心の治療

よく人から、仏教は病んだ人の心を治療する目的があると言うのでしたら、精神科や心理カウンセラーの勉強や資格が必要なのではないですか?
と尋ねられる…笑
別に私はもぐり医者でも医学博士でもハクション大魔王でもなく、能書きや染脳(洗脳)や薬剤で治療するわけでもなく況して医学の治療目的は根治でも超越でもなく、通常に近い状態へ戻すのが目的なのに対して、心の病の真因が無明(無知).愚かさ.未熟さなどである事を発見したお釈迦様は、人格や精神性を高め.真理(真実.現実.事実.実相)を自覚する事により、凡その心の病は根治し.更に高い次元へと導くことを実証するのが頂乗仏教であり、つまりは医学はマイナスをゼロポイント方向へと向かわせるのを目的とし、頂乗仏教はマイナスないしゼロポイントの人をプラス次元へと向かわせるものであり、能書き.戯れ言.空論.観念を以って思い込ませる(プラパンチャ)なものではなく、実践的に真理(真実.現実.事実.実相)に気付かせる事により、平穏.安心.安全.愉悦.歓喜.快感.静逸.貴顕(ときめき).幸せへと向う道を指し示すだけなのです。
なにしろ人類の99パーセント以上が何かしら心の病に罹患しているのですから…笑
当然なものを当然ではないと見る者は
当然ではないものを当然だと思い込み
それによって真理には到達できない…
[平和な日本だ]は現実を現しているが、
[日本は平和だ]は現実を現していない…
今日の健康を当然だと思って生きているいるような人は、病を煩った時、当然の権利を失ったように嘆き哀しむ…
何かしら所有に依らねば喜びを感じられないような人は、何かしら失なった瞬間から嘆き哀しみ次を欲し、今在る現実に喜び感謝する事が出来ない…
諸行無常が理解できない人は、現象でしかない私や感覚.感情.精神作用に囚われて、無明なものを依り処として.苦.不満.恐怖を造り出してながら病んでゆく…
煩悩(存在欲)に制御され振り回されて生きていくような人生から幸せや安心を感じる事など出来ない、自ら己の煩悩(生存の素因)を制御コントロールして初めて、安寧.満足.多幸感は得られる…
全てはひと息の内にあり…
決して上から目線で言う訳ではないが…笑…例えば私自身の呼吸数を計測すると通常は凡そ1分間に15回ぐらいだから、1時間あたり900回、覚醒時16時間で1日あたり14400回、1月で432000回.一年で凡そ520万回の呼吸をしている計算であり、無一物でも真理と叡智に基づいて、満足.歓喜.快楽.平安.安寧.貴顕(ときめき).静逸.多幸感(スカ)の呼吸をしている人間と、一年中.渇望.欲得.不満.迷い.空虚.怒り(ドゥッカ)の呼吸をしている人間とでは、心身共に人生が天と地ほどの差となって現れてくるのは必然であり.当然であり、理に適うことではないでしょうか…
決して脳天気にではなく、真理と叡智に基づいて、そのひと呼吸に、どんな心(想い)を乗せて生きていきたいのですか?
【検証】
所有の次元の事物への欲望.拘り.捉われ.執着.愛着からの解放
もし金財.地位.名誉…など、所有の次元の事物に縛られているとしたなら.真如への到達は覚束ない…
何故ならば、快楽を得ても、平安を得ても、安寧を得ても、愉悦を得ても、静逸を得ても、多幸感を得ても、無常な所有の次元の事物を依り処とした移りゆく有為なる現象に過ぎない…
無一物なればこそ、無為で堅固なる涅槃(ニルヴァーナ)を奥深く味わうことが出来るのだから…

ゴミ屋敷

心の中のゴミ屋敷
心の中をリフレッシュ!
皆さん、ゴミ屋敷と言うとテレビなどで時たま放映される食べたものやガラクタなどが散乱していて歩くのも難儀そうな室内を想像して、[よくあんな部屋で暮らせるわね〜]なんて思っているのではないでしょうか…
でも私から言わせて頂けば、それらは単なる物理的な問題であって物憂で片付けないだけで生死に然程も関わるとは言えない問題でしかなく、そんな一方.現代人は、氾濫する作為ある情報.間違った情報.偏った知識.染脳(洗脳)的な知識などで.欲望の炎を煽られながら.下らないもの事.つまらないもの事.どうでもいいもの事に気を取られ.拘り.捉われ.執着.愛着しながら、ゴチャゴチャと雑念したり.妄想したりしながら心の中を.ゴミだらけにしてゴミ屋敷を造っている事に気付けず、不満や恐怖や苦しみ(ドゥッカ)を造り出しているのです。
それは普段の生活のままでは中々.気付けないものであり、自我への執着.愛着を離れて客観的に自分の心の中を冷静に見つめれば、自分のそんな心に気付くことも.そんな無価値な情報や知識で如何に心が汚されているか見えてくれば、自分の本当の望みにも気付け、自分は今.本当は何をすべきかも見えてくるでしょう…
満足.安心.自信.幸せを得るには自らの信念と意欲と叡智が欠かせず、自己愛の権化でもある煩悩(存在欲)は、愚かであれ.勘違いであれ.例えそれが錯覚.染脳(洗脳)であっても[自分は正しい.自分は間違っていない.悪いのは外界だ]と自分を惑わし.擁護し続け、それが為に自分の心の中のゴミ屋敷に気付くことが出来ず.感覚.感情.主観に振り廻され、苦しみ(ドゥッカ)と渇きと貪欲を深めてゴミを更に積み上げてゆくのです…
その握り締める手と心とを放てば、幸せはその手と心に満ちるのですから…

例えば私達.僧侶が行じる托鉢も、私達.僧侶は働かずに他人様から喜捨や施しを得ようと辻に立っていると浅薄な人達は捉えていらっしゃいますが、生きる為の部分的行為として.それも在りますが主な目的は違うのです…
皆さん毎朝、顔を洗い.歯を磨き.身づくろいに余念がないと思いますが、それは身体的な外見の行為に過ぎず、内面の心の部分を毎朝、洗い.清めていないのです…
托鉢僧が朝、街の辻に立っているのは物乞いでも.慈善募金でも.勧進でもなく.皆さんが今日一日の為に.折角.顔を洗い.歯を磨き.身づくろいをしたのならば一番大切な心も洗い清めて今日を過ごして頂くための[心の沐浴処]として立っているのであり、お釈迦様も.心ない人から[物乞いシッダールタ]などと罵られても毎日のように行脚.托鉢.辻立ちを欠かさなかったのも、喜捨や施与することを仏教徒の義務となされたのも、托鉢.辻立ちが菩薩行と位づけられるのも、心の浄化なしには真の堅固な安心.安全.満足.平穏.安寧.愉悦.快楽.歓喜.静逸など得られないという真理(真実.信念)に基づき、真実が理解できず煩悩に煽られた欲望の真っ只中を無明の闇に包まれ盲目的に生きている人々への慈悲であり.憐れみであり.幸せの道への布施なのです
つまりは僅かな喜捨(施与)を頂くかわりに実は.托鉢僧が皆さんに幸せへの布施をしている.という関係性なのです…
◆人生を好転させる唯一の方法とは、節制とは似て非なる[自分のものだ]と物惜しみ.しがみつく貧しい心を乗り越え超越して[与える]ことなのです。
それは仕事でも人間関係でも恋愛でも、自分に対して何かしら[プラス]になるものを与えてくれる相手とか物事は受け入れ、無価値かマイナスになるものは排除してゆこうとする天地自然の流れでもあり、その理法に則った[与える][他の役に立つ]という行為が善い波動を生じさせ.運気の流れを変えてもゆくのです。
本当の引き寄せの法則とは[与える][役立つ]という因の行為(起運動)の果報として廻り巡る(スパイラル運動)による悪因悪果または善因善果として運気の流れを引き寄せてゆく摂理法則なのです
他者にどんどん与えていきましょう。
そうすれば、因果律に遵った報酬として巡り巡って大きくなって返って来たり、徳や金運が積まれて大福を引き寄せたりしていくものなのです。
また、プライベートでも、他者にどんどん[与える]ように心掛けるようにしていきましょう。
言葉.笑顔.援助.金財.物.親切.愛情.奉仕…など、与える事ができるものは沢山あるはずです。
それが常に徳と運気をプラスの状態へと向かわせる秘訣でもあるのです
参照【 施与の功徳 】
◆捨てる神あれば、助ける神あり
喜捨することで、自分を援助.応援してくれるような縁が結ばれてゆく
◆福.受けつくさば 良い縁必ず孤なり
小福を自分だけで使っていると、良い縁に見放され、大福も取り逃がす
昨今は、[情けは人の為ならず]の諺を、その人の為にならないから、情けなど掛けるなものじゃない…などと曲解しする心の貧しい人達が増えいるように見受けられ、自分にしがみつき.目先の利に魅入られて、自分が!自分が!で.苦しみや不満を自ら造り出し.深めてもいる事に気付かず.徳(情け)を他の生きとし生きるもの達に振り向けるから福や幸運が巡り来るのだ!という因果の法則が理解出来ず、決して満たされる事のない煩悩の要求に翻弄されながら心の中のゴミ屋敷に埋もれていくような、憐れな人ともなってゆくのですから…

生死の価値観

生きとし生きるもの全ての願いが叶えられますように…
生きとし生きるもの全てが幸せでありまずように…
 
せと不幸の別れ道
●幸せも不幸も自由選択
環境.時代.時間.状況.宿因.宿命に依らず、万人には常に.幸せへの道と不幸への道という二つの別れ道があり.そのどちらの道を選択して歩こうが自由でなのであるが.そのどちらの道を選んで歩いて行くのかにより.天と地ほどの差となって現れてゆくのである…
人は皆、幸せになろうとせっせと励んでいる…例えこれから死のうとする人でさえその中に幸せを見い出したからに他ならないのだからして…
しかし皆んなが幸せの道を選択して歩いて行けるにも関わらず、何故か不思議に多くの人達は不幸への道を選択し、その先に.せっせと不幸な社会を築いてる事に気付きもしない…
つまり幸せとは[その中に価値観を見い出す事]に他ならず、生の価値観も死の価値観も生死の価値観さえも幸せと不幸の大きな別れ道なのだから…
しかしながら、それぞれの人が見い出す価値観は一様ではなく千差万別であり、その違いは正に人間性(人格・精神性)に依る処が大きく、その辺は価値観(心の本音)や人間の質.格.境地などに収めてあるので是非、参照して頂きたい。
参照 価値観(心の本音) 人間の質.格.器量.境地
■精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく。

低次元に於ける階梯  渇望と存在欲に発する衝動による執着。 

①肉体的.物質的レベル(自我的)

②感覚.感情レベル(自我的)

③知識レベル(自我的)

④知性レベル

⑤精神性レベル

⑥覚醒.超越レベル


①肉体的・物質的レベル  
このレベルの人は[物質主義的]であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し,本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく、それ以上の価値観を持ち得ません。ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく、宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てないのであり、物質的.肉体への価値判断が、精神的・存在的価値判断を上廻ってしまうのです。 
②感覚・感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く、好き嫌い・快不快・美醜などという[主観的な感覚]によりものごとを判断します。これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し、感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し、善悪.浄不浄などという倫理感を上廻ったります。妄想的・神秘的な信仰に興味を持ちやすく、儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります。
③知識レベル          
このレベルの人は、[知識欲]が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、[第三の目]や[超能力]とかや[霊力]といった得体の知れない物事を求める傾向があり.読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていたり余り実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)       

このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、[研究や開発や発明.発見]や[芸術・造形]などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)などの[心の浄化と存在性]としての価値観の向上に努め励みます。        

「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥覚醒.超越.精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(くびき・連鎖運動)を断滅し.自我の妄想から離れた[無我]による分断.分別のない全体性.同一性の意識が、根源的な心的エネルギーから顕現し.堅固な安定感.平安.歓喜.快楽.愉悦.幸せを得るのです。

●怠けと驕り
物事は実行に移すこともなく、頭の中であれこれ思索を巡らしているだけでは.そこに何の価値もなく、ただ妄想しているだけの時間の無駄に過ぎない…
百聞は一見に如かず、実践してみて初めてその本質も欠点.利点も見えてくるものであり、後は知恵を振り絞り精進.努力を重ねてゆくだけで、必ず[良い結果]へと繋がってゆくものなのに、世の中には失敗や悪い結果がゴロゴロしてる…
失敗を怖れていては何も成せず、かと言って思慮分別もなく猪突猛進するのは愚か者のする事であるが、[失敗は発明の母]とも言われるように失敗は大きな糧となり、凡そ価値ある物事は.多くの失敗の内より生み出されているのだから、必ず財となるものであり、たとえ一、二度失敗で挫けてはならない…
しかし物事は[結果]が全てであり、失敗の能書きや慰めに価値はなく、必要なのは反省と学びであり、その本質は[怠け]への気付きと反省に他ならない…
凡そこの[怠け]さえなければ必ず良い結果が出るものであり、一生懸命にしたのに悪い結果をもたらしたとしたら、それは怠けていた事にすら気付いていないからに他ならず、世界に覇を称えたローマが滅んだのも世界二位の経済大国であった日本が没落したのも、中身と実践力に劣りながら、外見.体裁.能書きだけは一流な怠け者が指導し.信念と精進.努力し励む喜びを忘れた個々は無責任に時間ばかりを浪費しながら、自分の問題にばかり構けて居ながら、やはり怠けていたからに他ならない…
その辺、特に顕著なのが日本の議員連中と役人達であり、偏見なく眺めてみても、議員連中は国民への奉仕を怠けて利権造りに忙しく、役人達は国民や市民への奉仕を宗とすべき天職を、与えられた仕事は一応は熟すものの有り余る時間を如何に上手に怠けるかに忙しく、それでいて懸命に働いていると妄想しながら.上位者意識で.本業の国民の為の精進.努力.奉仕を怠けているのであり、大企業のトップも仲間内の権力闘争に明け暮れるような愚か者達が経営の席を占め、会社を自分のものという意識があれば、寝るのも惜しんで.無い智慧を振り絞り、怠けず.精進し.努力を怠らなければ、昨今の体たらくはなかっただろうに...
問題は、制御コントロールできる部分があるのに[何故しっかりと考えて行動しないのか]という事であり、そこに在るのは[怠けと驕り]に他ならない…
そんな自分を高め成功への道を歩んでゆには煩悩(存在欲)を制御コントロールして[怠けや驕り]を生じさせる不善心処に気付き退治してゆかねばならない。
【不善心処】
貪欲.ローバ  貪り
邪見.ディッディ 邪見.妄想にしがみつく
慢心.マーナ  驕り 
瞋恚.ドーサ  激しい怒り
嫉妬.イッサー ねたみ.嫉妬
慳貧.マッチャリヤ 物惜しみ.吝嗇
痴愚.モーハ 無明.混乱.妄迷
無慚.アヒリカ 自分に恥じず.悔いない無愧.アノッタッパ 他人に恥じない心
掉挙ウッダッチャ 落ち着きない昂ぶり
悪作.クックッチャ 後悔.悩み
惛沈ティーナ やる気の喪失 散漫
睡眠ミッダ  眠気
疑蓋ヴィチキッチャ 自ら確かめようとする善い疑と、鵜呑み妄信する悪い疑念
 
いつの世も、心の貧しい者が増えて来ると[排除の論理]が幅を効かせてくるものであり、隣国からの流入民を防御する鉄柵を築くと公約したトランプ大統領も、やまゆり園で老人介護施設やまやり園で数十人の老人を殺傷した犯人もこの[排除の論理]を短絡的に肯定化しているのであり、片や大統領となり.片や多くの若者から賛同や支持を受けている世の中は如何に歪み.渇き.澱み.不満を募らす人々が増殖しているのかの証でもある…
キリスト教の聖書には黒い羊の例えがあり、同一性の社会に異質な黒い羊を混ぜると、異質なものを触媒ないしスケープゴートにする民衆扇動的な[排除の論理]を以って.人々を団結させることが出来ると説かれているらしいが、これは一種の染脳(洗脳)の為の触媒であり、個人の心理とは明らかに異なる集団心理の形成を目論むものであり、そこに内在するものは[異質性と同一性.排他的.感情的.衝動的.劣等感と優越感.阻害.恐怖.分別.差別.迫害:生贄.触媒効果.闘争本能.弱肉強食…]
排除の論理を振りかざす者は、同じく排除の論理により迫害され辛酸を舐めることとなる。
何故ならば、本質的には他者の犠牲の上に社会は成り立っているのであり、弱肉強食なものであり、常ならず無常で移ろいゆき変化生滅してゆく世界では多様性の尊重こそが平和をもたらし、弱肉強食な世界はドゥッカ(苦しみ.怒り.哀しみ.不満.恐怖…)しか生み出さず…、諸行は無常であり、一生を掛け只管に価値あるものだと思い込み追い求めたそんなものは前の塵芥にすぎない空しく移りゆく代物に過ぎず、日々その人生の終焉には満足.達成感.征服感が得られるだろうと錯覚.妄想した到達点で気付くだろう、今日の勝者は明日の敗者に如かず、悔いと愚かさを噛み締めながら、輪廻の激流を繰り返す定めに恐怖する…
自我の劣等感に根ざした怒りや不満の具現こそが[排除の論理]であり、現象に過ぎない[自分]への拘り.捉われ.執着.愛着が輪廻する理法なのだから…
●言行不一致
言うは易く、するは難し…執筆途中
プラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.世迷言.無明…)
●ニンビィ症候群

日本の衰退の原因を社会では少子高齢化と捉える向きが大勢だが、その真実は日本社会を蝕んでいるNIMBY思想というニンビィ症候群に他ならない。

NIMBYとは英語の[Not In My backYard]の略であり[うちの裏庭にはやめてくれ]思想であり利己的な幸せを追求する余り、利己的な欲望に反する物事に対し怒りをぶつける心の貧しさ.卑しさであり、それは利己的な利益追求にはしり他者(受益者)の利益とのお互い様な関係性の上に成り立つ進歩を阻害して自ら衰退していった多くの過去の文明と今の日本の現状にも当て嵌まる病巣であり、これは建物や施設などに限った問題ではなく.自我意識に病んだ人間の驕りが社会の破戒を招く事を認識した過つての人々により森林保全法や動物愛護法などもそんな精神により創られたのである。

そしてそのもっと真因を辿れば物質文明社会の中で利他を謳いながら利己的な欲望の成就を無責任に約束するような歪んだ観念.思想.宗教が蔓延し.流れ連鎖してゆく生命観を喪失してしまった刹那的.享楽的.自己中心的.主観的な世界観しか持てない日本人が増えている事に起因するのではないだろうか。

次の自分が何であっても.次の自分が無かろうとも依り善い未来への願いが人類の進歩と発展を促すのであり、真正な仏教が説く教えも文明を否定する灰身滅智を説いている訳ではなく人類の真の幸福のための進化の道を説いているのだから。

今日の一句

上野の辻に立ちたれば
コロナ騒ぎに 神隠
右で乞食が酒盛りて
左に心の乞食が行き交いて
行ずる乞食にして見れば
浅ましき
乞食海の 乞食の一滴
景気は気からと言うけれど
パンデミックの足音がする

お墓と供養

千の風になって

私のお墓の前で泣かないで下さい
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に、千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています

 

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に、千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています

千の風に、千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています

あの大きな空を吹きわたっています

先ず先祖が居たから今の自分が居るのは厳然たる事実であり崇拝対象でもある事は当然であるが、真の崇拝すべき先祖とは貴方の身体の中に宿るDNA(遺伝子)やカルマなどであり、外世界に崇拝対象とする先祖は既に存在せず、あえて先祖求めるならば[生きとし生きる全生命]の中に見い出せるものであり、笑い話をすらならば、先祖供養を欠かすことなく行ない.それを誇りともする実直だが.無明な或る人が、多額の予算を費やし盛大なる供養を毎年.執り行い「私はいつも祖先を此れほど供養しているのだから、不幸や不運とは無縁で、家系もきっと栄えるだろう」と妄想しながら、ふと供養会場の片隅に目をやると壮麗に飾られた場にそぐわないな野良猫が紛れ込んで居るのを見つけ、この供養会が汚されたと思い力いっぱいに蹴り付けたものだから、その罪なき野良猫はその場で死んでしまった。しかしその野良猫こそが.因果律(縁起)に遵って.その会場へと導かれた先祖の転生の姿に他ならず.やはり因果律(縁起)に遵って仔猫として生まれた彼の曽祖父に与える餌を求めてやって来たのだった。
因果律(縁起)に遵えば、縁ある処へと導かれ.縁ある果報となって現象するもの
よって知るべし.やがて彼れは難病に罹患し不幸な最後を迎え、彼れの家系は絶えたと聞く。
先祖や祖先の事を想う事もなく自分の力で生きてると錯覚している人が居るかと思えば、自分が恵まれないのも先祖や祖先のせいだと恨む人もいる、妄想的な信仰心から保護.安全.繁栄. 恩恵を願って先祖供養に余念のない人もいて、多くの人は先祖の供養に拘るが、もし先祖や祖先を供養するのであれば、自身の存在の次元的価値(人格.精神性など)を高めて行く事こそが真の先祖供養.先祖崇拝と言えるのではあるまいか。
先祖を供養する祭祀には余念なく取り組みながら.賤しい行為.愚かな行為.無慈悲な行為を畏れない者とはその実.先祖を貶めている事に他ならない。
社会で儀式化している先祖供養.先祖崇拝が習俗なのか仏事なのかと言えば釈迦尊(ブッダ)の説かれた仏教では「先祖への崇拝」を特別視されず俗事である葬儀の場に依頼されて供養文を唱える程度のものであったのは何故なのかと言えば「恩」と言う言葉に集約され、現実主義的な仏教に於いては崇拝対象も現実の中に見い出すものであり直接的な存在の恩は生み育くんでくれた両親への恩であり、先祖からの連綿の恩も親への恩に内包されるのであり、ある意味見ず知らずの先祖や例え記録があったとしても何処までが事実かも知れない先祖を崇めて親を犠牲にしたり軽んじたり蔑ろにするような恩知らずな行為は悪因縁を積み重ね業を深める無明な事でもあるからに他なりません。
●先祖を崇拝するならば、親をその十倍敬わなければならず、先祖を供養するならば親をその十倍供養しなければならない。
●仏教の基本は六方崇拝である(天地東西南北)
●人は敬うべきものを敬い、讃えるべきものを讃え、崇拝すべきものを崇拝し、捨て去るべきものを捨て去るべきである。何故ならばそれこそが無明の闇を晴らし目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれ(解放)、真の幸せに至る道だからである。
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老荘思想や中国仏教から強い影響をうけた日本仏教(新仏教)も中国思想を基とする先祖崇拝思想を軸としていて、本質的には仏教思想の根幹をなす輪廻し再生し継続して行く生命の流れを否定しているのです。
先祖とは敬うべきものであり「敬うな」と説いているのではなく両親への崇拝に内包される存在であり、それと分別される崇拝対象ではないという事であり、崇拝対象とすべきは自分に直接的に良い影響や恩恵や保護・安全・安心や教育や知識や経験を授けてくれる六方の時空や環境とともに両親や恩師や家族や友人や上司や恩人こそ崇拝対象であり崇め拝み感謝すべきであり、釈迦尊(ブッダ)も「六方崇拝」として行ぜよ.と説かれているのです。
見たことも情報もない何処で何をしてたかも知れない先祖を崇拝する時、母親と父親のDNAを半分ずつ頂いて生まれて来ている自分が先祖を遡り辿っていくと十代を経たぐらいで何千家という先祖を持ち、更に辿って行けば何万何十万家何千万家という先祖に行き当たり、逆に先祖から現在に連続性を辿れば正に人類みな兄弟であり家族であり、過去の方々は皆、ご先祖様であり、生命は一源であり同一なのである。そんな御先祖様を敬いを超えて崇拝する信仰は、人間が持つ弱さ・愚かさ・欲という本質的な無知(無明)が保護・安全・安心・恩恵を欲し妄想し投影しているだけであり、輪廻再生(サンサーラ)という自然法(天地自然の法則・物理法則)による連鎖の流れという生命の継続性による因果律により考えるならば、もしかしたら貴方が昨日いじめた鳩ちゃんは貴方の曾祖母ちゃんだったかもしれず、先祖の墓石に集っていて、払いのけた毛虫は曾御祖父ちゃんかもしれないのです。(生きとし生けるものたちを慈しむ事こそが、実は先祖崇拝なのではないでしょうか。)
それは実際には先祖様たちを蔑ろにしていながら、木でしかない仏壇を崇め、石でしかない墓を拝み、木像や石像を崇拝しながら、世俗的風習が優先され釈迦尊(ブッダ)の教えをを蔑ろにする現代の風潮そのままともいえ、あまりにも信仰化してしまった事により却って信仰心を喪失した時に同時に宗教(幸せに生きる為の宗(むね)となる教え)としての宗教心を喪失した日本仏教という新仏教の限界を感ぜずには居られないのです。
☣それでもご先祖を祀り、お墓に入りたいのであれば[頂乗仏教如来塔・無宗派の集合墓]をご用意しよう。(勧進)
人々が平安で在りますように
人々が幸せで在りますように
人々が息災で在りますように
人々に喜びが在りますように
良い一日を過ごしますように                   
無明の闇から目覚めますように     
無明の闇を乗り越えますように
無明の闇から解き放たれますように

受け入れる

この世の福と禍いとの.両(ふた)つながらの捉われと執着を去り、憂いなく.貪ることのない清浄者…そを真の修養者と我れは説く…
●現実を受け入れる(変化生滅)
もしその人が自分にとり本当に必要なものが明確であれば、悩みも.迷いも.苦しみもしないだろうに、無明(本質的無知)の闇の中を盲目的に手探りに.どうにかこうにか生きている事に気付かずに、その不安定な衝動の安定化を渇望し、社会に向かい安定化の為に必要な物事を探し求めれば、激流のように流れ込む知識や情報に惑わされ.煩悩(存在欲)の要求に翻弄され.
どうにかできる物事と.どうにもならない物事の識別さえも迷妄し、高慢となった小さき存在は、すべき事をせず.すべきでない事をするようになり、大いなる理法に対しても.畏怖と.敬いを失ない、自ら不幸へと向かってゆく…
大自然のその大いなる恩恵へ感謝を忘れ当然と接し.大いなる歓喜と幸せを失ない.その威力の前に無力であった小さき存在は.受け入れ.認め.共存の道を探りながら生きて来たのが、幾許かの制御.制止.対抗を果たした時から高慢にも[変化生滅]という真理(天地自然法則)さえも認め.受け入れることを拒むが如く反発し、その自然法則の流れへの反逆.反発が世界との調和を乱し、自らをドゥッカ(苦しみ.悩み.憂い.心痛.儚さ…)へと導くのです。
無明なままの人は.頭では解っているのに、心は認めようとしないものであり、
[死]という避けられない問題でも、心が認めようとしないものだから.頭(思考)は考える事さえ避けようとし.それが為に折角の生命を無駄に浪費してしまうのだから.
例え、何が消え.何が生じようが、因果律に従った縁起上の当然な現象に過ぎず、認め.受け入れようとしないから苦や不満を生じさせたり、得体の知れない無責任な他力や信仰に縋りつき.取り込まれ.騙され.洗脳(染脳)され無思考.思考停止となり大切な時間と金と労力を浪費する…
物事は自ら.よく吟味し.眺め.観察し.分析し.思惟思推し.検証し.確証を得て.変化生滅を[認める][受け入れる]ことが重要であり.それが現実(真理.真実.事実.実相)を認め.受け入れ.真実.現実を依り処(精神的支柱)とした堅固な平穏で安定した幸せと、人格を育成して.心を超越した次元へと導く道なのです。
世の中には人間の力ではどうにもならない物事がいっぱいあり、それらの幾何かを.どうにかこうにか制御したり.克服してきたものだから、何でもかんでも対抗し、制御し、止めよう、克服しようと頑張る余り、軋轢や苦しみ(ドゥッカ)を深めてしまったり、妄想的な迷路に陥ってしまうのですから…
他人や社会が何んと言おうが、自らよくその問題と冷静に向き合い、眺め.観察し.分析し.思惟し.思推し.今の自分の力ではどうしようもないものは.[駄目なものは駄目]と受け入れる事も必要なのに何時までも.しがみつき.握り締め.執着.愛着してしまうから苦しみや不満(ドゥッカ)を深め、変化生滅してゆくのが当たり前な事なのに.今の状態が何時までも大した問題もなく.元気で.無病で.無難に生きていられる事が当たり前だと錯誤してしまい変化生滅に戸惑い嘆いたり、恵まれない今が当たり前だと錯覚して悲観しながら出来る努力を怠ったり、自分の力を過信もせず.過小評価もせず.智慧を伴った努力精進を忘れず、何でもかんでも制御し克服し反発し対抗しようとせず、分散する欲望を本当に必要なものに注力しながら、それでいて本当に[駄目なものは駄目]として受け入れる賢明さ柔軟さが大切な要素でもあるのです。
確かに人類は汎ゆる問題を克服し征服して来たのは事実ではあるが、それも冷静に見るならば、多くの敗北の中から.幾許かの[どうにかなる種]を見い出した勝利に過ぎず、偉大な科学者とは、大自然や森羅万象の前に、畏れ.敬い.崇め.感謝する謙虚さを持っているものであり、愚かな科学者は喪失した驕りと高慢さから愚かな人災を招いてさえ居るのだから…
●身の不幸
身の不幸を招くのは、無思考.思考停止で生きること…
ただ漠然と.起きて.動いて.食べて.寝るだけで居られるならば、苦しみ.不満(ドゥッカ)や不幸の種を生じさせず、またその芽も実もなさせぬものを...でも退屈や飽きも苦しみ.不満(ドゥッカ)そのものであり.身の不幸を招くだけ...かと言って無思考.思考停止に.煩悩の渇望に翻弄され.世間から聴こえてくる知識や情報、本や雑誌やメディア媒体から溢れ出る知識や情報を鵜呑みにしたり.信じ込み.洗脳(染脳)されながら.無常な感覚.記憶.感情.衝動が引き起こす単なる主観を自論だと見紛って居る..そんな人を無思考.思考停止と呼んではいるが、それらは無明な雑念.妄想.無駄な思考を断滅する高度な思考停止とは.天と地ほどの差となって現れて.欲望に突き動かされ.ドゥッカ(生存苦.不満.憂い.空しさ.心痛…)による雑念.妄想に塗れながら.考えるべき物事からは逃避しながら.無常な感覚に従って.他人が向かう方へと無思考.思考停止で後について行こうするような.他人や社会を当てにして自己という存在性を自ら放棄するが如き迎合的な選択の結果に、自己選択出来ないことを悔やんだり、悪い結果でも招けば.その責任を社会や他人に転嫁して恨んだり不満を抱いたりするような...凡そ身の不幸を造り出す。
仏教は心理学や啓発というよりも、心の自然法則を以って.成るように成すという.心の物理学.化学.自然法則に沿った手法により人々を堅固なる真の幸せへと導く為のものであり、徹底的に観察し.分析し.思惟し.思推し.検証し.確証を.得て理解し、その理解した真実(真理)を.他との関係性.関連性.相補性という因果律(縁起)の発見に繋げ.その天地自然の法則を.人間の幸せの為に説いているのが仏教であり、それは通常の心の次元を乗り越え.超越するでもある。
世の中ではそれぞれの社会的.環境的.時間的.状況的な関係性による幸せや健康や満足などの[所有の次元の事物]の所有量を一つの尺度として、宗教とも呼ばれる信仰に対して嫌悪感を抱いたり.気嫌いしながら.金財信仰・学歴信仰.地位.称号信仰・知識.情報信仰・権威信仰・妄想信仰・感覚.感情.主観信仰など.無常で便宜的な付随物でしかない[所有の次元の事物]への信仰心を培い.魅入られ.ドゥッカ(苦悩.心痛.虚しさ....)を深めてゆく...それは常ならず変化し生滅し移ろう空しい本質の物事に過ぎない、必ず苦へと行き着くドゥッカ(苦)の本質のものへ、依存し依り処(精神的支柱)としているからに他ならず、故に社会には欲望と不満と怒りが満ち、哀しみと怖れと儚さに涙する人々が増えているのであり...それらの不安定.身の不幸から逃れようと.得体の知れない神仏や眉唾な力を無責任に主張する信仰宗教の罠に絡めとらて.尚更に宗教嫌いになってゆき、人として宗ねとするべき教えにまでアレルギーす反をきたすようになる...

現実を受け入れ.安定した幸せへ向かってLet Go!

欲望と怒り

欲望と怒り
欲望と怒りとは表裏一体のものだと明確に認識しなければ、常なく変化生滅しながら.移ろいゆく諸行無常なこの世界では.そうそう自分の都合通りに物事は運ばないものであり、一瞬一瞬に生じている欲望により不満や怒りを積み上げて行く事となる…
欲望の裏側には常に怒りや不満が潜んでいるのですから、欲望が強ければ強いほど、また欲望が深けれは深いほど、裏では怒りや不満が繁殖しているのです。
通常は冷静沈着で大人しい人と思われてるような人が突然に切れたり.暴れたり.事件を起こしたりするのは、普段は理性の箍(たが)が掛かっていても.潜在煩悩には怒りや不満が積み上がっていて、それを何かしらの縁が目覚めさせた時に現れただけであり、特別に不思議な事ではなく.思議しづらいだけの.積み上がった怒りや不満の出現なのですから…
欲望的な社会には、そんな鬱積された怒りと不満が満ち満ちているのです。
生活の中で、実践的に修養してゆく事により、誤った認識を正しい観念(正念)へと改め、煩悩(存在欲.自我意識)の苦しみを.とこしえの歓びと平安に変えてゆくことができるのです。
諸行無常   
[全ての物事は常なく変化しつづけるもの]
諸法無我
[それは因果律(縁起)に従った関係性の中での出来事であり固定的な実体ではない]
涅槃寂静
[この事実に従って物事も.心も受け止めれば分別や好嫌や執着などによって波立つ心も静かな安らぎを得られる]
正観すれば厭離の心が生じ…
厭離すれば執着.愛着.貪欲の心が滅し…
心は解放され堅固なる安寧を得る
[平安に勝る悦楽なく慈悲に勝る功徳なし]
自己啓発
世間と言うものは真実を素直に認める性格は持ってないもので、伝統的な物事.思い込み.権威.格調.迷信.先入観.既成概念.固定観念...などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うもので、ひとつ間違うと不穏分子扱いされかねない処もあり、自己啓発というものも.真理(真実.事実.現実.実相)に基づかない感覚的.感情的.主観的.観念的な空論を以って行ずる啓発は一種の洗脳(染脳)でしかなく、決して鵜呑みにしてはならず.よく眺め.吟味し.分析し.思惟し.検証し.確証を得られなけば正しく自己啓発してゆくことは難しい…
仏教の目的は、自らの努力.精進.意志.信念に根差した自己啓発.自己克己などによる苦からの解放を目指すのであり、知識でも.情報でも.記憶力でも.作法でも.習得でもなく.その為には[人間性の成長]が欠かせない要素なのです。
そこには大きな乗物も小さな乗物もなく自身の人間性の成長.抜きには仏教は成立し得ないのです…
しかし世の中(便利さに慣れた現代人は尚更)は、自分の人生なのに他人の考えに依存したり、得体のしれない神仏など他力に依存したり、妄想的.単なる形而上の観念.仮説.空論に依存したり、眉唾で怪しげな超越的な力に依存したりして、却って苦や不満(ドゥッカ)を深めているのです。
それらは病み苦悩する心に安らぎを与える鎮痛剤.緊急処置としては有効ではあるが、それらは病巣を取り除き.快癒させる根治治療では決してなく、真に心を完成させ堅固な幸せへと導くものは、唯一.堅固で安定的で無為なる真理(真実.現実.事実.実相)を依り処(精神的支柱)とした自己啓発.自己研鑽.自己克己に他ならない。
[真の依り処は.真理のみ…
自己の依り処は.真理を観ずる自己のみ..
他に如何なる依り処があろうか…
自己のよく調御せられたる時…
人は得がたき堅固なる依り処を得る…]
[仮の姿を.真実だと思い込んだり…
間違ったり偏った観念を抱いていると…
真理へは到達できない…
真実ではないものを.真実であると見做している人は、真実を.真実ではないと見做してしまう…
それによって真実へは到達できない…
[真理は真理…虚仮は虚仮]
他力を当てにして.ご利益を当てにして.ご加護を当てにして.幾ら祈れども.幾ら崇め拝めども.幾ら唱えども.幾ら諂えども.待ちぼうけ…待ちぼうけ…
 待ちぼうけ  北原白秋
1.待ちぼうけ、待ちぼうけ
 ある日せっせと、野良稼ぎ
 そこに兔がとんで出て
 ころりころげた 木の根っこ
2.待ちぼうけ、待ちぼうけ
 しめた。これから寝て待とうか
 待てば獲物が驅けてくる
 兔ぶつかれ、木のねっこ
3.待ちぼうけ、待ちぼうけ
 昨日鍬取り、畑仕事
 今日は頬づゑ、日向ぼこ
 うまい切り株、木のねっこ
4.待ちぼうけ、待ちぼうけ
 今日は今日はで待ちぼうけ
 明日は明日はで森のそと
 兔待ち待ち、木のねっこ
5.待ちぼうけ、待ちぼうけ
 もとは涼しい黍畑
 今は荒野の箒草(はうきぐさ)
 寒い北風木のねっこ