如来の嘆き

人間は誰でもが、幸せに成りたいと願いながら生きているのです…

これから自殺しようとする人でさえ.消滅(死)中にドゥッカ(苦しみ.悩み.不安定さ.不完全さ.心痛.憂い.恐怖.悲しみ.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.不満.空しさ.欲望.無常さ.無明さ…) などからの解放される喜び.幸せ.安心を見い出しているからに他ならず、多くの人が所有の次元の事物(お金.財産.物欲.地位.名誉.称号.権威.権力.勢力.健康.長寿.承認.理解…)に魅入られるのも幸せに成るために必要だと錯覚してるからであり…つまりはそれらは目的物ではなく幸せに成るための便宜的な手段(アイテム)であり付随物に過ぎないのです…
それを実践的に証明するのが仏教であるとも言え、無一物で路傍に立つ如来の嘆きでもあるのです…
如来の出世に会えることが出来た今日の日を生きる人々は、既に大いなる幸運と幸福の縁を持てる[幸運と幸福な人]なのです.
如来は毎日、欲望が渦巻く社会の中で欲望に塗れた人々が行き交う路傍に慈悲の心で立っています…ですから心の沐浴処なのですから…

皆さん幸せに成りたいと願いながら懸命に生きているわけです…そしてその本当の幸せへの道を指し示す為に.路傍に如来は立っています…
幸運には尻尾が生えているそうです…
幸運を掴むとは.その尻尾を掴む事とも言われます…
幸運とは尻尾をゆすりながら誰の前にも.前触れもなく突然に訪れて、その前を通り過ぎてゆくものだとも言われます…
本当の幸運とは.幸運だよ〜幸運だよ〜幸運が来たよ〜と知らせながら通り過ぎてはくれないものなのです…ですから自ら.幸運だよ〜と主張しながら訪れるようなものには警戒しなくてはいけないのです…
つまり幸運を掴むのも逃してしまうのも、その人次第なのですが、幸運を求めるあまり無闇に手を出すと痛い思いに会う事のほうが多い現実の中にあって、疑心暗鬼に躊躇してばかり居ても前には進めません…
前を通り過ぎてゆく幸運の尻尾の長さ分の間に見極めて掴めるか.取り逃がしてしまうかによって、人生は天と地ほどの差となって現れてくるのですから…
いざ.という時の為に日々、冷静さと集中力と洞察力を養って下さい…
論より証拠で、如来は.決して皆さんが思い浮かべるような如来然としたキンピカな金襴衣装を纏ってはいません.そういったまやかしとも言える外見的な輝きを戒めた糞掃衣(ふんぞうえ)とも言われる法衣を纏って.平安で喜びと慈悲に満ちた微笑みと眼差しを湛えて路傍に立っているのです…
気付いて喜捨する幸運も.見紛い喜捨する幸運を取り逃がすのも、その人次第なのですから.
如来とは、何故.如来なのでしょう…
それは如来蔵を言うのです…
如来蔵とは、真理を蔵している意であり…
真理とは、真の幸運と幸福への道であり…
幸運と幸福を指し示すから如来なのです…
運のいい人は、如来の功徳で無明の闇を晴らして幸運と幸福の人生を歩いてゆきます…
運の悪い人は、如来の前をただ通り過ぎ、大いなる幸運と幸福を取り逃がしてしまいます…
如来の嘆きは、幸運と幸福を取り逃がしてしまう多くの方々への憐れみでもあるのです…


多くの人は、そんな憐れみは[余計なお世話だ]と思うのでしょうが、では現代人は幸せや喜びを必死に探し求めながら得られたのでしょうか…
否、世の中には苦しみと不満が渦巻き.せめてもの救いとして.手身近な所有の次元の事物や者に執着.愛着しながら、辛うじて短命で一時的で無常で空しい喜びや満足に依存し魅入られているのではないでしょうか…

そんな行き場を失った純粋な無明(無知)なまま了見の狭い.貧しい心には.苦行とも言える社会生活がユートピアとさえ映るらしく、真の幸運と幸福を顕現している如来が、糞掃衣を纏った乞食坊主にしか見えないものなのですから…
一切万象 自因果応報
一切万法 自業自得