心は気持ちが創るもの

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自分を高め 世界を変える真正な仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!

人々が平安で在りますように。
人々が幸せで在りますように。
人々が息災で在りますように。
人々に喜びが在りますように。
良い一日を過ごしますように。

無明の闇から目覚めますように。  
無明の闇を乗り越えますように。  
無明の闇から解き放たれますように。

幸せは 己れ自身の心掛け次第
自分が、自分がの我を捨てて 
お陰、お陰のげで生きろ

心は気持ちが創るもの・・・・
気持ちとは何ぞや。

心とは何ぞや。
気持ちは刺激や情報に振り回される感覚により生じ煩悩(存在欲)に結び付いて渇望を伴って心は生起する
煩悩の要求に随がって気持ちを創ってゆけば欲望と喜怒哀楽の中を流れる不安定な心を創ってゆく。
内部.外部からの刺激(情報)のない処には感覚は生起せず、気持ちも心も存在しない

前向きな気持ちを創ってゆけば、無明の闇を晴らす心を創っイメージ 1てゆく
所有欲に捉われた気持ちを創ってゆけば貧しい心を創ってゆく
所有欲に拘った気持ちを創ってゆけば、卑しい心を創ってゆく
今の満たされない気持ち、

今の落ち着かない気持ち、
今の何とはなしに急く気持ち、
今の怒りの気持ち、今の哀しい気持ち、
今の惨めな気持ち、今の優しい気持ち、
今の歓びの気持ち、今の落ち着いた気持ち
今の自分の気持ちだと錯覚している其の何れも過去の記憶と外世界.内世界からの刺激(条件)により因果律(縁起)に随って生じているだけであり、心の奥底に自分の心を形成させる主宰的.恒常的.永続的.絶対的な霊や魂や霊魂など存在しない無我なる存在であり、無常(常なく変化生滅しながら流れてゆく)なる心が今の自分の気持ちを造っているという認識は正しくなく、唯、因縁という条件に随って変化生滅しているだけの感覚や感情や意思や衝動を、過ぎ去った過去の記憶に捉われ.拘り.引きずって居るのであり、例えるなら嫌な事があり、その嫌な事も風が吹き去る如く、過ぎ去った後にも過去の記憶に捉われ.拘り.引きずって既にない風に煽られているのではあるまいか、良い事があった昨日は野に咲く花を愛おしみ、空を流れる雲に感動した同じ心が、野に咲く花さえ疎ましく足蹴にし、空ゆく雲さえ恨めしく見える、全ては心の反映であり、その心は深層潜在域(深層潜在意識)と記憶域に積み上げてゆく気持ちによって創られてゆくのであって、心が気持ちを造っていると思うのは錯覚であり誤認であり、気持ちが心を創ってゆくのであり、気持ちは如何様にも創ってゆけるものであり、嫌な事があっても明るい気持ちを創り続ける人もいれば嫌な事の記憶を引きずり暗い気持ちを創り暗い顔をしている人も居るのであり、心とはその気持ちが積み上げられて創られてゆくのである。
つまりは心を変えようとしても簡単には変える事など出来ないものだが、気持ちは意思さえあればコントロールし変えてゆけるものであり、そのコントロールされた気持ちの積み重ねが心と成ってゆくのであり、世間で地位が人を造ると言われるのも同じ心のメカニズムの働きだろうと思う。
在るがままには無常で無我なものを、過ぎ去りし過去の記憶や外世界.内世界からの刺激への執着を条件(縁起)として生じさせている本質的には無常で空で苦である性質のものであり、智慧により気持ちは自由に創る事が出来、叡智により心は自由に創って行けるものだと気付いて、刺激↝感覚↝記憶↝感情↝主観↝妄想↝錯覚(五蘊・五集合要素)により硬直させている思考を柔軟にして無明な闇の中で盲目的な認識に捉われ.拘り引きずり執着してしまう心を解き放し自由に前向きで健善な気持ちを創ってゆき、明るく歓びに充ちた健善で平安で幸せな心を創っていって欲しいと願っています。
仏像の微笑みの記憶に随って気持ちを創ってゆけば、穏やかな心を創ってゆく。

金持ちの記憶に随って欲望の気持ちに縛られてゆけば、欲深い心を創ってゆく。
他者を労る気持ちを創ってゆけば、慈悲の心を創ってゆく。
他者を慮る気持ちを創ってゆけば自我から離れた心を創ってゆく。
自分に捉われ拘わず他者の平安や幸せを願う気持ちを創ってゆけば無我の心を創ってゆく。
ヤクザな記憶に随って争いの気持ちを創ってゆけば、荒んだ心を創ってゆく。
嫌な記憶に随って怒りの気持ちを創ってゆけば、地獄の心を創ってゆく。
妄想の記憶に随って歪んだ気持ちを創ってゆけば、倒錯した心を創ってゆく。
悲しい記憶に随って惨めな気持ちを創ってゆけば、後向きな心を創ってゆく。
物事に感謝する気持ちを創ってゆけば、満ち足りた幸福な心を創ってゆく。
心は気持ちが創るもの、気持ちは智慧が創るもの。


風、疎竹に来たりて 風 竹林を騒がす
風 過ぎて竹に声を留めず
雁 寒潭を度りて 雁 寒譚を賑わす
雁 去りて潭に影を留めず

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●先ず軽安(きょうあん)を目指せ

生存の素因である煩悩(存在欲)に起因する雑念と欲にまみれ妄想、錯覚、倒錯に陥っていては目覚める事など到底望めないばかりか欲深く寝呆けた偏った見解に縛られ軽安とは真逆な重苦しい身心を形造ってゆく事ともなる。
仏道に於いて無欲や浄化を目指すのは、一つには執着によりドゥッカ(苦痛)から解放される為であるが、二つに叡知や真実(真理)を顕現(発見)させる為であり妄想・欲深・倒錯・錯覚(思い込み等による偏見)などに基づいた内観(瞑想・禅定・ヨガ・観照)により、正観(禅那)と止観(定)とによる神秘体験と誤認させる倒錯的な妄想や幻覚や感覚を体験させ無明な人を益々と寝呆けさせ倒錯させる危険を孕むものであり超能力とか第三の目が開いたと過去世へ戻ったとか幽体離脱したとか神仏に出会ったとかカルト的な邪道へ陥る事となり、高度な内観・内々観(瞑想・禅定・ヨガ・観照)へと向かうには精進し煩悩を制御し、欲を静め、渇望・執着を乗り越え心を浄化して在るがままを在るがままに如実知見し思惟する感性を高めてゆくのと同時進行的に行う事に留意すべきである。
欲や渇望に駆られて不思議な境地を目指すのではなく、先ず自分を縛り‥積み重なり‥汚している負担を取り除き浄化して軽安を目指し、軽安なる自由な心で高度・高々度な内観(瞑想・禅定・ヨガ・観照)へ向かうならば必ず叡知は啓かれ真実(真理)は如実に顕現するのです。(勝儀諦・大悟)
※!!!邪道へ陥らない為には三法印を明確に心に理解させる(明確に心に刻む。)
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                                 三 法 印
諸行無常  神も仏も存在できない世界
全てのものは因縁により常なく変化し生滅しながら流れ続けている無常なる途方もないエネルギーの流動であり、この宇宙の実相でもある。
この時空における、常ならざる変化生滅を時間的に捉えたのが「諸行無常」であり、空間的に捉えたのが、次章の諸法無我だと言える
一切は無数の要因が絡まりあい生じ変化し滅してゆく。
故に、万物も如何なるものも永遠不変なのものはなく、変化生滅しないものは存在する事が出来ない世界であり永遠的で絶対的な創造主というような得体の知れない存在である神や仏や、天地宇宙の
自然法則に則らない超越的な怪しげな力などは存在する事が出来ない世界なのである。
諸法無我  魂・霊魂・霊体など存在しない
この世に存在する全てのものや全ての事象は固定化された実相をもたず、常に変化生滅の途上に在る「移ろいゆくもの」である。
全ては時空に於ける空間的な因と時間的な縁による因縁により生じ存在し変化し滅してゆく。人間も同じく生まれてから死ぬ迄の一瞬一瞬を変化の中に送る。
「人生は移ろうもの」だと言う人が居るが、人生とは移ろいそのものなのであり、固定的な「我」など何処にもない無我である
のに人は確固たる「我」を持っていると錯覚し固執して自我意識を深め、自分に拘り、自分に縛られ自分という存在に捉われ、自分中心に自分の事ばかりを考えながら生きているのであるが、無我とは固定的で実相的な「我」など存在しないと説くと同時に、本質的で主宰的な魂や霊魂や霊体も存在し得ないと説いているのであり、心とは主宰五つの要素(機能)の集まり(五集合要素五蘊)という精神作用の機能として形成しているのであり、主宰的で実相的な魂や霊魂や霊体などが形成しているのではない無我(アナッタ)な存在なのだと釈迦尊(ブッダ)は明確に説かれている。
「我れ思う故に我れ在り」は間違いであり錯角であり、正しくは「我れ思う故に我れ在り」と錯覚するのである。
一切皆苦   苦を前提条件として楽がある
苦とはドゥッカの漢訳なのであるが、ドゥッカとは、苦という意味のみならず不安定さ・不完全さ・脆さ・弱さ・儚さ・痛み・空虚・怖れ・哀しみ・惨めさ・実質のなさ・愚かさ・無知(無明)などを含んでいるのであり、本質的には「不安定状態」が、ドゥッカなのであり、この大宇宙もドゥッカの途方もないエネルギーにより存在しているのである。

●想蘊(サンニャ) 記憶の表象
人は過去の記憶に照らして、今という瞬間を認識しようとして今という瞬間を在りのままに眺める事が出来ない。
だから初めて識別した情景に感動したり興奮を覚えても、徐々に感動、興奮、歓びなどは薄れ、飽きて興味を失ったり、もし否定的な記憶であれば反射的に不快になったりするのである。
これは本質的には人は生存の素因である煩悩(存在欲)の要求に従って生きているからに他ならず、煩悩は初体験の中に永遠の生存への欲を適えてくれる事を渇望し感激したり興奮したりするが徐々にそうではない事を理解してくるに随って飽きたり興味を失ったりするのである。
記憶に基づき妄想的な概念や主観的な色の付いた意識や偏った見解を積み上げながらも現実を把握していると誤認識しながら感覚器官が捉えた在りのままの瞬間々々の全体フレームから自分に喜びや愉快を与えそうなものや興味を引き心に掛かる物事を切り取り断片化し識別し、意に沿う想念に捏造した妄想的な記憶である事に気付く事もなく正しく認識していると錯覚している。。例えば全体フレームの中を飛ぶ鳥は変化生滅の世界の生きている鳥であるが、切り取り分断化して認識してる鳥は最早、生きている鳥ではなく、鳥の姿形をした記憶に他ならず、鳥として飛び回らず餌も探さず木陰に憩う事もない代物であり、赤い鳥が青い鳥となったり、小鳥が鷹に変わったり、離れて行くものが近づいて来たり、思い込み・思い違い・先入観・知識・固定概念・錯覚・感覚・感情などに色付けされ捏造されて過去の記憶として蓄積していくのである。
白黒・大小・好嫌・良不良・美醜・苦楽・優劣・善悪・自他など識別というものも本質的には一如なものをどちらか一極へ偏って認識しようとしているのであり、自我による偏見を捨て去り善悪の両極を超越しなければならない。
量子的に言えばシュレディンガーの猫のように全ては認識されるまでは重ね合わされた状態にあり、白を思考するとき同時に黒も重ね合わされていて、善を思考するとき同時に悪も重ね合わされていて、成功を思考するとき失敗も同時に重ね合わされていて認知し記憶に基づいて感覚的・感情的に認識する時、主観により確率的に認識し意識化されているのであり、潜在域の過去の記憶により今の認識が確率的に意識化し表層思考域において捏造された自分の見解が造られてゆくのである。
仏教では、他人の言う事や誰もが口を揃えて認める知識であっても例えそれが権威のある学説であっても例え如来の言葉であっても、安易に鵜呑みにして信じる事を妄信と呼んで戒め、自ら客観的に分析し思考し検証し確証を得てから初めて信じる正信する事が大原則であり、世の中に溢れ返る知識や情報とその情報源には多くの罠が仕掛けられ張り巡らされている事に気付かず権威や看板や知名度などに幻惑され鵜呑みにして受け入れ記憶情報として蓄積して行けば何処かで張り巡らされた罠に絡めとられることとなるが、まず他人の言う事など主観的で無責任なものである事に気付かなければならず、氾濫する書籍にしても奇を衒ったような副題を付け内容的には浅薄なのものが多く、その出版の第一目的が有用な智慧を授ける為ではなく依り多くの販売を第一目的としていて読者の興味を引いて売れれば良い訳であり、新聞も購読や販売を第一目的としていて購読者数や販売量や広告収入の為に刺激的に偏ってゆき有益な情報を伝える事を第一目的としているのは号外ぐらいのものであり、テレビやインターネットでは虚偽でも捏造記事でも嘘情報でさえ視聴率や閲覧者数を稼ぐのを第一目的とし広告媒体も売る事を第一目的としているのであり、決して真実や事実や正義を伝える為に存在しているとは言い難いものに依存しているのであり、世の中に溢れかえる情報や知識に対しては、受け取る側の資質が要求されるのである。
それら情報や知識に触れて欲望や苦悩や無明(無知)から感覚的に、信じるとか信じないとか愚かに偏る事ではなく、堅固な真実に依存してゆく事が現実の幸福へと繋がってゆくのであり、幻想や倒錯や妄想や錯覚などは一時的には平安や喜びを齎す事もあるが必ず苦悩や欲望の劫火や悔み空虚という現実に戻らざるを得ない本質のものだからであり、自分の過去の記憶についても同じく安易に鵜呑みにし信じてはならないのであり、自ら捏造した記憶かも知れず社会に洗脳(染脳)され植え付けられ捏造された記憶かも知れず夢幻であるかも知れず単なる錯覚や思い違い記憶違いかも知れないものであり、突き詰めて言うならば今のこの一瞬だけが現実であり、過去の記憶も未来への希望や想像も妄想に過ぎないのであり、例えば嫌な奴と誤解し記憶する相手が実はとっても良い人であったり逆に信頼され誠実で正直な善人などと思われてる人が凶悪事件を起こしたり心に深い闇を持ってる事は多く日頃から声を出して笑う人の笑い声の大きさに比例して心の闇も深いものなのであり、聖職者だから清く気高い生活を送っているだろう表面的な記憶はその本質を把握しているとは言えず倒錯的な性の嗜好者や性犯罪が絶えないようだし、色欲を乗り越え超越した僧侶など至極少数に過ぎず大半が色呆けしてたり所有欲に執着している始末だし、また世間では教養と教育の違いを履き違え一流大学という高等な教育の学歴を以て教養人だと錯覚し、教育があっても教養がない人は実は多く、そんな人が下らない事件を起こしても別に驚くには当たらない事なのに信じられない事が起こったと驚いたり、また知識はあっても智慧がなく、見解はあっても見識がなく、情報はあっても知性がなければにも実際には役に立たないにも拘らず履き違えてるのか無明だからなのか雑学を含め知識が豊富な人間を知性が高いと錯覚し、実践からは程遠く持論を持たず能書きを垂れてるだけの知識人なるものが知性があるとは決して言えず、権利面で云えば国家と言う共同体は個人の権利に優先するものであるが、その共同体を形成する国民のために存在する筈の政治家や役人も政治家は自分の権力.勢力.蓄財に余念がなく清貧という言葉は死語となり国民に向き合うべき役人は上役に諂う事しか頭になく国家という共同体の運営の為の能力分担に過ぎないものを階級化(ヒエラルキー)させ主従関係化させ飼い慣らし家畜化させ特権や権益を既得化させようと目論んだり、そんな社会の中で自分の利得の事しか眼中にない人々は物事を自ら良く確かめる事もなく、捏造された記憶を入力(インプット)され洗脳(染脳)され植え付けられて思考停止に陥った人達は「そんなのは氷山の一角だよ」と自分の記憶とは異なる見解を葬り去り不確かな過去の記憶に基づいて物事を分断化し断片化しながら策謀のある世の中に翻弄され誘導されて行くのではあるまいか。
仏教では、所有の次元の事物(家柄・血筋・金財物・地位・名誉・称号・権力・勢力・権威・評価・承認)の所有量により尊卑は量れないと説かれる。人は生まれにより尊い者など存在せず妄想的な観念に過ぎず、人はその行いにより尊卑が判断されるのだと説かれ、能力分担の世襲化や階級化.特権化.既得権益化.差別化などの為に僅かな確率論的なものを絶対論化させたハイブリッド思想を捏造し観念化し植え付ける事により、所有の次元の事物を偶々多く所有した人達によるその所有の次元の事物の保全と簒奪の為の洗脳(染脳)と暗示に起因するのである。
仏教はそんな妄想的で洗脳的な観念や記憶からの目覚めて覚醒し、捨て去り離れて捨離し、乗り越えて超越し、解き放たれて解放され、自由に在るがままの現実に立ち返る事を目指しているのである。
キリスト教イスラム教では諸行無常の世の中にも拘らず得体の知れない絶対神を説き、この世界を神(善)と悪魔(悪)との闘いの場だと説く、だから平和を唱えながら自分達と異質な者を悪魔に見立てて争い滅ぼし止む事がない征服闘争の信仰集団という面が強いが、仏教では真実(真理)へと向かう人を菩薩(ボディサット)と呼び、真実(真理)に目覚め覚醒し、乗り越え超越した人を如来(タターガータ)と呼び、人は因果律に遵って条件付けられた無明(無知)な状態で生まれてきていて無明(無知)だから本質的なドゥッカに翻弄され盲目的に欲呆けしてゆき悪魔の心(悪意)を持った者に騙される「安易に信じる者は騙される」と説かれ、神とはそれらを見切った賢者、仏教に好意的に理解を示す人達や、自我(自己愛)を乗り越えて争いから離れて他者の為に生きる人々を神と呼ぶのである。
神とは貴方であり、悪魔とは貴方である。