一切皆苦〈因縁起果報〉

仏教が嫌厭される大きな原因として[苦]と[死]という2大テーマに対する間違った認識があるのではないだろうか...

幸せに生きたい...幸せになりたいと願いながら.懸命に生きている人達にとっては耳障りな言葉が.これでもか!これでもか!と現れてくるものだから辟易とさせてしまうのかも知れない。
しかし無責任に天国や極楽を約束する信仰であっても、得体の知れない霊言を宣うカルト宗教であっても[死と苦]をテーマとしている事は変わらないのであり、もし仮に[死と苦]に対して別に問題がないのならば、信仰も宗教も必要がない無価値な無用の長物に他ならないのだから...
しかし幸せや喜びを求める余り、避けては通れない[死]や[苦]から目を背けていても、必ず訪れる[死]や[苦]に直面した時に慄然とし.その負担に耐えきれず怪しげなものにでも縋ろうとするのが相場なようである...
無駄に限られた命を浪費して後悔しない為にも.土壇場で困惑する事がないよう[備えあれば悔い無し]なのだろう。
[死]の問題についての誤解は.日本の各宗派が、葬式仏教と揶揄されるように葬儀が、主要な仏教行事であるが如く捉えられ.現に葬儀葬祭に血道をあげている僧侶が多く見受けられるのは嘆かわしい限りである。
[苦]の問題についての誤解は.仏教は苦行を肯定.奨励していて、苦しみの中に悟りへと向かう教えのように捉えられ、苦という問題から目を背けよう…遠ざけよう…と生きてる人達にとっては、変態集団の如く映っているのではなかろうか?・・・笑
釈迦尊(ブッダ)は明確に苦行を否定されています(但し経験としての苦行は是認されている)
それは苦行とは、我慢という怒りと苦しみに基づいて成り立っているものであり、真理を悟る事など到底不可能な行(ぎょう)なのであり[悦楽の中に智慧の悟りに至る]のが釈迦尊(ブッダ)が到達された仏道なのですから。
[生死一如]
生と死とは同じもの(命)を分別.分断.両極化して捉えているのであり、死という前提がなければ生にも価値観など生ぜず、生という前提がなければ死も意味が生じず、もし死がないならば、一万年位ボケッーと生きて、その後で少しくらい頑張ればいいのだが、[巧言令色鮮し仁]とも言われるように、煩悩(存在欲)の渇望を刺激すべく[永遠の命]だとか甘い言葉で謀って、本質的には苦(ドゥッカ・不安定性)のエネルギーによって成り立つ現実世界から.得体の知れない神仏の妄想世界を盲目的に信じ込ませるが、そうそう思い通りには生きられない[苦]により成り立つ[永遠の命]などという死ぬ事が叶わない世界など実は[地獄]に他ならない事に気付けない…
現象的存在として生まれた儚く虚しい存在である自覚がなければ折角、人の身として生まれた幸せを奥深く味わう事もなく、浪費し大事な瞬間瞬間を取り逃がすだけ。
一切皆苦
条件により生起する性質のものは、条件により変化消滅してゆく性質のものであり、条件により生滅する性質のもの(移ろうもの)は.全てドゥッカ(苦)に他ならない
たとえ高度に鎮静された迷いや苦しみの片鱗さえもない純粋な瞑想であっても、やはり条件により生起し.条件により消滅する性質のものであり.移ろうものであり.ドゥッカ(苦)で無常な性質のものであり.執着する価値のない便宜的なものである
この世界の全ては、ドゥッカ(苦)のエネルギーによって成り立っている。
人は苦しいから眠り、充分寝たら.苦しいから起き上がって活動して、苦しいから食事して苦しくなると排泄してる…つまりは睡眠も.食事も.排泄も[快楽]であり、苦(ドゥッカ)を分別して忌み嫌うばかりで理解しようとしないだけであり[楽は苦の種.苦は楽の種][苦あれば楽あり.楽あれば苦あり]であり..苦楽は一如なものである
地球も不安定(苦)だから、太陽の廻りを周って、月も地球の廻りを巡っている銀河系も全銀河と不安定だから回転している、大宇宙も廻りながら、膨張して.変化しながら安定化運動をしているのだから…
根源エネルギーは自由自在なるもの...
全ては因果律(縁起)に則った相補的関係性の上での現象に過ぎないのだから...
素粒子として物質化すると自由度は狭まり、原子化→分子化→物質化→と進化.成長するに従って、自由度は段々と失われて行く、量子状態の確率的現象としての性格は、物質レベルでは確定的現象となるが、それを例えるならば人の一生も同じようなもので、幼児の内は、征服者.支配者にも成れる可能生(自由度)を有するが、子供の頃には末は総理大臣か王様くらいの可能性(自由度)を有し、学生時分には末は社長か大臣かくらいの可能性(自由度)を有し、社会人ともなれば幼少期の確率性は確実性へと変貌してゆくのだが、社会人となり.ある程度のポジションは既に定まり.自由度(可能性)も限定的になっているにも関わらず、支配者を目指すとか総理大臣になると宣う妄想的なパラノイアは置いておくとして、その成長.進化に伴って自由度(可能性)は狭まっていくものだという認識は必要であり、残された道は[自在な水の一滴]となり、拘りなく.捉われなく.執着なく、社会(大海)の価値観に左右されない自由な生き方をして.虚しい[一切皆苦]という本質から目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解脱し、梵我一如を目指す道である。
因みに.梵とは即ち根源エネルギーであり、梵我一如の実現とは[この世界と.神々の世界]での勝利者となるものである。
この世界も神々の世界(彼岸)も途方もない根源エネルギーの悠久の流動なのだから.
【因縁起果報】
物事.現象には全て、原因があり、因果律(縁)に従って、生起する場合もあれば不生起の時もあるが、その相補的な関係性に従って結果として現われ、報いへと結びついてゆくもの
一切万象 自業自得
一切万法 因果応報
衆生 心を浄めたれ
貧しき心を浄めたれ
衆生 徳を積みたもう
衆生 無明を晴らしたもう
衆生 虚妄を滅したもう
衆生 軛を解きたもう