ゴミ屋敷

心の中のゴミ屋敷
心の中をリフレッシュ!
皆さん、ゴミ屋敷と言うとテレビなどで時たま放映される食べたものやガラクタなどが散乱していて歩くのも難儀そうな室内を想像して、[よくあんな部屋で暮らせるわね〜]なんて思っているのではないでしょうか…
でも私から言わせて頂けば、それらは単なる物理的な問題であって物憂で片付けないだけで生死に然程も関わるとは言えない問題でしかなく、そんな一方.現代人は、氾濫する作為ある情報.間違った情報.偏った知識.染脳(洗脳)的な知識などで.欲望の炎を煽られながら.下らないもの事.つまらないもの事.どうでもいいもの事に気を取られ.拘り.捉われ.執着.愛着しながら、ゴチャゴチャと雑念したり.妄想したりしながら心の中を.ゴミだらけにしてゴミ屋敷を造っている事に気付けず、不満や恐怖や苦しみ(ドゥッカ)を造り出しているのです。
それは普段の生活のままでは中々.気付けないものであり、自我への執着.愛着を離れて客観的に自分の心の中を冷静に見つめれば、自分のそんな心に気付くことも.そんな無価値な情報や知識で如何に心が汚されているか見えてくれば、自分の本当の望みにも気付け、自分は今.本当は何をすべきかも見えてくるでしょう…
満足.安心.自信.幸せを得るには自らの信念と意欲と叡智が欠かせず、自己愛の権化でもある煩悩(存在欲)は、愚かであれ.勘違いであれ.例えそれが錯覚.染脳(洗脳)であっても[自分は正しい.自分は間違っていない.悪いのは外界だ]と自分を惑わし.擁護し続け、それが為に自分の心の中のゴミ屋敷に気付くことが出来ず.感覚.感情.主観に振り廻され、苦しみ(ドゥッカ)と渇きと貪欲を深めてゴミを更に積み上げてゆくのです…
その握り締める手と心とを放てば、幸せはその手と心に満ちるのですから…

例えば私達.僧侶が行じる托鉢も、私達.僧侶は働かずに他人様から喜捨や施しを得ようと辻に立っていると浅薄な人達は捉えていらっしゃいますが、生きる為の部分的行為として.それも在りますが主な目的は違うのです…
皆さん毎朝、顔を洗い.歯を磨き.身づくろいに余念がないと思いますが、それは身体的な外見の行為に過ぎず、内面の心の部分を毎朝、洗い.清めていないのです…
托鉢僧が朝、街の辻に立っているのは物乞いでも.慈善募金でも.勧進でもなく.皆さんが今日一日の為に.折角.顔を洗い.歯を磨き.身づくろいをしたのならば一番大切な心も洗い清めて今日を過ごして頂くための[心の沐浴処]として立っているのであり、お釈迦様も.心ない人から[物乞いシッダールタ]などと罵られても毎日のように行脚.托鉢.辻立ちを欠かさなかったのも、喜捨や施与することを仏教徒の義務となされたのも、托鉢.辻立ちが菩薩行と位づけられるのも、心の浄化なしには真の堅固な安心.安全.満足.平穏.安寧.愉悦.快楽.歓喜.静逸など得られないという真理(真実.信念)に基づき、真実が理解できず煩悩に煽られた欲望の真っ只中を無明の闇に包まれ盲目的に生きている人々への慈悲であり.憐れみであり.幸せの道への布施なのです
つまりは僅かな喜捨(施与)を頂くかわりに実は.托鉢僧が皆さんに幸せへの布施をしている.という関係性なのです…
◆人生を好転させる唯一の方法とは、節制とは似て非なる[自分のものだ]と物惜しみ.しがみつく貧しい心を乗り越え超越して[与える]ことなのです。
それは仕事でも人間関係でも恋愛でも、自分に対して何かしら[プラス]になるものを与えてくれる相手とか物事は受け入れ、無価値かマイナスになるものは排除してゆこうとする天地自然の流れでもあり、その理法に則った[与える][他の役に立つ]という行為が善い波動を生じさせ.運気の流れを変えてもゆくのです。
本当の引き寄せの法則とは[与える][役立つ]という因の行為(起運動)の果報として廻り巡る(スパイラル運動)による悪因悪果または善因善果として運気の流れを引き寄せてゆく摂理法則なのです
他者にどんどん与えていきましょう。
そうすれば、因果律に遵った報酬として巡り巡って大きくなって返って来たり、徳や金運が積まれて大福を引き寄せたりしていくものなのです。
また、プライベートでも、他者にどんどん[与える]ように心掛けるようにしていきましょう。
言葉.笑顔.援助.金財.物.親切.愛情.奉仕…など、与える事ができるものは沢山あるはずです。
それが常に徳と運気をプラスの状態へと向かわせる秘訣でもあるのです
参照【 施与の功徳 】
◆捨てる神あれば、助ける神あり
喜捨することで、自分を援助.応援してくれるような縁が結ばれてゆく
◆福.受けつくさば 良い縁必ず孤なり
小福を自分だけで使っていると、良い縁に見放され、大福も取り逃がす
昨今は、[情けは人の為ならず]の諺を、その人の為にならないから、情けなど掛けるなものじゃない…などと曲解しする心の貧しい人達が増えいるように見受けられ、自分にしがみつき.目先の利に魅入られて、自分が!自分が!で.苦しみや不満を自ら造り出し.深めてもいる事に気付かず.徳(情け)を他の生きとし生きるもの達に振り向けるから福や幸運が巡り来るのだ!という因果の法則が理解出来ず、決して満たされる事のない煩悩の要求に翻弄されながら心の中のゴミ屋敷に埋もれていくような、憐れな人ともなってゆくのですから…