路傍の如来の説法-3 <秋口の集い>

f:id:bongteng:20190803201323j:plain

自分を高め世界を変える真正な仏教

覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て.
【路傍の如来.説法録 その三】
【秋口の集いでの説法】
そんな人々も、しっとりと露を含んだ青葉の繁る上野公園を背景にした不忍口までやって来ると、秋口の日差しを背に受けて光背を背負うが如く立って居られる路傍の如来を目にとめると、皆、目を輝かせて路傍の如来へ歩み寄り、施与を施し合掌低頭して路傍の如来の周りを右回りに回ると、隣り合う空地へと移動して敷物に腰をおろして路傍の如来が行を終えられるのを静かに待っていた。
初夏の集まりよりも更に多くの人が集まっていたがそれぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と虫の声しか聞こえなかった。
 
太陽が一番高いところを過ぎたころ、路傍の如来は、今日の良き日を祝福なされるように鈴(りん)を打たれた、その高く鋭い音が空気を貫く透きとおった長い余韻の中で人々は染み入るような鈴の音色を静かに聴きながらそれぞれに合掌して路傍の如来が来られるのを待った。
 
路傍の如来は今日集まった人々を見渡すと微笑みを浮かべながら胸の前で合掌して仰った。
皆、健やかそうで頂上である。
皆の心もだいぶ鎮まり安定して来ている様子が感じ取れ、真に頂上に思う。
教えをよく理解して正しい修養を積まれているようだ。
心の集中.統一の瞑想(禅那)と物事を在るがままに観る瞑想(観行)の双修によって得られる真理の理解による平らかな心の静逸と安定感が増して来ているのが感じ取れる。
全ての物事の外面に騙されてはいけない、真実の姿は内面に潜んでいるのだから 
外面に惑わされず物事の真の姿を理解するには観行(ヴィ パッサナー)による透察(透視.洞察)が必須であり、止観ばかりに拘り捉われ執着して観念的.形而上学的.妄想的(プラパンチャおよびヴィカルパ)な見解に陥って歪んだレンズや色の付いた眼鏡を掛けて世界を眺めてしまってははいけない。
集中の瞑想と.在るがままに観る瞑想の双修により何か新しい真実に気付き.何か新しい発見を得て.何か新しい事が起こった人もいるようだ
さあ、話してくれ。なにが起こったのか
路傍の如来は傍らに座っていた若い女性を促された
人々はその現代風の髪型をした若い女性に注目した
その 若い女性は予期していたように落ち着いて話しはじめた
路傍の 如来よ。最初に告白せねばなりません。
一昨年、私が東京にきた時、私は世の中のあらゆる人々を憎み蔑んでいました。中学の頃からずっとそうでした。人々がしている何もかもがつまらない物事、下らない物事、どうでもいい物事に熱中しているように思えて仕方なかったからなのです。かと言って自分が立派なことをしているからではありません。それどころか自分が何ひとつ有意義なことをしていないからこそ、その苛立ちを周囲の人に向けていたのだと思います。
毎日毎日いらいらと落ち着きなく、何も有意義だと思えるものも持てず、何処かしら明確な方向に向かっても進んでもいかない毎日...空しく同じような問いや妄想ばかりをゴチャゴチャとしながら「何をすればいいのか?何をすべきなのか?真に価値ある目的とは何なのか?」
 自分を捧げられる対象が欲しかったのだと思います。しかし、どんな立派な仕事も自分が全てを捧げるに値するとは思えず、どんな遊びにも夢中になって熱中することは出来ませんでした。
不思議な縁で仏教に触れ、名が知れ渡り権威ある方々のお話も聞き、座禅も学んだりしてきましたが、座禅を組んでる時は心が癒されますが、それでもやはり廻りの人々を見れば、つまらないことで一喜一憂し、そうすることによって目的のない空しさを誤魔化そうとしているのだとしか思えず、さげすみ蔑み、嫌悪するばかりで本質は変わらない自分に腹を立てていました。
 初夏の説法の時、路傍の如来は、ありもしない目的を探して悩むことは止めよと仰りました。[何]ではなく[如何に]を問えと仰りました。煩悩という存在欲による我執を解けば目的や意味に煩わされることはないともおっしゃいました。その言葉が気にかかって、もう一度きちんと修養をやり直そうと思いました。
 路傍の如来よ。
何もかも教えて頂いた通りのことが起きました。束の間の時間でも双修の瞑想を繰り返すうちに、ほんの暫くに過ぎませんが自分が空っぽになる時があり、何度も何度も集中力を高めていると、それが少しずつ深く長く集中出来るようになって、今では集中している間、自分という意識とともに今、何処、何、どうして、という捉われが無くなり気付かないうちにただ時間が過ぎているようになりました。集中が解けてしばらくの間は、心がしんと落ち着いて、静かないい気持ちを味わえます。見るもの聞くもの、何もかも心に染み入って、見慣れた町の景色も、音も、人々の暮らしも、自分が旅人になってはじめて訪れた土地のように顕貴(ときめき)のある新鮮なものに感じました。
 そしてある日、在るがままに詳細に眺める修養を試してみました。すると一時間もしないうちに、仰っていたことが起こりました。いつも使っている手帳が、突然得体の知れない、不気味なものに感じられ、いいえ、ものというより映像というか物体といったほうが相応しい存在観なのかもしれません。いま俯瞰していると気付きながら.客観していると気付きながら.集中して眺めてゆくと皮表紙の油の染み、すりきれた縁の縫い取り、折り癖がついて浮き上がったページの重なり。なにもかも細かなところまでくっきりと見えその変化と過程が察せられ、何処かしらあやふやで胡散臭い認識では、これはわたしの手帳だと分かるのに、気持ちは一体どういう存在なのかと訝っている掴もうとしてもそこに実体のない三次元の幻影のようでもあり手を出すのが怖く躊躇してしまう何処か遠くの別世界のものを見ているようで、手に持っていても触感と映像が結びつかないのです。
それ以来、目を凝らしてみると何もかもがそのように見え感じるようになりました。それまで慣れ親しんでいたはずのものばかりなのに、まるで私という存在が目だけであり体がなくなったかのようで、遠くから秘密の鏡でこっそり知らない世界を覗いているような、不安で気味の悪い感覚です。何一変わらないのに全てがすっかりすりかえらてしまったようでおかしいのです。町並みの建物も、見えている表面だけで、その向こうの質量が感じられず、馴染みのお客さんの話を聞いていても、皺やほくろに気を取られてしまい、いったんそうなると、声が遠くなり、意味のないただの音になってしまいました。目や口や鼻がばらばらなものとなり、顔が無機物を眺めているようになるのです。無理に話を合わせていても、違うだろう、ごまかすな、おまえは嘘をついている、芝居をしていると、別の自分が私を責めるのです。つらい毎日でした。
 でも、不思議なことに、大空や山や木といった自然は、見つめても大空であり山であり木であり続け姿を変えません。どっしりと在るがままにそこにあったのです。泰然とそびえる大木を仰いでいると、自分の小ささが情けなく思われ、同時にまた勇気づけられるような気もしました。ともかく山に行けば追い立てられずにすみました。それで自然に山へ行き、集中する修練に加えて、在るがままに見る修練もするようになりました。谷を登る風に、寄せる波のようにゆれる草の斜面で、自分も風に吹かれているのは、自分の中にたまった悪いものが吹き飛ばされていくようで、追いつめられた私にとって救いでした。
やがて私は、路傍の如来の仰っていたことの意味が少しずつ分かるようになりました。たとえば、どのように言えばいいでしょう、大空には沸き立つように雲が彩りを加え、山には実に沢山の草が茂っています。しかし詳細に眺めていると雲はただ雲と言い切ってしまう事など出来ない形を千変しながら雄々しく流れてゆき、草にしてもただ[草]と言い切ってしまう事など出来ない実に多様な植物達で満ち溢れていて丸い葉、長い葉、切れ込みの入った葉、大きな葉、小さな葉、艶のある厚い葉、毛の生えた柔らかな葉。色も違えば、葉脈の走り方もさまざまで、どうしてこんなにたくさんの種類が同じ所にあるのか、見つめれば見つめるほど不思議さは募り、その時、路傍の如来の「一源のエネルギー梵は変化と多様性を喜ぶ」という言葉を思い出しました。草木も虫も鳥も大地も、助け合い、利用しあい、せめぎあって、一つの世界をつくっていました。これが縁起の世界だろうかと思いました。
ひと月 ほど前でした。いつものように尾根に登って、集中する練習、内の世界.外の世界を在るがままに見る練習の後、谷の向こうの潅木の斜面で裏返された葉が白い波紋のように広がり、風が通っているのが分かりました。足元の草がさわさわと震えていました。虫の声が低く重なりあい、そこかしこの草むらでとぎれとぎれに鳥が鳴き、その声がかすかに木霊していました。青々した匂いに、朽ちた木の匂いが混じっていました。光が溢れ、常緑樹の固い深緑の葉も、一年草の柔らかな黄緑も、それぞれの仕方で光を反射し透かしていました。山肌を雲の影が形を変えながら同じ速さで滑り、あらゆる木が、草が、生き物が、日の光と風を楽しんでいました。
うまく説明できません。こうして言葉にすると全体性としてなりたっている世界が分断さればらばらになってしまいます。その時は、これらの事や、そのほか言葉にできないすべてのことが、ひとつのかたまりになって、大きな繭のようにしっかりとわたしを包み込みました。そして、ふいにそれが小さく縮んで、ぎゅっと締めつけられたように感じた瞬間、逆にはじけとび、大きな大きな喜びが込み上げて、体中に溢れ、溢れだし、沸き上がり、谷も山も空も満たしました。あるいは世界に溢れていた喜びが、私の中にどっと流れ込んできたのかもしれません。その瞬間、まったく新しい私が、まったく新しい世界とともに生み出されたのです。雲や木や風や鳥や虫たちといっしょに今ここに生まれた、世界のすべてとつながっている、世界と一体化しているひとつなのだという喜び。大きな力が、今、世界といっしょに私を生み出したという喜び。無数のものを吹き上げて沸き上がる大いなる一源のエネルギーの力。この途方もない膨大なエネルギーが一瞬一瞬世界となってほとばしり、世界とともに私が生み出されている。
言葉とは何てまどろっこしいものなのでしょう。
今、言った全ての事がひとつの意識されない大きな感情となって、私は言い様のない幸せに満たされました。
 それ以来、東京にいる事が苦痛でなくなりました。目的や意味の疑問が失せて、車の往来、商店街の飾り付け、買い物客と店主のやり取り、なにもかもはつらつと映り、現象の発露として楽しめるようになりました。
 現代風な髪型をした若い女性は口をつぐんだ。
 感嘆してその若い女性の話に聞き入っていた人々は、路傍の如来の言葉を期待した。しかし、路傍の如来は何も言わず、ただ手で続けるように促された。
 現代風の髪型をした若い女性は、しばらく躊躇った後、心を決めたようにゆっくりと話しはじめた。
 八月の末の休日でした。その日も朝から山に入り、いつもの尾根にしばらくいた後、帰る途中でした。沢筋まで降りて、池のほとりにさしかかった時、道の先に動くものがありました。近づいてみると小さなトカゲです。ひび割れた黄色い土の上で炎天の日にさらされ、砂粒をまとって捩じれていました。思わず足を止めて見つめていました。半分干上がって細くなった体に何匹も蟻をたからせたまま偶に僅かに動くだけでほとんど動かないもう死にかけているトカゲで死んでしまったのかと思っていると、突然激しくもがき、またすぐ動かなくなるのです。長い間隔をおいてそれが何度も繰り返されました。ちりちりと煎るような太陽の下、蟻の群れに責められながら、このトカゲの死はゆっくりと時間をかけて近づいていました。
それまでも私は、何度も死に接しています。自分でもたくさんの虫や魚を殺しました。友人や家族の死にも巡り会いました。でも、これまでは、何度死に接しても、いつものありふれた毎日が変わることなく続いてきました。息を引き取る瞬間に立ち会った祖母の時も、口も目もすぐに閉じられ、化粧まで施され、儀式で整えられた死になってしまい焼き場で骨を拾う時ですら、祖母の死を実感できませんでした。そんな自分は棚に上げて家族や親戚が妙に生き生きと食事や車の段取りをつけるのをさめた目で観察していました。死でさえもありふれた日常の中に塗り込めてしまうほどいつもと当たり前が、わたしを深く支配していたのです。
路傍の如来のお教えに従い、修養を続け、ようやく在るがままに見ることを学んだ後で、刻々と進む死を赤裸々に見るのは、これが初めての経験でした。
苦しくなって、わたしは目を上げました。すると、いつのまにそれほど時がたっていたのか、太陽が池の向こうにまわり、さざ波に日が照って、たくさんの小魚がひとつところで跳ねるように、水面にぴちぴちとミルク色の光が踊っていました。蝉がかなかなと鳴き、鳶が谷の上の高いところに弧を描いていました。やがて東の山際から、空は薄墨を流したように光を失っていき、西をふりむけば、捩じれた紐のようなあずき色の雲が茜の空を上下に分けて、その縁は金色に輝いていました、杉の木立は、夜にむけてもう眠る準備をしているように静かで、明星が、捩じれた雲の上のみどりがかった空にまたたき始めました。
 現代風の髪型をした若い女性は、いったん口をつぐんだ。人々は耳を傾けていた。
 世界は実に美しかったのです。干上がったトカゲの死をそこに残したまま。
私は考えざるを得ませんでした、一源のエネルギーが醸し出す現象の世界はこんなに美しいけれど、このトカゲの死も含んでいる、トカゲだけではなく今この瞬間、沸き上がる一源のエネルギーの変化生滅する世界の中で、大河の砂の数を大河の砂の数だけ掛け合わせたほどの有情な生命が、苦しみながら死んでいく。変化する世界の喜びは、滅び逝く無数の有情な生命の苦しみともひとつだったのです。わたしは、改めて闇に呑み込まれようとする山の景色を眺めました。
有情な生命たちのこの苦しみに対して、私は何もできません。もがきながら死んでいくトカゲにも、見つめることしかできなかったように。生まれ、生きて、死んでいく、喜びと悲しみ。一切の有情の生命のこの喜びと悲しみを思い私は涙を流していました
 いずれ私もあのトカゲのように死ぬでしょう。
私は、この苦しみを受け入れる強さを持ちたいと思います。
すでに釈迦尊は、生老病死の四苦を説かれています。これらの苦は、私たちが縁起の現象である以上、避けられないものです。一源のエネルギーの不安定から安定化への多様な喜びと苦しみが一体化した現象.運動と同様、現象としての私たちの存在の本質に根差しているからに他ならず、言うなれば苦楽一如.生死一如の苦.死という一極なのですね。それでもあえてこれを避けようとすれば、それはもはや我執であり妄想であり、却って別の濁ったドゥッカ(苦)までもたらし、さらには変化生滅する世界の喜びをも見えなくします。
私達の苦には、二種類あると思います。避けられない苦、大いなる因果律(縁起)に遵った喜び(スカ)とドゥッカ(苦)と、私たち自身が我執や妄想によって造り出す無用の苦しみ、因果律(縁起)に遵った現象としての喜びさえをも見えなくする苦が・・・
 影になって連なる稜線を眺めながら、私は身の周りの人たちを思いました。
彼らは日々、小さな喜びを喜び、小さな悲しみを悲しみ、小さな怒りを怒り、小さな妬みを妬みながら暮らしています。立派ではないかもしれませんが、いい人たちです。しかし、変化生滅する力がほとばしる中に生まれながら、それを識らず、我執に捕らわれ、身の回りの小さなことに一喜一憂し、自分と他人を引き比べ、目先の損得で走り回り、苦しめあい、疲れ果てています。怒りや妬みや欲が澱となってたまり、重く、濁って、溌剌さを失っています。
路傍の如来よ。どうして彼らは、苦しまなくてもいい苦しみを造り出すのでしょうか? どうして自分を縛り、お互いに重しを結び合うのでしょうか? 我々は縁起の現象であり、いつか縁によって解消される現象であるのに、なぜ変化生滅の力による喜びを見ることもなく、いらぬ苦しみを造り出し、互いに苦しめあわなければならないのでしょうか?
路傍の 如来よ。
私は、彼らに濁った苦しみを創り出すことを止めさせたい、我執の自縛から、溢れ出す変化生滅の力による喜びへ解き放ってやりたい。
路傍の 如来よ。どうすればこの人たちに変化生滅の力による幸せを知らせることができるでしょうか? どうすれば、自らの愚かさ盲目さから組み上げた苦の牢獄を解き崩させることができるでしょうか? それなくしては、もはやわたし一人、変化生滅の力による歓びを楽しむことができません。
路傍の如来よ。
お願いします。どうかお教えください。人々を世界から隔てる我執という自我への執着による幻幕を断ち切らすには、どうすればよいのでしょうか? どう話せば理解してもらえるのでしょうか? お願い致します。どうかお教えください。
 現代風の髪型をした若い女性は、合掌し低頭し地に額をつけた。
ーーー
路傍の如来は微かに微笑みながら仰った
 しい、宣伝しい。大変よろしい。
貴方は透察により透き通った悲しみを知った。大きな慈悲の心を現わした。貴方は世界を在るがままに観てとれる観自在な菩薩(ボディサットバー)となられた。
路傍の 如来も、現代風の髪型をした若い女性に合掌し低頭した。人々もならって娘に合掌し低頭した。
 善男そして善女よ。
一切の有情な生命には仏性があるといわれるが本当はもっと単純で偏りもしないものだ。一切は両極によって成り立っている。何故なら苦あれば楽あり、生あれば死あり、仏性あれば鬼性があるのだから。性善説は詭弁であり性悪説は浅薄である。善と悪もどちらか片極への偏りに焦点を合わせているだけであり、善と悪とがそれぞれに単独に存在しているわけではないのだよ。
もっと言うならば死があるから生に価値が見い出せ、死のない生など苦痛そのものに他ならないだろう。
空腹という苦があるから食事をし.楽を得る、やがてその縁も消化吸収され苦に変化し排泄し楽を得るという循環であり、苦しいから眠り.楽を得て、やがてその縁も飽きが生じ苦に変化し苦しいから起きだして、座っているのも苦しくなると立ち上がり、やがてその縁も苦に変化して又座る…生きるとは苦により欲を生じさせ楽を求めて彷徨い何かしら楽を得てもやがては縁により苦に変化し苦しいから何かしら楽を求めて彷徨う、生きるとは苦により成り立ち、苦楽の間を彷徨っているだけ、苦は楽の種であり.楽は苦の種である、苦楽は一如なものなのだよ。
因果律(縁起)に遵った変化生滅の力によって生まれた無我なる現象も同様なのだから。では、有情な生命とはなにか? ドゥッカ(不安定.不完全.苦しみ.悩み.迷い.悔み.痛み.哀しみ.儚く.弱く.脆く.空しく.惨め.実質のなさ.怒り.怨み.妬み.不満.無明.欲.執着)とスカ(安心.安定.安楽.歓び)の両極を移ろうものたちだ。それこそが有情なる生命なのだ。解脱し解放されれば叡智は顕現し究極のスカが見出せるだろう又、無明の闇に包まれ不毛な観念や見解に捉われた者は少しの喜びや快さと多くのドゥッカ(苦脳.心痛.不満)の中を生きるだろう。解脱の前と後でなにが違うのか? 解脱とは自由への解放であり捨て去り離れる事であり俗世の人々が幸せや喜びの為にせっせと苦の種を拾い集めながら暮らしているのだが、解脱とは捉われる物事、縛られる物事から解放され執着から解放される事なのだよ。己の仏性を鵜呑みにして信じて仏であると自惚れる心は鬼である、自分の中に鬼も住む事を識り仏の心を開放し鬼の心を牢獄に縛り付ける事が浄化であることに気付く事こそ解脱への道であるのだ。
 確かに人を導くのは容易ではない。人は自分で見つけた知識や情報を主観的に捉えた記憶しか身につけられない。それ故に教えるのではなく、自分で気付くように導かねばならない。その為にはその人その人の性格.指向.状態.段階に沿った話の巧みさが必要であるが巧言令色鮮し仁とも言われるように弁舌の巧みさや例え話の巧みさに捉われて能書き.戯れ言.綺麗事.邪見.形而上学的観念論(プラパンニャ)を身につけてはいけない。実践により知り得たる真理(真実.事実.現実.実、釈迦尊(ブッダ)が実践なされた対機話法もそのようなものなのだよ。
 言葉は、実に難しいものだ。我々が我執や主観や見解に縛られ、在りのままの実相を見ることが出来ないのは、言葉に捉われているからだ。しかし言語による助けがなければ、進歩も向上も浄化も発心も八正道(正しい理解.思考.行い.努力.生活.注意.集中.言葉)を続けることも難しく、またしかし変化生滅や自我への執着や因果律(縁起)やドゥッカ(苦)というものを聞いたからといって、それらを単なる知識.情報として対象化するなら、それもまた言葉の罠(プラパンチャ)である。言葉に縛られず、同時に言葉を道標として使う智慧が、叡智を顕現させ真理を見透す如来には必要だ。
 しかし、今はまず自分の修養に打ち込むことだ。貴方達の修養は、貴方達自身の為であると同時に、一切衆生のためでもある。単に貴方達も何時か解脱し涅槃(ニルバーナ)に到達して衆生を救うべきだからという理由だけではない。貴方達の自分に捉われず今という一瞬一瞬に集中しての励む姿、真摯なあり方が、人々に何かを感じさせ知るともなく語らずとも人々を導いてゆく、そして単なる知識や情報としてではなく実体験による生きた言葉により人々を正しい方向へと導く事が出来る。そのようにして自我意識に縛られた自分を離れようと発心する人が増えてくる。貴方達の日々の生活こそが、もっとも雄弁な説法なのだよ。
自我への執着、物事への執着から解放された貴方達は思いそして感じるだろう。変化する世界の素晴らしさ、世界の全てとともに現象している歓び、途方もなく膨大な一源のエネルギーの力により存在している全ての物質、全ての空間、全ての次元への感嘆。そして自らドゥッカ(苦)を造り出していた自我への執着の愚かさに気付く。私は何を苦しんでいたのか、悩んでいたのか。悲しむ必要もなかった。苦しむ必要もなかった。気付いてみれば容易い事だがしかし気付く事は難しいものである。物事を安易に鵜呑みにし信じる者や無思考に従おうとする者は気付く事が出来ない。心にドゥッカ(苦悩.心痛.不満)を積み重ねてゆくもの、無明に苦しみ.悩み.迷い.哀しみ.恨み.悔いていても何も変えてゆくことは出来ない。無暗に無抵抗に信じ込み当たり前だと諦めない者だけが気付く事ができるのだ。
 しかし、今はまず自分の修行に打ち込むことだ。貴方たちの修行は、貴方たち自身のためであると同時に一切衆生のためでもある。単に貴方達が遠くない将来に真理を悟り解脱し無我となり衆生を救うからという理由だけではない。貴方達の今の励む姿、真摯なあり方が、人々になにかを感じさせ、知るともなく人々を導く。そのようにして、我執を離れようと発心する人が増えてくる。あなたたちの日々の生活こそが、もっとも雄弁な説法なのだ
 若い女性よ、菩薩大士(ボディサットバー)よ。
現に今、あなたは、ここに座っている人たちを導いている。あなたの真摯でゆるぎのない生き方が、あなたの周囲に暮らす人々に日々の生活を振り返らせていないはずはない。
 そして、もし、貴方が何事か説くべきだと思う時があれば、恐れず思うとおりに説きなさい。これまで練習に励み、これからも励んでいくあなたにそのような時がくれば、それはそうすることが必要とされているからだ。躊躇って救われるべき人を見捨ててはならない。
 善男そして善女よ。
私達は因果律に遵った縁起により、大宇宙をも動かしている途方もなく膨大な一源のエネルギー梵の力で、一方的に変えられるばかりではない。私たちにも一源のエネルギーにより形造られている。
私達も因果律(縁起)によって世界を変えている。今のほんの些細なことが、未来に大きな結果となって現れる。蟻巣の奥の砂を一粒動かすことがきっかけとなって、大河の流れも変わるのだ。未来は無限に多様な可能性を持つ。どれほど不可能に見えることでも、実現の可能性はある。貴方達、縁を得てこの教えに触れ得たことを大切にして欲しい。きわめて希なことなのだから。自分を無力だと考えてはいけない。たとえば、貴方達の誰かがこの教えをたった一人の友人に伝えたとしても、その友人がまた友人に伝え、そのうちに教えに触れる人が増え、その中から真理を説法するのに長けた偉大な如来が現れ、多くの人を救うかもしれない。貴方達自身がその如来かもしれない。貴方達の発心によって救われる衆生がおり、貴方達の発心がなければ救われない衆生がいることを忘れてはならない
-----
 手に数珠をかけた老婆が、地に額をつけて言った。
路傍の 如来よ。
貴方は、実に真理に長けたお方です。
かつて貴方は、慈悲は外に求めるものではなく、内に沸き上がるものだと教えて下さいました。今やっとその意味が分かりました。
告白します。これまで私は、貴方の説かれる事を独覚的で仏教ではないのではないかとさえ疑ってもおりました。しかしやっとそれが間違いであった事に気付く事ができました。
この至高な教えを聞けるという得難い縁に恵まれたことに感謝します。私自身は年老いて老い先短い身で解脱できるかどうか分かりませんが、残された日々を人々のために更に励むことを誓います。
 しい、宣しい。大変よろしい。
どうか是非お願いする。修養に時間や場所は関係ない。貴方達自身と衆生のために必ず如来になると誓願をたてて欲しい。その意志と信念と努力が深ければ必ずそれは成就する。
 善男そして善女よ。
実りの多い一日だった。
今日もわたしは、多くを話した。しかし、その言葉に捕らわれないで欲しい。手に数珠をかけた老婆が気付く事ができたように、わたしの話したことは、すべて真理であり事実である。わたしは無我を説き、縁起を説き、無常を説き、慈悲を説いた。すべて間違ってはいない。しかしそれは仮の説明にすぎない。わたしの話したことは道標であり方向を示すだけで目的地ではない。
道標にしがみついていても目的地は近づかない貴方達は自分自身の修養で自ら正しい道を見出して歩まねばならない。やがては釈迦尊(ブッダ)の真意をも理解し、自分が正しい道を歩んできたことを知るだろう。如来の教え仏教はそれが意図した処まで人を運べば、川を渡り終えた筏のように無用なものとなる。どうか貴方達は修養に励み、わたしの言葉の真意をつかみ、わたしの言葉をも捨てて更に先へ自分の実践体験の中に見い出していって欲しい。
もう一度お願いしよう。大切なのは毎日の修養であり気付いた時には是非修養に努めて欲しい。節度を守って心を騒がせないように。煩悩を制御する事が心地よくなるまで修養して欲しい。それは心の集中力を高めて行く練習と、内界と外界とを在るがままに観る練習である。経典を選び正しい経典や正しいアビダルマ(論蔵)を読み、私の言葉を思い出し、自分で考えなさい。瞑想だけでも、また考察だけでも、十分ではない。両方が補いあって、貴方達は自分自身の力で新しい智慧を見つける。真理に裏打ちされた堅固で力強い智慧
善男そして善女よ。
この縁を大切にして更に修養に励んで欲しい。
貴方達が助けを必要とする時、必ず良い果報は訪れる。ゆっくりとでも諦める事なく正しく歩み続けていれば、目指す処へは確実に近づく。だから苦しくとも歩み続けて欲しい。善因は善果を生じ悪因は悪果を生じ.自業は自得であり.自因果は応報である。貴方達自身と、貴方達が縁となって救われるであろう多くの衆生のために。
路傍の如来は合掌して低頭すると手を胸の前に組みかえ軽々とした足取りで立ち去っていかれた。
人々は立ち上がり路傍の如来のその後ろ姿に合掌しながら、至高な教えに触れることのできた縁に感謝していた。
路傍の如来の御姿が木々の間に遠ざかり、やがて影の中に見えなくなると人々はそれぞれの生活の場所で修養に励むべく帰っていった。