酔生夢死

幸も不幸も.その人の満足度しだいであり、満足も不満も.その人の納得度しだいなのである…
例え.酔っ払らったように生き.夢想.妄想の中に死ぬような酔生夢死な人生であったとしても.その人自身が.真に満足し.真に納得して死ぬるのであれば、それはそれで幸せな人生だとも言えるのだが、現実はそうは問屋が卸さないものであり、煩悩(存在欲)の要求に従い.生へ執着.愛着しながら.尽きぬ欲望に真の満足を知らず…
自我の妄想に誑かされ.単なる五蘊作用(精神作用・現象)過ぎない感覚.感情.主観に翻弄されながら、自分勝手な自分は正しく.自分は特別な存在だという妄想により真に納得する事を知らず…
渇愛の衝き動かされ.もっと欲しい…もっと必要だ…と満ち足りる事を知らずに、酔っ払ったように欲望と感覚.感情.主観と渇きと夢想の中に生きてれば、生への執着.愛着は断ち難く.ドゥッカ(悔い.心痛.哀しみ.苦悩.儚さ.空しさ...)の中に一生を終える事となり、その執着.愛着が為に、輪廻の激流を転生してゆく事となるのだから.…
多くの人々は生命を解明したかのように錯覚しているが、極限微生物の一塊すらも理解できず造り出すことも出来ない…
多くの人々は.継続の連鎖などない事を解明したと錯覚しているが、個人個人が同じ意識とそれぞれの業(カルマ・形成力)を具えて生まれて来ている事に気付く時、因果律(縁起)に遵った輪廻と転生を否定できなくなって来ている…
多くの人々は.彼の世の存在を根拠なく否定するのが科学だと錯覚しているが、研究し.観測し.計算すればする程に、彼の世の存在を否定できなくなって来ている…

現代は正に酔生夢死な生き方をする人が多い世の中と言えるのでは無かろうか。
酔生夢死(すいせいむし)とは酔っぱらったような状態でいながら、自分は酔っ払ってなどいないと錯覚し、酩酊状態に気付く事もなく、夢見しながら幻影の中に死んでゆく事の例えであり、一見、憧れるような生き方にも感じさせるが、酔っぱらいを能く能く眺めれば解るように、日頃溜めこんだ煩悩や欲望の充たされない思いや不満を鬱憤させながら一時の感覚的麻痺状態に安堵を見い出そうとする愚行に他ならず生存の業火に焼き尽くされ一時的に現実から逃避させてくれるものへの依存は麻薬患者と同類であり、生存の業火は更に火勢を増して行くだけの飲酒に生存の業火からの逃避を試みても生存の業火を真に鎮火させる事など出来ないにも関わらず、酒は百薬の長だとか般若湯だとか嘯く浅薄な愚か者の言を情緒的に捉え鵜呑みにしたり連帯感や仲間の結束の為に欠かせないと錯覚したりして百害あって一利ないもの(但し酒造業者と酒税による経済効果はある)に依存することは却って依存するものによりドゥッカ(苦悩・心痛)を造り出してゆくのです。
自分を縛りつけるあらゆる縄目(問題)から解放や脱出させてくれず却って依存を深めさせているのである。
折角、人の身に生まれながら酩酊したような人生を送ってしまっては、実際これ程、空しい人生はなく、人として生まれた価値を貶める生き方であるとも言え、それは記憶喪失や痴呆症などは瑕疵・病・禍いであり決して幸せで価値ある状態だとは言えないのと同様なのです。
溢れ返る情報や、知識に埋もれながら、無明な闇の中を疑う事もなく酔生夢死に生きている人達の特徴として、先ず継続の輪(輪廻)を理解する事も理解しようとする事も出来ずに、死ねば酔いも冷め厳然たる摂理、事実(真実)に行き当たり慄然と憂えながらも無明を繰り返すのである。
これは浅薄或いは作意ある者達によって語られる「一度切りの人生」という言葉を無闇に信じてしまった結果からでもあり、正しく言うならば「一度切りのこの人生」であり、折角の人間としての人生を酔生夢死したり享楽的・刹那的に自分に拘り自分に囚われ感覚的に生き、精神性の向上や真人となる精進を怠り、明日も又あるだろうという妄想の中に時間と生命を費やせば、因果律(縁起)に遵って分解層・生産層へと縁を結んでゆくのは必定なのです。
付け加えるなら享楽的.刹那的.感覚的な生き方とは、今さえ良ければという短絡的な生き方とも成り、今というたった一度きりの瞬間を大切に生きたとは言い難く、それでなくとも如幻如露な人生を感覚的な快楽追求に費やす生き方とは、明日ありという幻想に根差した生き方だとも言え、もし本当に明日がない時、一番悔やむだろう時間の使い方なのではなかろうか。
もっと言うならば今という一瞬の内に永遠を映し込まねば、自分という仮体の存在の価値を映し出す事など出来ない冷酷とも言える理法(無常法)こそが真実(真理)なのであり、もっと言うならば自分という全存在、全生命は一息の中にあり一息に生じ、一息に滅してゆく存在であり、全ては不断に生滅しつつ連鎖してゆく流れなのです。


人は何かに依存しながら生きています。
何かに依存しなくては一時も生きていくが出来ない身であり、決して自分一人が単独で生きている訳ではなく空気・太陽・他の生命(食物)・環境・水・・・全宇宙のあらゆる物事に依存している。
心も同様に何かしらに依存しなければ安定を保ち生きてゆく事が出来ず、細胞・器官同様に心に刺激を与え刺激に依存しなければ生きてゆけない、不完全で・不安定で・儚く・脆く・弱く・怖く・空しく・無明で・欲する存在であり、外世界の刺激に依存しすぎて依存症となったり、所有の次元の事物(金・財・地位・物欲・名誉・承認・勢力・権力・権威・名声・理解・・・)、本来は付随物であり一時的手段としての存在であり、決して目的でもなく必要以上の価値を有さない物事に幻惑され依存し、それらを多くを有する事と人間としての存在の次元的価値との関係性は一致しないのだが、無明で酔っぱらった状態では存在的価値が上がったと錯覚して自惚れるものだが、ある日自分の人格・人質・境地・度量の低さに気付き酔生夢死から目覚める人も居たりする。
一時の位とか金財に必要以上に依存し執着し、どれ程有しても限度なく決して満たされることもないし、常に失う不安や心配で心が休まらず、もし失えばドゥッカ(苦・痛み・悩み・不満・儚さ・不安定・哀しさ・惨めさ・空しさなど)という現象世界の本質に直面してしまう事となる。これは依存という拠りかかる事により辛うじて安定を保っている状態から不安定な本質へ戻ってしまう事でもあり、この変化生滅しながら移ろいゆく世界において唯一絶対的で、変化生滅することなく移ろいゆく事もない実存である真実(真理)という自然法則(摂理・絶対法則)に依存する以外には安定的で実相的で堅固な依り処などないのだから。
社会や歴史を見渡せば、得体の知れない物事に依存して正に酔生夢死する人は実に多く、切羽詰って検証できない物事や妄想的なものに依存し執着し信じる事により一時的な心の安定を求める行為は悪事ではないが、麻薬患者が麻薬の吸引により一時的な安定や快楽を得ようとする行為に等しく、段々と麻痺してゆくと麻薬の吸引量を増やさないと安定や快楽が得られなくなるように、得体の知れないものへの依存や執着や信仰は倒錯と妄想と欲を深めてゆく事となり折角の人としての人生を酔生夢死な人生としてしまい、因果律(縁起)に遵って継続の輪(輪廻)という激流を、生命の進化の連鎖を始まりに遡り、捕食の関係性の上に辿り直す事となるのである。
人の身としての一度切りのこの人生を酔生夢死してしまわないように大切に生きて下さい。