維持管理に困ったり、喪失や破壊や窃盗の恐怖に悩んだりする、そんな一時の小楽と引き換えに多くの苦や不満の中を繰り返し流れてゆき最後の時には、皆が「こんな生き方でよかったのだろうか?もっと意味のある生き方があったのではないだろうか?」と後悔するのである。
それは歴史が証明しているだろう。天下を獲った人でも、大発明をした人でも、大金持ちになった人でもが最後は後悔して嘆いているではないか。
「幸福や満足とは、外からもたらされた物事の多い少ないではなく、どう感じるか、どう味わうか次第なのである。」
「たとえ天から湯水の如く金が降ってこようが、心が卑しければ満足など得られない」のである。仏教では「有無同然」と説かれる。「無ければ無いで苦しいと感じる者は有れば有ったで苦しいと感じる」「無ければ無いで楽しいと感じる者は、有れば有ったで楽しいと感じる」有っても無くても苦しいと感じる者と、有っても無くても楽しいと感じる者がいるということである。それは間違った見解や感性を正しい見解や感性へと表面の思考から潜在域の概念という思考に描いてゆくことなのである。「調った感性で眺める世界は山地水木、何処も清浄なり。」
「真に満足をもたらすものは.足るを知る心だけ」
●仏教を間違って捉えてはならない。
★仏教は欲望を否定してはいない。
欲望への[執着][拘り]がドゥッカ(苦悩)が生じる原因なのです。
人間は欲望を生存の素因として[力]として生きているのであり、生きる意欲も欲望であり[無欲]を間違った見解で捉えてはいけない。
★仏教は禁欲主義(ストイック)でも享楽主義でも刹那主義なく現実主義。
苦行とも通じ合う禁欲行為とは苦(ドゥッカ)の中に安定を求めようとする怒り.痛みの感覚で生きる事に他ならず、苦.怒り.痛みの中に真理を見い出そうとする偏った観念であり、悦楽の中に智慧の真理を顕現させる現実主義な教えが真の仏教なのです。
★仏教は断捨離とは違う。
仏教は[所有]を否定しているのではなく.生きるのに必要でないものを所有する事は負担を増やす苦悩の種でもあるのだから必要以上に欲し執着し貪らないほうが[楽]なのだよと説くのであり、苦痛の種を取り除いて行けば当然に無一物へと向かう(結果論)
断捨離も捨て去り離れる事により安心.安楽を得られる点では同じだが、折角の持ち物を無理に処分するのは不自然な偽善に他ならない

想 念

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貴方が見て.聞いて.感じて.思考して.認識している.この世界とは貴方の想念が描き出した虚像に過ぎないのです。
物質的.化学的.電気的.心的なエネルギー体が五つの要素として集まって機能(現象)する時.私という想念を生じさせ、外界の現象との出会いにより世界という想念を創造しているのです。
哲学者ショーペンハウエルが言った[意思と表象としての世界]も[生きんとする意志]も.言わば想念により自分観と世界観を生じさせているのだと仰った釈迦尊(ブッダ)の言葉に通じるものであり、思考.想い.感覚.感情に意識が向いた時に生じた想念であり、その想念に働いた意志が業(カルマ)という動機であり、想念に動機(カルマ)が働いた[行為]と.動機(カルマ)が働かない[働き]とがあるのです。
⚫苦は愚心に付き従う
見て.聴いて.感じて.考えて意志.衝動.情緒.理性により、想念を生じさせる。
今ここに居る我々.それは私達の想念の産物であり、想念によって見え方も変わる。
この世界も同じように想念が創造したもの。
間違った想念に基づき、話したり行ったりすれば、煩悩や苦しみ(ドゥッカ)が我々に付き従うだろう。
轍(わだち)が牛車の跡に続くように。
私達が世界だと信じている(錯覚)ものは実は想念による心の反映であり、自分が孤独を感じれば家族と居ようが仲間と居ようが、やはり孤独なもの。
⚫心、清ければ悦楽なり
今ここに居る我々.それは私達の想念の産物であり想念によって如何ようにも変わる。
この世界も同じように想念が創造したもの。
正しい想念に基づき話したり行ったりすれば、悦楽(福楽)は我々に付き従うだろう。
影がその身から離れず付いてくるように。
世界は想念による心の投影である。
心が楽しければ、花も雲も微笑みながら踊り舞い、
悲しみに沈んで居れば風も海もむせび泣いている。
恨みの想念に妄執すれば、恨み辛みの日々を送り他を慈しむ想念を育成すれば憎まれ恨まれる事なく平安で歓びと幸せな日々を送る事が出来るだろう。
恨みに報いるに恨みを以ってしたならば、遂に恨み恨みの止む事なし。
恨みを除くものは慈悲の心で捨て去るのみ、此れ万古の真理なり。
⚫成功の法則(達成のエネルギー)
この世界の全ては不安定性の安定化運動性である。
例えば地球自体が廻っているのも.太陽の周りを廻っているのもるのも安定化運動であり、ドゥッカ(苦)と言う不安定状態から安定状態(スカ.楽)への欲求により空腹で苦しいから飯を食べ、やがて苦しいから排泄する安定化運動を繰り返し、苦しいからいきを吸い.やがて苦しいから息を吐く安定化運動を繰り返しているのです。
絶対的な安定は無欲に他ならないのですが、人間、生きる意欲も欲ですから.全くの無欲では生きられず、生きていたい存在していたいという煩悩の欲求による快感.快楽を求める利己的な欲望を全く否定しては活力(エネルギー)も失なうだけなのです。
諸々の苦しみ(ドゥッカ).諸々の悪事の根源は利己的な欲望ですが.同時に文明や進歩や発達を促し成し遂げさせたのも過酷な大自然や社会に対する利己的な欲望であり、仏教の説く[中道]とは利己的な欲望に偏らず利己的な欲望の対極にある利他との中道に於いて堅固な平安.悦楽.喜び.幸せが得られると説き、実は成功や達成にはこの偏らず縛られず惑わされない軛(くびき)を解かれた(盲目的状態から目覚めた)自由な発想(想念)と努力が必須なのは[やじろべえ]の如く片極に偏らない両極の中道という安定の次元に於いて.全てのエネルギーはそのポテンシャルを十二分に発揮させ観自在に働くものなのです。
⚫中道とは超越である
中道とは片極への偏りから生じるドゥッカ(苦.迷い.不安定さ…)と反片極への妄想的執着から超越した中道の安定を言い.両極からの程々の中間の位置と言う概念とは異なり、両極の中和作用で依り高度な次元が顕現する事である。そして究極の中道(安定)とは[空]であり.空の概念とは.無の概念と全く別物であり、無の概念とは[全く何も無い事]を言うのに対して.空(中道)とは[満ち溢れているが安定していて作用しない状態にある]という事であり、例えばこの大宇宙はエネルギー(梵)に満ち溢れていますが空(中道・無色・非物質)の状態では現代科学の電気的.光学的な探査装置を以ってしても認識.確認.探知.作用する事が不可能であり、唯一.浄め貴められた同根のエネルギーである心的エネルギーに依ってのみ認識.確認.探知.作用が可能なのです(しかし心的エネルギーで星は動きません)
現代科学でいう[相対性の破れ]とは空(中道.無色.非物質)状態の不安定化により物質化した光エネルギー(光子)によりこの世界の全ての物質とその運動があるのです。
【基本的定義】
⚫ドゥッカ  (苦)
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.悔い.怖さ.迷い.哀しさ.寂しさ.憂い.飽き.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無常さ.欲.渇き.不満.失望.無明さ…
※条件(縁起)により生起するもの全ては本質的には楽という姿を以って一時的に現れた※ドゥッカに他ならず、条件(縁起)による変化生滅によりドゥッカの本性を現わす。
無常な快楽.喜びで人を魅入らせ.惑わせ.執着させドゥッカの中を彷徨わせる。
⚫ス カ    (楽)
車軸が安定していて車輪が潤滑に廻ってゆく状態
安楽.安泰.平安.静逸.幸福
⚫無明 (本質的無知)
無知.盲目的.手探り.妄想的.偏り誤った観念や思想
※偏り.歪み.曇り.惑い.妄迷.錯覚.暗愚
無思考.思い込み.勘違い.錯覚.先入観.固定観念.既成概念.社会的価値観.偏見.誤り偏った思想.知識.情報.権威.看板.世評.風聞.主観.噂話.迷信.伝説.伝聞.習俗.歴史.文化.伝統.風格.外見.主張.洗脳(染脳).暗示.常識感(セオリー)…
⚫対立.分別的概念
善悪.良不良.迷悟.長短.否定肯定.信不信.優等劣.好嫌.生死.生滅.苦楽.有無.0-1.聖俗.愛憎.貧富.明暗.光陰.寒暖.表裏.運不運.幸不幸.賢愚.深浅.静騒.快不快.条理不条理.正誤.福厄.天地.清濁.損得.敵味方.主観客観.理性感情.自覚不覚.取捨……
※自我の偏見を捨て去り.物事の両極を超越(中道)
⚫所有の次元の事物(小楽)
※無常な夢幻.便宜的な物
(事物の一時的位や輝きが自らの輝きと錯覚させる)
金.財.物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.威力.承認.評価.評判.理解.伴侶.家族.思い出.愛欲.美.健康.寿命.安心.安全.平穏.感覚的喜び.仲間.主義.主張.見解・・・欲するもの  
※その所有量を存在の価値.判断基準と錯覚する
※喩え所有の次元の事物(金財…)が天から雨のように降って来ようとも真の満足など得られない、更なる欲望に身を焦がし不満の中を生きてゆく事になる。
苦楽は、外界からもたらせた物の多寡には関係なく自分自身の心(想念)の満足度.如何である。
真に満足をもたらすものは[足るを知る]心だけ。
※「我慢は身の毒、足るを知れ」
忍耐は自分を磨くが.我慢は不満を溜め込ませ何処かで反跳(リバウンド)を招くもの.真の満足.喜び.悦楽.幸せをもたらすものは正しい心(想念)だけ。
※条件(縁起)によって変化生滅する性質のものにである[所有の次元の事物(生.美.賞賛…)]への執着.渇望の消滅こそが涅槃(ニルヴァーナ)である。
⚫存在の次元 (大楽)※真実に依存した堅固な楽
(自らの存在の輝き)
人徳.知性.人格.人柄.品格.性質.度量.器量.精神性.境地.覚醒.超越.解放.自由.叡智……の育成により、連鎖し継続させていた輪廻を生じさせるエネルギーが生成されなくなり成仏ないし近縁種の善い処へと再誕してゆく。

NIMBYシンドローム(ニンビィ症候群)

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日本の衰退の原因を社会では少子高齢化と捉える向きが大勢だが、その真実は日本社会を蝕んでいるNIMBY思想というニンビィ症候群に他ならない。
先ずNIMBY思想とは英語の[Not In My back Yard]の略であり[うちの裏庭にはやめてくれ]思想であり利己的な幸せを追求する余り、利己的な欲望に反する物事に対し怒りをぶつける心の貧しさ.卑しさであり、それは利己的な利益追求にはしり他者(受益者)の利益とのお互い様な関係性の上に成り立つ進歩を阻害して自ら衰退していった多くの過去の文明と今の日本の現状にも当て嵌まる病巣であり、これは建物や施設などに限った問題ではなく自我意識に病んだ人間の驕りが社会の破戒を招く事を認識した過つての人々により森林保全法や動物愛護法などもそんな精神により創られたのである。
そしてそのもっと真因を辿れば物質文明社会の中で利他を謳いながら利己的な欲望の成就を無責任に約束するような歪んだ観念.思想.宗教が蔓延し.流れ連鎖してゆく生命観を喪失してしまった刹那的.享楽的.自己中心的.主観的な世界観しか持てない日本人が増えている事に起因するのではないだろうか。
次の自分が何であっても.次の自分が無かろうとも依り善い未来への願いが人類の進歩と発展と進化を促すのであり、真正な仏教が説く教えも文明を否定する灰身滅智を説いている訳ではなく人類の真の幸福のための進化の道を説いているのだから。