退屈の虫

人は皆、退屈の虫を飼っている… しかも愚かで無明な人は、絶えず退屈の虫に悩まされ、振り回されている… 退屈の虫も又.煩悩(存在欲)であり、退屈の虫の要求に応えようと.外界に意識を向かわせて無明に何かしらを探し求める...しかしそんな退屈の虫の要求に幾ら応えた処で、束の間の喜びを得るだけで.又候.飽き(苦)を生じ.退屈の虫は.更なる要求をしてくるだけ… これが人が何かをしなくては居られない衝動により、じっとして居られず.ゴチャゴチャと雑念したり.落ち着きなくガタガタと何処かしらを動かしたり.意味もなく不満を呟いてしまう原因である。 さらに煩悩に支配されている人は、日常においても絶えず五感官(眼耳鼻舌身意)に刺激を与え続ける事により辛うじて安定を得ているのであり、何かしら退屈の虫を治める術を失うと遠からず、理性を失ったり、狂気を来たしたり、命を失なうことさえ有るのだから... では退屈の虫をどう退治していったら良いのかと言えば…それは[智慧と叡智]に尽きるのである。 飽きと退屈はワンセットであり、飽きも退屈もドゥッカ(苦)のひとつであり、生きるとは.気を紛らわすことであるとも言え、何かしら一つの事に飽きて目的意識が定まらない時に退屈の虫は蠢きだす… それは言い換えれば[不満]であり…不満とは満たされて居ない事である… 不満でいっぱいの心を.仕事や遊びや趣味や娯楽などで.一時的に.なだめ.癒し.誤魔化し.隠し.忘れていても我れに返ると、心の中は不満でいっぱいであり、不満のエネルギーで.またぞろ退屈の虫が騒ぎだす... その上、景気が良くない昨今は.尚更に不満ばかりで.満ち足りる事を知らない人々が増えている… 不満ばかりで生きていると.豊かで自在な心を失って、自ずと心は貧しくなってゆく… 貧しい心で煩悩の欲望に翻弄されれば.満たされぬ不満は更につのり、心は阿修羅.餓鬼.地獄へと堕ちてゆく… 即ち... 満ち足り[満足]するのに.必要なもの全ては既に具している事に、煩悩に魅入られ.翻弄され.波立つ心は.真実を映し出せず.気付けないだけなのだから... 所有の次元の事物(金.財.…)の所有量により.得られるものは便宜的で付随的で一時的な満足でしかなく、真の満足など決して得られないことが解らず、苦と不安と迷いと不満の中を流れてゆく事となる… その根源は煩悩(存在欲)の要求であり、煩悩は何かしら生存にプラスと感じるものを貪ろうと欲するが、その行っていたものが生存にとって決してプラスではないと気付くと飽き、何かしら生存にとってプラスなものを探して来い!と退屈の虫を走り廻らすのです。 ❖煩悩(存在欲)はプラスだと感じる物事は引き寄せたいと貪り欲し、マイナスだと感じる物事は遠ざけたいと怒り、プラスでもマイナスでもない物事に愚痴るのです(不善処・貪瞋痴) 煩悩(存在欲)は一寸先は闇である現実を認めませんから、永遠に生きている.生きていたいという前提で物事を分別していますから、下らない物事であれ、つまらない物事であれ、どうでもいい物事であれ、取るに足らない物事であれ、今という一瞬一瞬を疎かにしながら.何かしら一時的にでも気を紛らわし存在にプラスと感じるものを貪り欲すのです。 叡智により、そんな煩悩(存在欲)の要求に振り廻されず、今日一日ぐらいは多分生きているだろうから、今という大切な一瞬一瞬の時間を無駄に浪費せず、有効に意味ある生き方をしようと思い定め、一日の99%の、下らない物事.どうでもい物事.つまらない物事の情報や知識に振り回されず、考えるべき時に考え、するべき時にする、話すべき時に話し、雑念や妄想に気付く事が退屈の虫を退治する有効な方法でもあるのです…

如来品正師 多々方 路傍石

欲望は底なし沼のようなもの

日々の忙事に泥むれば 顕貴(ときめき)の歓びを忘れる

群れ戯れる者達と組み縛られることなく、同して和せず