生前取得と生後取得

最近は世俗諦ばかりを取り上げて来たので、たまには久しぶりに勝儀諦(大悟)を取り上げて見ようと思い立った…
お釈迦さまも勝儀諦に関しては苦しみの消滅や平安.幸福の生成に直接に役立つものではなく、聖者の教えは.その掌に何も隠すものはないと仰っては居ても、深淵で高度で難解で微妙な勝儀諦は無明の未だ残る未熟な者には混乱を来たすだけだろうから.普段は極力、お説きになられなかったのは.無明の闇の中を盲目的に彷徨っている者が、単なる知的好奇心を満足させる為だけに求望しても.それは平安と幸福へと向かう道に役立たない処か、妄迷を深めさせるだけでしかないからである…現に.現代人以上に.迷信的で.得体の知れない.怪しげで.眉唾な[不可思議や奇跡]などに魅入られ易かった当時の盲目的な人々は、天地自然の理法(物理法則)から逸脱した非現実的な世界に魅入られていたのだから…
説話として[ある時.お釈迦さまは.コーサンビ近郊のシンサパーの森に滞在して居られた時、木の葉を数枚手に取り.弟子達に尋ねられた「弟子達よ.どう思うか…私の手の中にある木の葉と、森の中にある木の葉と、どちらが多いか…」
弟子達は「師の手の中にある木の葉は少なく、シンサバーの森の中の木の葉のほうが.ずっと多くの木の葉があります」
「弟子達よ.それと同じく、私が教えたのは、私が知っている真理の.ほんの一部に過ぎず、説かなかった事のほうが遥かに多い…何故.説かなかったかと言うと、それらは涅槃(ニルヴァーナ)に赴くのには役立たない真理であり、それ故に説かなかったのである…それはニルヴァーナに達した者が.自ずと知り得る.この世界と万象の真理でもある…」
世俗諦に到達し.更なる向上(高見)へと向かう弟子達に説かれた真理こそ勝儀諦(大悟)という絶対真理なのです…
この章の副題は[渇愛]であったが、一般論から踏み込んで渇望(渇愛)を解説する為には、先ず心的エネルギーの解説が必要と考え、生前取得するものと生後取得するものとの分類から話を始めようと思う…
そしてこの難解な箇所(勝儀諦)を少しでも理解して頂きたいと.なるべく一般的な科学単語を多用しているが、誤解しないで頂きたいその本意は.仏教思想を現代西洋科学に近づけようとしている訳ではなく、寧ろ現代科学が仏教思想に近づき.追いついて来たとさえ言えるのだから…
確かに近代科学はギリシャやエジプトの古代天文学や科学を下地にして.西洋の偉人達の手によって成されてきたのは事実であり否定するつもりもないが、迷信と無明の闇に包まれた社会の中で.この世界は得体の知れない神が創造し、地球を中心に宇宙が周っていると本気で信じられていた時代において、森羅万象.天地自然の法則の中に神性を見い出し.真理(真実.実相)を探求して来た偉大な西洋の先達の姿勢と方向性こそ、お釈迦さまの到達された真理と教えに一致するのです…
しかし一方の仏教世界に暮らす人々は西洋の偉人達とは逆に.神性や仏性を妄迷に捉らえ.得体の知れない神仏を次から次へと妄想しながら造り出し.無抵抗に鵜呑みにし.妄信し.追随ながら幻影に祈りを捧げ、一時の気休めに甘んじながら真理(真実.事実.現実.実相)を探求しようという賢明で優れた人物を生み出すことも.それに続く開明的な者達を育てられなかった(却って排除してきた)という差によるのです…
宗教とは宗(む)ねとなる教えであって、決して無明の闇を深めるファンタジーでも妄想的.幻想的な得体の知れない神仏への妄信でも信仰でもないのです…
そして未来科学を予想すれば科学と仏教思想とが合一した世界では、深淵で奥深い真理が顕現した輝いた世界が出現している事でしょう…(但し、その前に自滅しなければですが…)
■世界は途方もなく膨大な一源のエネルギーの流動である…
空より現れては、空へと戻ってゆく、悠久の流転により、膨張し.増大し.成長し.変化し.発展しながら、安定化へと向かっている…
■非物質(無色.むしき)

=一源エネルギー(梵) この状態を空(プラス.マイナスの中道状態)という。
■三位一体=心的エネルギーを形成
■対称性の破れによる根源エネルギー(梵)の物質化(色.しき)
①物質(仏教の原子論)
一源のエネルギーが空状態(プラス.マイナスの中道状態)から.その本質的意志(変化し.成長し.増大し.発展し.より安定したい)により急膨張(インフレーション・ビックバン)を始め.プラス電荷とマイナス電荷へと分離して物質化して互いに打ち消し合いなが、空状態(安定状態)へと戻ろうとする…が、プラス電荷とマイナス電荷との若干の性質の違い(対称性の破れ)により.残存した一源エネルギー(梵)のプラス電荷物質により.この世界の物質(質量を有する)物質は離合集散しながら.その結合により一源のエネルギー(梵.アートム)→素粒子(パラマ)→原子(アヌ)→分子→物質を形成しているのです…
②心的エネルギー
唯物論者は偶然の結合により生命が誕生したように捉え、生命構築の設計図であるDNAやRNAが時間的要素による偶然性により創り出されたと考えて.そんな主張が主流化もしていますが、この世界の一源のエネルギーを始め素粒子から物質.物体.心に至るまでの全てが状態性の安定化運動をしている事実に基づけば、偶然に見える必然であり、得体の知れない神仏ではない天地宇宙の法則(自然法則)のもつ神性.仏性と呼べる意志の存在を無視しては.生命誕生の秘密を解き明かす事など出来ないのです…
③生前取得と生後取得
人は.この世に生まれてくる時に、宿して来るもの(生前取得)があります…これが宿命と呼ぶものであり、男の方が良かったとか.女の方が良かったとか、もっと背が高かったらとか色白だったらとかの遺伝的形質と、過去世の残存記憶(残滓)の影響による性根(傾向)であったり.今更どうにもならないものを言い、
環境.時代.経験.素養などによる性格を始め.多くのものは生後取得ないし生後形成しているのです…
因みに渇望(渇愛)とは生後取得なのです… 
④渇 望(渇愛)
渇愛自体は生後取得しているもので、持って来ているものではなく、満たされる事を知らない煩悩(存在欲)によって生成されているのです…
煩悩(存在欲)の要求に幾ら応えた処で、更なる要求をしてくる代物であり、欲望や欲求が深まると.それが渇き(渇望感)となって生じてくるのです…


在るでなし、無いでなし

胎蔵界
この世界の途方もなく膨大な留まることのないエネルギーの悠久の流動を体内に胎蔵するとき、此世と彼世とは一体と化し、此世で浄化(中性化)されたエネルギーは.彼世へと戻りゆき、彼世から色化(物質化)した新たなエネルギーが此世に.現れては消えてゆく実相を悟る…


諸行無常な世界を生きし
虚しき身空よ…人の身よ…
諸法無我な世界を生きし
儚き身空よ…人の身よ…
一切皆苦な世界を生きし

憐れし身空よ…人の身よ…
一切万象 因果応報なり…
一切万法 自業自得なり…
夢幻に頼りし無明な者よ…
妄想に安堵す暗愚な者よ…
せめて堅固なものに依れ…
せめて価値あるものに依れ…
虚しき身空の、人の身なれば…
儚き身空の、人の身なれば…
憐れし身空の、人の身なれば…
如来、憐れみ.辻に立つ…
衆生…心を浄めたもう…
乏しき心を浄めたもう…
汚れし心を浄めたもう…
衆生…徳を積みたもう…
衆生…無明を晴らしたもう…
衆生…軛(くびき)を解きたもう…
これが幸せへの道なれば…
如来、憐れみ.辻に立つ…

仏心

「人の心のその奥に 仏も住むが鬼も住む」
仏心とは大慈悲心の表象であり、鬼心とは自我に捉われし煩悩(存在欲)の表象である…
人はその努力.意志.信念.知性により、仏にも鬼にも変幻自在な存在なのです…
得体の知れない神様や.妄想的な仏様が救ってはくれはしないのです…[自らを救うものは、自分だけ]であり、自分の中の仏様を.その努力.意志.信念.知性などにより、磨き、育て、現してこそ.人は救われてゆくのです…
仏となって真の幸せをつかむも、鬼や般若になって苦しみと不満の中を生きるも自らの努力しだいなのですから…
無明の闇を抱えて生まれついたる身なれば、
無明(本質的無知)の闇を晴らしてゆく道こそ[仏への道]であり、無明なままに.如幻如露なる我欲に魅入られ.拘り.捉われ.愛着してゆく道こそ[鬼への道]である…
仏は天に住み.鬼は地獄に住む、何れ.それぞれの処へと赴く…在るかままに.成るがままに…
輪廻の激流は果てしなく、渡り切る者は少し…
■心の渇きを癒やそうと.思想の荒野を彷徨う愚か者は、救い難し…
真正な仏教は無明な人の単なる知的好奇心を満足させる為に在るのではなく、無明ゆえに苦しみ.悩み.欲望に焼き尽くされてる人々を、平安.喜び.悦楽.静逸.幸福へと導く為のもの…
単なる想像や妄想に過ぎない得体の知れない神様や.怪しげで眉唾な力に魅入られるのも無明ゆえ…思想の荒野を彷徨うべからず…
無益なプラパンチャ(戯れ言.能書き.形而上学的推論.妄想的空論)な夢幻に過ぎない不毛なる思想の荒野を依り処とするなかれ、やがて心は渇き.欲望は深まり、心の中の鬼が育つ…
無明なる者とは、それでも[自分は正しい][自分の選択は間違っていない]と[自分]にしがみつきながら、何れ.それぞれの処へと赴く…在るかままに.成るがままに…輪廻の激流は果てしなく、渡り切る者は少し…
人生には生きる苦しみ.病の苦しみ.喪失の苦しみ.心の痛み.失望.不満.憂い.哀しみが付いてくる…しかしその殆どが無明ゆえに苦しんでいるのだと理解出来れば、人の苦しみの世界は消滅するのです…

思考は苦を捏造する

無明(本質的無知)の闇の中を.盲目的に.手探りで暗夜行路を歩くが如き[思考]は、先入観.思い込み.錯覚.感覚.感情.欲望.既成概念.通説.伝聞.自己暗示.染脳(洗脳).自我意識などにより、在りもしない苦(ドゥッカ)を.自ら捏造している…
因みに、世の中で言う[無思考]とは、ゴチャゴチャと雑念や妄想に気を取られ、考えるべき事を考えていないような人をいうのであり、寧ろ無思考で居られる人とは、心が制御.統制され.感覚に虚を付かれず.無駄な事.つまらない事.下らない事.どうでもいい事に.あれこれと捉われず、拘らず、気を取られない人を言うのです…
■精神作用の定義と認識
【認知.認識.意識.思考】
【認知】 ある事柄を「知っている状態」
識別していない状態
【認識】 ある事柄を「識別している状態」
分別や判断を加えない状態
【意識】 ある事柄に[感覚的.感情的な認識が加わった状態]
分別や判断を加えた状態

【思考】 
五集合要素(五蘊)により形成させた意識を.表層の脳域に於いて.その意識を言語化して経験.記憶.知識などを動員して主観や見解を導き出す。
★五  蘊 (五集合要素)
 
【色 蘊】(ルーパ)色かたち、「私」を分析すると、色かたちが見つかる。名称と形態

☆ 体とは常に変化生滅してゆき「私」という実体はない 
 
【受 蘊】(ヴェ-ダナー) 感受作用 

五官(眼鼻耳舌身)を観察すると苦と痛みが見つかる
 
☆ 負担に感じる量の痛み・苦が消える事が、楽である。
 
【想 蘊】(サンニャ) 認識作用 想念

五官により得た情報を確認・再確認・妄想している。
 
☆「花だ」「猫だ」「私は医者だ」「あれは何だ?」 
 
【行 蘊】(サンカーラ) 意志作用 

何かをしたい・何かしなくてはという気持ちがある。
 
☆サンカーラ 前の状態から次の「何かしたい」という力が変化しながら流れてゆく。
 
【識 蘊】(ヴィンニャーナ)(心) 

識別作用、意識
 
 頭が知る事ではなく心が識ること。

☆命・生きている認識・心のはたらき
 
◎区別判断するための情報や価値基準を想蘊をつかって識蘊が識別.判断している。

☆心(ヴィンニャーナ)が働く為に、受(ヴェ-ダナー)と想(サンニャー)が必要で、そこには必ず行(サンカーラ)が働く

■思考域(脳域)

★五集合要素(五蘊)で形成された意識が.上層(脳域)において言語として思考化され、知識.経験.記憶.情報などを加えて一定の見解や主観を形成させている。

♠もし自我意識(エゴ)が強まった思考をしていると、自己中心的.自分勝手.自分の都合に沿った根拠(客観性)に乏しい見解や主観を、正し見解、間違ってない主観と錯覚し、その現実とのギャップにより苦(ドゥッカ)を造り出す事となる…苦と不満と怒りの中をいきてゆく

♠もし六根(眼耳鼻舌身意)に対する刺激(外部刺激.内部刺激.精神的刺激.神経的刺激)の量が増え.負担と感じた瞬間(認知した瞬間)に唯、その認知した負担量を減らせば良いだけ.なのに、好きだ嫌いだ、良いだ悪いだ、苦しいだ快いだと負担が消えた後も思考はあれこれ雑念や妄想をしている…在りもしない刺激に刺激され.苦しんだり.悩んだり.怒ったり.怖れたりさせるのも思考なのである。

 

[菜根譚]

風来疎竹、風過而竹不留声。
雁度寒潭、雁去而潭不留影。
風、疎竹(そちく)に来たる、風過ぎて竹に声を留めず…

雁、寒潭(かんたん)に度る、雁去りて潭(ふち)に影を留めず。

 

☆人類はの一番の宝と言える.その発達した思考力は両刃の刃でもあり、その高度な思考力により社会を進歩させ.発展させ.科学を発達させて来た一方で.その思考力により妄想的な苦(ドゥッカ)を造り出してもいるのです…

現代人は尚更に.社会に溢れ返る.偏ったり、間違っていたり、作為的.染脳的(洗脳的)な知識.情報.主観的見解. 妄想的見解.観念.空論.戯れ言.能書き.美辞麗句などに翻弄され、無駄なもの事や.どうでもいいもの事や.つまらないもの事や.下らないもの事まで、ゴチャゴチャと考えずには居られず、大切な生命エネルギーさえ大きく浪費させてしまって居るのです…多くの人達の一日の思考の内の.凡そ99%は無駄な思考をしていると言え、考えるべき事を.考えるべき時に考える為には、無駄な思考を減らす訓練が必要なのです…

♥物事を全体性を分断して識別.分別.思考を加えず、唯、認知して唯、眺める訓練により、全体性を把握して、妄想的思考、自我意識、感覚的.感情的.分別.識別は脱落してゆき、真理(真実.事実.現実.実相)が自ずと顕現してくる…

■安寧の呼吸法
昨今の上座部ではマハリシの影響を受け、ラベリングによる集中を行ないますが、これは頂けない愚法だといえ、ラベリング行為や息数法などは集中力を高める為に思考力をフルに活用する事に他ならず、ゴチャゴチャとした思考の内に神仏が現れたり、超感覚が発現したりと妄想や錯覚や勘違いに入って行き易く、
そうした倒錯した落伍者の多くが.カルトや得体の知れない新興宗教を広めてゆくのです…
[思考を止める][集中力を高める][心を平安に導く]ためには、ただ呼吸を追い.ただ呼吸を眺め…思考を加えない訓練が必要であり、自ずと深淵なる安寧の呼吸へと入って行きます…

そして、思考を止めるべき時(止観)には、思考を止め…考えるべき時(観行)には集中して思考して、物事を真に理解してゆくのです…
☆呼吸法の基本
浅ければ浅いなりにゆったりと呼吸し、深ければ深いなりにゆったりと呼吸するのがコツです…
自律神経を弛緩(眠りの方向)させてゆく為には、吸気よりも呼気を少しでも長くもっていきます…
自律神経を覚醒(目覚めの方向)させてゆく為には、呼気よりも吸気を少しでも長くもっていきます…

思考.雑念.妄想を始めたら、気付き止める事(一に止まる→正法)
■つまらない者事.下らない者事.どうでもいい者事に捉われなくなって初めて、安寧は訪れる…

権威と風格

日本人が[仏教]と聞いて先ず.思い起こすのが[死]であり、葬儀.法要.檀家などの葬式仏教ではなかろうか…しかし残念ながら.その何れも本地垂迹神仏習合による汚染と民間習俗の影響であり、決して仏教の教えでも儀礼でもなく、また由緒と歴史を誇り.静かなたたずまいを見せる古刹も.ご利益を謳い信者を集め.威圧されるような大伽藍を備える大寺院も.権威と風格の為に成された文化的なものに他ならず、決して仏教の教えによるものではないのです…
大乗にしろ日本仏教各宗派にしろ上座部派にしろ、お釈迦様が説かれた至高の教えを内包しながらも[我が宗派]という意識に蓋われる余り.保守的で内向きな集団となり.更には分裂を繰り返しながら、何の為に仏の教えがあり、何の為に集いし寺があり、何の為に僧侶が在るのかすら、見失なっているのではなかろうか…
しかしそれは宗派.寺.僧侶ばかりの責任とも言い切れず、これはお釈迦様が既に危惧されていた事でもあり、集い(サンガ)とは飽くまで同心する者達の向上の為の集い(学舎)であって教団でも宗教団体でもないのだと.はっきりと仰っているように、それは教団化したり宗教団体化するとは、裏返せば経営して行くという事であり、経営し.維持し.継続し.発展させてゆく事が主眼となり目的ともなり.真理を歪めてでも、大衆の嗜好するもの(言い換えれば大衆のニーズ)に合わせてゆかねばならない大衆迎合主義に陥る危険性を孕んでいる事を洞察されていたからに他なりません…
何故.大衆迎合主義が危険なのかと言えば、それは[仏教の本質][仏教の価値][仏教の目的]という仏教の存在価値の破壊へと繋がってゆくものだからなのです…
仏教の本質.価値.目的とは無明(無知)で.愚かで.苦しむ大衆を慈悲心を以って正しい方向へと教え.導き.救うものであって、無明ゆえに.愚かゆえに.苦しむ大衆の無明で愚かで苦しむ嗜好へ併せる事ではないのですから…
つまりは大衆迎合主義とは.言わばもし大衆が.災害が続くのは何かの祟りに違いないから、祟っている神仏を調伏して.救ってくれる神仏の加護を願えば、その無明さ.愚かさ.苦しみの因果を諭すのではなく、大衆の嗜好にそって加持祈祷や念仏や題目を唱えて大衆の心の慰めの為の信仰宗教と化してゆく事を意味するからであり、お釈迦様が説かれた真理(真実.事実.現実.実相)へと目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され、堅固で安定的な幸せ.歓喜.安楽.平安.静逸へと向かわせる道から.逆行させ.遠退かせてしまうものなのですから…
お釈迦さまは最後の旅で仰っています…
[私は修行僧の仲間を導くであろうとか、或いは修行僧の仲間は私を頼っているとか思うことはない…その様に思う者こそ修行僧の集いに関して何事かを語るのであろう…
しかし向上に努めた人は修行僧を導く為にとか、修行僧の仲間は私を頼っているとか思う事なく、向上に努める人は修行僧の集いに関して何をかを語るであろうか…]
そして死期を悟られたお釈迦さまは故郷のルンビニへの最後の旅の途上のベーサリの地で最後の托鉢をなされ、感慨深くベーサリの地を振り返り、鉢を置かれたのです…
つまり.お釈迦さまは他の修行僧の仲間と集い教えを乞う者には教え諭しながら、自ら托鉢をなされ.教団経営などされてなかったのは、仏教は智慧であり、集いは学舎であり、教団経営とは俗世の経済行為に他ならず、向上を目指す者にとって.先ず捨て離れて捨離すべき事柄であるからなのです…
そして、お釈迦様の遺された有名な遺訓でもある[自らを灯火とし.自らを依り処とし、他のものを依り処とするなかれ…
法を灯火とし.法を依り処とし、他のものを依り処とせずにおれ…]という言葉に続くのです…


無上甚深 微妙法 百千万刧 難遭遇

無明甚深 身妙法 百千万刧 厄遭遇
我今見聞得受持  願解如来真実義
我今見聞得受持  願解如来真実理

我今見聞得受持  願解如来真実智

如来曰応 一切万象 因果応報
如来曰応 一切万法 自業自得

仏教は超.現実主義

真の仏教を理解する上で、先ず必要であるのが.お釈迦さまは現実主義者で在られたという事ではないでしょうか…
現代でも多く見受けられますが、お釈迦さま在世.当時は無明と迷信が溢れ返り、中でもバラモン教という得体の知れない神仏への信仰が.権威と歴史を以って人々に服従を強いていた時代であり、そんな無明な闇の中を盲目的に.不安定に生きる民衆とバラモンと支配階級に、慈悲と憐れみの心を以って、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放される事により誰でもが到達できる真実に依拠した歓喜と平安と静逸な安定的で堅固な超現実的な世界の存在と其処に至る道を唯一説かれた偉大な教えなのです…
では何故、現実主義に超が付くのかと言えば.感覚器官(眼耳鼻舌身意)を以って.見えている部分.感じている部分.真実だと思い込んでいる部分とは決して真実でも現実でもなく.作為的であったり錯覚であったり幻想であったりするものであり、凡そ感覚器官で捉えられるもの全ては真実.事実.全体性を分断し、切り取った各論的で現象的な感覚.主観に過ぎず、真理.真実は感覚器官では捉え難いにも関わらず、社会では物事を感覚的.主観的に捉えられ易くその裏.その奥.その中に潜み.隠され.埋もれた真理.真実は洞察されず感覚的.主観的に捉えられ易く.そんな盲目的な無明の闇を晴らし、真理.真実を洞察し.見透した現実(真実)に依拠する教えこそ真の仏教なのです…
例えば、社会では権威.来歴.出仕.毛並.家柄などが優先され.珍重もされ、真理.真実からは遠退いてゆくものです、お釈迦様は人に付いて[人は生まれにより尊いのではなく、行ないにより尊いのだ…生まれを問わず.行ないを問え]と仰っていますが、現実社会はプラパンチャ(戯れ言.綺麗事.能書き.空論)に満ちています…
民主国家でありながら.それにより自業自得.因果応報の法則により.住みづらい世の中が創り出されてゆくのですから…
そんな基本的な事さえ理解する事も受け入れる事も出来ないような妄想的.神秘主義や虚妄な不思議世界を愛する大衆に.真理を理解する事が出来ず.真理を施す事もなく.あまつさえ.諂らい.迎合していった者達の手により.真理(真実.現実.事実.実相)を説く純粋で頂乗な仏教は歪められて来たのが現実である。
先ず、ヨガ(瞑想法)の指導者であったアーラーラ・カーラーマやウッダカ.ラーマプッタの元で瞑想の修行をなされていた.お釈迦様が何故.彼らの元を離れて単独での修行に入られたのかについて[彼らの指導する瞑想法では.自らが追求する真理(苦の滅却)を得る事は出来ない]ことを覚られたからだと説かれていますが、では[彼らの瞑想で得られる物とは何?][お釈迦様が追求なされた絶対真理とは何?]という重要な処が今ひとつ曖昧模糊なのです
○基本的にはヨガ.瞑想.禅那禅.禅定.座禅.立禅.止観.観照.内観.内々観などの方向性は全て一緒であり、方法.作法などに依って分類されている(※中には第三の目.超能力などの獲得を目指すカルト的なものもある)


<b>[彼らの瞑想で得られる物とは何?]</b>
お釈迦様が到達された叡智による真理の顕現→涅槃(ニルヴァーナ→自在な光の一滴→一源のエネルギー→安定世界・彼岸)には到達しない.瞑想による.軽安.多幸感.開放感.恍惚感をもたらす禅那(ジャーナ)や高度な精神的次元による鎮静や不思議体験(臨死体験.死者.精霊.悪魔などとの遭遇)も、瞑想の価値や意義は高く称賛.奨励されながらも現実主義であられるお釈迦様は、それらが潜在欲に発する五蘊作用(絶えず移ろい変化する肉体的.心的エネルギーの結合に過ぎない自分を形成している五集合要素)に過ぎず、それらへの執着こそ、ドゥッカ(苦.不安定さ.空しさ…)であると喝破され、独覚の道を歩まれた。
※条件(縁起)により生起するものは.条件により消滅する性質のものであり、ドゥッカである。 ※五集合要素はドゥッカである。


<b>[お釈迦様が追求なされた絶対真理とは何?]</b>
ドゥッカ(不安定性…)を本性とし、変化生滅しているこの世界では反極的に現れるスカ(快感.喜び.幸せ感.安心感など…)の現象的感覚に.拘り.捉われ.執着し、それが永遠的な生への捉われ.拘り.執着を形成し、この世界へ繋ぎ留めている。
それらの欲望を抑制し、この世に繋ぎ留めようとするエネルギーの生成を阻めば、在るがままに在る平安な故郷へと戻る事が出来る事を高度で深淵な直感知により発見された(法)


<b>そして[苦行の無益.害悪とは何?]</b>
私なども修行中に「大変ですね」などと.お声を掛けられる事があり、仏道修行=苦行だと勘違いされている向きは否めないが、「仏道修行とは、悦楽の中に智慧の悟りを顕現させてゆく」ものである。しかし誤解され[易きに流れてもいい]という事でもなく、苦(ドゥッカ)の本質を見定める為の.体験としての苦行が存在する事は否めないが、苦行の中には悟りも.真理も.涅槃もないことに気付かねばならないのだが、無明な人から見ると.厳しく.辛く.苦しい.苦行の中に高度な境地が在るだろうと錯覚し、苦行者を讃える向きさえあるが、それは自戒.忍辱.忍耐などを穿き違えて解釈しているに過ぎないのです。
苦行者には.心の安らぎを得ることは出来ないからであり、それは苦行者は.心の根本的な反応である[貪(欲望)]と[瞋(怒り)]と[痴(不満・無知)]という三毒に依存して成り立つものであり、貪瞋痴という三毒が無くてはならない欠かす事が出来ないものとして、苦行者は生きているものなのです。ですから、苦行という修行は無駄で無益で害悪な行為なのです。
●仏教とは量子力学的思考
有るに偏らず、また無いにも偏らず、
苦に偏らず、また楽にも偏る事なく、
断見に偏らず、また常見にも偏る事なく、
両極の[重ね合わせ]の中道に平安は訪れる
両極の[重ね合わせ]の中道に深淵なる真理は顕現する
中道とは超越であり、両極を以って一を知る

目覚め.乗り越え.解き放て.

目覚め.乗り越え.解き放て…

閃きとは、気付きを言い.        

捨離とは、捨て離れるを言う…

目覚めるとは、覚醒を言い.
乗り越えるとは、超越を言う…

軛(くびき)とは、束縛を言い.
解き放たれるとは、解放を言う…

本質的無知とは、無明を言い.

無明の闇を照らすとは、灯明を言う…

欲望に執するを、愛着と言い.
欲望の炎に熱せられるを、渇愛と言う…

欲望を制するを、無欲と言い.
欲望に制されるを、貪欲と言う…

自分に拘るを、自我と言い.
自分が脱落するを、無我と言う…

宗ねとなる教えを、宗教と言い.
真理を伝え.かくの如く来たりて、
かくの如く去りゆく応身を、如来と言う…

目覚め、乗り越え、解き放て…

無明に阿り、無明に泥み、無明に在るものに、解脱なく…
目覚める事なく、乗り超える事なく、解き放たれる事もない者に、大悟.涅槃なし…

空腹に優る 馳走なく.
身の程に優る 分はなし…
親に優る 恩人はなく.
仏道に優る 宝なし…
知足に優る 富はなく.
無欲に優る 財はなし…
無心に優る 平安はなく.
無我に優る 歓喜なし…
慈悲に優る 功徳なく.
寛容に優る 器量なし…
忍辱に優る 行はなく.
正観に優る 果報なし…
目覚めに優る 顕貴なく.
涅槃に優る 勝利なし…

 

❴オマケ❵
神や仏が居たなら便利.
困った時は神頼み.
無いものねだりも困ったもので.
猫でも持ってる 1ビット
在るか無いかの 1ビット 

 

今日は今日とて昨日と違う…
今朝も美味しくご飯を食べた…
呆けたら書けない この一句

あたり前田のクラッカー

世間の多くの人は[当たり前の事]を当たり前とは思わず…[当たり前でない事]を当たり前だと思って暮らしているのです…
ですから何時も[当たり前の事]で泣いたり.苦しんだり.悩んだり.怒ったり.悲しんだりしながら[当たり前ではない事]で笑ったり.興味をそそられたり.胸を時めかせたり.喜んだりしていると言えるのです…

例えば.無常な世の中ですから.何事も常なく変化生滅してゆく[当たり前の事]を.好い事はいつまでも続くと勘違いしたり.悪い事が起こると何時までも悪い事に捉われたり.拘ったり.執したり.当たり前でない不快さを深めたりしているのではないでしょうか…

 

無常なのですから.好い事も悪い事も.この人生さえもいつか必ず終わりが来るのです.

その自覚もなく.浅薄に.短絡的に.無思考に生きていれば必ず苦へと行き着く性質のものなのです…

当たり前のように居る人々とも.当たり前のように在る生活とも.いつか必ず別れる時がくるのです…

当たり前に感じる健康も.当たり前に眺めている風景も.当たり前に接している親や兄弟も.当たり前に出会う友人とも.別れはいつか必ずやってくるのです…

その時になって.あの人にこうしてれば良かった.ああしてれば良かったと後悔しても遅いのですから…

当たり前のように周りにある物事に.当たり前に出来ることが.どれ程に大切で.幸せな事か.気付くか.気付かないか.当たり前だという錯覚から目覚め.当たり前だと思わずに.やらなかった事を後悔しないように.生きてる今だからこそ出来る事は.今するしか道はないのですから…

 

[当たり前の事]…言い換えれば.真理(真実.事実.現実.実相)をいくら語っても多くの人が目をくれる事もなく.[当たり前でない事]…言い換えれば非現実的.妄想的.虚偽的.倒錯的.空論的.形而上的な話ほど.もてはやされたりするものなのです…
そうとは気付かずに.[当たり前でない事]に翻弄されながら.今日も[私は正しい][私の考え方は間違ってない]と錯覚しながら.今日も無明(本質的無知)の闇の中を盲目的に彷徨っているのです…

まさに暗夜行路を行くが如し…
それが人間の性(さが)なのでしょうか…

在るべき姿なのでしょうか…
真理へと向かい無明の闇から.目覚め.乗り越え.解き放たれ.振り払うことこそ.人間の在るべき姿なのではないのてしょうか…


[一切の形成されたものは苦(ドゥッカ)であると真に理解できたならば、それによって人は一切の苦を乗り越える…これが聖なる道である]
汎ゆる現象は苦(ドゥッカ)であると正しく理解する事により、汎ゆる現象に対する執着の空しさ(空虚さ)を理解する…それにより清浄な道を歩むようになる…
三宝印が解れば解脱する…
日本人なら子供でも知ってる三宝印(諸行無常.諸法無我.一切皆苦)ではありますが.子供から大人まで見渡して見ても.本当に悟った人を見掛けません…

時たま.私は悟ったと宣い.主張する寝呆け酔っ払ったような人は居ますか…
つまりは理解している[つもり]の人は沢山いるのですが.真に理解している人が居ないという事に他なりません…
ここはブログであり.教書ではないので掻い摘んで書けば[諸行無常]の意味を誰に聞いても[世界は.常ならず変化生滅している]…当たり前な話だと答えてくれる事でしょう…
もし諸行無常が当たり前の話なら.例え何が消え去り.何が生じようが[当たり前の話]であり.何故に動じ.何故に嘆き哀しみ.何故に苦悩する事があるのてしょうか…
先ず.それが[当たり前の話]なら.感覚はそれに向かわず.想念は働かず.感情は刺激されず.心象は動じず.主観は興味さえ失ない.執着など無い筈と言うのに…
次に[諸法無我]の意味を誰に聞いても[全てのものは因縁により生じているだけであって、実体性がない]…当たり前の話だと答えてくれる事でしょう…
もし諸法無我が当たり前の話なら.何故に[自分が.自分だけは.]と利得を追うのでしょうか.況して多くの利他.利他と唱えながら自利に余念がない凡愚な僧侶が蔓延り.何故に[自分]に拘り.捉われ.執着.愛着しているのでしょうか…
もし自分(自我意識.エゴ)など無いならば生命体の危機と生命体の繁栄の為にどうすべきかを心を砕いて居るでしょうに…
そして三番目が最も[当たり前]で在りながら[当たり前]ではない[一切皆苦]であり.この[一切皆苦]を理解する為に.因果律(縁起)に従った苦の本質.苦の生起.苦の消滅.苦の消滅法を説いたのが四聖諦(四つの真理)だと言えるのです…
逆説的に言えば.何故.苦しんだり悩んだりするのかと言えば.それは全ては苦により成り立っている[当たり前な話]を理解出来ず.また理解しても受け入れる事が出来ないから.悩んだり苦しんだりするのだ!というのが真理なのです…
つまりは人々は苦というものが在る事は重々知っています…(生存苦の中にいるのですから)

でもこの大宇宙からして.苦のエネルギーによって存在し苦のエネルギーにより活動している事が理解出来ず.今は苦しい時や苦しい物事はあるでしょうが.きっとそれを乗り越えた処へ行けるだろうと錯覚し妄想しながら生きているのではないでしょうか……
諸行無常で変化生滅しない神や仏や自然法則に逆らう得体の知れない力など.存在し得ない.ことさえも理解.納得できていないから.それら得体の知れないものを畏れ.崇め.讃え.敬い.信仰すれば.きっとそんな妄想的世界(天国.極楽…)へ行くことも出来て.苦からも逃れられるのではなかろうかと妄想しながら苦と不満の中を流れ続けているのです…
この世界が[苦]により成り立っている事が理解出来たら.苦しいのが[当たり前の話]なら.感覚はそれに向かわず.想念は働かず.感情は刺激されず.心象は動じず.主観は興味さえ失ない放置するでしょうに.決して当たり前の事として認識しては居らず.苦を怖れ.苦を心配し.苦を悩み.苦に捉われて苦の側面に焦点を当てながら生きているから.苦しんだり.悩んだり.不満であったりするのですから…
■苦楽一如
全ての本質は苦ですが.全てが[苦しい]と言っている訳ではなく.本質的には苦であるエネルギーの途方もない流動こそ.この大宇宙を動かしている力であり.[苦しい]とは苦の負担量が蓄積し[苦しい]と感じた処からが認識された[苦]であり其れまでは.楽ないし不苦不楽と感じているのです…

楽とはその本質的な苦が時空(時間的要素.空間的要素)に従って[楽]という姿をとって現れているに過ぎず.この無常な世界では時間的経過.空間的経過により.苦がその正体を現わしているだけの.当たり前な話であり.[当たり前]な苦に拘り.捉われ.怖れるのではなく.苦があればこそ現れる現象的な[楽]を如何に奥深く味わうか次第なのですから…
解り易くいえば.人間は苦の負担により生かされているのは地球に帰還した宇宙飛行士を見れば解るとおり重力の負担がない処に長く居ると帰還した時に立っている事が出来なくなっている姿が端的だと思います…

また快感と痛みという感覚についても例えば皮膚への刺激でも.皮膚を弱く優しく撫でると快感(楽)を感じますが.強い刺激を与えると痛み(苦)を感じます…

つまりは同じ刺激の負担量次第なものなのです…
全ての現象の本質が[苦]なのですから.その当たり前の[苦]を避けながら生きる事が.楽を得る事なのではなく.苦も同時に真正面から受け入れ.[苦あれば楽あり、楽あれば苦あり][苦は楽の種、楽は苦の種]と苦楽の中を成長しても行けるのです…
仏教的には修養とは飽くまで経験的なものでしかなく苦行の中に真理や悟りを求めたりはしません…

お釈迦さまも苦行の中には真理や大悟など存在しない事を悟られて.苦行を中止して菩提樹の下で瞑想に入られて大悟されたのです…
これは苦行の否定ではなく.苦行の正しく位置付けたという事であり、苦行(苦の経験)を[喉元すぎれば熱さを忘れる]それを避けようとする消極的な対応ではなく真正面から向き合い受け止め.[苦とはこのようなものか…]という明確な[尺度][認識]を作る事であり.尺度を持たない自我の意識は苦を真正面から捉えら受け止めたり出来ず、早く無くなれ.早く去れと負担感と不満と怒りしか残さないのですから…
例を上げたら切りがありませんが.例えば戦時の苦しい時代を経験された方達は、平和な社会にこの上の無い幸せを見い出します…
厳冬の寒さを知ってる人は.東京の冬の寒さなど苦てはないでしょう…

しかし南国育ちの方なら余りの寒さに南国に逃げ帰りたくなるでしょう…
地域や環境や経験により.知っている苦があり.知らない苦があり.苦楽とは.それぞれの尺度や認識の如何なのです…
真理や大悟は悦楽の中に顕現するのです…

苦行の中に顕現するものとは苦に基づいた怒りと不満によって形成された邪見でしかないのです…