臨終シュミレーション

生死は一如なり
生あれば.死あり
死あれば.生あり
死により.生に価値を見出し
死なき.生は苦なり

愚かな人達は、知っいるという事と、理解しているという事が全く違う事に気付けない。
知っていると錯覚していて.その実.何も理解していないから、物事すべてが想定外となる。
自分もやがては.必ず死ぬ事を知らない人は居ないだろう。
しかしそれは他人事として知っているに過ぎず、自分も死ぬ事を本当は理解できて居ないのだ。
自分もやがては.必ず死ぬ事を知らない人は居ないだろう。
しかしそれは他人事として知っているに過ぎず、自分も死ぬ事を本当は理解できて居ないのだ。
だから多くの人達は自分の臨終に際し.また老いを感じ.死というものが間近に迫っている事に気付く時、大切な時間を随分と無駄に費やしてしまったと悔い歎き.過ぎ去りし時を哀しみ.自分の人生に[これでよかったのだろうか、他にもっと適う生き方があったのではないだろうか?]などと忸怩たる疑問を持ったり、今更どうしようもない事を悩んだり儚んだりするのが常である。
折角の人生の一日.一日を、そして瞬間.瞬間を、納得できる生き方、日々是好日と奥深く味わう生き方をするには、一刻も早く.臨終シュミレーションにより[死随感]を得て、意味あり.意義あり.価値ある人生を送って頂だきたい。

凡そ、苦や不満(ドゥッカ)というものは、現実(事実.真実.実相)を受け入れる事が出来ず、現実を受け入れようとしない愚かさが生じさせるのであり、現実を受け入れ.更にその現実に留まることなく.乗り越えてゆく道が、仏道なのである。
苦楽も一如であり、苦楽は表裏一体であり、[苦あれば楽あり.楽あれば苦あり][楽は苦の種.苦は楽の種]
人は楽を引き寄せ、苦を遠ざけようとするが、もし苦のない楽が在るとしたら、それはまさしく楽の姿に化体した苦(飽き)に他ならず、必ず苦へと行き着く事が理解できないように、死生観に於いても.生を引き寄せ、死を遠ざけようとし死を不浄なものと考え、死について深く思惟する事を避け、自分には死など訪れない他人事のように錯覚しているから、大切な時間を浪費してしまい:後の悔やみとなるのだ。
臨終シュミレーションの臨終のシュチエーションは多々あるだろうが、先ず死というものを定義すべきであり、私は死は眠りと捉える。
普段の眠りは朝が訪れるが、死という眠りは朝が来ないだけ、今日の眠りに朝が来るか来ないかは、自分の差配の外にあるのだから、我れは関せず、ただ訪れし朝を有り難く味わうだけ。
それは若くとも老いていても同じなのである。
臨終シュミレーションの一例として、今、病院で主治医から余命一日の通告を受け、残りの命があと一日だと言う事実を冷徹厳俊に受け止め、自分が望む本当の生き方に気付いてほしい。
たぶん無駄にスマホゲームに嵌っている場合ではない事にも気付く筈…
偶成<朱熹>
少年老い易く 学成り難し
一寸の光陰 軽んず可からず
未だ覚めず池塘 春草の夢
階前の梧葉 已に秋声