如来品正師語録 その6

●世に美辞麗句で着飾るものに清廉なものなど居らず、権力を志向するものに聖人君子など居らず、己の金財.地位.権力.名誉.支持.尊敬を欲し、徳を施すこと少なり。
平和.自由.慈愛.正義.永遠.豊富.幸福.歓喜.守護・・・耳触りのいい言葉を並べ立て宣い謳いながら独善的にそして排他的に、他を攻撃し、争い.闘い.破壊し.殺傷し.排除する本性を現す。

●生臭が さも在りなんと抽象論 煙に巻きたり したり顔
              如来品正師 多々方等正覚

●自らの業(カルマ)に苦しむを地獄(自業苦)という如く、業(カルマ)を造らず空にして悦楽なる処を極楽(業空楽)と言う
              如来品正師 多々方等正覚
●金持ち、物持ち、支持を持つ者は、幻が如き一時の位に安んじてるだけに過ぎず、心の富貴、心の充足、心の質.格.境地.器量は、実相の存在の位なりて、条件により生起し、条件により消滅する縁起に依らない、自らの永遠の輝きである
               如来品正師 多々方等正覚
●日々 戯言でも書き連ねたれば 縁ありて時期充つる時 深淵はその姿を明からしめる 
              如来品正師 多々方等正覚

●情報社会に翻弄された神さまに、ご馳走をねだったら、フランス料理と中国料理と日本料理を用意してくれた。
節度に真理を現す神さまに、ご馳走をねだったら空腹と健康と記憶(想い出)を用意してくれた。
正に空腹に勝るご馳走なく、健康に勝るご馳走なく、想い出の母の味、故郷の味に勝るご馳走はなかりしが。
●物質文明の落し子は、他と競い、他と比べ、他を騙して蹴落としてでも勝ち抜くという殺伐とした食うか食われるかという弱肉強食社会を出現させた。
●社会ルールとは強者の論理によって認められ、強者はより強者となってゆく法であり、弱者はより弱者となってゆく道を説いている。
●カルトや邪教が溢れ返る所以を繙くならば、他人と比べながら生きてきて、物事を優等劣で分別し、自分を劣位と思い込み、そんな自分を受け容れる事が出来ない自我意識や執着心が、妄想的な超越した力を欲し、受け容れる事ができない現実から逃避して倒錯的な力に依存し、救い.庇護.安心.安全.恩恵を渇望する人(弱者)が増えているからに他ならない。
○世の中には罠が張り巡らされていて、無明な者、愚かな者、現実を受け容れられない弱者などを取り込もうと虎視眈々と手ぐすねを引いて待ち構えている。
○無明な者、愚かな者、現実を受け容れる事ができない弱者達は、それと気付かず取り込まれ染脳(洗脳)され、罠を仕掛けた者達の獲物や家畜と化して、大切な時間や金財を無益に浪費させてしまう。
○何の根拠も確証も責任もなく、罠を仕掛ける者達は詐欺師の如く自信に満ちて宣う。
貴方は必ず救われる。
貴方は必ず望みが叶えられる。
貴方は必ず失ったものを得られる
貴方は必ず永遠の命を授かる。
貴方は必ず成仏できる。と
しかし未だに真に救われた者も、真に望む物事が叶った者も、失ったものを取り戻した者も、永遠の命が授けられた者もなく、成仏した者もなく、酔わされ倒錯し錯覚されられただけ。
○現実を受け容れず、在りのままの自分を受け容れられず、欲と執着に心が絡め取られた人は世の中に張り巡らされた罠に嵌り、絡め取られ倒錯した世界で業(カルマ)を深め、因果律に遵って其々の処へと流れてゆく。
  如来品正師 多々方等正覚

●顔が命の久月ならば 鼻が命の修行僧
よく調いしその息に 甘露な安堵を奥深く味わう 時空となりて 世の平安を祈る
              如来品正師 多々方等正覚
●感情は 寝た子を起こさぬがよい
理性や知性は真実を理解して目覚めるがよい。 
             如来品正師 多々方等正覚
●五要素を結べば自分を断片化 解くれば骸と野に戻る
墓を拝みて 爺猫を蹴飛ばし 婆草を踏み付け
無明に輪廻を 繰り返す
     如来品正師 多々方等正覚
●今の世は 歳の功より 亀の甲
スローライフの 手本と成りたる亀さんと
若者の 反面教師となりたる御老人
●善く調いし、この身こそ仏なり
木像拝みて 仏を揶揄する 心の盲目
    如来品正師 多々方等正覚
仏道修行を問われれば、
 仏のように考えて、仏のように行いて、
 仏のように語りて、仏のように生きるだけ。
    如来品正師 多々方等正覚
●哭く猫の 可愛き声に 惹かされて
今日もせっせと 餌代かせぎ        
            如来品正師 多々方等正覚
●無明にて せっせと自分に奉仕して
手放し旅立つ其の時に 骸と成りたる全財産 
記憶も知識もゴミの山 刻みつけたる精神性 
戻りたくとも戻れない 進化の激流繰り返す  
    如来品正師 多々方 等正覚
●どうぞ皆さん、一度きりの、この人生♪
 自分に拘って、自分の為に生きて下さい♪♪
 そして因果律(縁起)に遵って、
 分解層(地獄)か生産層(餓鬼界)へと♪ 
 生まれ変わる事が、約束されます♪♪
    如来品正師 多々方 等正覚
●逆風を 試練とぞ思う 向上心 苦難とぞ思う 無明心 
            如来品正師 多々方 等正覚
●内に心身を調え 外に縛られず、
 内に心身の変化を眺め、外に衆上の幸せ平安を祈る 
如来品正師 多々方 等正覚
●金財に執着して、人を軽んずる者
金財に魅入られ 人財を失う。
人財に執着して 物財を軽んずる者
人財に魅入られ 物財を失う
物財に執着して 金財を軽んずる者
物財に魅入られ 金財を失う
●金財を持てる者には 金施の責務あり
人財を持てる者には 人施の責務あり
物財を持てる者には 物施の責務あり
学財を持てる者には 学施の責務あり
識財を持てる者には 識施の責務あり
法財を持てる者には 法施の責務あり
何も持たざる者には 労施の責務あり
責務を果たすが故に 真人なり
責務を果たすが故に 財は輝き
責務を果たさざるが故に 闇は深まる
●真実(真理)に気付かねば、虚仮に取り込まれる事となる。
しかし真実(真理)に殉じて真実を語らぬ者達と争ってはならない。
仏の教えはドグマに殉じる事を説かず、他と争う事を説かず、我説に固執する事を説かず、仏の教えより優れた教えが在れば、それに随うべきと説かれる。
仏の教えは真なる幸福と平安と歓びと自由へと導く燈明であり、信心信仰するものではなく、
燈明に照らし出された真実(真理)に従って自ら歩む道なのである。
真実(真理)は誰のものでもなく、何処にでも在り、何時でもあって変化も消滅もしないもの。何んと呼ぼうと何と表現しようと真理は真理であり虚仮は虚仮なのだから。
絶対・実相・永遠な真実(真理)を依り処とする以外には全てのドゥッカ(心の、不完全さ.不安定さ.苦しみ.痛み.悩み.弱さ.脆さ.恐怖
.迷い.実質のなさ.儚さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.哀しさ.不満足.悔い.無明.愚かさ.欲.執着など)から完全に解放され自由には成れないのだから。
あらゆる物事から解き放たれた自由を心から求める人には真に自由と平安の道を法施し、縛られている事を喜ぶ人には縛られている自由があるのだから。
●大きな声では言えないけれど、
 いつも幸せ モア・ザン・グッド
   常に満ち足る 日々是好日
   これが無ければ行けない処
   無一物なる桃源郷(ニルバーナ)
※他との比較的な要素を内包する為、憚られる処もある自分の物差しではあるが、決して条件による生起・消滅ではなく智慧による生起・消滅なのであり悪意なく用いるならば八正道の極意ともなる。物事の両極を、やじろべえの左右の重りと捉え、そのどちらへも偏らない支点こそが安定的な悦楽(快楽)の生起であり、偏った煩悩の消滅なのである。
苦を理解出来れば、楽も自ずと理解できる。
苦も楽も同じ刺激であり感覚・記憶・感情・意識(五蘊)がどう捉えるかだけであり、楽に執着し欲する五蘊は記憶の残滓に飽きながら常にもっともっとと更なる快感を渇望して留まる事を知らない。
今日も元気にご飯を食べて痛む処もなく歩いて出掛けた人は、朝から体が怠く食欲もなく節々が痛くて歩く事も出掛ける事も出来ない辛さや哀しさ不満が理解出来れば、何かに感謝せずには居れない程の歓びと幸せと快楽を奥深く味わう事も出来るのに凡そそんな幸せに溢れる人には巡り会えない。  物事すべて有無同然
                如来品正師 多々方等正覚

●自分を高める思考法(唱文)
⊕つまらない物事、どうでもいい物事、下らない物事に、捉われない、拘らない、縛られない。自分に足りないものは慈悲の心。
慈悲とは情け・思いやり・優しさ・慈しみと許す心
●自我(エゴ)を乗り越える思考法(唱文)
(人々の一人々々が、明るく有りますように、楽しく有りますように、気持ちよく有りますように、健康で有りますように、平和で有りますように、幸せで有りますように、)と言う方向性の思考
●生きとし生きるもの全てに対する思考法(唱文)
(生きとし生きるものたちが、
 幸せで有りますように、
 平和で有りますように、
 健康で有りますように、)と言う方向性の思考
●起床と就寝
朝起きて、朝(あした)に生き、夕辺に死すとも悔いなく生きて  夜寝て、このまま死すとも悔いなしと眠る

●あの人から、あんな仕打ちを受けた、この人から、罵倒された、危害を加えられた、奪われた、打ち負かされた、騙されたと、怨む心、憎む心、執着する心が自分を貶め、不幸にして行く。
人生は心に基づき、心を主として、心によって造り出される。
もし善い心で物事を行えば福楽がその人に付き随う
もし悪い心で物事を行えば苦悩がその人に付き随う
自分を高めるも低めるも、自分の心しだい。
自分を真に救うものは、自分だけ。
他人から、どんな仕打ちを受けようとも私は大輪の華の如く慈悲の清香を放ち続ける

●情報と知識
現代人は世の中に溢れ返る情報に翻弄され呑み込まれ溺れ、それにより迷い偏り無明を深めているのではあるまいか。
テレビから溢れ出る音声情報と映像情報、本屋に並ぶ書籍情報、インターネット情報、不確かな伝聞情報、伝統・文化・権威の前に錯覚してしまう情報、迷信的な情報、倒錯的な情報・・・例え多くの人達の支持を得ている情報であったとしても社会に溢れる情報とは単なる他人の見解に過ぎず、そのまま信じて知識だと思ってはいけない、それらは真実や覚醒を謳いながら主観的であったり偏っていたり間違っていたり迷信的で倒錯的なものが殆どで中には洗脳(染脳)や誘導を目的とする罠も張り巡らされているのである。まして情報とは他人の牛をただ数えてるだけであって、他人の牛を幾ら数えても自分の牛にはならない、他人の牛は他人の牛なのである。
溢れ返る情報の蓄積により、本当は何も解って居らす、単に情報として知っている、記憶しているだけに過ぎす識っているとは言い難いにも関わらず、知ったつもりになり、自惚れながら頭の中に屑とも言える情報によりゴミ屋敷を築いて行き、無知(無明)な本質の上に築いたゴミの山によりエントロピー(乱雑さ・混沌)を高め、解答に至る確度を一割と見積もるならば残りの九割は混沌に到る確率なのであり、ドゥッカ(苦・痛み・悩み・迷い・悔い・不満・惨めさ・儚さ・哀しさ・虚しさなど)に行き着く事となり、まして自我(エゴ)の選択による妄想的な観念を増長させ人間を欲深くさせてゆくのである。
だから世の中には空理空論な情報や形而上的な情報を知識だと勘違いして非現実的な倒錯的な世界へと陥ったり、情報を知識だと錯覚して高尚な能書きを垂れながら真実は浅はかな人格の持ち主が多いのではないだろうか。
情報とは決して知識ではなく、本質を理解した訳でも確実な根拠や認識を有する訳でもなく無知なまま知ったつもりにさせる錯覚であり、知識とは智識とも言い、物事の本質や実相を定義し理解し認識できたものが智識であり、智慧が伴い実践の中で真に自分を向上させ、成長させ、高め、幸せへと導くものを言うのではないだろうか。
      如来品正師 多々方 等正覚
●真正な仏教
真正な仏教が説く道は物事を客観的に冷静に眺め、分析し、理解する道であり、人々に誤った楽園や極楽浄土を約束したり、得体の知れない神や仏や超能力などを妄想させ不安や怖れや罪を掻き立てたり誘導したりしない、寧ろ信仰や信心などに誘導され洗脳され翻弄され、大切な時間と金財と人としての生命と情熱を浪費させ、無明を深めてゆく犠牲者とも言える多くの人々を盲目的な闇の中から真実という光明のもとへと導くための教えである。
真正な仏教は人と世界の在るがままを正確に客観的に説き、人々に完全な自由、平安、静逸、幸福への道を指し示すものである。   
                 如来品正師 多々方等正覚
●何百億円、何千億円を費やしたスーパーコンピューターだろうが何千円かの汎用パソコンだろうと入力するデータが正しければ正しい答えが出て来るものであり、天気予報が余り当たらないのも、大した事も出来ず詰まらない自惚れた人が多いのも、入力してるデータが間違ってるか、偏ってるか、歪んでるからなのであり、世の中に溢れ返る情報や知識と称するものに惑わされている大衆から脱出して自らデータを分析し思考し検証し確証を得たデータに基づき行動してゆける人が真の勝利者となれるのである。


●実践
得るは易く、捨てるは難し。築くは易く、超えるは難し。
訪れるは易く、去るは難し。怒るは易く、忍えるは難し。
語るは易く、行なうは難し。 
唯、人の質(クオリティ)、格(レベル)、境地(ステージ)、度量(ラージ)に遵いて、自因果自得、自因果応報。 
                  如来品正師 多々方等正覚
●人は何も知らず、何も解らずとも既に識りたりと錯覚し妄想す。どうでも良い物事に執着し、下らない物事に囚われて、つまらない物事に拘りながら、重要な物事には実に短絡なものなのである。
杉の木を見い出したれば杉林なりと思うが如く、木を見て森を見ずが如し也。
                  如来品正師 多々方等正覚
●人々の未知への情熱が社会の熱気を醸し出し新たな世界を造り出す。無明なる無知蒙昧が自惚れた白けた社会が醸し出す、怒りと恨みと不平不満がいったい何を造り出すのか。
                  如来品正師 多々方等正覚
●多くの人は主観的な思考・意識・感情・認識・感覚が自分の心だと言う・・・・・当然のことである。
五集合要素(五蘊)はグルグル(ごちゃごちゃ)と回転しながら、感受⇒感覚⇒認識⇒感情⇒意識⇒主観を繰り返してる。
・・それは動物達も同じ!
・・人間だもの!・?
・・・至高な存在としての尊厳は??
人間が人間として存在する価値とは??
高度に発達させた知能・創造力・洞察力・理性(客観的な思考)と言語能力と手先の起用さによる作成能力・・・
本能は生存し、再存在し、成長し、増大し、蓄積しようとする意志である。
良しにつけ悪しきにつけ、苦から逃れて幸せになろうと五集合要素(五蘊)をグルグル(ごちゃごちゃ)回してる。
・・・それで人間が依り人間らしく幸せになれたの??
・・・残念ながら主観的に生きてると自我意識ばかりが増大し、世界と自分とを分断し、自分を中心とした自分本意な都合や欲望により世界や社会を眺め判断し行動しようとする。
・・・世の中は自分の都合に合わせて変化しては行かないから、却って苦や不満ばかりを増大させてゆく結果となる。
・・・全ての現象は世界の断片に過ぎないものを切り取って偏り、倒錯し渇望し執着すれば必ずドゥッカ(苦・痛み)に行き着く事が理解できない。
・・・それを無明(無知)と言うんだよ。 
                     如来品正師 多々方等正覚
●【和をもって尊し】
昔々、仏教(中国馬教)を日本にもたらし庇護したと言われる馬小屋の太子の御言葉として伝わる「和をもって尊し」と言う言葉は、実に高邁で立派な理想を述べられた有難い御言葉であり、我々、日本人の社会の根底を成す大切な言葉でもあるが、が、が、が、が、浅薄に受け止められる気来が歪めず、日本社会のナァナァ的、事なかれ的、大衆迎合的な大きな要因なのではなかろか。
仏教用語では「和して尊し」「和するは尊し」なのであり、和するとは調和する事であり、決して妥協する事でも転向する事でもなく、人が一億人居れば一億種の見解が有るのであり、和する事はそれ程に難しい事柄であり、だからこそ色々な見解や方策の中から切磋琢磨して磨き合い削り合いながら、依り良い形で和する事が尊く素晴らしい事なのであり、決して一部の者達や、権力や既得権益を有する勢力の見解に従い、他の意見や見解を言論封殺したり、主張する事、や問題提起する事が、和を乱す事であると、排除する社会は発展を阻害し、淀みを生じさせ、膿を蓄積してゆくものであり、古来、亡国の暗愚な君主はイエスマンや媚び諂う者達を重用し、意にそまぬ能臣や意に逆らう賢者を遠ざけ排除してしまい国を傾けさせるものであり、和する度量(ラージ)を欠きたるが故である。色々な意見や見解にも広く耳を傾け、広く人材を集め、人材や物事の本質を見抜き、調整し、適材を適所に配置する見識により安定した堅固な社会を造りだし、より新しいものを創り出す尊い和が達成されるのである。
信念の伴わない自分の見解に拘る事は、愚かな事ではあるが、言いたい事が言えない社会は息苦しいものであるし、自分の言論と異なった意見や見解に対して攻撃的に誹謗中傷する事は許されないし、和という調和を求めない議論(ディベート)は不毛な論争に過ぎない。
和を以て尊いならば、義に於いて和を選択するは不義となる。義にも大義と小義があり、以て和するは小義であり大義を失う事もあるのである。
例えば、前の大戦に於ける山本56連合艦隊司令長官を英雄視する世評が殆どであるのだが、彼れは駐在武官として米国に赴任していた経歴を持ち、彼れ以上に米国という国の気質・実情・軍事力などを学んで知しうる人物は見当たらないのであり、真珠湾攻撃を奇襲にならない様に宣戦布告の時刻の遵守を命令していたにも関わらず、奇襲となってしまい、早期講和が意に反して不可能となり米国との本格戦争に発展してしまったという筋書き立てが出来上がっているが、全くのフィクションであろう。何故ならば陸軍は米国の参戦を怖れていたのに、真珠湾攻撃は海軍の主導で計画された作戦であり山本56が強く反対したという記録は存在せず、世間に屯する大家を自認する学者達が無責任な論評をするのとは訳が違い、一国の存亡を左右し得る立場に任じているのであり、小義に任ぜず大義に任ずべき立場にあるのだが、山本56は小義である海軍内の「和を以って尊し」を選択したのであり、真に国の為、国民の為の大義に殉じるならば和を乱すことを厭わず「義をみてせざるは勇なきなり」と一命を賭け、反対すべきは反対し、抵抗すべきは抵抗する命の掛け処は開戦の作戦会議時であり真珠湾の攻撃時ではないのだが、世評でよく聞く弁明に、時代は既に動き出してしまっていて反対し抵抗する空気ではなかったという妄想的、倒錯的な無責任な発言や詭弁が罷り通るのも、その根底にあるのは日本人が浅薄に受け入れてしまっている「和を以って尊し」という事なかれ主義であり、大衆迎合主義であり、ナァナァ主義なのであり、自分の影に怯えるが如く無色透明な空気に威圧され、大義に殉じることができなかった勇気がない無能な将軍との評価こそが正当であり、馬小屋の太子の御言葉とされる「和をもって尊し」を浅薄に受け入れ染み込ませる自惚れた無明な者達が多いからに他ならず、古来そんな者達が主導する社会が何時までも栄えた試しなどないのである。