存在の次元

幸せの三要素(三階建構造)でも説明しているように、堅固で安定的な幸せを実現する為には、先ず土台ともなる一階部分を頑丈に構築してゆく事が重要なのであり、一階部分(存在の次元)がしっかり構築されていれさえすれば、二階部分(絆.関係性)や三階部分(所有の次元の事物)が.たとえ無いとしても堅固で安定的な幸福(しあわせ)を得る事は出来るのです…堅牢な一階部分をもつ人が二階部分のない状態は孤独ではなく孤高であり、三階部分のない状態は清貧なのですから…
逆に二階部分や三階部分をどれ程持っていようが、堅固で安定的な幸福(しあわせ)を得ることが出来ず、気を紛らわすように欲深く所有の次元の事物に執着したり魅入られたり、絆や関係性を不自然に欲し.愚かな所行や物事に翻弄されたりするのです…
この項では二階部分(絆.関係性)と三階部分(所有の次元の事物)の説明は省きます…それらは、便宜的な付随物(手段的要素)として自ずと付き随うものなのですから…
⚫存在の次元の事物
精神性.人間性.人格.クオリティ.度量.覚醒度.超越度.解放度.叡智など…
存在の次元とは、人からどう見られるかとか、どう認識.承認.理解されるかという無常な所有の次元的要素ではなくして、
本質的な存在性を言うのであり、例えば所有の次元として地位や金財とか高級車とかシャネルのコートの輝きに惑わされ、それがその人の輝きだと錯覚している人は多いものだが、その実は幼稚で下らない心の中は貧しく真っ黒な悪者かも知れない…
一方、例え無名で丸腰で裸であったとしても、その人の存在性の輝きで眩しい人も居るのです…
お釈迦様は目覚め覚醒された時(真理の覚醒)「自分の体現した真実は.見難く理解しがたく.賢者にしか把握できないだろう、それは世の潮流に逆らうものであり.高遠で深く微妙で難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ闇に包まれた者達には見えないものである。」と考えられ、この真理を世間の人に説明しても無駄では無いかと躊躇われた理由ですが、それは世の中(俗世)の人間達の利己主義的な欲望により所有の次元へと向かう潮流に逆らうものである事を充分に認識されていたからに他ならず、その時に梵天に準えられた理解者の懇願もあり.お釈迦様は世間というものを蓮の池に譬えてみて「池には未だ水面下に留まっている蓮もあれば、ちょうど水面に顔を出した蓮もあり、水面高く抜きん出ている蓮もある。同様に世間にも色々なレベルの人達がいるのだから.中には真理を理解する人もいるだろう。」そう思い直されてお釈迦様は説法を決意なされたのでした。
この人間の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)徳性(モラル・倫理性)器量や度量(ラージ)について俗世的価値観と出世的価値観という両極について垂直的と水平的とも言える二つの次元に於ける其々の基本的な三態について説こうと思います。
人は其々の本質的な精神レベルに応じて物事を判断・理解しているのであり、その人の持つ精神性(無意識層)により外界の物事に対する見え方・感じ方・反応・識別・感覚・感情・主観・価値観、執着させるものなどが違って来るのです。(色メガネ.歪んだレンズ)

これは五結合要素(五蘊)の形成力の違いとも言え、感受(ヴェッダナ-)した感覚に対する想蘊と行蘊(サンニャ・サンカ-ラ)の要素である潜在域に蓄積された過去の記憶(記憶の残滓・汚穢)と衝動や感情により形成される業(カルマ)である本質的な精神性により識蘊(ビンニャ-ナ)において意識された概念を又候、過去の概念・知識・経験・記憶などと比べたり組み合わせたり混ぜあわせたりしながら新たな概念を積み上げているのです。そこには精神の質(クオリティ・人間性)・格(レベル・人格)・境地(ステ-ジ)・徳性(モラル・倫理性)などの階梯による錯誤された記憶の残滓であったり、捏造された記憶の残滓であったり、主観的な記憶の残滓であったり、感情的な記憶の残滓であったり、妄想的な記憶の残滓であったり、客観的な記憶の残滓であったりして、当然に作用と反作用及び感性により精神性も違ってゆくものなのです。
そしてこの人間の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)により其々のカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)という負荷を形成し、輪廻という流転(連鎖)へと繋がってゆくのです。
【幸福追求の精神性レベル】所有の次元の事物と存在の次元の事物
「所有せしものの輝きをにより、自ずからが輝いていると錯誤させる幻想」

「名声も地位も称号も持たず無一物なる痩躯なれど何も纏わずともその存在は輝けり」
■精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく。
低次元に於ける階梯  渇望と存在欲に発する衝動による執着。  
①肉体的・物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し,本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく、それ以上の価値観を持ち得ません。ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく、宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てないのであり、物質的.肉体への価値判断が、精神的・存在的価値判断を上廻ってしまうのです。 
②感覚・感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く、好き嫌い・快不快・美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します。これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し、感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し、善悪・浄不浄などという倫理感を上廻ったります。妄想的・神秘的な信仰に興味を持ちやすく、儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります。
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、「第三の目」や「超能力」や「霊力」といった得体の知れない物事を求める傾向があり、読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)        
このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。        「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥超越精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(連鎖運動)を断滅した無我なる生命エネルギ-から顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」


人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのである。