在るがまま....?

最近、ある愚かな人が「自分は在るがままに生きているのだから.これで良い」と盛んに主張してくる.…

まァ、それはそれで良いのだが...笑

しかしその愚かな人をよく眺め.分析し.思惟し.思推してみれば、それは愚かな人が.愚かなまま.自己中心的に.自分勝手に.自分の都合ばかりを優先して生きても世の中からは是認され.自分も幸せに生きられると錯覚しているのであって、社会や友人.知人.家族など周りが寛容なだけであって、本人が自分の力で在るがままの幸せを造り出して居る訳ではない事に気付けないだけなのではなかろうか…
現実は.そうそう身勝手な自分の思い通りにはならず.自分の都合に従って物事が運ぶ訳ではないものであり. 身勝手に振る舞い生きれば苦や不満に突当るのが道理であり、そんな人は.やがて寛容な周りから愛想を尽かされ.取り返しがつかなくなってから気付くものである…
自分の感覚を喜ばせるために、際限なく刺激.快感.楽しみを追い求め、そんな 気を紛らわせる事が生きる事だと勘違いしているような感覚的.感情的な生き方をしていれば、やがて必ず不満や苦しみ虚しさや怒りに翻弄されるのであり、それを以ってそんな在るがままを.幸せだと主張しているのだとしたら、ある意味.達観しているとも言えるのだが、縁起の上での偶々の状況.環境.巡り合わせによる幸せに気付かず自惚れ.周りに感謝できないで居るとしたら、憐れでもある…恵まれた環境.友人.知人.空間のお陰様に気付く事こそが.在るがままに生きるという事でもあり、その感謝の中にこそ.我が身の幸せが見い出だせるのではなかろうか…
しかし苦あれば楽あり、良い事があれば悪い事もある.物事もそうそう自分の思い通りには運ばない.常なく変化生滅してゆく世の中にあって、自我意識と欲望に翻弄されながら生きれば.必ず苦や不満(ドゥッカ)に打ちのめされるのが天地の理法というものであり、自我意識と欲望の赴くままを[在るがままに]と嘯くそんな愚かな人が、今まで偶々.平穏であったとしても必ず訪れる.常なく変化生滅してゆく諸行無常な大きな現象にみまわれた時に、果たして在るがままに居られず、何をしでかすか不安さえ覚える…
⚫在るがまま(ありのまま)生きるとは、次の時間は何が起こるか解らない[一寸先は闇]である世の中を.自分の都合や自分の思い込みや欲望などという[自我意識]を脱落させた無我(忘我)な現象的な存在として.[今]という時間に集中して没頭して生きることであり、当然に過ぎ去った過去や.未だ到来しない未来や.妄想でもある時間的な束縛から超越し解放された状態なのである。

人は皆、喜びや幸せを探し求めながら生きているが、そんな一心に探し求めている喜びも幸せも.実は[一瞬々々の.その状態の中にしか存在しない]のであり、意識も連続的なものだと錯覚しているが、前の意識が消え、前の思考瞬間の意識に従って.次に生じた刺激に反応して新たな意識を形成させているだけであり、不自然であったり作為的な分だけ不快さ不満を覚えるのである。
しかし人の常とは言いながら、喜びや幸せを探し求め懸命に[所有の次元の事物]に魅入られ欲しながら生きてきて、果たして、どれ程.実現させ、その為にどれ程の苦しみや辛酸を舐め、どれ程の時間と労力を費やしたでしょうか…?
そしてどれ程の欲望を満たし手に入れたのでしょうか…?
結果として、どれ程幸せになり満ちたりているでしょうか…?
これまで懸命に努力して来られたのにも関わらず[まだまだ]だと.決して満たされては居ないと感じているとしたら、この先も同じなのではないでしょうか…?
それは喜びや幸せを探し求めている方向性が間違っているからに他ならないのですが、納得して受け入れる事が出来ないだけなのです。
人は皆、無明(無知)で愚かで不完全なのだから、間違いだらけで失敗だらけで当たり前なのですが、もしそれを認めて受け入れてしまう事が.恰も自分という存在性(アイデンティティ)を否定してしまうように感じて.受け入れる事が出来ないものであり、賢い人も愚かな人も.どんな生き方をしている人でも、根拠なく[自分は正しい]..[自分の生き方は間違って居ない]という無意識な立場を以って生きているのであり、たとえ間違った行為であっても[自分は正しい]という肯定的な意思がなければ何も出来なくなってしまうもの…
何かしら行動する時、これは悪い事であり、本当はいけない事.間違っていると無意識層が理解して意識層へ伝達すれば、その事は出来なくなるものなのです。
理性(常識.知識.客観性)では知って.解っていても、無意識(主観.感情.衝動.欲望)では[それを行なう自分は正しい]と囁いているのです。
愚かな人の[在るがまま]という浅薄な認識や錯覚と同様に、問題なのが根深い[魂.霊魂.本質の意志]といった錯覚.妄想がある限り、自分への捉われ.拘り.執着(愛着)から離れられず、根拠のない主観に従い、煩悩に主導され、自我意識に捉われて、小さな喜び.快楽と引き換えに、大きな苦や不満(ドゥッカ)の中を生きて行く事となるのです…
それに気付き目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、無明の闇に真理の光明を照らすのが、真の仏道なのですから…