頂乗仏教学舎  路傍の如来 多々方路傍石

如来品正師 多々方路傍石のブログ

即今実存

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甘露の門は開かれた.目ある者は見よ

禅語に[即今.当処.吾]や.[喫茶去]という似たような言葉がありますが、多少お釈迦様の本意から外れた解釈が為されているように見受けられ.ここに改めて路傍石が「即今.実存」と説こうと思います。
appamada(不放逸)
本質的には現象に過ぎない存在である[自分]にとり、唯一の実存的存在性は今という一瞬だけであり、過ぎ去った過去の記憶も.只の幻影に過ぎず、これから到来するであろう未来も.只の妄想に過ぎないのです。
過去や未来に捉われ.拘り.執着して、今という一瞬を疎かにする事こそ[愚の骨頂]なのです。
過去はどうあれ.それは[今にどう活かすか]だけのものであり、未来がどうあろうと今という一瞬の自業を自得するだけなのです。
世界が如何に広大であろうが.時間が如何に永続的なものであろうが、自分という存在は今という一瞬間のみに実存する存在でしかなく、この有難き一瞬を如何に集中して.如何に味わい.感じ.生きるのかだけが.自分の価値.目的.存在である事に気付きなさいと.説くのである。
もっと言えば.人は一瞬一瞬に死んで.一瞬一瞬に生じているのですが、一遍に.全体が同時に行われている訳ではなく.その生死は刹那(プランク時間)の差を以って行われているので.人間の通常の認知能力では気付けないだけなのですが、この変化生滅にしても老廃物(垢.排泄物…)など新陳代謝を遡れば多少は理解できる筈です。
輪廻も思考認知能力の問題であり、生きているという認識も.前の滅する時点の思考認識を条件として.次の生起の思考認識を条件つけていて.それを生き続けていると錯覚しているだけであり.無常な身体.記憶.環境.意識の連続性が[生]ではなく、行(カルマ)と呼ぶ意志.衝動.認知力.形成力の連続性こそが[生]であり、今の結び目が解かれた後も.連鎖し.継続してゆく生命エネルギーの運動性.性質を司る次元的要素なのです(※魂.霊魂.霊体という実存的.永続的.主宰的要素ではない)
喩えれば、楽器(次元)がその形状.変化により汎ゆる音色を奏でるように、生命の次元もその形状.変化により。生じて通過する一源のエネルギー(心的エネルギー)が汎ゆる精神性を奏でるのです。
全生命は一源であり.同一であり.汎ゆる形体として現象しているだけなのです。
[この身は泡沫(うたかた)の如くであり、
陽炎(かげろう)のような儚い本性のものであると覚ったならば、悪魔の誘惑を断ち切って.死王に魅入られない処に安住する]
「今、此処だけに、私は在る。」
⭕智者は今を生きる
https://bongteng.hatenablog.jp/entry/2019/08/07/120546
「即今、当処、自己」
過去を後悔してはいけない、未来を思い描いてはいけない、そんなの誰にもわからない。だから、今日なすべきことをする。

⭕確率的な今生に在りて、幸運を掴むも唯、確率なり
宝クジは買わねば当たらぬが.当たるも外れるも唯、確率なり
当たりて喜び、外れて悲しむ者多かれど、
災厄.不運も又、確率なれど、今日の災厄.不運に当たりし確率をを嘆く者在れど、今日の災厄.不運の確率から外れたるに、安堵.安寧する者少なし、唯、因縁起果報なり