先祖崇拝

先ず先祖が居たから今の自分が在るのは厳然たる事実であり.崇拝対象でもある事は当然であるが、真の崇拝すべき先祖とは貴方の身体の中に宿るDNA(遺伝子)やカルマ(業・形成力)などであり、外世界に崇拝対象とする先祖は既に存在せず、あえて先祖求めるならば[生きとし生きる全生命]の中に見い出せるものであり、笑い話をすらならば、先祖供養を欠かすことなく行ない.それを誇りともする実直だが.無明な或る人が、多額の予算を費やし盛大なる供養を毎年.執り行い「私はいつも祖先を此れほど供養しているのだから、不幸や不運とは無縁で、家系もきっと栄えるだろう」と妄想しながら、ふと供養会場の片隅に目をやると壮麗に飾られた場にそぐわないな野良猫が紛れ込んで居るのを見つけ、この供養会が汚されたと思い力いっぱいに蹴り付けたものだから、その罪なき野良猫はその場で死んでしまった。しかしその野良猫こそが.因果律(縁起)に遵って.その会場へと導かれた先祖の転生の姿に他ならず.やはり因果律(縁起)に遵って仔猫として生まれた彼の曽祖父に与える餌を求めてやって来たのだった。
因果律(縁起)に遵えば、縁ある処へと導かれ.縁ある果報となって現象するもの
よって知るべし.やがて彼れは難病に罹患し不幸な最後を迎え、彼れの家系は絶えたと聞く。
先祖や祖先の事を想う事もなく自分の力で生きてると錯覚している人が居れば、
自分が恵まれないのも先祖や祖先のお陰だと恨む人もいる、妄想的な信仰心から保護.安全.繁栄. 恩恵を願って先祖供養に余念のない人もいて、多くの人は先祖の供養に拘るが、もし先祖や祖先を供養するのであれば、自身の存在の次元的価値(人格.精神性など)を高めて行く事こそが真の先祖供養.先祖崇拝と言えるのではあるまいか。
先祖を供養する祭祀には余念なく取り組みながら.賤しい行為.愚かな行為.無慈悲な行為を畏れない者とはその実.先祖を貶めている事に他ならない。
社会で儀式化している先祖供養.先祖崇拝が習俗なのか仏事なのかと言えば釈迦尊(ブッダ)の説かれた仏教では「先祖への崇拝」を特別視されず俗事である葬儀の場に依頼されて供養文を唱える程度のものであったのは何故なのかと言えば「恩」と言う言葉に集約され、現実主義的な仏教に於いては崇拝対象も現実の中に見い出すものであり直接的な存在の恩は生み育くんでくれた両親への恩であり、先祖からの連綿の恩も親への恩に内包されるのであり、ある意味見ず知らずの先祖や例え記録があったとしても何処までが事実かも知れない先祖を崇めて親を犠牲にしたり軽んじたり蔑ろにするような恩知らずな行為は悪因縁を積み重ね業を深める無明な事でもあるからに他なりません。
●先祖を崇拝するならば、親をその十倍敬わなければならず、先祖を供養するならば親をその十倍供養しなければならない。
●人は敬うべきものを敬い、讃えるべきものを讃え、崇拝すべきものを崇拝し、捨て去るべきものを捨て去るべきである。何故ならばそれこそが無明の闇を晴らし目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれ(解放)、真の幸せに至る道だからである。
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老荘思想や中国仏教から強い影響をうけた日本仏教(新仏教)も中国思想を基とする先祖崇拝思想を軸としていて、本質的には仏教思想の根幹をなす輪廻し再生し継続して行く生命の流れを否定しているのです。
先祖とは敬うべきものであり「敬うな」と説いているのではなく両親への崇拝に内包される存在であり、それと分別される崇拝対象ではないという事であり、崇拝対象とすべきは自分に直接的に良い影響や恩恵や保護・安全・安心や教育や知識や経験を授けてくれる六方の時空や環境とともに両親や恩師や家族や友人や上司や恩人こそ崇拝対象であり崇め拝み感謝すべきであり「六方崇拝」として行ずべきだと説かれているのです。
見たことも情報もない何処で何をしてたかも知れない先祖を崇拝する時、母親と父親のDNAを半分ずつ頂いて生まれて来ている自分が先祖を遡り辿っていくと十代を経たぐらいで何千家という先祖を持ち、更に辿って行けば何万何十万家何千万家という先祖に行き当たり、逆に先祖から現在に連続性を辿れば正に人類みな兄弟であり家族であり、過去の方々は皆、ご先祖様であり、生命は一源であり同一なのである。そんな御先祖様を敬いを超えて崇拝する信仰は、人間が持つ弱さ・愚かさ・欲という本質的な無知(無明)が保護・安全・安心・恩恵を欲し妄想し投影しているだけであり、輪廻再生(サンサーラ)という自然法(天地自然の法則・物理法則)による連鎖の流れという生命の継続性による因果律により考えるならば、もしかしたら貴方が昨日いじめた鳩ちゃんは貴方の曾祖母ちゃんだったかもしれず、先祖の墓石に集っていて、払いのけた毛虫は曾御祖父ちゃんかもしれないのです。(生きとし生けるものたちを慈しむ事こそが、実は先祖崇拝なのではないでしょうか。)
それは実際には先祖様たちを蔑ろにしていながら、木でしかない仏壇を崇め、石でしかない墓を拝み、木像や石像を崇拝しながら、世俗的風習が優先され釈迦尊(ブッダ)の教えをを蔑ろにする現代の風潮そのままともいえ、あまりにも信仰化してしまった事により却って信仰心を喪失した時に同時に宗教(幸せに生きる為の宗(むね)となる教え)としての宗教心を喪失した日本仏教という新仏教の限界を感ぜずには居られないのです。
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人々が平安で在りますように。
人々が幸せで在りますように。
人々が息災で在りますように。
人々に喜びが在りますように。
良い一日を過ごしますように。

無明の闇から目覚めますように。  
無明の闇を乗り越えますように。  
無明の闇から解き放たれますように。