即今実存

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甘露の門は開かれた.目あるものは見よ

禅語に[即今.当処.吾]や.[而今]とか[喫茶去]という似たような言葉がありますが、多少お釈迦様の本意から外れた解釈が為されている処も見受けられ.ここに改めて路傍石が[即今.実存]と説きます
✨appamada(不放逸)
多くの人は今、この瞬間を生きていると錯覚しながら、実際は過去の出来事や記憶や先(未来)の事に捉われたり.拘ったり.妄想したり.夢想したり.心配したり.悩んだりしながら.同時に[今]を認識しながら行動しているから.本当は[今]という瞬間に集中して.[今]を在りのままに見る事が出来ないのです。
本質的には現象に過ぎない存在である[自分]にとって.唯一の実存的存在性とは[今という一瞬]だけであり、過ぎ去った過去の記憶も.只の幻影に過ぎず、これから到来するであろう未来も.只の妄想に過ぎず、今という一瞬々々の[一瞬間の現実]を過去や未来に捉われ.拘り.執着したりして、見逃し.取り逃し.疎かしに.奥深く味わう事が出来ない事こそ[愚の骨頂]なのです…
たとえ過去はどうあれ.今更どうしようもないもの.それは糧として[今にどう活かすか]だけのものであり、たとえ未来がどうあろうと.今という一瞬々々に積み上げた自業を自得するだけなのですから…
世界が如何に広大であろうが.時間が如何に永続的なものであろうが、自分という存在は今という一瞬間のみに実存する存在でしかなく、一寸先は闇の中でゴチャゴチャとあれこれ妄想しても感覚や感情に刺激を与えているだけの不毛な所業に過ぎず.有難きこの一瞬を如何に集中して.如何に味わい.感じ.生きるのかだけが.自分の価値.目的.存在である事に気付き、今に集中して生きなさいと説くのである。
もっと言えば.人は一瞬一瞬に死んで.一瞬一瞬に生じているのですが一遍に全体が同時に行われている訳ではなく.その生死は刹那(プランク時間)の差を以って行われているので.人間の通常の認知能力では気付けないだけなのです。この変化生滅にしても老廃物(垢.排泄物…)など新陳代謝を遡れば多少は理解できる筈です。
輪廻も思考認知能力の問題であり、生きているという認識も.前の滅する時の思考認識を条件として.次の生起の思考認識を条件つけていて.それを生き続けていると錯覚しているだけであると言え.無常な身体.記憶.環境.意識の連続性が[生]ではなく、行(カルマ)と呼ぶ意志.衝動.認知力.形成力の連続性こそが[生]であり、今の結び目が解かれた後も.連鎖し.継続してゆく生命エネルギーの運動性.性質を司る次元的要素なのです(※魂.霊魂.霊体という実存的.永続的.主宰的要素ではない)
喩えれば、楽器(次元)が形状.変化により汎ゆる音色を奏でるように、生命の次元もその形状.変化により喩えれば、楽器(次元)が形状.変化により汎ゆる音色を奏でるように、生命の次元もその形状.変化により.生じて通過する一源のエネルギー(心的エネルギー)が汎ゆる精神性を奏でているのです。
全生命は一源であり.同一であり.汎ゆる形体として現象しているだけなのです。
[この身は泡沫(うたかた)の如くであり
陽炎(かげろう)のような儚い本性のものであると覚ったならば、悪魔の誘惑を断ち切って.死王に魅入られない処に安住する]
[今、此処だけに、私は在る]
⭕智者は今を生きる
https://ameblo.jp/bongteng/entry-12502426234.html

「即今、当処、自己(吾)」「而今
過去を後悔して居てはいけない…未来を思い描いて今を疎かにしていてはいけない…そんなの誰にも解からないのだから.今日なすべき事をするのです…