思想の荒野

社会というものは嘘や虚構を段階的.階層的に各集団.各組織に組み込み.振り分ける事により、一貫性を保とうとするものなのです…そしてそれを安定社会と命名してもいるのです…未だ過って.真実(真理.事実.現実.実相)を核心とした社会が築かれた例などなく、完全.安心.守護.恩恵という幻想に彩られた虚構の世界を社会と呼んでいるのですが、この虚構社会は現実そのものを直視させられる世界よりも、人間的心情.人間的欲求には適っているようで.各階層.各組織の為政者や指導者が用意するものとは、無明な人々が[信じたい嘘]を用意してやる事に他ならないのですから…
ですから社会には感覚的.感情的.主観的.観念的.妄想的な嘘が溢れ返り.持て囃され、支持されて思想の荒野を造り出し、その思想の荒野を彷徨いながら、渇望した心は潤いの水を求めて蜃気楼を追い続けているのです…
例えば、社会とは表面的には.発達し.発展を遂げ.文化的で秩序と調和に満ちた世界を出現させたかのように彩られ無警戒な人々を錯覚させますが、その本質は野蛮な獣性を覆い隠しているだけであり、猛毒な牙や鋭い爪を磨く野獣が罠が張り巡らし、獲物が近づくのを虎視眈々と待っているジャングルのような処でもあるのですから…
そんな社会に於いて真実(真理.事実.現実.実相)は.社会の隅に追いやり.一部の変人たちが弄ぶ玩具の如く扱いながら、真理(真実.現実.事実.実相)によって.もたらされる果実は.我れ先に味わおうと欲し.争い.魅入られるのです…
よく社会では試練を乗り越えよう.とか、中には試練とは乗り越える為にある…などと訳がわからない論理が通用してますが、人は自分達に都合のいい情報や知識ばかりを集めようとしたり.自分に都合が良いように歪めて受け取ろうとする気来があり、それにより自ら客観的な認識能力を麻痺させている事に気付かず、もし冷静に.知性を以って客観的に考えれば、荒唐無稽で.信じ難いものであっても受け入れてしまうものなのです…
先ず試練とは.内在しているものであり、外からやって来てる理由ではないのです…
外からの刺激に対して.無明.未熟な自分が単に対処出来なかっただけの事柄を試練と呼んでいるだけであり、乗り越える時もあれば.身を躱す時もあるのですから…
例えば宗教(むねとなる教え)に付いて言えば、信仰とは原初的には能力的に思議し得ない不思議な物事に対する畏れ.敬い.崇め.感謝に他なりません…人間を差配しようとするような偏った教説を信奉する組織が、神や仏や精霊や力の名の元に為される行為は、如何に壮麗に飾り立て.高尚な美辞麗句で語られようが、平和も.博愛も.自由も.平等ももたらしてはくれません…
歴史を振り返っても迫害.戦争.殺戮.処刑.抹殺で血塗られているのです…
慈悲や愛を謳いながら.人心掌握と.自利と.他者を犠牲にした自分達の繁栄の為だけの悪意を.綺羅びやかな布切れで覆い隠しているだけであり、甘く芳しき香りを放ちながら、毒針を潜ませて搾取し富める者と、奪われ貶められる者とを造り出しながら、この社会の中を飛び回っているのです…
真に自分を救うものは自分だけてあり、
真の勝利とは、戦場において幾千幾万の尊い生命を奪い取り.勝ち取るものでも、他者から搾取される側から.搾取する側へ廻る事でもなく、己れ自身に打ち勝ち、無明の闇を晴らし、
冷徹なる弱肉強食という自然法則を目眩ましながら、その首.その身に嵌め込まれた枷(かせ)や軛(くびき)の束縛.緊縛を安心.安全.保護だと染脳(洗脳)され錯覚している自分から解き放たれ解放された世界を実現することなのですから…
天国へ至る門は狭く.茨の道とも言われる…しかも至る者は少なし…とか.
来世をば 野を這う虫と成りたれば
此の世の名誉も 世迷の幻
紡ぎし子孫に 踏み潰されて
来世をば 人の身とぞ受けたれば
此の世の財も ただ他人の牛を数えるが如し

ただその身に随う 業(カルマ)の流れ