あたり前田のクラッカー

世間の多くの人は[当たり前の事]を当たり前とは思わず…[当たり前でない事]を当たり前だと思って暮らしているのです…
ですから何時も[当たり前の事]で泣いたり.苦しんだり.悩んだり.怒ったり.悲しんだりしながら[当たり前ではない事]で笑ったり.興味をそそられたり.胸を時めかせたり.喜んだりしていると言えるのです…

例えば.無常な世の中ですから.何事も常なく変化生滅してゆく[当たり前の事]を.好い事はいつまでも続くと勘違いしたり.悪い事が起こると何時までも悪い事に捉われたり.拘ったり.執したり.当たり前でない不快さを深めたりしているのではないでしょうか…

 

無常なのですから.好い事も悪い事も.この人生さえもいつか必ず終わりが来るのです.

その自覚もなく.浅薄に.短絡的に.無思考に生きていれば必ず苦へと行き着く性質のものなのです…

当たり前のように居る人々とも.当たり前のように在る生活とも.いつか必ず別れる時がくるのです…

当たり前に感じる健康も.当たり前に眺めている風景も.当たり前に接している親や兄弟も.当たり前に出会う友人とも.別れはいつか必ずやってくるのです…

その時になって.あの人にこうしてれば良かった.ああしてれば良かったと後悔しても遅いのですから…

当たり前のように周りにある物事に.当たり前に出来ることが.どれ程に大切で.幸せな事か.気付くか.気付かないか.当たり前だという錯覚から目覚め.当たり前だと思わずに.やらなかった事を後悔しないように.生きてる今だからこそ出来る事は.今するしか道はないのですから…

 

[当たり前の事]…言い換えれば.真理(真実.事実.現実.実相)をいくら語っても多くの人が目をくれる事もなく.[当たり前でない事]…言い換えれば非現実的.妄想的.虚偽的.倒錯的.空論的.形而上的な話ほど.もてはやされたりするものなのです…
そうとは気付かずに.[当たり前でない事]に翻弄されながら.今日も[私は正しい][私の考え方は間違ってない]と錯覚しながら.今日も無明(本質的無知)の闇の中を盲目的に彷徨っているのです…

まさに暗夜行路を行くが如し…
それが人間の性(さが)なのでしょうか…

在るべき姿なのでしょうか…
真理へと向かい無明の闇から.目覚め.乗り越え.解き放たれ.振り払うことこそ.人間の在るべき姿なのではないのてしょうか…


[一切の形成されたものは苦(ドゥッカ)であると真に理解できたならば、それによって人は一切の苦を乗り越える…これが聖なる道である]
汎ゆる現象は苦(ドゥッカ)であると正しく理解する事により、汎ゆる現象に対する執着の空しさ(空虚さ)を理解する…それにより清浄な道を歩むようになる…
三宝印が解れば解脱する…
日本人なら子供でも知ってる三宝印(諸行無常.諸法無我.一切皆苦)ではありますが.子供から大人まで見渡して見ても.本当に悟った人を見掛けません…

時たま.私は悟ったと宣い.主張する寝呆け酔っ払ったような人は居ますか…
つまりは理解している[つもり]の人は沢山いるのですが.真に理解している人が居ないという事に他なりません…
ここはブログであり.教書ではないので掻い摘んで書けば[諸行無常]の意味を誰に聞いても[世界は.常ならず変化生滅している]…当たり前な話だと答えてくれる事でしょう…
もし諸行無常が当たり前の話なら.例え何が消え去り.何が生じようが[当たり前の話]であり.何故に動じ.何故に嘆き哀しみ.何故に苦悩する事があるのてしょうか…
先ず.それが[当たり前の話]なら.感覚はそれに向かわず.想念は働かず.感情は刺激されず.心象は動じず.主観は興味さえ失ない.執着など無い筈と言うのに…
次に[諸法無我]の意味を誰に聞いても[全てのものは因縁により生じているだけであって、実体性がない]…当たり前の話だと答えてくれる事でしょう…
もし諸法無我が当たり前の話なら.何故に[自分が.自分だけは.]と利得を追うのでしょうか.況して多くの利他.利他と唱えながら自利に余念がない凡愚な僧侶が蔓延り.何故に[自分]に拘り.捉われ.執着.愛着しているのでしょうか…
もし自分(自我意識.エゴ)など無いならば生命体の危機と生命体の繁栄の為にどうすべきかを心を砕いて居るでしょうに…
そして三番目が最も[当たり前]で在りながら[当たり前]ではない[一切皆苦]であり.この[一切皆苦]を理解する為に.因果律(縁起)に従った苦の本質.苦の生起.苦の消滅.苦の消滅法を説いたのが四聖諦(四つの真理)だと言えるのです…
逆説的に言えば.何故.苦しんだり悩んだりするのかと言えば.それは全ては苦により成り立っている[当たり前な話]を理解出来ず.また理解しても受け入れる事が出来ないから.悩んだり苦しんだりするのだ!というのが真理なのです…
つまりは人々は苦というものが在る事は重々知っています…(生存苦の中にいるのですから)

でもこの大宇宙からして.苦のエネルギーによって存在し苦のエネルギーにより活動している事が理解出来ず.今は苦しい時や苦しい物事はあるでしょうが.きっとそれを乗り越えた処へ行けるだろうと錯覚し妄想しながら生きているのではないでしょうか……
諸行無常で変化生滅しない神や仏や自然法則に逆らう得体の知れない力など.存在し得ない.ことさえも理解.納得できていないから.それら得体の知れないものを畏れ.崇め.讃え.敬い.信仰すれば.きっとそんな妄想的世界(天国.極楽…)へ行くことも出来て.苦からも逃れられるのではなかろうかと妄想しながら苦と不満の中を流れ続けているのです…
この世界が[苦]により成り立っている事が理解出来たら.苦しいのが[当たり前の話]なら.感覚はそれに向かわず.想念は働かず.感情は刺激されず.心象は動じず.主観は興味さえ失ない放置するでしょうに.決して当たり前の事として認識しては居らず.苦を怖れ.苦を心配し.苦を悩み.苦に捉われて苦の側面に焦点を当てながら生きているから.苦しんだり.悩んだり.不満であったりするのですから…
■苦楽一如
全ての本質は苦ですが.全てが[苦しい]と言っている訳ではなく.本質的には苦であるエネルギーの途方もない流動こそ.この大宇宙を動かしている力であり.[苦しい]とは苦の負担量が蓄積し[苦しい]と感じた処からが認識された[苦]であり其れまでは.楽ないし不苦不楽と感じているのです…

楽とはその本質的な苦が時空(時間的要素.空間的要素)に従って[楽]という姿をとって現れているに過ぎず.この無常な世界では時間的経過.空間的経過により.苦がその正体を現わしているだけの.当たり前な話であり.[当たり前]な苦に拘り.捉われ.怖れるのではなく.苦があればこそ現れる現象的な[楽]を如何に奥深く味わうか次第なのですから…
解り易くいえば.人間は苦の負担により生かされているのは地球に帰還した宇宙飛行士を見れば解るとおり重力の負担がない処に長く居ると帰還した時に立っている事が出来なくなっている姿が端的だと思います…

また快感と痛みという感覚についても例えば皮膚への刺激でも.皮膚を弱く優しく撫でると快感(楽)を感じますが.強い刺激を与えると痛み(苦)を感じます…

つまりは同じ刺激の負担量次第なものなのです…
全ての現象の本質が[苦]なのですから.その当たり前の[苦]を避けながら生きる事が.楽を得る事なのではなく.苦も同時に真正面から受け入れ.[苦あれば楽あり、楽あれば苦あり][苦は楽の種、楽は苦の種]と苦楽の中を成長しても行けるのです…
仏教的には修養とは飽くまで経験的なものでしかなく苦行の中に真理や悟りを求めたりはしません…

お釈迦さまも苦行の中には真理や大悟など存在しない事を悟られて.苦行を中止して菩提樹の下で瞑想に入られて大悟されたのです…
これは苦行の否定ではなく.苦行の正しく位置付けたという事であり、苦行(苦の経験)を[喉元すぎれば熱さを忘れる]それを避けようとする消極的な対応ではなく真正面から向き合い受け止め.[苦とはこのようなものか…]という明確な[尺度][認識]を作る事であり.尺度を持たない自我の意識は苦を真正面から捉えら受け止めたり出来ず、早く無くなれ.早く去れと負担感と不満と怒りしか残さないのですから…
例を上げたら切りがありませんが.例えば戦時の苦しい時代を経験された方達は、平和な社会にこの上の無い幸せを見い出します…
厳冬の寒さを知ってる人は.東京の冬の寒さなど苦てはないでしょう…

しかし南国育ちの方なら余りの寒さに南国に逃げ帰りたくなるでしょう…
地域や環境や経験により.知っている苦があり.知らない苦があり.苦楽とは.それぞれの尺度や認識の如何なのです…
真理や大悟は悦楽の中に顕現するのです…

苦行の中に顕現するものとは苦に基づいた怒りと不満によって形成された邪見でしかないのです…