路傍の如来の説法−5〈残暑の頃の集い②〉

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青年が突然に路傍の如来への改宗とも言える帰依をするのを見て、件の青年と連れ立って来たのであろう.以前から集いに参加していた青年が立ち上がり口を開いた。
「彼れは.路傍の如来のお話に感激のあまり突然に路傍の如来へ帰依する事を決めたのでしょうが、実は.僕たちが今日伺った一番の目的は[現世利益について]でして、路傍の如来が説かれる仏教の現世利益が今ひとつ解らない処があるのです。
路傍の如来は明確に苦行を否定されて居られますが、路傍の如来の生き様はストイックな禁欲主義的な苦行の実践者そのものに見えてしまうのですが、路傍の如来が説かれる[来世の利益]については随分と理解できたつもりですが、路傍の如来は[現世利益]については.どのように説いていらっしゃるのか、是非.お教え下さい。」

路傍の如来は.その微笑みを崩さず話し始められた。
宜しい.宜しい..躊躇うことなく.率直に今.ある疑問を尋ねる事は大変大切な事だよ。
一見、当たり前なもの事.詰まらないもの事.下らないもの事.どうでもいいもの事と感じている中に貴重な宝玉が隠れていたりするものだから.無思考に思い込んではいけない。
仏教は無欲恬淡に生きよ!と説く、煩悩(究極的には存在欲)を汚穢の如く説かれるが、勘違いしてはならない、無欲.離欲とは欲望から離れる事ではなく.煩悩も渇愛(渇望)も然りである。何故なら人は皆、それら本能的な欲求により生かされているのであり、故にそれらを[生存の素因]とも言う。
もし仮に人から欲望.煩悩.渇愛などをただ取り去るのだとしたら、それは悟りに至るどころか.無気力な廃人的な存在しか残らない。
仏教の説く欲を捨てるとは昨今はやりの[断捨離]のように物や事を捨てるのではなく、捉われ.拘り.執着してしまう心を捨てる事である、そして何故.捉われ.拘り.執着してしまうのかと言えば、それは無明(無知)で暗愚で無常性.空性(物事は常ならざるもので変化生滅してゆく本質)を心が理解できないからに他ならず、無明(照らす明かりもなく)に.盲目的に手探りで何とか生きてる心を.真理(真実.現実.事実.実相)の光で灯し.暗愚な心に智慧や叡智を顕現させ.無常性.空性を理解させ.主体的な目的物と.客体的な便宜的な付随物とを明確に認識し理解させ、便宜的.客体的なものに過ぎない所有の次元の事物を所有してゆく事による短命で虚しい感覚的な快樂.喜びが、捉われ.拘り.執着する価値のないものであると、気付く事ができれは.自ずと捉われ.拘り.執着は脱落し.捨て去り離れ、堅固で安定的な平安.悦楽.静逸.歓喜が残るのだよ。

常ならず変化生滅しながら流れてゆく此の世界で.物事を錯覚して固定的に捉えようとする認識が、人間の力ではどうしようもない.この変化生滅までも受け入れる事が出来ずに
苦(ドゥッカ)を造り出して居るのだよ。死を怖れ苦しみ.病を怖れ苦しみ.老いを怖れ苦しみ.心が休まる事なく.満たされる事のない心で.安定して穏やかに在る事を知らず、却ってそれが為に寿命を縮め.病を招き.精力を失なう事も知らず、ただ永く生きれば良いというものでもないが、煩悩は只管それを願っているのだから、人知を越えた得体の知れない神や仏や怪しげな霊能力にも縋ろうとする。
昨今は、神や仏の代わりに最先端科学理論の[量子力学]に託けた.無明な人達を誑かそうと
する引き寄せの法則(昔からあるマルチ.カルトの類)が、人間の持つ盲目的な欲望と情緒に漬け込もうと画策しているようだ。
何時まで在る訳ではない[生]だから、一瞬も無駄にする事なく[生]を表現し味わい尽くす
今ある幸せに気付きさえすれば毎日を楽しく満ち足りて前向きに生きられるのに、無常を理解する事が出来ない煩悩(存在欲)や自我意識が.無明に盲目的に妄想的に幸せ.快樂.喜びを求めて感管(眼耳鼻舌身意)を彷徨わせているから、却って真の幸せ.快樂.喜びを取り逃がしているのである。それに気付く事こそが.最上の[現世の利益]である。

それを黙って聴いていた青年は、路傍の如来の話が終わったのを見計らい.話はじめた
「路傍の如来よ、世の中では財産のある金持ちや、地位や称号や名誉を.或いは権威や権力.勢力を多く持っている人が.幸せな人だと言われますが、そうではないと路傍の如来は仰るのでしょうか?」
それを聴いて居られた路傍の如来は、静かに答えられた
「地位や財産、権威や権力と幸せとは別なものである。地位や権力や権威など一時の位に過ぎない。財産や資産などは無常なものである。親.子.知人もやがて別れる定めのものであり.健康や若さも必ず老い病み変化してゆく性質のものである。
どこに幸せがあるというのだろうかそれらはやがて必ずドゥッカへと戻り行く性質のものである。ただ目を背け幸せだと錯覚しているだけに過ぎないのだよ。
自分や自分の所有物に捉われ、目的であるかの如く錯覚し、それらへ執着するからドゥッカ(苦しみ.迷い.悩み.怖れなど)が生じる。
状態.事態が変化するからこそ.そこに進歩が生まれ.向上する事が出来.味わいがあり、まさしく生きているのだと気付けば迷う事も.悩み事も.怖れる事も.苦しむ事もなくなるだろう。
私はそれらを所有しながら色々な物事で悔い.悩み.苦しみ.怖れ.心を痛め.心を空しくしている人達を多く知っている。もっと言えばそれらは.一持てば十を欲し、十持てば百持てば千を欲し、千持てば万を欲し、限りある人生を欲望にまみれて「もっとくれ~もっとくれ~」と満たされる事を知らない餓鬼の心(不満)で生きている事に他ならず、外身は豊かに見えても貧しい心で生きているのだよ。
世俗ではこれを幸せというのだろうか?
無ければ無いで楽しく生きられる人が、有れば有ったで躊躇なく正しく使えるのだよ、また無ければ無いで不満や苦しみの中に居る人は、有れば有ったでやはり苦しむものなのさ。
私は所有の次元の事物を。便宜的なもの付随物に過ぎないと言った。
例えば.お金は大切であり、お金があれば色々な物事を叶える事が出来、悦びも与えるが、それは生命を一時.永らえさせた悦びに過ぎず.不老不死を贖うなど出来ないから、悦びを得続ける為に世界中のお金を独り占めにしても叶えることなど出来ないのだよ。まして便宜的な付随物を目的物だと錯覚して大切な時間を費やしてしまう事こそ、砂上の楼閣といわれるように砂の上にせっせと楼閣を立てても.一陣の風で崩れ去る空しい物事に大切な時間を浪費していた事にほかならないから、それに気付いた人達は皆、振り返って後悔して苦しむのだよ。それはそんな所有の次元の事物に魅入られて、歴史に名を遺した人達の辞世の句に現れている物事にだろう。
間違ってはいけないよ。便宜的な付随物に過ぎないもの、例えばお金の為に(目的として)生きてはいけない。自分らしく自分の存在.可能性などを生かす道を歩いてゆけば.お金などは後から付いてくるもの、限られた時間の中で.その生き様こそが貴方なのだから。人が褒めようが.認めようが.否定しようが.毀誉褒貶に惑わされてはいけない。それらも所有の次元の事物に過ぎない。貴方の真の価値は貴方自身が知っているのだから。
精神性が上がってゆけば魅入られるものも、変わってゆくもので、低い内は所有の次元の事物に魅入られる。
精神性が上がってゆくと人格や芸術性に魅入られ、高次に入ると可能性と真理に魅入られ、更に高まると霊的な一源の全体性に魅入られる。
単なる体内の分泌物(βエンドルフィン.内在性カンナビノイド.ドーパミンなど体内麻薬物質.体内快楽物質)による生理作用に過ぎない感覚的な快楽や喜びに.魅入られ追い求めようとする依存症から目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され堅固で実存的な幸せがある事を説くのが真の仏教なのだよ。

路傍の如来の仰ったことを暫くの間.噛み締め思い返して感激したのか.その青年は目に涙を溜めながら話し始めた。
「路傍の如来が以前に語られた話を思い出しながら、今日の話しを思い返し、未だ漠然としていますが、瞑想でも得られなかった大切な扉がその固い錠前が外れ、啓き始めたような気がします。」
宜しい、宜しい、そのままその兆しが啓いてゆくよう染脳するのではなく、洗脳し叡智が顕現するよう瞑想に励みなさい。

路傍の如来は今日の説法に集って来た他の人々を見廻すと、
「他に、どなたか聞いてみたい事などをお持ちの方はいらっしゃいますか?」と皆に尋ねられた。
すると奥の方に座っていた細身の初老に差し掛かった中年の紳士が立ち上がり平身低頭して合掌をして話はじめた。
「路傍の如来よ...私は貴方にお教え頂こうと幾つかの質問を用意して、今日.出掛けて参りましたが、先程.二人の青年たちに施された.実に奥深いお話を拝聴し、私が用意してきた枝葉ような他愛ない質問などしては、今日の.この有難い説法を霞ませ如来の教えを取り損なうだけである気がします。今日の説法を胸に留めて帰り、後で良く吟味し味わいたいと思います。」
その言葉を聞いていた他の今日の説法に集まった人達も.皆、「その通り」と同じように頷いていた。

路傍の如来は皆に向かい、合掌を返すと「今日の私の話しを聴いて、皆さんが理解を示して下さったことを.心から感謝します。皆さんの依り一層の平安.繁栄.精進.進歩.活躍を祈ります、そして大いなる功徳がありますように.....」と唱えられ.低頭合掌されると、静かに踵を返すと.去って行かれた。

⭕路傍の如来の説法−1 〈晩冬の集い〉
https://bongteng.hatenablog.jp/entry/2019/08/06/103516
⭕路傍の如来の説法ー2 〈初夏の集い〉
https://bongteng.hatenablog.jp/entry/2019/08/06/123135
⭕路傍の如来の説法ー3〈秋口の集い〉
https://bongteng.hatenablog.jp/entry/2019/08/06/164411
⭕路傍の如来の説法ー4〈顕貴の集い〉
https://bongteng.hatenablog.jp/entry/2019/08/06/165356
●ドゥッカの定義(生きる苦しみ)
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.迷い.哀しさ.悔い.怖さ.心痛.恨み.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.実質のなさ.惨めさ.無常さ.不満.無明さ.欲望など…
●所有の次元の事物(便宜的.客体への欲望)
お金.財産.物財.地位.名誉.称号.権威.権力.勢力.家族.承認.理解.若さ.健康.寿命.…)

路傍の如来の説法−5〈残暑の頃の集い①〉

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上野の森の木々も隙間を塞がんとするが如く精一杯に繁り.まだその勢いの衰えを見せぬ日差しは大地を焦がすが如く照り付け.時折り吹いてくる涼風が仏衣の裾を揺らし、行く夏を惜しむかの如く鳴き交わす蝉の声に.秋の足音を感じる残暑の頃、人々は別段に示し合わす事もなく再び導かれるように集まってきた。上野駅の不忍口を出ると.いつもと同じように辻に立たれる[路傍の如来]を拝し.その湧き上る歓喜を抑えつつ近づき低頭合掌し.路傍の如来の持鉢に僅かな施与をすると.路傍の如来が微笑み指し示す空地へと右回りに移動して路傍の如来が行を上げられるのをお待ちした。
昨晩降り続いた雨の湿気で蒸し暑さを感じながら、皆それぞれに前の集いを思い返しながら前の集いからの気付きや疑問やその間に出現した問題を振り返っていた。中には人伝てに今回初めて来た者や友人に連れられて今回初めて来た者も多く、不思議な縁に導かれて今回初めて訪れた者達も前回に増して訪れ路傍の如来の説法を聞き逃すまいと前回の集いより更に多くの人達が集まっていたが、それぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と蝉の声しか聞こえなかった
太陽が天中を過ぎたころ、路傍の如来は顔前でゆったりと鈴(りん)を三度打たれた。
高く鋭い音が空気を引き締め.空間を浄めるが如く、人々の胸に染み入った。
路傍の如来は、低頭合掌され人々の平安と幸せを祈る願文を唱えられると、集まった人々の元へと歩を進められた。

集まった人々の元に立たれると路傍の如来は.人々に向かって何も仰らずに.ただ微笑まれていた。
すると待ちきれなかったのか.我れ先にとばかりに一人の青年が立ち上がると.直ら路傍の如来に話しかけた。
「私は今日初めて友人に誘われて集いに参加させて頂く佐藤と言うものです。
我が家は父母を始め家族全員が.ある仏教系の宗教組織の信者ですが、その教団で指導される仏教の教えと.友人から伝え聴いた仏教の教えとが.どうしても一致せず、其々は幸せ.安心.安全.成長という同じものを説いている筈なのに、まるで違う宗教としか思えないほど違っていて.同じお釈迦様が説かれた教えとは思えない位なのですが、それは[現世の利益]の追求か[来世の利益]の追求かというような違いなのでしょうか?
路傍の如来よ、どうぞお教え下さい。」

その青年の話を、お聞きになられていた路傍の如来は静かに話し始めた。
疑問を持つのはよいことだ。
疑問を疑問のままにしていては.先には進むことなど出来ないのだから。
疑いは真理を明確に理解し.精神的に進歩する為の妨げになると言われるが.疑心暗鬼に陥る事は得るべき物も得る事が出来なくなるしかし疑問.躊躇い.戸惑いがある限り進歩する事は出来ず、物事が理解.得心がいかず.物事が明晰に見る事が出来ない限り疑問が残るのは当然である。
どうでもいい物事、詰まらない物事、下らない物事に構けている暇があったら、疑問は放置せず無くしてゆくことが肝心であり、真実へ向かう為には絶対に不可欠なものだとも言えよう。
疑わずに.ただ信じるとは、本当は物事が見えていないという事である
ただ信じるとは無思考に.盲目的に追従する事に他ならない
真実が見えた瞬間には[信じる]とは存在せず.信じるも信じないもなく、[事実.真実]が在るだけなのだ
如来は[真理]を説くものであり、信仰とは[情緒的]なものである。信仰と仏法とは本質的には真逆な性質のものである。
故に仏法を学ぼうと信仰に触れる者は、何やら違うと面食らい、信仰に縋ろうと仏法に触れる者は、何やら違うと面食らうのだよ。
人は情緒に偏る事なく.真理(論理)にも偏る事なく.情緒と真理(論理)とを超越した処(中道)にあれ…
では如来や僧侶が何故、出世であり俗世ではないのだろうか?
如来や僧侶とは、人々を正しい方向と導く道標であり、苦(ドゥッカ)から離れる方向へと導く道標であり、真に幸せな方向へと導く道標であり、自らが実践によりその目的地を知っているから人々を導くことが出来る導師であり、[知識]とは喩えるならば[次の角を右に曲がって、次の次の交差点を左に曲がって、100m先に風呂屋がある]という伝聞しただけの情報を披露しているようなものに過ぎず、本当にそこに風呂屋があるかどうか実は解らないのに根拠もなく.もっともらしく主張しているだけの無責任なものに他ならず、自分が理解できない単なる知識を.人様に説いても本当に正しい方向へ導いているのか疑わしいもので、却って他人様を惑わしたり.間違った方向へ誘導してしまうものなので、仏教ではこれを[プラパンチャ・単なる知識.戯れ言.能書き.綺麗事]と言い、固く戒めてもいる。故に、自らの実践の中に目覚め.覚醒し.乗り越え.超越し.捨て去り.捨離し、解き放たれ.解放される[出世]の道を歩くのだよ。 単なる知識を集めて論理的に語るだけだったら.俗世の教師や.学者や.気の利いた小利口な者のほうが遥かに優れているかもしれない、だから俗世には得体のしれないもの.無責任なもの.眉唾で怪しげなもの.作意的で染脳的(洗脳)なもの.単なる推測にすぎないもので溢れ返っていて.多くの人々が翻弄されている…
情緒に偏ろうとするのは人間のもつ本質的な不安定性(ドゥッカ・生きる苦しみ.恐怖.不安.不完全さ.無常さ.無明さ.空しさ…)から、安全.安心.守護.恩恵を渇望し.何かしら依存する[拠り処]を必要とするからであるが、それらは飽くまでも心情的.感覚的.感情的.主観的.盲目的な虚妄であり.それは真理(真実.事実.現実.実相)への方向性とは真逆な性質のものである

路傍の如来の仰ることに合点がいかなかったのか.青年は重ねて話し始めた。
「路傍の如来のお話は.私には実に曖昧に聴こえます。結局は路傍の如来の説かれる仏教と.私が学んでいる仏教と.どちらが正しくて.どちらが間違っていると仰るのですか?」
路傍の如来は.青年に微笑まれながら仰った
どちらが正しく.どちらが間違っているという話は不毛である。
如来が説いているのは幸せへの道であり、それは正邪を争う論争でも. 衒学的な単なる論理や推論に過ぎない形而上学的なものや.歴史.伝統.文化.風説.伝聞.学説.外観や浅薄に導き出された可能性など .衒学的な単なる論理や推論に過ぎない形而上学的なものに裏打ちされた権威によってでもなく、この世に於いても.彼の世に於いても.来世においても揺るぐ事のない真理(真実.事実.現実.実相)に裏打ちされた堅固な安定性がある事を説いているのであり、情緒からも.真理(論理)からも超越した中道にこそ.真の平安.安寧.悦楽.歓喜.静逸.幸福がある事を説いているのであり、感覚的.所有的な幸せとは常ならざる変化生滅により、移り変わりドゥッカ(苦.悩み.不満.空しさ.儚さ..後悔……)へと行き着く性質のものに過ぎないのだ。
しかし世間と言うものには、事実を素直に認める性格は持ってない。
伝統的なこと.権威.信仰.迷信.先入観.文化的価値観...などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うもの…

人が自分の範疇において.何を信じ.何を拠り処とし.何を生き甲斐としようが.それは個人々々の自由なのだ
私の説のみが真実であり、他の説は劣った説であり間違ったものであると主張する事は、単なる偏りに過ぎない。この世も来世も自業自得であり、自因果応報であり、ただ心を浄め、心を磨き、心を育て、無明の闇を打ち払い、目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放される道を、如来は憐れみの心.慈悲の心により説くだけである。
路傍の如来の話を座って拝聴しいていた件の青年は少しの間を置いて.やおら立ち上がり平身低頭して合掌すると「ブッダが説かれた仏の御教えに帰依します。ブッダの説かれた仏の御教えを正しく説かれる路傍の如来に帰依します」と三度繰り返し口ずさんだ。
      

主観的思考

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釈迦尊(ブッタ)は明確にそして適切に仰った
「もし人が一切の妄想から離れる事が出来れば、人は汎ゆる苦悩から完全に解放される」

人は心のプロセス(五蘊作用)を.正しく理解しなければ.心を真に浄める事も.汎ゆる自らが造り出す苦悩(ドゥッカ)から解き放たれる事も出来ない。

先ず主観とは.内部からの汚穢な刺激(内部アーサバー)または外部からの汚穢な刺激(外部アーサバー)に対する五蘊作用によって現れているだけ。
だから状態.状況.心処により主観とは定まる処のない感情的なものに過ぎないが、人は間違い.勘違い.偏見.主観などの色付きのフィルター(色メガネ)を通して物事を見て.判断しているのである。

そんな主観を自分の本心だと錯覚して.捉われ.拘り.執着してしまうと、自分勝手で自己中心的な自我意識が妄想世界の王として君臨する事となる。(妄想は自分の思うままの空しい世界を出現させる)

つまり無思考な人とは[何も考えていない]のではなく、煩悩(存在欲)に促された感情的.主観的.自我意識で何時もゴチャゴチャと雑念していたり妄想しているが.知性的(理性的.客観的)な思考をしてない人を指すのであり、[何も考えない]という無念無想へ向かう高度な思考制御とは真逆な性質のものである事も理解せず「私は何時も何かしら考えているから無思考な人間とは違う」などと勘違いしている人が悪為ある者達に染脳(洗脳)されたり誘導されたり騙されたりしているのである。

現代社会で顕著に増えている[うつ病]など統合失調症や果ては精神分裂病などは一部の遺伝的要素を有する方を除き、一般的には実直な主観的思考から妄想的思考へと深まり、そうそう思い通りには物事が運ばない多様的な社会の中で.現実を受け止められずに理想と現実とのギャップに苦しみ.現実を受け止められずに妄想世界へと逃げ込んだ[主観]が.やがて[現実]と[妄想]との識別.認知能力を喪失してゆく事により.人格を崩壊させながら深めてゆく病だと言える。
だが主観とは自分の心を形成する大切な要素でもあり、無思考に社会に翻弄され誘導されている多くの人々よりは救いがあり、要は現実を受け止める勇気と捉われ.拘り.執着から.目覚め覚醒し、乗り越え超越し、自らを縛る妄想という縄目から解き放たれ解放され、自分(人間)の能力では.どうしようもない物事は[自分(人間)の能力では.どうしようもない事]だと理解し.無明な者.愚かな者.悪意ある者が張り巡らせる罠(霊能力.予言.超能力.魔術…)に騙されない心掛けが必要である。

【中道の思考】
人類だけが具する至高な思考法である中道の思考とは[主観に偏らず][客観にも偏らず]、[主観と客観]の中道に於いて.真実を導き出すものであり、主観的な直感が案外と的を射ていたりする事も在るが.主観とは大概は感情的な分別や嫌悪などに基づいているのである

そして何故、客観的思考ばかりではなく[中道思考]が重要なのかと言えば、客観的思考は必ずしも知性的.理性的思考ではなく知識や情報に基づいているものであり、今まで社会生活をしてきて既に何時の間にか身についてしまった私というフィルターを通した.思い込み.錯覚.権威.世評.既成概念.学説.通説.常識感…などに汚染されている処も多く、決して真理(真実.事実.現実.実相)を映し出してはいない。
⭕主観に偏らず、客観にも偏らず、主観と客観とを超越した処に在る中道を見い出す

【中道思考の修養】
女性の方に多く見受けられるのが、[自分の事しか考えていない人]
そんな方が、主観的思考➡雑念(ゴチャゴチャと自分の事ばかり考えている)➡妄想を始める。
※創造は知性によって生み出され、妄想は感情によって生み出される。故に妄想世界では自分は絶対者となり、自分の意に染まぬ人間や物事は破壊の限りをつくして殲滅し.自ら心を汚し.人を欲深くさせてゆくが[現実と妄想]のギャップの中に苦しみを増してゆく。
🔵自分の事ばかり考えてる
➡十の内に一つぐらい、他の人の事を考える
➡礼儀.状況判断.気配りを育成する
➡雑念や妄想を始めたら.その都度.気付いて止める(正念は一に止まる)➡集中力
➡多様性によって成り立つ社会➡阿呆や基地外も居る
自分好みの人ばかりが居てほしいという願望が適う事は、自分を嫌う人ばかりがいる世界も適う事になる。
色々な人がいて、幸せなのです。

「お互い様」と「お陰様」

所有の次元と存在の次元

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〘所有の次元〙と〘存在の次元〙

社会は事物を所有してゆく事により垂直的(積層的)に[所有の次元]を形成し、その所有量と質を以って人間としての価値判断の尺度とする事により却って無明(無知)と盲目性を深めて行く所有の次元の事物とは.本質的には手段としての価値(付随物)に過ぎない便宜的なものであり、決して目的ではない.にも関わらず必要以上に人を執着させ貪らせ魅入らせる。

所有の次元の事物への執着により.無常.短命.一時的な感覚的幸せを得るのと.引き換えに多くのドゥッカ(不安定さ.苦.悩み.心痛.…)を生じさせている本質の.便宜的な付随物に過ぎないと見定め.自らの存在としての価値を、磨き.高め.深め.清め.育て.調えてゆく事により水平的(自我から世界)に構築されてゆく人間として[存在の次元]こそが.真の宝であり.真の価値であり.真の目的であり、その結果が輪廻へと連鎖.継続してゆくのである。

先ず、無明(無知)で生まれる人間はその不安定さ(ドゥッカ・苦)から逃れようと盲目的に安定を求めている.その第一声が[オギャー]であり、母親に抱かれて.ひとまず安定を得て眠るのである。(生きるとはこのサイクルを繰り返して行く事に他ならない。)

つまり無明の闇の中を.盲目的に生きている人間とは何かしらに依存して[拠り処]として辛うじて生きているのであって、決して自分一人が他から独立した存在として単独では生きてる訳ではなく、その不安定な本質的な不安定性を.得体の知れない妄想的な神仏や怪しげな霊力を謳う信仰を[依り処]としたり、便宜的な客体的な付随物に過ぎない[所有の次元の事物]を依り処(精神的支柱)として辛うじて.無常(常ならざる)な安定を得ているだけだから、何かしら状況.状態が変化すると又、ドゥッカ(不安定性.苦.心痛.不満……)が姿を現わすのである。

有為(変化生滅しながら流れてゆく)この世界において、条件(縁起)によって現れているだけの物事は、やはり何かしらの条件(縁起)により消滅してゆく定め(理法)であり、故に.この世界における安定的な[依り処]とは.妄想的な神仏や預言者でも[所有の次元の事物]でも観念.哲学でも信念でもなく.無為なる真理(真実.現実.事実.実相)という依り処(精神的支柱)だけである。

虚妄.信仰.妄想などの情緒的な物事へ偏り執着することなく、所有に偏り執着する事なく、欲望に偏り執着する事なく、情緒と論理(知性.理性)の中道において.人は[存在の価値]は高まり.得難き大いなる安寧を得る。

世の中の多くの人々は[所有の次元の事物]の輝きで.真実の自分を覆い隠そうと欲し.貪り.執着している。それが煩悩(渇望・存在欲)の要求により[させられて居る]ことに気付く事もない。

それは所有の次元の事物の輝きにより.自分という存在自体が光り輝いている.とさえ錯覚して、生きてる間中を[所有の次元の事物](金や財産.物欲.権威.衣装外見.地位.名誉.称号.権力.勢力.名声.信用.評判.承認.看板.健康.寿命.美.主義.主張.家柄.血筋.学歴.履歴.情報.知識…)などに捉われ、拘って生きる目的であるかのように錯覚し魅入られているが冷静にそして客観的に考えてみればそんな所有の次元の事物とは単なる客体に過ぎず生きる上の便宜的な付随物(手段)でしかなく.決して生きる主体としての目的ではなく、所有の次元の事物によって真の自分の価値が少しも高まるものではないのだが、一般社会通念上における信用力という人間にとって重要な価値判断の目安や手段でこそあるが真の価値感はその存在性により具現化するものであり、所有の次元的価値に翻弄される砂上の楼閣の如き幻想であり誤認識でしかなく、そのような所有の次元の事物という付随物を全て取り去った「裸の自分」こそが真の自分であり付随物であり錯角である我(自我意識)を捨て去った「裸の自分の輝き」こそ真実の自分という存在の輝きであり、その裸の自分の輝きを人は人間の精神性、すなわち人の質(クオリティ)人の格(レベル)境地(ステージ)度量(ラージ)と呼び、その完成された姿を無位の至高の存在とも聖者とも如来とも呼ぶのである。 

「真の満足を齎すものは足るを知る心だけ」
「月白く風清し」と古くから例えられるように、所有の次元の事物の輝きにより自らが輝いていると錯覚しながら生きるのは、実に空虚な生き方であり、そこには自分という存在的価値を微塵も見い出すことが出来ない。
月はただそこに在るが侭に白く輝いているだけで有り難い存在であり、風は在るが侭に吹いているだけで清い存在である。

人も所有の次元の事物から解き放たれた裸の自分の有り様に真価が見い出せる。      俗世とは煩悩の要求に随い所有の次元へと向かい、所有の次元の事物の質・量・力などにより勝利と敗北を競う世界であると言え、所有の質・量・力による分別により人間的価値や意義が判断される錯覚と夢幻で成り立つ或る意味では空虚な世界である。

一方、出世間(出家)とは物理的な俗世からの厭離ではなく、精神的な俗世からの厭離であり、所有の次元の事物の本質的な虚無性(空)を理性による集中力や叡智による洞察力により理解し、人を必要以上に執着させ翻弄させる煩悩(渇望・生存欲)を乗り越え(超越)目覚め(覚醒)、主体的な存在の次元の価値や意義と向かい人間としての真の価値や意義を覚り、心を清めてゆき、徳を積み、人としての質(クオリティ)を高め、人としての格(レベル)を磨き、人としての境地(ステージ)に目覚め、他の人や他の生き物への慈しみと愛と憐れみの心により利他を施してゆくのである。そこには自分も他の人間も他の生き物も同じ生命でしかなく無知(無明)な心が分別している事に気付いてゆくことでもある。   

まして所有の次元の事物とは必要量を超えた所有によって苦や不満や恐怖や報いを生じさせる儚い性質のものである事を知らず執着させ貪らせるのは煩悩(存在欲)の暴走なのである。存在の次元に向かう時、必要不可欠な量を超える所有とは、生きる意味での目的でも意味でもなく、唯、存在の次元に没入して生きる時、付いて来ただけ(特に金財として)の客体であり、負担量を増す結果を伴う事さえあり執着の種となってゆく事さえある。その所有の活かし方がその人の徳性を決めるているのであり、しかも所有の次元の輝きとは何時かは必ず消えて無くなる無常な輝きでしかなく、儚く輝く所有の次元の事物を脱ぎ捨てた時、素の自分は果たして本当に輝いている存在であるだろうか。所有の次元の事物とは本質的には客体でしかない儚い性質のものである事に気付かず翻弄され苦や悩みや恨みや怖れの種とも成り得て、今の自分を理性の目(客観的な理解認識能力)を以って観察しなければならない。客観的に在るがままの自分を観察し理解するならば、恐らく愚かで未熟で虚しく、どうでもいい物事やつまらない物事や下らない物事に捉われたり拘ったり執着してしまう存在でしかなく、そこには整合性のない無数の自分という存在が居る事に気付くだろう。人は本来「天上天下唯我独尊」な存在であり大宇宙の関係性の中に於いて必然として生じた唯一無二なる存在であり、この時空において他のものを以って変える事が出来ない掛替えのない尊い存在であるのだが、煩悩(存在欲)の衝動に主導され「所有の次元」の事物に翻弄され魅入られ誑かされて自らその存在価値を貶めてゆくのである。

そんな自ら色々な物事に自縛されている自分を発見できない人が居るとすればそれは自我(エゴ)が深まり主観的で感情的に捏造された自分像を打ち破り客観的に観察する事が出来ない高慢か愚かな人間か、或いは既に覚り得て居る人のどちらかだろう。何故なら仏道とはそんな今の自分に気付く処から始まるものなのであり、己の愚を知る者こそ賢者なりて、ただ闇雲に知識や能力を所有してゆく無明な道ではなく、一つ一つ捨ててゆく道(捨て去りしものは無くならない道)であり、捨て去りし安堵が平安を生じさせ、智慧の顕現により徳心が育まれ寛大な心が慈悲を生じさせてゆくのだから、愚かで未熟で虚しい存在だからこそ仏道を歩む事が出来るのであり、到達したとしても曇らぬように謙虚に怠らず白珪をさらに磨いてゆく存在の道なのであり、自分という存在を真に定義できたならば、この世界も定義出来るのである。

所有の次元へと向かう仏教と称するものは仏教ではなく、所有の次元へと向かう聖人と称する者も聖人とは呼べず、所有の次元の本質を覚って存在の次元へと向かうのが仏道であり僧侶であり修行者なのであり、知識ばかりを詰め込み理論武装に余念がなく能書きや空理空論で人様を煙に巻くような輩達が世の中では勢力を誇っているが、理論が実践を包括する事など有り得ないように、そんな輩達がいくら口先三寸の巧みな弁舌で言い繕って見ても、偏った理論や誤った見解や空理空論が、実験し検証し確証の得られた事実を包括する事など出来はしないのである。

自分自身が輝いていると錯覚させる所有の次元の金や財産、権威や地位や称号、権力や勢力や看板、知識や評価や氏素性などにより人は尊く輝くのではなく、その行いにより尊く輝く存在なのだから。

物事に執着せず、無一物に勤しみ、足るを知り、世の毀誉褒貶に汚される事なく、暮らし慎ましくとも心.貧しくならず、直向に仏道(聖道)を歩む修行者を、目ある人は仏弟子と呼ぶ。

此世と彼世とが表裏一体で在るが如く、,全ての事物においても表裏一体なる所有としての次元と存在としての次元とが重なり内包しているが、その方向性は真逆なものでもあり、所有の次元へと向かう世間と存在へと向かう仏道とは真逆な方向性を目指すものであり、両極の価値観の定義の中に中道を見出すのが尊い仏教徒である。

[所有の次元]にて表象する事物には真の喜びも満足も幸せもなく[本質的な苦]が[楽(快楽)]の姿をとって一時的に現れているに過ぎない仮体でしかなく.人を誑かし.魅入らせる短命な[楽(快楽)]を生じさせるが、やがては[本質的な苦]が本性を現わす性質のものでしかない

全ての現象が[本質的な苦]を前提として存在するならば、苦を前提として楽が存在する事に気付くだろう。楽を味わうために苦は存在し、苦を味わう為に苦が存在するのであれば、苦の負担量を物差しとし[楽の種]と成すならば、全ての諸行は[楽(快楽)]へと向かい、[苦楽の中道]において安定的な安寧を得るのである。

「存在の次元」に真の喜びや満足や幸せを発見する者は、在るがままに幸せである。

しかし本能的な渇きの衝動により生じている煩悩(存在欲)の盲目的な意思による感覚や感情を自分の心だと錯覚する者は気付けないのである。

煩悩(存在欲)の衝動を自分の心だと錯覚している者には、すべての物事が所有の次元に於いての価値観として映り、存在欲を制御した者には、すべての物事が存在の次元に於ける価値観であると観るのである。

「所有」か「存在」か。これは生きる上に於ける基本的な選択肢であり、「所有の次元」では何かを自分の所有物として占有する事こそが重要な事であるとも考えられ、金財・経験・地位・名誉・名声・知識・評価・権力・勢力など凡そ欲し執着する対象物に対し、それらを量的に豊かに所有すればするほど、幸福度が増すと考えられていて、所有物次第で人間の価値観も決まるが如く、崇拝と信仰にも似た虚像と幻影の次元でもある。

古来から人は皆、幸せになりたくて幸せを求めて生きてきました。そしてその為に所有の次元の事物(金財・物欲・地位・名誉・権力・勢力・評価・権威など)が、それを叶えてくれると錯覚し、今日の物質文明を築いてきましたが、便利になった事は事実ですが、では本当に人々が幸せになれたのかは疑問であり、却って苦しむ人・悩める人・悲しむ人・迷う人・戸惑う人・充ち足りない人を増やして来たのではないでしょうか。

所有の次元の事物では人は幸せにはなれない事は、既に2500年も昔にお釈迦様により、解き明かされている事柄なのですが、主観的な自我(エゴ)に基づいた執着や欲や貪りを奨励し扇動し洗脳(染脳)し主導してきた物質文明は真逆な論理や倒錯的な観念を植え付け発展して来た事実は否定できず、それが為に世界には争い・戦争・惨禍・破壊・殺戮・蹂躙・差別などが絶える事なく続いて、それを愛だ平和だ幸福だ進歩だ共存だ友好だ建設だ発展だと美辞麗句を並べ立てて覆い隠し錯覚させ幻惑させているのではないでしょうか。

「私」を顕示する時「私が持っているもの」こそが「私」であるというが如くなのがこの次元における基本原則ともなっている。
しかし所有物を増すことへの執着は、必然的にその当人に貪り、不安、差別感、孤独、空虚感などをもたらす、失うことを恐れる事なく、安心して所有することが出来るものなど、この無常なる世には存在しないからである。

[所有の次元]であるのか[存在の次元]であるのかを認識させるものが[主体・客体]である。  所有は所有者(主体)と所有物(客体)との間に主客の逆転を生み出すので、所有物に重きを置けば置くほど所有者の「存在」は空虚で主体であった筈の自分がいつの間にか客体化していってしまう。所有物というものが生きる上での単なる手段であったものが、それらに頼って生きている存在(客体)と成り果て、若し喪失した時には狼狽したり正常を失ったり苦と不満の中に身を置く破目へと陥ったりする。それは人間の本質とは[不安定]なものであるからである。 何かしらの物や事などに執着し頼って生きているという事は、言い換えればそれらの物や事により辛うじて安定を保っている状態でしかなく、もしそれらを失った時には本来的な不安定な状態へと戻ってしまう[無明]で[盲目的]である事に気付くのである。

人は物や事へ執着する事により安定や幸福を得ようと必死なのだが、そんな物事では真の安定も幸福も得ることなど出来ないで却って苦や悩みや不満を造りだしているのではなかろうか。

「光陰矢の如し」と言われるように人の一生とは実に短いものなのでありウカウカしていればいつの間にか老い病気や死がどんどん現実問題となってゆく儚い存在なのである。普段「所有」の次元の中で必死に生きている人間には、外にそれとは異質の「存在」の次元が在ることに気付かず又、気付こうともしないが、臨終が近付き人生を振り返った時に「存在の次元」に気付き「所有の次元」に於いて人生を使い果たし「存在の次元」に生きる事も味わう事もなかった自分の人生に後悔を覚えるものだとも言われる。

当たり前な話が通用しない不条理こそが「所有」の次元でもある、例えば彼岸へと持って行けない物事を必死に一生を費やして「所有」に励み、却って苦や悩みを造りだす、「楽しく暮らしても一生、悩み苦しんで暮らしても一生、泣いて暮らしても怒って暮らしても一生。」であるならば「楽しく平安に暮らす一生」こそが最良な一生なのでは有るまいか。しかし「所有」の次元では、決して「安定的な悦楽」など得ることは出来ないのである。

執着を断じ現象を在るがままに眺め、生きる修行者は「所有」ではなく「存在」に基づく全く新しい生き方の実践見本である。

「愚かなる者は日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいるが、それは本当の美味なるものに気付かずに、雑草を旨い旨いと食べているようなものである。彼らの満足は真理を実践によって識る智者のそれとは比ぶべくもない。例えば命は素晴らしいものであり、生きていること自体が最高の快楽である。智者はこの当たり前の事を死に直面せずとも知ってるが、凡夫ときたら幻想に過ぎない名利のために大事な命を削り命の本当の意味を捻じ曲げているのである」

自分というものの主体とは「存在」であり「所有」はあくまでも客体であらねばならず「手段」であって「目的」ではないのである。

生物の主体は[命]であり客体は[存在欲]である。そして理性(客観的理解判断能力)を発達させた人間の主体は[存在]であり.客体が[感覚.感情]なのである。ここが人間をして人間足らしめる分岐点なのであり人間の姿形をした阿修羅や畜生や餓鬼さえも存在している所縁でもある。

[所有か存在]かの認識は[主体か客体]の自覚であり、それらは欲望の主導により[所有の次元]へと向かおうとする[煩悩]と、[存在の次元]へと向かおうとする知性.理性(客観的理解判断能力)との[主体・客体]による方向性なのであり、[主体・客体]の分別の解体により、[所有の次元]は解体し、[所有の次元]の分別の解体により、[自我意識]の分別が解体してゆけば、[存在の次元]への執着さえも解体してゆく。 [所有・存在][主体・客体][自我]による分別.渇愛の解体こそが涅槃(ニルヴァーナ)なのです。

「所有の次元」へと向かおうとする感情を無常で空しく非我であると確かに識って「存在の次元」へと向かう時、心は次第に解き放たれてゆき、涅槃という悦楽なる平安へと至るだろう。

言い換えるならば「所有の次元」とは両極的判断により成り立っていて「豊か・貧しい」「良い・悪い」「好き・嫌い」「多い・少ない」「優・劣」「苦・楽」など本質的には一如なる現象に対し、立場、環境、時間、状態、心境などにより二極分化して捉える事により、一時的な喜びを「喜び」と錯覚し一喜一憂したり多くの苦や不満の中を流れたりしている次元なのであり、貧富も良悪も好嫌も多少も優劣も苦楽さえもが物事の裏表であり本能的な存在欲の翻弄されているだけに過ぎず「良い時もあれば悪い時もあり」「豊かと感じるも貧しいと感じるも唯、比較の問題」であり「苦楽も本質的な苦が楽として現われているか苦に戻ってしまったか」の問題だけなのである。    
「物事を当たり前(当然)とぞ定むれば、悩みは滅し、苦は生ぜず」

「存在の次元」とは瞬間的判断の連鎖であり、今という瞬間に没入して生きる時、立場・環境・時間・状態・心境(感情や感覚)などに翻弄されることなく、今という瞬間の存在を感じ取り味わう感性により、存在とは当然に存在している訳ではなく、移ろいゆく我れと移ろいゆく時空との暫定的な出会いの上での生起・不生起の因縁の上に生かされている存在である事に気付く事により一切に有難く感謝することが出来る次元だと言えよう。
「物事を 当たり前(当然)とぞ定むれば 有難味なく 感謝は生ぜず。」

修行者となる「出家(出世間)」の本来の意味の「出家」とはこの様な「所有の次元から存在の次元への極端な転換」の事を言うのであって、それは「豊かに持つために生きる」のではなく「豊かに存在するために生きる」という人生の意味や目的の根本的な転換なのである。

「所有の次元」から「存在の次元」へと転換してゆく時、結果として自ずと「無一物」へと向かうのである。

その時には生活の一切。全体が修行となるのである。
僧侶で在りながら.修行者で在りながら[所有の次元]を彷徨う輩は生臭く胡散臭いのである。 お釈迦様の在世当時と比べても、約百年位前と比べても我々は[豊かな社会]に生きている。
しかし苦や不満や悩みは減っていないばかりか益々増えてしまって多くの現代人は大きな負担の中で生きている。

そしてこれ程までに弱者.老人.病人.死者.修行者が大衆の眼や意識から巧妙に隠され社会から軽視され疎んじられた時代があっただろうか

私なども日々、修行中(托鉢・辻立ち)に愚者から蹴られたり罵られたりもするし、偏向した仏教団体信者などからは悪態や罵詈雑言や罰当たりと唾をかけられたりするが、これらも現象に捉われず忍耐と堪忍とを養う修行徳目とも成りえて有難い次第ではあるが。

世の愚か者は今やるべき物事を明日に延ばし、先延ばししても足りるような物事を今やらねば不覚を取るが如く振舞う、これは主体が感情に在り、理性による「存在」が客体に在するからに他ならない
仏教的意識とは「所有という方向性」の延長ではなく「存在という方向性」への目覚めに関わるものであるとするなら、現代はまさに仏道を歩まんとする者や「宗教」というものにとっては危機の時代でもあろう。しかし豊かになった現代社会において豊かになった事により苦しみや悩みや迷いや渇きが減る処か却って増加して来ているのであれば、仏道や宗教(人倫・道徳・真理を説くもの)というものは寧ろ今こそ必要なのではなかろうか。

お釈迦様は仰った。

俗世の利益を目指すのも一つの道  (所有の次元へと向かう道)

彼岸を目指すのも一つの道     (存在の次元へと向かう道)

だが仏を師と仰ぐ仏弟子たちよ。汝らは俗世の利益を貪り、執着してはいけない。貪欲のその道(所有の次元)から遠去かれ。

寿命が永かろうがと短かろうと我々は今という時を生きるしかない

世界が如何に広大であろうと今.立っているこの場所に立つしかない

世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない

過去、現在、未来を同時に生きる事も、此処と其処に同時に立つことも、出来ないのだから。ならば我々はただ一つしかない身体でどうして二つの道を歩めるだろう。ましてこの二つの道が向かう先は正反対なのだから。

思考や自我を持つ人間に生まれれば「私」の快楽を求めるのは自然な事である。

しかし自分にとって本当に大切な事.とこしえの悦楽とは何だろうか

それが解らない内は「私」の利を貪り、刺激を求め「私」の欲望を満たす事ばかり考えている

「外なる快楽の追求こそが、苦悩の素因である。」

快楽を手に入れても満足は得られない。更なる欲望が芽生え際限がないのだから。

永遠に色褪せる事のない悦楽は心の充足からしか得られない

俗世の利益を追うも一つの道     (所有の次元へ向かう道)

内なるとこしえの悦楽を追うも一つの道(存在の次元へ向かう道)

此の岸で俗世間の利益を追うものを凡夫といい、心の真の充足を求めて彼の岸に向かう者を修行者という。

お釈迦様は仰った。

「俗世の利得を目指すのも一つの道、涅槃を目指すのも一つの道。

だが如来を師とする仏弟子たちよ汝らは俗世の利得を貪ってはならぬ

貪欲のその道から遠去かれ。

寿命が永かろうと短かろうと我々は今この時を生きるしかないのだ

世界が如何に広大であろうと今.立っているこの場所に立つしかない

世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない

ひとつは「所有の次元への道」もうひとつは「存在の次元への道」

「所有の次元を彷徨う者、神仏を拝みたりても唱えたりても、心は名利を拝みたるに気付かず、存在の次元を見出す者、拝むことなく唱えることもなく唯、感謝と悦楽と平安の上に甘露を味わう。」

仏教は超.現実主義

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真の仏教を理解する上で、先ず必要であるのが.お釈迦さまは現実主義者で在られたという事ではないでしょうか…
現代でも多く見受けられますが、お釈迦さま在世.当時は無明と迷信が溢れ返り、中でもバラモン教という得体の知れない神仏への信仰が.権威と歴史を以って人々に服従を強いていた時代であり、そんな無明な闇の中を盲目的に.不安定に生きる民衆とバラモンと支配階級に、慈悲と憐れみの心を以って、目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放される事により誰でもが到達できる歓喜と平安と静逸な安定的で堅固な超現実的な世界の存在と其処に至る道を唯一説かれた偉大な教えなのです…
そんな基本的な事さえ理解する事も受け入れる事も出来ないような妄想的.神秘主義や虚妄な不思議世界を愛する大衆に.真理を理解する事が出来ず.真理を施す事もなく.あまつさえ.諂らい.迎合していった者達の手により.真理(真実.現実.事実.実相)を説く純粋で頂乗な仏教は歪められて来たのが現実である。
先ず、ヨガ(瞑想法)の指導者であったアーラーラ・カーラーマやウッダカ.ラーマプッタの元で瞑想の修行をなされていた.お釈迦様が何故.彼らの元を離れて単独での修行に入られたのかについて[彼らの指導する瞑想法では.自らが追求する真理(苦の滅却)を得る事は出来ない]ことを覚られたからだと説かれていますが、では[彼らの瞑想で得られる物とは何?][お釈迦様が追求なされた絶対真理とは何?]という重要な処が今ひとつ曖昧模糊なのです
○基本的にはヨガ.瞑想.禅那禅.禅定.座禅.立禅.止観.観照.内観.内々観などの方向性は全て一緒であり、方法.作法などに依って分類されている(※中には第三の目.超能力などの獲得を目指すカルト的なものもある)

[彼らの瞑想で得られる物とは何?]
お釈迦様が到達された叡智による真理の顕現→涅槃(ニルヴァーナ→自在な光の一滴→一源のエネルギー→安定世界・彼岸)には到達しない.瞑想による.軽安.多幸感.開放感.恍惚感をもたらす禅那(ジャーナ)や高度な精神的次元による鎮静や不思議体験(臨死体験.死者.精霊.悪魔などとの遭遇)も、瞑想の価値や意義は高く称賛.奨励されながらも現実主義であられるお釈迦様は、それらが潜在欲に発する五蘊作用(絶えず移ろい変化する肉体的.心的エネルギーの結合に過ぎない自分を形成している五集合要素)に過ぎず、それらへの執着こそ、ドゥッカ(苦.不安定さ.空しさ…)であると喝破され、独覚の道を歩まれた。
※条件(縁起)により生起するものは.条件により消滅する性質のものであり、ドゥッカである。 ※五集合要素はドゥッカである。

[お釈迦様が追求なされた絶対真理とは何?]
ドゥッカ(不安定性…)を本性とし、変化生滅しているこの世界では反極的に現れるスカ(快感.喜び.幸せ感.安心感など…)の現象的感覚に.拘り.捉われ.執着し、それが永遠的な生への捉われ.拘り.執着を形成し、この世界へ繋ぎ留めている。
それらの欲望を抑制し、この世に繋ぎ留めようとするエネルギーの生成を阻めば、在るがままに在る平安な故郷へと戻る事が出来る事を高度で深淵な直感知により発見された(法)

そして[苦行の無益.害悪とは何?]
私なども修行中に「大変ですね」などと.お声を掛けられる事があり、仏道修行=苦行だと勘違いされている向きは否めないが、「仏道修行とは、悦楽の中に智慧の悟りを顕現させてゆく」ものである。しかし誤解され[易きに流れてもいい]という事でもなく、苦(ドゥッカ)の本質を見定める為の.体験としての苦行が存在する事は否めないが、苦行の中には悟りも.真理も.涅槃もないことに気付かねばならないのだが、無明な人から見ると.厳しく.辛く.苦しい.苦行の中に高度な境地が在るだろうと錯覚し、苦行者を讃える向きさえあるが、それは自戒.忍辱.忍耐などを穿き違えて解釈しているに過ぎないのです。
苦行者には.心の安らぎを得ることは出来ないからであり、それは苦行者は.心の根本的な反応である[貪(欲望)]と[瞋(怒り)]と[痴(不満・無知)]という三毒に依存して成り立つものであり、貪瞋痴という三毒が無くてはならない欠かす事が出来ないものとして、苦行者は生きているものなのです。ですから、苦行という修行は無駄で無益で害悪な行為なのです。
●仏教とは量子力学的思考
有るに偏らず、また無いにも偏らず、
苦に偏らず、また楽にも偏る事なく、
断見に偏らず、また常見にも偏る事なく、
両極の[重ね合わせ]の中道に平安は訪れる
両極の[重ね合わせ]の中道に深淵なる真理は顕現する
中道とは超越であり、両極を以って一を知る
両極ありて、安定もあり。
多々方 路傍石
初転法輪
甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け
比丘等よ、世に二邊あり、出家者は親近すべからず。何をか二邊と為すや。
一に諸欲に愛欲貧著を事とするは下劣、卑賤にして凡夫の所業なり、賢聖に非ず、無義相應なり。
二に自ら煩苦を事とするは苦にして賢聖に非ず、無義相應なり。
比丘等よ、如来は此二邊を捨てゝ中道を現等覺せり、此、眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覺、涅槃に資するなり。
(日本語;参考現代語)
比丘たちよ、世の中には二つの極端がある。出家者はそれに近づいてはならない。何が二つの極端なのか。
一つめは、欲と愛欲や貪欲をよしとすることで、これらは下劣かつ卑賤、つまらぬ人間のやることで、無意味で無益である。
二つめは、自分に苦難を味合わせることは、苦痛であり、無意味で無益である。
比丘たちよ、如来はこの二つの極端を捨て、中道を認知したのである。
それこそが、観る眼を生じ.叡智を得.證智をもち、定(サマーディ)涅槃に至る道である。

仏道は犀角独歩に歩むもの

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【甘露の門は開かれたり.耳ある者は聞け】
仏道は犀角独歩に歩むもの
立ちたいと欲して立て、座りたいと欲して座れ、歩きたいと欲して歩け、走りたいと欲して走れ、眠りたいと欲して眠れ
世界は[意志と表象としての世界]であり、心の底から湧き上がる内発的な欲求を行為の動機とする悪しくない意志の具現こそが顕貴(ときめく)ような喜びや幸せへの方向であり.善因であり.甘露なる善果を得る道なのです
しかし未熟.愚か.怠惰.意志の弱い.無責任.自我なものたちは、易きに流れ.感覚に誑かされるものであり.その為の戒であり.律である.戒律を軽ろんじ.自惚れ.嘯く.寝呆けた者には金剛たる成仏はなし。

⭕自灯明と法灯明
如来の御姿(偶像)を拠り処とするなかれ.如来の説きし真理(法)を堅固で甘美な拠り処とし、自らを冷徹峻厳(客観的)によく眺め.分析し.思惟し.検証し.自らをよく理解し.煩悩(存在欲)や自我を制し.理性(知性)を心の真の主人となしたる時、人は得難き安寧を得る。

ランナーズハイと涅槃(ニルヴァーナ)
全ては六根(眼耳鼻舌身意)への六竟(色音香味触法)による刺激に対する五蘊作用(色受想行意)により、心象(概念)として投映された自分(自我)を通した虚像を現実だと[錯覚]し.[世界]だと誤認し思い込んでいるだけであり、その刻々の[時間的状況]と[空間的状態]による.体内分泌物質による作用としての感覚的現象(反応)に翻弄され 、日々.六世界(地獄界.餓鬼界.畜生界.修羅界.人界.天界)を彷徨っているのである。
※生物は寿命が尽き.往生(諦め)する瞬間には.多幸感.安心感.喜び.恍惚感などをもたらす体内麻薬物質(βエンドルフィン.内在性カンナビノイド)が分泌されるという.草食動物が肉食動物から逃げ切れず捕獲された時などにも分泌される作用でもあり、無明(本質的無知.思い込み)を打ち破り.無常性を理解して.自我意識と煩悩(存在欲)によるドゥッカ(苦.不満.不安定さ……)を受け入れ(諦観)、無明な拘り.自我意識や存在欲によるドゥッカへの嫌悪.逃避衝動を捨て去り捨離し.乗り越え覚醒し.解き放たれ解放された瞬間に分泌される。
ランナーズハイも涅槃(ニルヴァーナ)も同質の作用だとも言え、その甘露さは比ぶべきもないが、ある意味.凡俗でも涅槃(ニルヴァーナ)を疑似体現する事は出来るのであるが、哀しいかな人は走り続ける訳にも行かず、薬物に頼れば心身を蝕み.信仰に縋れば騙される.のが落ちなのではある。重ねて決して体内麻薬依存症(体内麻薬患者)になって走り続けたり、薬物依存症になって人生を棒にふったり、妄想的な神仏や偏った信仰に嵌り大切な時間と金銭を無駄に費やさない事を願っている・・・笑

●行為に集中すれば自我は消え、欲を制すれば煩悩は制され、変化生滅を受け入れればドゥッカ(苦.心痛.悔い.哀しみ.儚さ..…)は歓びの種となる。
※人を無明.暗愚に留めるもの
先入観.思い込み.思い違い.権威.世評.歴史.伝統.習俗.錯覚.固定観念.既成概念.迷信.虚妄.通説.染脳(洗脳).主観.自我.偏向情報.捏造知識…

⭕生体分泌物質(体内快楽.麻薬物質)
極限的爽快感.多幸感.静逸.安寧.愉悦.歓喜.充実感.達成感.満足感など生体分泌される[体内麻薬物質]
βエンドルフィン.内在性カンナビノイド.ドーパミン.........

⭕心の真の本当の主人を識る
※至高な存在(人間) <主人>
[理性.知性.無我.客観的な認識.識別能力]
※生物(動物)的な本能 <従者>
[煩悩.自我.妄想.主観的な認識.識別能力]
※生存の素因(存在欲)の煩悩的な欲望(渇愛)
※叡智に基づいた意欲と無執着
多くの人は[従者]を主人(私)だと勘違いして煩悩に主導されている。
感覚的.感情的.主観的に、便宜的.一時的手段.付随的に過ぎない[所有の次元の事物]を目的物だと錯覚して魅入られてしまう
知性(理性)により.煩悩(存在欲)に打ち勝ち、制御コントロール(従者化)した.存在の次元の勝者は、虚妄を捨て去り.真理に目覚め覚醒し.自我を乗り越え超越し.軛(くびき)を解き放ち解放され.連鎖継続の因縁(輪廻)を形成させているエネルギー(渇愛・存在への執着)を失なう

⭕条件による生滅(縁起)
迷いの片鱗さえないような如何に高度に調えられたヨガ.観照(ビッパサナー瞑想).止観(サマタ瞑想)であろうと、条件により生起し.条件により消滅する(縁起)に過ぎず、涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係であると言え「悟りしと.山を下りれば.唯の豚」と喩えられる如く.本質的にはドゥッカ(不安定.不完全.苦.空虚.怖れ...)に他ならず、真理を得る為に捨てるべきものを.第三の目とか無識界入境とか超越的能力の顕現だとか[獲得]を目的とした所有の次元の事物(即ちドゥッカ)を欲する煩悩(存在欲)から解き放たれはしない。
解放は自らの努力と精進による[叡智]の顕現によって為される。

⭕立てよ座れ  立禅
お釈迦さまは偶々、座禅の時に悟られたのであり、座禅により悟られた訳ではなく.立ちて励み.歩いて励み.座して励み.臥して励まれたから堅固なる涅槃界(ニルヴァーナ)へと到達されたのである。

胎蔵界金剛界
穿った見方をすれば[金剛界胎蔵界]は、[梵我一如]を別の角度から説かれたものであり.それをバラモン教列のマントラ神秘主義派が其々の経典と曼荼羅として編纂され梵我一如から離れた思想となり、チベットを経て中国に渡り恵果阿闍梨が各界を両界とし真言密教を興し、日本に持ち帰った弘法大師空海が九会を一幅に纏めて[本質]を捉え難いのだか、その意味する処は[梵我一如]であり、一源のエネルギー(梵)が生命体(多様体・マニフォールド・離合集散)として集合して母体に胎蔵され胎蔵界(我・生命.心的時空)を形成してゆく様を表現しているのが胎蔵界曼荼羅であり、生命体(人間.我)が真理を顕現させ.形成された次元を消滅させ.解き放たれて.金剛界(天界.彼岸)へと離散(マニフォールド)してゆき一源のエネルギーへと戻る様を表現しているのが金剛界曼荼羅であり、生への執着(渇愛)を断ち切れない者は.この世界(此岸)の淵を彷徨った後、その業(カルマ・形成力)に遵って輪廻(連鎖.継続)の激流を流れてゆく。

⭕梵我一如
この世界(現象世界)は、途方もなく膨大な一源のエネルギー(梵)の連鎖する流動なのです
一源のエネルギーの安定(空性)した世界(彼岸)に生じた一点の揺らぎ(不安定性)の安定化運動として膨張.拡大.発展.進化.加速により大宇宙は存在しているのです。
無色(非物質・空)の一源のエネルギーの一部(約30%)が色化(物質化)し、その色化(物質化)した一源のエネルギーが離合集散(マニホールド)して素粒子を形成し、素粒子が離合集散(マニホールド)して原子を形成し、原子(陽子.中性子.電子)が離合集散(マニホールド)して分子を形成し、分子が離合集散(マニホールド)して物質を形成し、物質の一形態が進化して生命へとなるのですが、知的生命体とは物質的要素のみにて形成されるものではなく、物質的要素に生じた次元的形質に無色(非物質)な一源のエネルギーが心的エネルギーとして作用する事により知的生命体は形成されるのであり、物質的要素への次元形成により知的生命体(我)は存在しているのです、これが梵我一如であり、主宰的な魂により存在しているのではありません。
喩えれば、楽器(次元)が形状.変化により汎ゆる音色を奏でるように、生命の次元もその形状.変化により喩えれば、楽器(次元)が形状.変化により汎ゆる音色を奏でるように、生命の次元もその形状.変化により.生じて通過する一源のエネルギー(心的エネルギー)が汎ゆる精神性を奏でるのです。
全生命は一源であり.同一であり.汎ゆる形体として現象しているだけなのです。
原人論
形骸の色(身体)、思慮の心
無始より此のかた因縁の力の故に、
念々に生滅して、相続して窮まることなし、
水の涓々(けんけん)たるが如く、
燈の炎々たるが如し、
心身、仮に合して一に似、常に似る
凡愚.これを覚らずして.これを執って我とす
此の我を宝とするが故に、貪瞋痴などの三毒(不善処)を起こす
三毒.意を撃って、
身口を発動し一切の業(カルマ)をつくる

⭕因縁起果報
●確率的な今生に在りて、幸運を掴むも唯、確率なり
宝クジは買わねば当たらぬが.当たるも外れるも唯、確率なり
当たりて喜び、外れて悲しむ者多かれど、
災厄.不運も又、確率なれど、今日の災厄.不運に当たりし確率をを嘆く者在れど、今日の災厄.不運の確率から外れたるに、安堵.安寧する者少なし
唯、因縁起果報なり

[ 因 ][ 縁 ][ 起 ][ 果 ][ 報 ]
[善 因][ 善 縁][生 起][善 果][善 報]
[不善因][不善縁][不生起][不善果][不善報]
[悪 因][悪 縁][集 起][悪 果][悪 報]
⭕殻を打ち破る
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ
況(いわん)や朋友をや。
犀(さい)の角のようにただ独り歩め。
36.交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
37.朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
38.子や妻に対する愛著は、確かに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。
筍 (たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。39.林の中で、縛(しば)られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
41.仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
45.もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。47.われわれは実に朋友を得る幸を讃(ほ)め称える。自分より勝(すぐ)れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。52.寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
53.肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
56.貪ることなく、詐(いつわ)ることなく、渇望することなく、見せかけで覆(おお)うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
57.義ならざるものを見て邪曲(じゃきょく)にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽(ふけ)って怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
58.学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。
59.世の中の遊戯や娯楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
60.妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。63.俯(ふ)して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
65.諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
67.以前に経験した楽しみと苦しみを擲(なげう)ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
68.最高の目的を達成するために努力策励(さくれい)し、こころが怯(ひる)むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
69.独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
70.妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
73.慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
74.貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
75.今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

感覚的享楽

感覚的享楽
⭕魅惑し.魅力し.享楽を生じさせるもの事
⭕悪い結果.状況の変化.飽き.別離によるドゥッカ(苦.悩み.心痛.不安定さ.儚さ.不満……)
⭕自由あるいは解放
悲観的でも楽観的でも刹那的にでもなく、人生の享楽を.その痛みと悲しみと空しさ、そしてそれらからの解放を含めて、完全に.冷徹に.客観的に理解する事により、初めて真の自由は得られる。
⭕修行者あるいはバラモンが[感覚的喜び]による享楽を[享楽]として、自らの心が[感覚的喜び]によって真に満たされない事を、真に満たされない事として.そうした[感覚的喜び]による欲望や執着からの解放を[解放]として.客観的に理解しなければ、自身が[感覚的喜び]による欲望や執着から真に解放され、他の人を教え[感覚的喜び]による欲望や執着を完全に理解させる事は不可能である。
修行者あるいはバラモンが、[感覚的喜びによる享楽を[享楽]として.自らの心が真に満たされない事を、[心が真に満たされない事]として、そうした事からの解放を[解放]として.客観的に完全に理解したならば、その時に初めて自身が[感覚的喜び]による欲望を明確に理解し、他の人を教え[感覚的喜び]による欲望や執着の無常さや空しさを.完全に理解させる事ができる。
⭕煩悩(生存の素因.存在欲)の要求(渇愛)である[感覚的喜び]やその享楽により心が真に満たされる事などなく、更なる欲望を生じさせ更なる要求をしてくるだけ、逆に煩悩の要求を抑制し制御コントロールしてゆくと、波打つ湖面(心)は次第に.鏡面の如く澄み渡り、月光(真理)をその湖面(心)に明晰に映し出す。
⭕感覚的喜び
お釈迦さまは仰っている「愚かなる者達は.日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく.雑草を美味しい.美味しいと食べている牧畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」大念処経
○身体(六根)は身体(六根)過ぎず
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない
○感覚は感覚に過ぎず、
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない
○感情(心の状態)は.感情(心の状態)に過ぎず
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない
五蘊(心的作用)は五蘊(心的作用)に過ぎず
私のものでも、私でも、自分でもない
現象に過ぎない…
つまりは.私と呼べるような実体的な存在など何処にもなく五つの要素(身受想行識)が集まる時.私という存在があると思い込んでしまうのです…