信仰とは

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甘露の門は開かれた
目ある者は見よ!
耳ある者は聴け!
心あるものは行なえ!

自己解放は、人が自ら真理(真実.現実)を実践する事によって得られるものであり、得体の知れない神仏や.怪しげな外的な力から、従順な善い行ないや信仰心の深さに対する果報として与えられるものではないし、戯れ言に過ぎない形而上学的な観念.仮説.論説.見解.知識.情報.空論への妄信は無益であり、それらが真理.真実を包摂することも有り得ない。

仏教とは信仰ではなく.幸せに生きる為に宗ねとする教えであり、仏道とは得体の知れない仏像を拝むことではなく.心の中に具する仏性を育成する道なのです…
敢えて信仰と呼ぶとするならばお釈迦様が発見された絶対真理(真実)への信仰であり、得体の知れない神や仏、怪しげな力、眉唾な教説、仮説に過ぎない論理や啓示などへの信仰とは真逆な性質なものなのです.

人の心のその奥に、仏も住むが鬼も住む

信仰とは情緒的なものであり、[生存苦](ドゥッカ⇒不安定.不完全.苦.悩み.恐怖 .哀しみ.心痛.迷い.悔やみ.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ.惨めさ.実質のなさ.無明.無知.欲)を本質とする存在である人間は[永遠不滅な存在性]への不毛な渇望により、[超越的な力]や[超越的な存在]を妄想し、愛着させ信仰化させ、自己の安全.安心.保護.恩恵の為には.それが無くてはならないものだと錯覚.染脳させてゆく.信仰とは[麻薬]でもあり、永遠不滅なものを追い求めるという事は、即ち人を真理から遠ざけさせ、事実から目を背けさせ、眼前にある現実から逃避させ、人々の無明の闇を深め盲目的にさせてゆくものに他ならない。
人間性の根幹でもある情緒.情操を育成し、同時に現実.事実.真理を直視し理解する能力を育成してゆく為には、信心と不信心という両極への偏りから.目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放された.その中道にある安定へと向かう道を歩むことであり、それこそが仏道なのである。

衆生よ…誰が真実を語り.誰が偽りを語っているのかも判らずに戸惑い.翻弄されている貴方たちが、疑い.戸惑うのは当然である…
何故なら貴方たちは疑わしい事柄に疑いを抱いたのだから…
衆生よ…伝聞.伝統.風説.歴史.迷信に惑わされてはならない…
聖典の権威.単なる論理や推理.外観.饒舌.妄想的な可能性…
我らが師の言葉のみが正しく.他のものは劣るものであると言った喧伝や考えに.惑わされてはならない…
衆生よ…そうではなく貴方たちが自分自身で忌まわしく.間違っており.悪いものと判断したならば、それらを躊躇わずに捨てなさい…
貴方たちが自分自身で.正しく.善い方向へと導いてくれると判断したならば、それに従いなさい…

全ての悪の根源は無明(無知)であり.誤解である…
疑問.戸惑い.ためらいがある限り、進歩出来ないのは否定出来ない事実であり…そして又.物事が理解できず.明晰に見えない限り、疑問が残るのは当然であり、本当に進歩.向上する為には.疑問を無くすことが絶対に不可欠である…
疑わずに信じる(妄信)とは、物事が本当には見えていない事であり、物事を理解していることではない…
大切なのは疑わずに信じる事ではなく.[明確に見ること.知ること.理解すること]であり…無闇に信じる事ではなく、確信から生まれる信頼が必要なのである…
信仰とは、本当には物事が見えていない場合に生じるものであり、物事が本当に見えた瞬間には、消え去る性質のものである…
⚫ミロバランの喩え
「私は掌の中に宝石を隠し持っている」と言われた時、そこには[信じる]か[信じない]かと言う問題が生じる…
その掌を決して開くことが出来ないものが[信仰]であり、もし掌を開いた瞬間には[信じる][信じない]という問題は消え去り、有るか無いか…居るか居ないか…が見えるのである