悠久の流れ

心を汚したくはないから…俗世の愚劣に触れて胸を痛めたくないから…なるべくメディア情報などに触れる事を避けていても、通信機器を活用している以上、溢れ返る下劣の法から全く逃れる事は至難でもある…吐息
ことに春先ともなると.やたらと可笑しいのが出て来るもので、[悟った詐欺]でもあるまいが、[私は悟った!]とか[私はブッダの生まれ変わりだ!]と嘯く寝呆けた阿呆が現れる…笑
それらの殆どが、自己顕示欲や承認欲求のかたまりであったり、自意識過剰なパラノイアなのには辟易とさせられる…
先ず[悟り]という言葉のもつ神秘性と深淵性に心惹かれ.憧れるのだろうが、悟りとは汎ゆる[気付き]の全体性の統合に過ぎず、大悟(勝儀諦)もこの世界の全ての現象の全体性の統合性の発見であり.
三法印も四聖諦も縁起も[悟り]なのではなく、統合性.全体性の発見.理解.納得の為の道標に過ぎず、悟れたれば.作為は脱落し、自分は霧散し、我欲から離れ無量なる慈悲心が顕現するものであり、
釈迦尊(ブッダ)は説きし[諸行無常]とは常なく変化生滅してゆく世界に於いては[絶対的真理]や[絶対的な神や仏]は無為なる自然法則の他は存在し得ないのだから…故に自然法則は全ての人に差別なく働き、私の神仏や説だけが正しく.他のものは間違っているか劣っているという主張は成立しないのだから…
この世界は膨大で無尽蔵なエネルギーの悠久の流動であり、生命も心的エネルギーの悠久の流転であり、一切の運動は不安定性(ドゥッカ)の安定化運動なのである…

向上一路千聖不伝学舎労形如猿捉影

真如の悟境は仏祖千聖も説きつくし伝えることができない。学者や観念論者が能力をいろいろ働かせてその様子を現わそうとするのは猿が水に映る月影を真如だと見誤って捉まえようとするようなもの…

悟りの境涯は言葉によっては表現できないものであって、自己の体験によって自証自悟するしかない。しかし、いったん自己の脚下を顧みて修行底の自己の立場から思い返してみると、真如絶対の境地は先賢の助言が如何に多く残されてあろうとも、頭で理解することも難しいし、さらにそれを言葉にすることなど夢のまた夢なのである