悪魔の証明

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自分を高め 世界を変える純粋仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!


先日、輪廻について「私は輪廻が在ると証明されていないから信じません。」と宣う人が居たので「では輪廻が無いと証明できるのですか?」と逆質問したら感情的に「証明されていないものは信じな
い」と宣いながら某教団の呪文は証明も確証もなく信じて口ずさんでいるらしい。
仏教が説いているのは得体の知れない物事や神や仏への信仰でも信心でも、倒錯した観念でもカルト的な怪しい力でもなく現実を説く現実主義に基づくものであり、証明も確証も得られない物事に付いて、在るとか無いとか、居るとか居ないとか、信じるとか信じないと言った偏った見解に傾くことは本質的には物事が理解出来ている、物事が見えている、真実を知っている事とは無関係とも言える単なる感覚的.感情的.情緒的な主観によって分別しているだけでしかなく、現実から遠ざかった観念論や抽象論や形而上学的な議論という不毛な思想の荒野に踏み込んでその正しさを試みる神の証明・悪魔の証明という現実には証明し得ない迷路に陥るだけであり、証明も出来ず確証も得られない物事を敢えて在るとか無いとか、居るとか居ないとか信じる信じないという一極に傾く為には感覚的・感情的・主観的な偏った見解(偏見・邪見)を持つか、同種の証明も出来ず確証も得ることが出来ない得体の知れない物事や神や仏や超越的な力を介在させざるを得なくなり、結果としてそれらを媒体として高度化された形而上学的な言い回しや洗練された空理空論によって、非現実世界を展開して現実から乖離してゆき、大衆迎合的・感覚扇動的・愚民染脳的(洗脳)なのものと成ってゆくのである。
真実が見え真実を理解するには物事を鵜呑みにしてはならず安易に信じて受け入れてはならないと同時に感覚・感情・情緒・主観という縁起律に遵い条件により生じ条件により滅している五集合要素(五蘊)作用と言う条件(環境・空間・時間・情報・知識・条件など)によって左右される不確実な意識さえも疑い、物事の生成・存在・変化・消滅を冷徹に客観的に眺め気付いた実相に基づき疑問を晴らして行かなければ先へは進めないものであり、真実が明晰に見え真実が理解でき進歩し先へ進む為には、進歩を阻む疑いは障害であり物事を疑わず安易に受け入れる事も進歩を阻む障害であるが、先へ進むためには疑い、その疑いを晴らして行かなければ、偏ったまま疑いもせず自惚れて感覚的・感情的・主観的に良い悪い.好き嫌い.有る無い.居る居ない.信じる信じないと無明な闇の中を明かりも灯さず手探りで盲目的に生きてゆく事となり、やがて現実に直面した時には悔い、嘆き、苦しむ事になるのです。
この項は言い換えれば八正道(中道)の教説でもあり、証明も確証も得ることが出来ない物事に対し現実主義を貫く仏教は、物事をヤジロベエの如く捉えヤジロベエの両極のどちらか一方の極に傾くことなく左右の両極の中道を計り支点(安定点)として安定(正道)することを説くのであり両極を分別せず偏らず在るも無いも一体(一如)として捉え、居るも居ないも一体(一如)として捉えるのである。
どちらかの一極に偏らずその両極に対して「備え在れば、憂いなし」となる中道を生きなさいと説いているのです。
泥棒さんに例えるならば、泥棒さんにも両タイプが居ると思うが、
一方の泥棒さんは、私は決して捕まらないだろうと悪さをしてしまうタイプだ。そしてもう一方は娑婆が住み辛く刑務所へ行きたくて悪さをしてしまうタイプだ。一方は捕まることを「無い」と偏って犯した悪さであり、片一方は捕まることを「有る」と偏って犯した悪さであるが、真っ当な正しい判断は両極に偏らない中道であり、捕まるのが嫌な真っ当な人ならば自分にはそんな結果は訪れないだろうと高を括らず「無い」という一極に偏らず、了見を狭めて後ろ向きな考えに流され詰まらない物事に依存して一時的安定を得ようと「有る」という一極に偏ることなく、肩身を狭くする事もなく自由に平穏に幸せにそして悔やむことがないように生きる為には、両極のどちらか一極に偏らず、有っても無くても良いように両極に備え、死後の憂いからも解放される様な生き方が、証明も確証も得られない物事に対する正しい処し方なのだと思うのです。
但し、真に現実世界の真実(真理)が明晰に見え諸行無常が理解出来れば、全ては変化生滅してゆく流れであるこの世界には実存的で固定的で永遠的な得体の知れない神や仏や超越的な力が存在する事が出来ない事実を検証し確証を得る事が出来、同じく真に諸法無我が理解出来れば主宰的で実存的な魂・霊魂・霊体・霊力などが存在しないこと心(潜在概念)が理解出来るのです。
一切の本質が苦(ドゥッカ)であることが理解できれば苦(ドゥッカ)の消滅の道(四聖諦)が理解でき、涅槃(ニルバーナ)を得る。=世俗諦
そして真に輪廻という自然法則が、生きている現在も継続している事実を検証し確証を得て理解できれば物質的要素が分解して土に戻ろうが、心的エネルギーや生命エネルギーが因果律に遵って別の何かに成り続けてゆく継続の運動性が理解できるだろう。=勝儀諦