無明

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世間と言うものは.実は真理(事実.真実.現実. 実相)を素直に認める性格は持ってはいないのです。
いつの時代でも大衆とは[虚妄]に興味を惹かれ.[虚妄]を愛して.[虚妄]に魅入られてしまうものなのです。
信じるという事は.本当に物事を理解し.物事が見えているという事ではないのだが、人は盲目的でありながらも物事が見えている理解できていると自惚れ錯覚しているのです。
伝統的なこと.思い込み.権威.通説.習俗.信仰.迷信.先入観.文化的価値観.暗示:錯覚固定観念.既成概念..などが優先的に信頼され、人々に事実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものでもあるのです。
何しろ.いつの時代でも大衆とは[虚妄]に興味を惹かれ.[虚妄]を愛して.[虚妄]に魅入られてしまうものなのです。
例えば私の処に来た相談者の中で、彼女は何処かの如何わしい瞑想教室で染脳(洗脳)され.金品もかなり搾取されたようで.心身ともに疲れ果て.路傍に立つ如来の元に助けを求めてきたのですが、染脳(洗脳)されていて.瞑想教師(偽)から超能力や念を送られ体調も乱され困っていると言うのです、そんな彼女に真実.原因.問題.回復方法を話し.処方し.それを理解させ.実行させ.その呪縛から解き放つのには苦労させられました。
その病巣が[欲]という頑固な汚れが凝り固まって生じているので、欲の汚れに染められた心の洗脳は苦労するのです。
最近では[ナポレオン.ヒル]などの[引き寄せの法則]に量子力学を絡めた[量子引き寄せ法]とか[霊言]とかの眉唾なネズミ講鋼などが的なものが蔓延って来ているようですので注意が必要です。
特に.欲望に魅入られた現代社会では「信じるものは騙される」ものなのです。
故に釈迦尊(ブッダ)は、他人の言う事や物事を鵜呑みにしたり.安易に信じる事なく.自ら冷静に観察し.分析し.思惟し.思推し.検証し.確証をえられたものだけを信じなさいと仰っているのです。
例えば[儲け話]というのがありますが、こうこうすれば必ず儲かるという話に騙される人は後を断たず、これは人の欲心を突いてくるのであり、先ず貴方に対して理解を示し.貴方の為の提案なのだと思い込ませるのですが、冷静に考えれば本当に儲かる話ならば他人に教えずに.自分が儲けるに決まってます(何しろ欲が深いのですから.他人に分け与える事など成立しないのです)
引き寄せの法則も同様で有限な金財を引き寄せるとは他人から[搾取]することに他ならず確かに胴元と会員とは[搾取する側]と[搾取される側]という関係性を現わし、やがて会員側は「騙されたー」と嘆くのが世の常であり決して善人が騙されるのてはなく、欲深く無明な盲目的さに気付かずに自惚る人は騙されるもの。(人は迷妄.虚妄の真っ只中に生きている、しかし迷妄.虚妄の中に居る故に、迷妄.虚妄の中に居ることに気付けず、迷妄.虚妄であっても自分が迷妄.虚妄の中に居るとは思わない、水中の魚の如し) <如幻如露>
お釈迦様も御自身の発見された真理(真実.現実,実相)が世の潮流に逆らうものであり、人間の持つ利己的な欲望を否定するものである事を充分に認識されて居られ「私が体現したこの真実は見難く、理解し難く、賢者にしか把握されないだろう。世の潮流に逆らい、高遠で深淵で微妙で難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ、無知(無明)の闇に包まれた者達には見えないだろうから、世間に説明しても無駄ではないか。いっそ此の侭、涅槃(ニルバーナ)に安住してしまおう」と真理を説かれるのを躊躇なされたのを.梵天と喩えられた理解者.支持者が世間を蓮の池に喩え「池の中には未だ水面下に留まっている蓮の華もあれば、丁度、水面に顔を出した蓮の華もあり、水面高く抜きん出ている蓮の華もあり、同様に世間にも色々なレベルの人達が居るのですから.中には真理を理解する人も必ず居るものです。だから.この唯一無二なる真理を人々の幸福の平安と歓喜と幸福の為に是非お説きください。」と梵天の勧請により人々を無明による苦しみから救い出すために説法を決意されたのです。
【無 明】
無明とは本質的無知であり、突き詰めてゆけば「真の幸せを見つける事が出来ず,判らず、知らず、気付けず、理解出来ないこと」をいうのであり、縁起という条件性により、無知を条件として五集合要素(五蘊)は業(カルマ)を生起させ、業(カルマ)により欲求を生起させ、欲求により五感官を生起させ、五感官の感受により、渇愛を生起させ、渇愛を条件として五集合要素(五蘊)は煩悩(生存欲)を生起させ煩悩(生存欲)に執着した五集合要素(五蘊)は感情を生起させ、感情に執着した五集合要素(五蘊)は自我(自意識)を生起させ、自我に執着した五集合要素(五蘊)は妄想を生起させ、妄想により捏造された意識や記憶と現実とのギャップにより、苦や悩み・不満や憎しみ・恨みや辛みなどを生成し深めてさえもいるのである。理想であると錯覚している妄想と現実とのギャップを受け入れる事が出来ないのは、煩悩(生存欲)が捏造した自我(自意識・エゴ)なのであり、無知(無明)なるが故であり、無知(無明)を真理に置きかえれば、全ては消滅する性質のものであり、ただ因果律の条件性に則って生起しているだけである事に気付き、盲目的な妄想の闇から脱して、真理や事実を発見してゆく事こそが妄想の呪縛から解放されて真の幸せや歓びや平安を体現してゆく道なのである。
仏陀曰く「愚か者は、幸福を願い求めながら無明なるが故に、いつも幸福を取り逃がす」
人は苦と不満は容易に感じることが出来る。それは人間の本質が苦と不満から成り立っている存在だからである。しかし人は幸せの感じ方が本当は解っていないのである(無明)
所有欲(物欲・金財欲・権力欲・地位欲・家庭欲・名誉欲・・・・・)あらゆる欲に執着させてゆくものは存在の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)による五蘊(眼耳鼻舌身と色声香味触との出会いによる色受想行識)の精神作用により生じる概念が造り出す感覚と感情である貪瞋痴(不善処)による苦と不満(渇き・不安定)とがそうさせるのである。それら所有欲を満たすと一時的に快楽を得ることが出来、不安定な心が一時的に安定するからである。しかし所有欲によって得た快楽はいつまでも続かず再び苦と不満へと戻ってしまうから又、新たに欲するという苦と不満の中を流れ彷徨ってゆくのである。(死して彼岸の淵を彷徨う者は、この世でも流れ彷徨う。)
あらゆる所有欲に魅入られ執着しないためには欲が満たされば良いのだが「所有欲に満たされること無し」なのであり、真に満足を得る法は「足るを知る心」だけなのである。
盲目的に所有の次元に翻弄され苦と不満の中に人生を送り.生への執着により悔やんだり.恐怖したりして死ぬ事になる人を[無明]というのである。
無明とは「明かり(灯り)がない状態」つまりは不安定状態なのである。その不安定を安定化させようと物欲(購買欲・家族欲・所有欲・愛欲・金財欲・・・・)に魅入られ、小さく短命な灯りを都度々々に燈し続けて、本質的な苦や不満・不安・心配・恐怖を一時的に逃れながら生きてゆくのである。それ故に死が迫る来たるとき、それらの空しい灯りが一つ一つと消えてゆき、段々と暗くなってゆく心の中で後悔や恐怖や錯乱に陥り、人によっては神や仏に縋ろうともするのである。
死の直前には自分の一生に対する評価を下すと言われる。それは後悔を伴い、どれだけ出世したかや金儲けできたかではなく、「自分にはもっと大切で崇高な生き方という道があったのではなかろうか。」「一生のうち自分がどれだけ愛やぬくもりを他人と共有できたか」になるという。
仏陀は仰った「一切の苦悩は無明から生まれる。無明ゆえに偏った見方をしたり執着したりして苦しむのだ」
無明について「雑阿含経典」が説き明かしている。
「無明とは、過去と未来を知らず、過去と未来の関係を知らぬこと。内なるものと外なるものを知らず、内なるものと外なるものの関係を知らぬこと、行為とその結果を知らず行為と結果の関係を知らぬこと
仏法僧を知らず、苦悩に終止符を打つ術を知らぬこと
苦集滅道(四諦)を知らず、苦悩を止める実践的方法を知らぬこと
因とそれが惹き起こす一切を知らず、善か不善か、有罪か無罪か、常住か無常かを知らず、良し悪しや浄不浄の分別、縁起を知らず、何も知らないこと
眼耳鼻舌身意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬこと。自我や苦痛、渇望、愛欲の原因などが縁起によって生ずることを知らず見ず、或は部分的にしか理解しないこと。このような愚かさを[無明]というのである」

今日も気付いた事がある

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「お互い様とお陰様」
 
露と生まれし人の身で
無明の闇を振り払い
この世の真理を見透して
死ぬるに優る幸せはなし
森羅万象 有り難きかな
如来品正師  多々方路傍石

⭕今日も気付いた事がある
特に、承認欲求.自己顕示欲.欲望.見栄.自我意識など所有の次元の事物への欲求.執着が強い.欲深く.心の貧しい人は.満ち足りる事を知らず、不満を携えて.その場凌ぎの感覚的喜びに魅入られて.短命な現象に過ぎない感覚的喜びを探し求めて彷徨う餓鬼の如し、足るを知らぬは煩悩(存在欲)の具現でなり、知性(理性)と智慧を以って人となる。
⭕今日も気付いた事がある
悟り.覚りに、出家.在家の門はなし
唯、もの事をよく見て.聞いて.分析し.思惟.思推し.検証し.確証を得て理解し.正しく考え.正しく語り.正しく努力し.正しく集中し.正しく生きるだけ。
虚妄と妄迷に被われた社会に流されず、自らの真実を嗅ぎ分ける能力を信じて実践する者に叡智は顕現し、真理へと到達する。
因みに現役僧侶である私と.仮りに在家で到達した者との間に違いを見い出すならば、搾取とも思う高額な僧侶会費用を払わされている我が身か、そうではない自由な身かという事ぐらい・・・笑

⭕今日も気付いた事がある
往生とは、諦(あきらめる)事。
諦観とは、真理.道理.真実を見極める事。明らめる事であるのに対して
死に際しても尚、執着から解き放たれない者達への引導の言葉
そんな輪廻.継続する因縁(因果律)の者に.「成仏はあきらめろ。そのかわりに往生すれば.極楽浄土という阿弥陀仏(法蔵)が開いた楽園に生まれ変われる。南無阿弥陀仏と呪文(真言)を唱えさえすれば悪人でも救ってくれる」と説いたのが浄土教.浄土真宗であり、浄土教.真宗.天台宗.真言宗.日蓮宗系列は、バラモン教.タントラ教.ゾロアスター教.ミトラ教の流れを汲むアーミターバー(阿弥陀仏)や観音菩薩やミトラ神(摩多羅神)への信仰宗教であり、仏教(ブッダの教え)と名乗ってはいるが大乗仏教とも言えない異教を含んでいるのである。
⭕今日も気付いた事がある
大観なき愚か者は[神]に憧れる
[猿と阿呆は高い処に登りたがる]と言われる如く、人心掌握の為も有るのだろうが.兎角に欲深い者は生への執着.断ち難く.せめてもの救いとしての最終目標は死後.神として崇められ祀られたいらしい。
何千億個の銀河と.その各銀河の中に何千億個の恒星(太陽)があり、その太陽の一つに依存する惑星に微生物の如く.うごめき生きる人の身で、況して煩悩に翻弄され小さな領土を僅かの間、空しく差配したに過ぎぬ身で、神と名乗りて 鎮座して、その身(生命)は.輪廻の激流を微生物から繰り返している実相は滑稽でもあり憐れでもある。
⭕今日も気付いた事がある
堅固な安らぎ.歓び.幸せを得るには.真理(真実.現実.事実.実相)を依り処(精神的支柱)とし.他のものを依り処(精神的支柱)としてはならない。
生地に知恵.能力.知識.精進.努力などがあると人は慢心したり高慢となったり自惚れして却って心を貧しく.醜く.厭らしくさせるもの。
幾ら浅知恵を働かせ知識を蓄め込み努力精進し能力を高めても.決して堅固で安定的な心の安らぎ.歓び.幸せ.静逸に達する事は出来ない
先ず慢心や自惚れという錯覚から目覚め、人の身の無力さに気付き.真理(真実.事実.現実.実相)に抗う無明を乗り越え.在るがままの天地自然の真理(理法.摂理.自然法則)に.在るがままの姿で身を委ねたとき人は初めて堅固なる安らぎ.悦楽.歓喜.静逸.幸せを得て救われる。
因縁起果報
⭕今日も気付いた事がある
○○の多い世の中で、○○に気を捉われず*拘らず*執着せずが幸せの道
⭕今日も気付いた事がある
知識や情報溢れる今の世.増えるは○○ばかりなり
世の中に溢れ返る知識.情報.思想.観念.通説.見解に侵され.染められ偏って浅薄.短絡な主観的な見解に捉われてそれが真理(真実.事実.現実.実相)だと錯覚している小賢しい者達が増えてきて真正な仏道が歪ませる
例えば[煩悩を滅却.滅尽]するとか[ブッダは見解を持たなかった]とか、人間の[生存の素因]である煩悩や見解によって生かされているのであり煩悩を集束すれば存在欲であり見解を持たない主観も意識もなく.[有る無い]でも[持つ持たない]ではなく、捉われない.拘らない.無執着を説くのであり.煩悩を滅尽して見解を持たない廃人的アルツハイマー状態ではない。
⭕今日も気付いた事がある
 夢は顕貴の種
諸行無常な世の中で、夢は叶わぬほうが良い。
果てしなく夢を追うのは空しく在りて*夢は叶えば消えさる定め、夢見*顕貴(ときめく)ほうが良い
 
人々よ、単なる推論に過ぎない見解*主義*主張*観念*思想を依り処(精神的支柱)とはするなかれ。それらは条件により変化生滅するもの、一時の安定(楽)も不安定(苦)へと戻る性質のものに過ぎない。
人々よ、所有の次元の事物を依り処(精神的支柱)とするなかれ。それらは決して目的物ではなく便宜的*手段的な付随物に過ぎない。
人々よ、虚妄夢幻に過ぎないものを依り処(精神的支柱)とするなかれ。星や暦が人を助けた事はなく*神や仏や預言者が幸いをもたらす事もない。
幸も不幸も己自身の満足度次第.    足るを知る
人々よ、決して変わらぬ堅固なものを依り処(精神的支柱)とし、不安定な心身を.実存的で堅固な安定域へと導かん。
有為(変化生滅する現象世界)なる世界で唯一の無為なるものは真理なり
(現実*真実*事実*実相)
真理(ダルマ)を依り処(精神的支柱)とし顕現する堅固なる安定域こそ涅槃(ニルヴァーナ)なり

喜び.快楽.幸せを求めて

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人は皆、喜び.快楽.幸せを求めて生きている、例え此れから死のうとする人でも.ガソリンを買い込み火付けを目論む罪人でも.他者をひれ伏せようと攻めたてる人でも、皆.その中に喜び.快楽.幸せを見い出すからに他ならない。
⭕人々が[喜び.快楽.幸せ]だと思い.錯覚しているものとは、感覚器官(眼耳鼻舌身)と意識に刺激を与えているだけでしかなく、それは条件により生じ.条件により消えてしまう性質の儚く無常な現象に過ぎないものに執着しているだけ。
心苦も同じ行程を経て生じ.執着しなければ消えてゆく性質のもの。
⭕気を紛らわす(外世界への集中)
ドゥッカ(苦しみ.悩み.心痛.不満.空しさ...)が蓄積してくると人は気を紛らわそうとする。その[気]とは気分であり.煩悩(存在欲)の欲望であり.五感官(眼鼻耳舌身)を駆使して心に刺激を与えようと探し回る。感覚器官は外世界の何かに集中する事により.一時的な安定.喜び.快楽,多幸感が得られた経験則により.たとえそれが本当は必要ないもの事.つまらないもの事.くだらないもの事.どうでもいいもの事.不善なもの事であったとしても.ドゥッカ(苦.悩み.心痛.不満.空しさ)による不快さに耐えられずに.五感官を駆使して意識を外世界に向けて何かしらを探し求めるのだが、存在欲にとりプラスと感じるもの事へは引き寄せたいと貪りの感情を生じさせ、存在欲にとりマイナスと感じるもの事へは遠ざけたいと怒りの感情を生じさせ、プラスかマイナスか判断.判別できないもの事には痴愚.不満の感情を生じさせる(これが貪瞋痴の三毒という不善処である。) 
しかし外世界のもの事への集中は依存症になる傾向がある事に注意しなければならない。
⭕行為と働き
人間の活動には[行為]と[働き]とがあり、意志.意図を以って行う[行為]ー業(カルマ)と、意志.意図を伴わない[働き]を区別して、一挙手一投足の[行為]に集中し、自我意識(末那識)と煩悩(存在欲)が生じる隙を与えないように心掛けながら、ゴチャゴチャと雑念せず、妄想に気付き妄想に入らず、自分が自分の真の主(あるじ)とならん。
⭕至高の瞑想(安堵の呼吸)
ヨガ.禅定(ジャーナ.禅那禅.座禅).観照.内観....と瞑想法にも色々と在り.止観という無念無想法と.観照法という(ヴィッパサナー法)を中心にして健康ヨガなるものも見受けられ、慈悲について掘り下げたり、ラベリングを試みたりというテクニックから.中には頭部に電極を装着したり.鈴や鐘を鳴らして刺激を与えるような陳腐なものまで存在するが、目的は集中力の鍛錬や、内観と内々観による自分の発見や、心の動揺がなくなった安定した心の状態や、集中し統一された深い思惟.思推.洞察により現れる叡智を得る事であり、お釈迦様も明確に仰るように瞑想により悟る事は出来ず瞑想も.また条件により生起し.条件により滅する性質のもの(縁起)に過ぎず、一過程であり錯覚させるものである事を自覚しなければ欲心により.第三の目の開発だとか.超能力の獲得だとかカルトな邪道に陥らせる危険がある事も忠告されているように、要は座禅でも立禅でも.椅子に座ろうが横臥しようが目的地に到達しなければ時間の無駄となるのであり、釈迦尊(ブッダ)以降約2500年の間、真の目的地には誰も到達していない現実から顧みて、ご存じないかもしれないが.昔のテレビで.男の人が小指を立てて「私はこれで会社を辞めました...」と宣い、別の男性が「私はこれでタバコを止めました...」と禁煙パイポを指し示すコマーシャルでもないが.路傍の如来は「私はこれで目的地(叡智による真理の顕現と涅槃(ニルヴァーナ)に到達しました」絶対真理への叡智と.涅槃(ニルヴァーナ)へと導く瞑想法こそが[至高の瞑想]なのである。
⭕安堵の瞑想(安寧の瞑想)
至高の瞑想と聞くと、他の色々な瞑想法でさえ厄介なものだから、実に厄介なものだろうと推測なさるだろうが差に非ず、先ず時を選ばず.第ニに場所を選ばず.第三に形を選ばず.第四に無明.未熟な者の能書き.戯れ言.狭見(プラパンチャ)などに汚染されない。
仕事.趣味.余暇に集中できる時は、当然にそれらに集中し、合間々々の.気分を紛らわそうと意識が散漫と外世界を彷徨ったり.どうでもいいもの事.下らないもの事.つまらないもの事.愚かしいもの事に.心を取られゴチャゴチャと雑念に入り込み.妄想へと陥ろうとする時、それに気付き.心を落ち着け.肩の力を抜き.体幹を調え.意識を呼吸に集中させ.呼気.吸気を自覚して安堵(平安)の呼吸へと導くだけである。
安堵(平安)の呼吸とは[智慧]を前提とし.解り易く言えば[ホッ~とする]呼吸をする事であり、健康.長寿.幸運.叡智へと繋がる呼吸法でもある
[智慧]の例として先ずお釈迦様が残された名句として「今日も朝から借金取りが.金を返せ!金を返せ!とやって来ない事は.こよなき幸せである。」ホッとする一句である。
想いを呼吸に乗せて[ホッとする]するのであり、例を挙げたら人それぞれで幾らでもあるもので、今まで経験したドゥッカ(苦)や知識.情報が生かされ.苦が.楽の種となる瞬間なのである。
普段.生きる上で最も重要な呼吸に注意を向けている人など殆ど居ないのだが、綺麗な空気か汚れた空気かという問題以前に、人は約1分間に30〜40回位.一日約5万回、一年間に約1800万回 、人生80年で約15億回の呼吸をし、その一息.一息に[想い]を乗せている事に気付いていない。
毎日.毎時.不満や貪欲を乗せて生きてる人や.怨み辛みや怒りを乗せて生きてる人もいる.一方、喜び.愛情を乗せて生きてる人もいる.
その人.その人には因果律(縁起の理法)に遵って.当然に大きな差となって現れてくる。
安堵.安寧を乗せた呼吸の甘露を奥深く味わう人には.深淵はその姿を現し.叡智は自ずと顕現する。
因みに物事の変化生滅を.在るがままに.奥深く.そして甘露に.味わうには、心を情緒にも論理にも偏らない中道に置き、集中力を高めてゆくことである。深淵なる理法に遵った膨大なるエネルギーと生命による活動が明瞭に映しだされる。
([根源エネルギー]が因果律( 縁起・因縁起果報)に遵って醸し出す波動により色化(物質化)し、色化(物質化)した[根源エネルギー]が因果律(縁起・因縁起果報)に遵って寄り集まり.[素粒子]を形成し、[素粒子]が因果律(縁起・因縁起果報)に遵って離合集散(マニホールド)して[原子]を形成し、[原子]が因縁律(縁起・因縁起果報)に遵って離合集散(マニホールド)して[分子]を形成し、[分子]が因果律(縁起・因縁起果報)に遵って離合集散(マニホールド)して[物質]を形成し、[心的エネルギー]と[物質]とが[生命体]を形成し、途方もなく膨大な形成された[物質]と[生命体]と[根源エネルギー]が不安定性の安定化運動による膨張.拡大.継続.変化生滅と離合集散の中に大宇宙を形成している)
※因縁起果報は別項にて詳細に解説
【安堵.安寧の一例】
♡今日も元気に生きている。
♡美味しく.ご飯を頂ける。
〈ご馳走の三要素〉 1.空腹 2.記憶3.感謝
♡生きるのに必要なものは満たされている。
基地外にいきなり後から襲われない。
♡紛争は多少はあるが平和な世の中。
♡官憲においコラ.貴様!と誰何されない。
♡もの事を客観的に判断できる知性が具わっている。(無駄にしてない)
♡お陰様とお互い様
♡変化生滅の顕貴の世界

自我と自分

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今日は[自我]という世俗諦への重大なテーマと[自分]という存在に付いて説こう。
釈迦尊(ブッダ)の入滅後.この[自我]と[無我]が正しく理解されない処から世俗諦の多くの誤解や間違った見解や観念が生み出されて来たとも言え.幾百千の気付き(小悟)から始まって[無我.アナッタ]を証得するのが世俗諦(諸法無我)であり、仏教の一大テーマである生死の実相を含めた.この世界の真理(理法.ダルマ.天地自然の法則・諸行無常)を透察(透視)し.絶対叡智の顕現を以って真理(真実.事実.現実.実相)を理解し、無明を捨て去り離れ(捨離)、目覚め(覚醒)、乗り越え(超越)、解き放たれ(解放)されるのが勝儀諦(大悟)であるのだが、社会というものは何時の時代も真理や事実を素直に認めて受け入れる性質や理知は持っていないものであり、権威.文化.伝統.歴史.風格.格調.習俗.信仰.先入観.思い込み.錯覚.多数意見.風聞.固定観念.既成概念.暗示.誤解.染脳(洗脳).捏造情報.知識.主観などが優先的に信頼されてしまうという頑迷さと無明さを具していて、社会は電灯のお蔭で明るく照らされるようになったが、人の心は.自らの心を照らす僅かな燈明の光さえ失いかけて.社会に溢れ返る知識や情報や能書き.戯れ言.美辞麗句(プラパンチャ)に翻弄され.迷妄を深め.錯覚し.自惚れて.盲目的に.手探りで.不毛の荒野を彷徨っている
アイデンティティ(自我同一性)とパーソナリティ(自己同一性)とエゴイズム(仏教でいう自我)
西洋心理学でいう自我同一性と自己同一性とは魂.霊魂論を基にしているのに対して、仏教の世俗諦では魂.霊魂.霊体など永続的.本体的.主体的なものの否定(諸法無我)による無我な空性の証得であり、心身とは現象に過ぎず空なる本質のものであると明確に理解する事にある。
●潜在域の末那識(自我意識・エゴイズム)は.五集合要素(五蘊)による煩悩(存在欲)が自己保存と自己防衛の本質的な欲望に従って.感覚的.感情的.主観的に妄想.錯覚したものに過ぎず、自己中心的.自分勝手に振る舞おうと欲する事による[諸悪と空の根源]であり、自分(パーソナリティ)とは理性(知性)による.空なる本質.現象的存在としての存在的価値の追求だと言え、多様性によって形成される世界において、[自我意識]が強く.反面では[自分]という存在の次元の劣る人達が増え主流をなすと社会は自ずと閉塞し停滞し衰え、[自我意識]を抑制し[自分]を具象化する人達が増え主流をなす多様的な社会は発展.進歩を促す事は、歴史が明確に証明する。


迷いを去り道理を悟る覚悟こそ仏道である

智者は[今]を生きる

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「智者は縛られず」
釈迦尊(ブッダ)は仰っている。
智者は昨日を悔いたり明日を心配せず、とにかく「今」を生きている。だから毎日が輝いているのだ。
愚者は昨日を悔い、未だ来ぬ時を憂い、「今」を見ようとしない。
青くとも刈り取られた葦には命がないように.愚者も真に生きているとは言えない…
過去や未来を思い煩うな。未来を期待し過去を悔いて居ては、煩悩を招いて何れ刈り取られた葦のように萎びてしまう。
過去を悔いず縛られず、未来を期待し縛られなければ苦悩を招くこともない。
今を見つめ一瞬一瞬に没入して、今をしっかり生きてこそ心身は健全となる。
智者は無心に観じ、すべてに没入し時空に身を任せる。
自分という意識(自我)も、自我意識から生じる好嫌・良悪・快不快・美醜・悲哀もないから俗世に在りながら胸を痛める事もない
寿命の長短は在れど.皆.今を生きるのみ.
智者は一刻も疎かにしないよう努めて今この時を全身全霊で享受しているから生き生きと輝いているのだ。
「即今当処」こそが我が全存在であり、他の何処にも我れは居ない。
人は.今という此処にしか居ない、同時に幾処に存在する事など出来ず、彼処に居れば今いる此処を失なうのだから。
(即今⇒時間的には即今と、当処⇒空間的には当処という時空に於ける存在。)
所有の次元という一過性の価値観に捉われ.拘り.魅入られ.誑かされ.執着し.今という実存的な存在の次元の価値観を貶めることなかれ
例え.世の中にあって、悪人.罪人.人非人の称号を所有する者であっても心から悔い改め.真に償い.今という存在の次元に於いて真に[仏]であるならば、往生.成仏も叶うという如来の慈悲である理法であり.真実の「悪人正機」であり、信者の獲得の為に.大衆迎合的に善人が救われるのなら悪人は尚更に救われるという教説は.善を前提とする仏国土を騙るものであり、人の価値は所有的価値ではなく、存在的価値が問われるのである。
人は常日頃、呼吸を顧みる事もなく漠然と呼吸している。まして常日頃から空気に感謝を致し、呼吸を味わい安堵し歓喜することなど有ろう筈もないのだが、自分という全存在はその一息(呼吸)の間のみに在るのであり、過去にも未来にも存在せず到来した[今]という瞬間(一息)だけが唯一の実存とも言えるのであるが、凡愚な人は明日も当然持っている将来も当然持っていると錯覚して生きているから、今日が疎かになり今(一息)を心起きなく味わう事が出来ずに今やるべき重要な物事でさえも明日やればよい、いつか遣ればよいと自分自身を納得させて今日という一日をぼんやりと無駄に過ごしてしまうのです。
※『徒然草』真赭の薄に説かれている如く。
「明日ありと思う心に引かされて、今日も空しく過ごしぬるかな」
多くの人達は今という瞬間を味わおうとはせず、先へ先へと次から次へと意識や雑念に駆られて、今という瞬間に踏み止まろうとしない。人は自覚して踏み止まらなければ何処までいっても踏み止まる事が出来ないのだ。仏教では正しいと書いて「一で止まる」と呼び、身口意の三業を踏み止まることが正思惟(正しい思考)だと説かれる。しかし煩悩に操られ衝動に急かされている事に気付く事なく、自我意識により自己中心的な自分の都合に随って物事を判断して行けば、苦楽・善悪・快不快や美醜に始まり優劣・到達未達まで自分の都合に随って分別してしまい物事を主観的な偏見という歪んだ価値判断を潜在域の想行蘊(サンニャサンカーラ)に記憶の残滓、汚穢として積み上げて行く。そんな歪んで偏った五蘊(五結合要素)による意識を基準にして社会や自分に接すれば世の中や自分という存在は、そうそう自分の思い通りに都合よくは運ばない無常(常ならざる)なものなので[苦しみ.悩み.怒り.不満.怖れ.心痛.悲哀.迷い.悔い.渇き.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ...]という不安定要素(ドゥッカ)に突き当たるのは自業自得な自然法であり、そんな時に得体の知れないものを精神的支柱(拠り処)としたり妄想を深め躁鬱症や精神異常などに陥ったり妄想に支配され欲深く貪欲になってゆくのも、ある意味「道理」だと言えよう。
それは心を常に「未達」の状態に置いてしまっている事に他ならず「達成」が安定状態であるならば未達状態とは不満(ドゥッカ)であり不安定な思い通りにならないという苦であり、それは本質的な不安定状態を安定化させようと渇望する煩悩の衝動により、却って心を更に不安定化させているに等しく、決して充たされる事のない「達成・到達」に向かって貪りと執着を深めているだけなのだと言えよう。
今という瞬間に踏み止まり一生に一度きりの今という瞬間(一息)を、散漫へ奔ろうとする心を制御し集中させ「今」という瞬間(一息)を心置きなく味わい、その統制され澄み渡った心の感性により、その場その時に於いて真に優先すべき重要な問題や事柄を正しく選択し専念してゆくことを三昧・正定(八正道のひとつ)と言い、理想的な将来とは三昧・正定の連続性・連鎖性という積み重ねの先に現れる果報だと言えるのである。
先ず、既に限りない果報や恩恵の上に今の自分が存在することに気付いて物事を前向きに捉え、八正道により物事や自分を客観的に眺め偏らない「中道」を目指すよう心掛け、今の自分という存在を冷静に客観的に眺めたとき自分が無知(無明)な存在であり何時までも愚かで未熟で空しく下らない物事に捉われ、どうでもいい物事に拘り、つまらない物事に気を取られ、自分の分際ではどうにもならない物事に思い煩ってしまう存在だと自覚出来なければ、無知(無明)なまま根拠乏しく自惚れる愚者のままで進歩することも学ぶことも出来ないのです。この学ぶとは仏典を学ぶ事でも作法を学ぶ事でもなく「今の自分を学ぶ」という事であり、主観的に自分に拘り自分に執着する自我意識から離れて、客観的に自分という存在を見つめて理解して行かなければ真の自分を見る事も、自分を学ぶ事も出来ないのです。
仏教には崇高なる二巻の「無書の経典」がある、そしてそれに向かう道を指し示す為の他の幾千という経典群だとも言え、その崇高なる二巻の「無書の経典」とは[自燈明経と法燈明経]なのです。
[汝らは自らを燈明とし.自らを依り処(精神的支柱)とし.他人を依り処とせずに在れ、法を燈明とし.法を依り処(精神的支柱)とし.他を依り処とせずに在れ]
※自らが正しく眺め理解した真理を精神的支柱とし、他人の説を依り処とするな、この世界の真理(無常の理法・縁起の理法・輪廻の理法)を精神的支柱とし、他のものを精神的支柱とするな。
観察し確証を得て理解した自然法則(無常法・因果律・輪廻)と、自分の中に既に具されている存在の秘密と真理への気付きと理解を精神的支柱(拠り処)とし、他のものを精神的支柱(依り処)としないようにとは、即ち無常なる所有の次元の事物や得体の知れない確証を得られない眉唾な信仰宗教などを精神的支柱(拠り処)とし、自分の真の生きる意義や価値感を殺して他人の意義や価値感に依存して生きる人達を憐れむのです。
自分に具わる真理を理解する知性という燈明と.法という釈迦尊(ブッダ)が発見された真理と天地自然の法則を燈明で.無知(無明)の闇を照らし、虚妄を捨て去り離れよ(捨離)、真理に目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれて(解放)、涅槃(ニルバーナ)の体現にまで導いてくれる至上なる聖典であり、それは八正道により自分という存在、この世界の摂理(物理法則)、すべての事物の関係性などを自分に学び気付いてゆくこであり、主観を交えず不放逸(集中)に観察し発見し理解してゆくことによりあらゆる自縛を乗り越え(超越)、解き放たれ(解放)自由を得た内観による禅定状態(ジャーナ・トランス)へと至るとき瞬時に大悟(勝義諦)を顕現させる至上なる経典であり、それは学べば学ぶほど自分の無知(無明)に気付くことが出来、更に学んで行く意欲が漲り精進して行けるのです。しかし自分が無知(無明)である事を自覚することが出来ず自惚れてる者には自分を学ぶ事(真の今の自分に気付き理解してゆくこと)が出来ず、故に無知(無明)なまま人生を費やし流転して行ってしまうのです。やっと有難いご縁により人の身に生まれることが出来、人間として生まれたからこそ有難い釈迦尊(ブッダ)の教えを聴聞し理解することも出来る折角の果報を、自惚れた人は盲目的に無知(無明)の闇の中で費やしてゆき足元を注視せず今という瞬間(一息)に専念せず躓きながらよろめきながら煩悩に翻弄されてゆくものなのです。 
仏道とは神仏を拝む事でも、経典を読経することでも作法に随うことでも世間から離れて山林や僻地に暮らす事でもありません、物理的な世俗からの厭離ではなく精神的な世俗からの厭離を目指すものであり、「所有の次元」の事物の価値感や意義の本質が無常なものであり夢幻であり空虚なものであり付随物(手段)でしかなく決して目的物ではない事に気付き、「存在の次元」に於ける価値感や意義こそが人を進化させ発展させる存在の主目的であり、至高の存在(真の人間)となる為の目覚めへ向かわせるのが真の仏道であり釈迦尊(ブッダ)の教えなのです。俗世的な価値感や意義でもある「所有の次元」へと向かって生きる人々を在家(世俗)と呼び、「存在の次元」へと向かって生きる人々を出家(出世間)と呼ぶのであり、それは地位でも尊称でも職業でもないのです。そして真の仏道とは自分を学ぶものであり、仏教教典を学ぶ「有学」とは釈迦尊(ブッダ)の教えを把握する為のものであり、例え全経典を暗通し百万遍読み一生を賭して研究しようとも悟る事(大悟)も涅槃(ニルバーナ)を体現することも輪廻の流転から逃れる事も出来ません。それは情報の把握であり知識の記憶でしかなく心が理解し納得できた訳ではなく、心が理解し納得する為には実践的に観察し分析し検証し確証を得られて初めて心が理解できるのです。仏道とは「無学」とも言われる崇高なる無書の経典「自燈明経」「法燈明経」を紐解いてそして修して実践して始めて大悟(勝義諦)も解脱も目覚め(覚醒)も涅槃(ニルバーナ)も顕現するのであり、つまり世俗に在りて世俗に染まらない実生活を送る中において実践的に[存在の次元]を目指す事であり、悦楽の生活の中に甘露な涅槃(ニルバーナ)に到達する事が出来るものなのです。    
今の自分を学び、自分という意識(自我意識)により分別された心・身体という意識や感覚を捨て去り(捨離)自縛から解き放たれ(解放)、自分という意識が脱落し、心と身体との分別も消え、自分と外界との分別も消えてゆく時、自分が大海の中の自在な一滴であった事に気付き前向きで歓びに満ちた存在へと成長してゆけるでしょう。         
本質的な不安定による無知(無明)により怖れや迷いや不安や渇きや貪欲や執着を生じさせている事に気付かなければなりません。 
人は煩悩の衝動(感覚)を自分の本質的な要素(魂・霊魂)から発せられた自分の本心だと錯覚し、感覚的で感情的な主観による自我意識を捏造して行きます。もし身体に病が在れば、この病が無かったらと思い、悪化しないかと怖れ、その日その日の食の当てが無ければ、心配せずに食って行けたらと思い、万一の備えに蓄えが無ければ少しでも蓄えがあったらと思い又、蓄えが有ってもその蓄えがもっと多かったらと思うのですが、既に多くの物事(恩恵)の上に今の自分が存在している事実に気付き感謝する事が出来なければ「有無同然」でしかなくそれは何が有って何が無いからという問題ではなく、心がどう気付いてゆくか次第なものであり、あらゆる物事に雁字搦めに縛られて自由に身動きすることも考える事も出来ず、その自分を縛り付けるものの正体さえ発見できず、今を見失い、今を顧みず、今を蔑ろにしながら煩悩に翻弄されて生きる人生とは、本質的な苦(ドゥッカ)に縛られている事に他ならず固定観念・先入観・思い込み・立場・誤解・錯覚・無知・妄想などに縛られ、所有の次元の事物[権威・地位・伝聞・主観・評価・称号・金財・物欲・名誉・権力・勢力....]などのあらゆる欲望の対象に縛られ、自我という捏造された自分に縛られてしまっていて、外界に振り回され縛られ自由に物事を在るかままに見ることが出来ない。あらゆる自縛から解き放たれ(解放)、煩悩の要求を乗り越え(超越)、無常(常ならざる変化と生滅)と因果律(縁起・すべての物事の関係性の上に存在している)と空(無自性)を心が理解し(目覚め・覚醒)、今という瞬間(一息)に集中して今を味わい今を歓び、今、優先すべき重要な問題や事柄を選択し専念してゆくならば苦しみも悩みも怖れも不満も迷いも渇きも恨み悔やみも怒りも哀しみも必ずその方向性(ベクトル)が転化してゆき意欲・悦楽・歓喜・平安・静逸という条件による生起と消滅(縁起)に依らない絶対的で実存的な安定状態を体現することが出来るでしょう。
仏道の基本であり、中道・三法印・四聖諦・因果律(縁起)・輪廻を理解する為に必須な「八正道」を重要視された先達に曹洞宗道元禅師と真言宗の慈雲尊者飲光が居らっしゃるが、慈雲尊者飲光の詠まれた「飢え来たれ飯(はん)を喫(きっ)し、困(つか)れ来たれば即ち眠る(腹がすけばご飯を食べ、眠くなれば寝ることだ)」 正にゴチャゴチャと雑念に振り回されず、今という瞬間(一息)に集中し、今、真に優先すべき重要な問題や事柄を選択し専念してゆくことなのだと仰っているのです。       
絶対真理を理解して、絶対真理に基づいて、絶対真理を信仰し、絶対真理に依って立ち(精神的支柱)、在るがままに在るならば今という一瞬(一息)をあたら粗末には送れない。
悔いなく生きるその為に今という一瞬を悔いなく味わい尽くそう.
仏教徒が信仰し、依って立つ(拠り処・精神的支柱)は釈迦尊(ブッダ)への個人崇拝でも得体の知れない妄想的なものや力への信仰でも、依って立つ(精神的支柱)でもなく、釈迦尊(ブッダ)が発見された絶対真理への信仰であり、依り処(精神的支柱)なのであり、それは誰でもが発見し理解する事が出来るものであるが故に絶対真理足りえるのです。
絶対真理とは「無常の法則と、時空に於けるその関係性(縁起法則・因果律)と、その変化生滅の流転の流れ(輪廻)」なのであり、つまり無常なるこの世界(絶対的なもの・永遠なもの・実存的なもの、固定的実体が存在出来ない世界)に於いて唯一、絶対的であり実存的であり永遠的であり実体的である絶対真理(無常の法則)を信仰し崇拝し依り処(精神的支柱)とすることにより、変化生滅を在りのまま捉え在りのまま観じ、在りのまま認識し、在りのまま反応し、在りのまま意識し、在りのまま生きる時、心は自分という意識から放れ、心は執着や自縛から放れ、心は在りのままに世界を眺め、心は感覚に翻弄されず在りのままに味わい、心は平安と悦楽と静逸を得る事が出来るのです。つまりは人間とは虚無(空)な存在でしかなく、故に人は人生の虚無(夢幻)に気付く時、嘆き虚無主義へと陥りもするのですが、これは決して逃れられない真理(無常)であり、煩悩(生存欲)の衝動である渇愛(渇き)により「永遠」を妄想し、不安定状態をなんとか安定化させようと踠き苦しみ流転してゆくのです。ですから人はその真理(無常)を理解し受け入れ、今という一瞬(一息)の中に自分という全存在、全宇宙、永遠を映して行くしか不安定で空虚な本質を安定化させる術はなく、そして流転の連鎖を断ち切る術は他にはないのです。
蛇足ながら慈雲尊者飲光に付いて述べるならば、日本仏教界に於ける傑出した高僧の御一人で在ることは間違いないのですが、惜しむらくは深い仏教への理解と学識を有しながらも盲目的な者達の系譜に連なり無知(無明)の闇を乗り越える(超越)ことが出来ずに、凡そ仏教とは異質なバラモン教由来のタントラ教の教義(信仰)や日本神道(信仰)から目覚める(覚醒)ことが出来なかった処であろうか。(八正道と釈迦尊(ブッダ)の聖道跡を歩まれたにも係わらず)

路傍の如来の説法-4 <初冬の集い.顕貴の集い>

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自分を高め世界を変える真正な仏教

覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て.
路傍の如来の説法
【初冬の顕貴(ときめき)の集い】
 
僅かに吹く風にも冷たさが感じられる初冬の上野不忍口前にいつものように路傍の如来は立って居られた。
上野の森の絨毯を引き詰めたような紅葉の彩を際立たせているお天道様が天中へ昇る少し前頃、路傍の如来の説法に欠かさずいつも参加している口数少なく発言も凡そしない若い学生が同じ年齢ぐらいであろう学生風の若者達五人を伴って訪れ低頭合掌してから施与を済ますと路傍の如来に語り掛けた。
路傍の如来よ、今日、如来の辻立ちの邪魔となりご迷惑だろうとも思いましたが路傍の如来がお帰りになる前に是非とも私達の悩みと疑問を聞いて頂きたいと皆で相談して今日参りました。
宜しい、宜しい、疑問を持つ事は大変良い事である
当たり前な事と慰めたり、仕方ないと諦めたり、偏り間違った知識や情報を鵜呑みにして居ては先には進めないばかりか歪んだ見解や色のついた主観で物事を判断するようになったり、無思考に盲目的に時間を浪費してしまい悔いと不満を造り出してゆく。
さあ学生達よ、君達のドゥッカ、悩み.苦しみ.迷い.空しさを話してごらん。
学生達は顔を見合わせ予め示し合わせたようにいつも集いに参加している学生が口を開いた。
路傍の如来よ、私達はときめきのない毎日と先の見えない毎日の中で不安と恐怖と空しさに包まれています。
前の集いで路傍の如来は[何故生きるか]ではなく[如何に生きるか]を問えと仰りました。それを友人達に話したら皆んなも全くその通りだと合点してどう生きるようかと物事を前向きに捉えるように変わる事が出来ました。
しかし世の中を見廻し知識や情報を集めどう生きたら幸せに生きられるだろうかと考えた時、皆どうしても金や財産や地位や世間体やら持ち物などだと考えてしまうのですが、路傍の如来は以前それら所有の次元の事物は手段(付随物)でしかなく決して目的物ではなく無明ゆえにそれらを目的物と錯覚して執着してしまうのだと仰りましたが.実は皆んなそこに迷っています。
そして時めきのない毎日は明らかに物足りなく.苦しみであり.悩みであり.空しいものです。どうしたら納得のいく真に満ち足りた生き方を見つける事が出来るのでしょうか? お教え下さい。
路傍の如来は緩やかに深く息を吸い込まれてから徐ろにお応えになられた。
貴方達がときめきが失われてゆく事を嘆くのは当然である、煩悩の欲望に従って物欲を追う事の空しさ儚さを嘆くのも当然である。
寧ろ嘆くべき事を嘆かず、気を紛らわせようと煩悩に翻弄されて所有の次元の事物に魅入られ盲目的に生きる無明な者は憐れである。
これらは[存在と所有]との関係性、[大楽と小楽]との関係性および涅槃(ニルヴァーナ)への到達にも欠かせない重要な顕貴(ときめき)を含むものであり多少長い説法となるだろう。
もし貴方達がそれでも聴きたいと望むのであれば今日のこの日を真に三宝のご加護のある[初冬の集いし説法]としよう。
釈迦尊(仏)が説かれた真の仏法(法)を正しく理解した僧(菩薩.如来)による説法や集い(僧)に三宝のご加護.福徳は現われるのだから。
若い学生は即座に応えた。
「有難い教えを拝聴できるのは無上の喜びであり、皆んな長くとも構いません。」
他の学生達も目を輝かせ相槌を打った。
路傍の如来は頷き、先ず[所有と存在]を語られ次に[小楽と大楽]を語られた。
参照 
所有と存在
苦楽一如(大楽と小楽) 
路傍の如来は少し間をおいてから語られた。
諸行は滅の性質の性質のものである。[所有の次元の事物]の本質的な価値と[存在の次元]の本質的な価値が真に理解できたならば当然に所有の次元の事物によってもたらされる小楽(喜び.快感)が如何に短命で.儚く.空しい便宜的なものなのかが理解でき、存在の次元による大楽という歓喜や悦楽が堅固なものなのか理解できるだろう。
悦楽の修養の中に大いなる涅槃は顕現する。
人は喜びや快楽を求めて生きている。
それは短命な現象に過ぎない内分泌物質による喜びや快楽を求めて病まない薬物中毒の患者と左程変わらないとも言え、喜びを求めてそれが得られると満たされ一時的な満足感を得て、やがて消え去るとまたぞろ喜びや快感を血眼になって探し回っている。
それら所有の次元の事物によりもたらされる喜びや快感とは、実はドゥッカ(苦.不満.心痛・・)が[]という姿を以て化けて現れているに過ぎない事に気付けないからに他ならず盲目的な無明なまま手探りで暗夜行路(暗闇)を歩いているようなものなのだよ。
単なる現象に過ぎない感覚を放っておく事が出来ずに翻弄されていては真理(真実.実相)を見る事など不可能であり、感覚器官で捉えられるもの全ては、世界(全体性)を分断し.切り出して捉えた断片に過ぎず、世界でも真実でも実相でもないのだ。つまりは真理(真実.実相とは感覚器官では捉え難いものなのであり
感覚的.感情的.主観的.自我的に真実だと捉え理解しているつもりになっているだけの捏造.錯覚.無明の中を盲目的に生きているのだ。
だから主観.感情.感覚.記憶.自我という五蘊作用に依存して生きる者は苦や不満から逃れられないのだよ。これを五蘊盛苦とも言う。
これら主観.感情.感覚.記憶.自我を離れた客観的知性(理性)による智慧により涅槃の理(この世界の真理.実相)の自覚を現わし(顕現)、叡智によりニルヴァーナ(涅槃)へ至る。
その涅槃(ニルバーナ)の核心でもある顕貴(ときめき)について語ろう。それは多くの人が魅入られている[所有の次元の事物]により得られる喜びや幸せや満足や時めきなどは短命なものであり却ってドゥッカ(苦.悩み痛み.迷い・・・)を造り出している事が理解できれば所有の次元の事物が決して目的ではなく手段(付随物)としての存在である事も理解でき、執着から離れる事ができるだろう。
幼い時代は何もかもが新しく鮮やかで胸躍り時めく事が出来た筈なのにいつの間にか自我の芽生えと前後して毎日が別段変わり映えもしないように見えだし同じような毎日を惰性的に生きているようにも感じられ、そんな毎日から逃れようと益々と盲目的に[所有の次元の事物]にのめり込み魅入られ捨て去り離れる事が出来なくなる。
恋愛や青い鳥や見てくれや見栄なども含めて所有の次元の事物による時めきは実に短命なもので体験や発見などによる時めきは一度きりの瞬間的なものでしかなく、その胸躍るような高揚感や多幸感はやがて飽きや倦怠感へと変化してゆく性質のものでもある。
そんな所有の次元の事物の[時めき]とは明らかに異なる別次元の高い幸福感である存在の次元における堅固で安定的な顕貴(ときめき)があるのだよ。
この世界は変化生滅の現象世界であり、この世界に於いて二つの連続する瞬間を通じて同一であり続けるものなど何一つなく、全ては因果律(縁起)に遵って一瞬ごとに生じ.一瞬ごとに変化し.一瞬ごとに消え、その一つの消滅が次の生起を条件つけながら流転している。この変化生滅する世界の今という瞬間と一瞬先に訪れる新たなる未来を叡智に基づいて観自在に見る事ができれば、常に新しい身体で、新しい心で、新しい世界を在るがままに見て感じ味わう事ができる現象世界の変化生滅という新しき出会いの、堅固なる顕貴(ときめき)による高度な多幸感.高揚感.平安.歓喜.静逸.安心.大楽が顕現するのだよ。そして世の中では本当は到達してもいない人達があれこれと宣うが、此れこそが真の涅槃(ニルバーナ)であり実存的なものなのだよ。
変化生滅して移ろい現象してゆくこの世界に於ける[無為なる実存]とは天地自然の法則と一瞬間の存在性だけなのだから、その法則と存在の中に顕貴(ときめき)は実存するのだ。
釈迦尊(ブッダ)が仰ったように「悦楽の中で智慧の涅槃(ニルヴァーナ)へと至る」
人は今という瞬間に集中し留まる事が苦手で
先へ先へと次の瞬間へ向かって何かしら求め続けずには居られない。
つまりはそんな衝動に突き動かされ今という瞬間に顕貴(ときめき)奥深く味わう事が出来ない
そんな人達はいつもゴチャゴチャと、どうでもいい物事.詰まらない物事.下らない物事に何気なく捉われ妄想(ヴィカルパ)したりしていながらも、難解で煩雑だと心象する物事は避けようとする。それが例え.一見どうでもいい物事であったとしてもよく眺め.分析し.思惟し.吟味し.検証し.現れていない真理(真実)を理解すれば自ずと智慧は顕現する。
今という瞬間々々を真理(真実.現実)に基づいて真に味わい深く顕貴(ときめき)かせる為には意志と信念が必要であり、自らが前向きに克己し啓発し努力し智慧により目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され.観自在な心で叡智を顕現させて行かなけれはならないのだよ。
学生たちよ、君達も是非に[所有の次元の事物]の真の価値と[存在の次元]の真の価値を理解して小楽に魅入られ惑わされる事なく、大楽を得て満ち足りて豊かな心で生きてもらいたい、金財などに魅入られ有益にもちいる事が出来ず盲目的に集めようと欲得に執着する不毛で心の貧しく.卑しく不浄な者となるなかれ、肩書や地位や称号などこの世での一時の位に過ぎないものに執着し徳を失い.礼を失い.存在的価値を汚すような者となるなかれ、自分の愚かな面には目を背け、他人の眼や世間体ばかりに気を取られ、妄想に陥り、承認欲に取りつかれ、自分を真摯に見る事も出来ずに自惚れ自我意識に従って自己中心的.自分勝手な者とはなるなかれ。
彼らが良いとか悪いとかは言わない、ただ一つ確かな事は彼らは必ず小さな喜びと大きなドゥッカ(苦.不満.悩み.心痛.不安.悔・・・・)の中を生きることとなるのだから。
路傍の如来は一息つかれると「さあ多少長くなってしまったが今日はこれで終わろう、質問も多々あろうが自身でよく思い返し.よく考え.よく吟味して.よく検証して理解できない処について質問してほしい。その時にはもっと深い処まで説いても理解できるだろう。…既に教えた集中(ジャーナ)と透察(ヴィパサーナ)との双極の瞑想の中に偉大なる叡智は啓く、しかし前にも話したように忘れずに注意し自覚していてほしい。条件(縁起)により生起するものは.条件(縁起)により消滅する性質のものでありドゥッカ(苦.迷い)に含まれるものであり、高度な瞑想によって得られる普通の意味での苦しみの片鱗もなく高度に統一された精神的次元も.心地よさ或いは不快といった感覚を超越し純粋に鎮静した意識の次元も大悟.解脱.涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係なひとつの神秘体験.思議できない感覚.現象に過ぎずドゥッカ(苦.迷い)に含まれる、これら全ては心によって生起し.心によって生み出される縁起によって条件付けられたものであり、真理.実存.涅槃(ニルヴァーナ)とは無関係なものである事を忘れてはいけないよ。しかし高度な双極の瞑想の中に叡智ともいうべき大悟.解脱.涅槃(ニルヴァーナ)への道しるべは顕現するだから呉々もそれらの神秘体験.不思議な感覚.不思議な現象を追い求め.取り込まれ.惑わされて精神的倒錯に陥り叡智を取り逃してはいけないよ…
今日、集いし君達に至高なる真理が現われんことを! 三宝にご加護あれ! と路傍の如来は学生達を祝福されると仰、金剛鈴を三度打ち鳴らされた後、胸の前で低頭合掌され立ち去っていかれた。学生達も路傍の如来のその後ろ姿に向かい、路傍の如来の御姿が見えなくなるまで低頭合掌していた。
諸行無常なこの世界.人間いつも初体験
顕貴(ときめ)くような感動.歓び.興奮.愉悦な出合い
●ドゥッカの定義(生きる苦しみ)
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.迷い.哀しさ.悔い.怖さ.心痛.恨み.儚さ.弱さ.脆さ.空虚さ.実質のなさ.惨めさ.無常さ.不満.無明さ.欲望など



路傍の如来の説法-3 <秋口の集い>

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自分を高め世界を変える真正な仏教

覚醒.目覚め.超越.乗リ越え.解放.解き放て.
【路傍の如来.説法録 その三】
【秋口の集いでの説法】
そんな人々も、しっとりと露を含んだ青葉の繁る上野公園を背景にした不忍口までやって来ると、秋口の日差しを背に受けて光背を背負うが如く立って居られる路傍の如来を目にとめると、皆、目を輝かせて路傍の如来へ歩み寄り、施与を施し合掌低頭して路傍の如来の周りを右回りに回ると、隣り合う空地へと移動して敷物に腰をおろして路傍の如来が行を終えられるのを静かに待っていた。
初夏の集まりよりも更に多くの人が集まっていたがそれぞれ深く静かに息を調えていたので、風に揺れる枯れ草の音と虫の声しか聞こえなかった。
 
太陽が一番高いところを過ぎたころ、路傍の如来は、今日の良き日を祝福なされるように鈴(りん)を打たれた、その高く鋭い音が空気を貫く透きとおった長い余韻の中で人々は染み入るような鈴の音色を静かに聴きながらそれぞれに合掌して路傍の如来が来られるのを待った。
 
路傍の如来は今日集まった人々を見渡すと微笑みを浮かべながら胸の前で合掌して仰った。
皆、健やかそうで頂上である。
皆の心もだいぶ鎮まり安定して来ている様子が感じ取れ、真に頂上に思う。
教えをよく理解して正しい修養を積まれているようだ。
心の集中.統一の瞑想(禅那)と物事を在るがままに観る瞑想(観行)の双修によって得られる真理の理解による平らかな心の静逸と安定感が増して来ているのが感じ取れる。
全ての物事の外面に騙されてはいけない、真実の姿は内面に潜んでいるのだから 
外面に惑わされず物事の真の姿を理解するには観行(ヴィ パッサナー)による透察(透視.洞察)が必須であり、止観ばかりに拘り捉われ執着して観念的.形而上学的.妄想的(プラパンチャおよびヴィカルパ)な見解に陥って歪んだレンズや色の付いた眼鏡を掛けて世界を眺めてしまってははいけない。
集中の瞑想と.在るがままに観る瞑想の双修により何か新しい真実に気付き.何か新しい発見を得て.何か新しい事が起こった人もいるようだ
さあ、話してくれ。なにが起こったのか
路傍の如来は傍らに座っていた若い女性を促された
人々はその現代風の髪型をした若い女性に注目した
その 若い女性は予期していたように落ち着いて話しはじめた
路傍の 如来よ。最初に告白せねばなりません。
一昨年、私が東京にきた時、私は世の中のあらゆる人々を憎み蔑んでいました。中学の頃からずっとそうでした。人々がしている何もかもがつまらない物事、下らない物事、どうでもいい物事に熱中しているように思えて仕方なかったからなのです。かと言って自分が立派なことをしているからではありません。それどころか自分が何ひとつ有意義なことをしていないからこそ、その苛立ちを周囲の人に向けていたのだと思います。
毎日毎日いらいらと落ち着きなく、何も有意義だと思えるものも持てず、何処かしら明確な方向に向かっても進んでもいかない毎日...空しく同じような問いや妄想ばかりをゴチャゴチャとしながら「何をすればいいのか?何をすべきなのか?真に価値ある目的とは何なのか?」
 自分を捧げられる対象が欲しかったのだと思います。しかし、どんな立派な仕事も自分が全てを捧げるに値するとは思えず、どんな遊びにも夢中になって熱中することは出来ませんでした。
不思議な縁で仏教に触れ、名が知れ渡り権威ある方々のお話も聞き、座禅も学んだりしてきましたが、座禅を組んでる時は心が癒されますが、それでもやはり廻りの人々を見れば、つまらないことで一喜一憂し、そうすることによって目的のない空しさを誤魔化そうとしているのだとしか思えず、さげすみ蔑み、嫌悪するばかりで本質は変わらない自分に腹を立てていました。
 初夏の説法の時、路傍の如来は、ありもしない目的を探して悩むことは止めよと仰りました。[何]ではなく[如何に]を問えと仰りました。煩悩という存在欲による我執を解けば目的や意味に煩わされることはないともおっしゃいました。その言葉が気にかかって、もう一度きちんと修養をやり直そうと思いました。
 路傍の如来よ。
何もかも教えて頂いた通りのことが起きました。束の間の時間でも双修の瞑想を繰り返すうちに、ほんの暫くに過ぎませんが自分が空っぽになる時があり、何度も何度も集中力を高めていると、それが少しずつ深く長く集中出来るようになって、今では集中している間、自分という意識とともに今、何処、何、どうして、という捉われが無くなり気付かないうちにただ時間が過ぎているようになりました。集中が解けてしばらくの間は、心がしんと落ち着いて、静かないい気持ちを味わえます。見るもの聞くもの、何もかも心に染み入って、見慣れた町の景色も、音も、人々の暮らしも、自分が旅人になってはじめて訪れた土地のように顕貴(ときめき)のある新鮮なものに感じました。
 そしてある日、在るがままに詳細に眺める修養を試してみました。すると一時間もしないうちに、仰っていたことが起こりました。いつも使っている手帳が、突然得体の知れない、不気味なものに感じられ、いいえ、ものというより映像というか物体といったほうが相応しい存在観なのかもしれません。いま俯瞰していると気付きながら.客観していると気付きながら.集中して眺めてゆくと皮表紙の油の染み、すりきれた縁の縫い取り、折り癖がついて浮き上がったページの重なり。なにもかも細かなところまでくっきりと見えその変化と過程が察せられ、何処かしらあやふやで胡散臭い認識では、これはわたしの手帳だと分かるのに、気持ちは一体どういう存在なのかと訝っている掴もうとしてもそこに実体のない三次元の幻影のようでもあり手を出すのが怖く躊躇してしまう何処か遠くの別世界のものを見ているようで、手に持っていても触感と映像が結びつかないのです。
それ以来、目を凝らしてみると何もかもがそのように見え感じるようになりました。それまで慣れ親しんでいたはずのものばかりなのに、まるで私という存在が目だけであり体がなくなったかのようで、遠くから秘密の鏡でこっそり知らない世界を覗いているような、不安で気味の悪い感覚です。何一変わらないのに全てがすっかりすりかえらてしまったようでおかしいのです。町並みの建物も、見えている表面だけで、その向こうの質量が感じられず、馴染みのお客さんの話を聞いていても、皺やほくろに気を取られてしまい、いったんそうなると、声が遠くなり、意味のないただの音になってしまいました。目や口や鼻がばらばらなものとなり、顔が無機物を眺めているようになるのです。無理に話を合わせていても、違うだろう、ごまかすな、おまえは嘘をついている、芝居をしていると、別の自分が私を責めるのです。つらい毎日でした。
 でも、不思議なことに、大空や山や木といった自然は、見つめても大空であり山であり木であり続け姿を変えません。どっしりと在るがままにそこにあったのです。泰然とそびえる大木を仰いでいると、自分の小ささが情けなく思われ、同時にまた勇気づけられるような気もしました。ともかく山に行けば追い立てられずにすみました。それで自然に山へ行き、集中する修練に加えて、在るがままに見る修練もするようになりました。谷を登る風に、寄せる波のようにゆれる草の斜面で、自分も風に吹かれているのは、自分の中にたまった悪いものが吹き飛ばされていくようで、追いつめられた私にとって救いでした。
やがて私は、路傍の如来の仰っていたことの意味が少しずつ分かるようになりました。たとえば、どのように言えばいいでしょう、大空には沸き立つように雲が彩りを加え、山には実に沢山の草が茂っています。しかし詳細に眺めていると雲はただ雲と言い切ってしまう事など出来ない形を千変しながら雄々しく流れてゆき、草にしてもただ[草]と言い切ってしまう事など出来ない実に多様な植物達で満ち溢れていて丸い葉、長い葉、切れ込みの入った葉、大きな葉、小さな葉、艶のある厚い葉、毛の生えた柔らかな葉。色も違えば、葉脈の走り方もさまざまで、どうしてこんなにたくさんの種類が同じ所にあるのか、見つめれば見つめるほど不思議さは募り、その時、路傍の如来の「一源のエネルギー梵は変化と多様性を喜ぶ」という言葉を思い出しました。草木も虫も鳥も大地も、助け合い、利用しあい、せめぎあって、一つの世界をつくっていました。これが縁起の世界だろうかと思いました。
ひと月 ほど前でした。いつものように尾根に登って、集中する練習、内の世界.外の世界を在るがままに見る練習の後、谷の向こうの潅木の斜面で裏返された葉が白い波紋のように広がり、風が通っているのが分かりました。足元の草がさわさわと震えていました。虫の声が低く重なりあい、そこかしこの草むらでとぎれとぎれに鳥が鳴き、その声がかすかに木霊していました。青々した匂いに、朽ちた木の匂いが混じっていました。光が溢れ、常緑樹の固い深緑の葉も、一年草の柔らかな黄緑も、それぞれの仕方で光を反射し透かしていました。山肌を雲の影が形を変えながら同じ速さで滑り、あらゆる木が、草が、生き物が、日の光と風を楽しんでいました。
うまく説明できません。こうして言葉にすると全体性としてなりたっている世界が分断さればらばらになってしまいます。その時は、これらの事や、そのほか言葉にできないすべてのことが、ひとつのかたまりになって、大きな繭のようにしっかりとわたしを包み込みました。そして、ふいにそれが小さく縮んで、ぎゅっと締めつけられたように感じた瞬間、逆にはじけとび、大きな大きな喜びが込み上げて、体中に溢れ、溢れだし、沸き上がり、谷も山も空も満たしました。あるいは世界に溢れていた喜びが、私の中にどっと流れ込んできたのかもしれません。その瞬間、まったく新しい私が、まったく新しい世界とともに生み出されたのです。雲や木や風や鳥や虫たちといっしょに今ここに生まれた、世界のすべてとつながっている、世界と一体化しているひとつなのだという喜び。大きな力が、今、世界といっしょに私を生み出したという喜び。無数のものを吹き上げて沸き上がる大いなる一源のエネルギーの力。この途方もない膨大なエネルギーが一瞬一瞬世界となってほとばしり、世界とともに私が生み出されている。
言葉とは何てまどろっこしいものなのでしょう。
今、言った全ての事がひとつの意識されない大きな感情となって、私は言い様のない幸せに満たされました。
 それ以来、東京にいる事が苦痛でなくなりました。目的や意味の疑問が失せて、車の往来、商店街の飾り付け、買い物客と店主のやり取り、なにもかもはつらつと映り、現象の発露として楽しめるようになりました。
 現代風な髪型をした若い女性は口をつぐんだ。
 感嘆してその若い女性の話に聞き入っていた人々は、路傍の如来の言葉を期待した。しかし、路傍の如来は何も言わず、ただ手で続けるように促された。
 現代風の髪型をした若い女性は、しばらく躊躇った後、心を決めたようにゆっくりと話しはじめた。
 八月の末の休日でした。その日も朝から山に入り、いつもの尾根にしばらくいた後、帰る途中でした。沢筋まで降りて、池のほとりにさしかかった時、道の先に動くものがありました。近づいてみると小さなトカゲです。ひび割れた黄色い土の上で炎天の日にさらされ、砂粒をまとって捩じれていました。思わず足を止めて見つめていました。半分干上がって細くなった体に何匹も蟻をたからせたまま偶に僅かに動くだけでほとんど動かないもう死にかけているトカゲで死んでしまったのかと思っていると、突然激しくもがき、またすぐ動かなくなるのです。長い間隔をおいてそれが何度も繰り返されました。ちりちりと煎るような太陽の下、蟻の群れに責められながら、このトカゲの死はゆっくりと時間をかけて近づいていました。
それまでも私は、何度も死に接しています。自分でもたくさんの虫や魚を殺しました。友人や家族の死にも巡り会いました。でも、これまでは、何度死に接しても、いつものありふれた毎日が変わることなく続いてきました。息を引き取る瞬間に立ち会った祖母の時も、口も目もすぐに閉じられ、化粧まで施され、儀式で整えられた死になってしまい焼き場で骨を拾う時ですら、祖母の死を実感できませんでした。そんな自分は棚に上げて家族や親戚が妙に生き生きと食事や車の段取りをつけるのをさめた目で観察していました。死でさえもありふれた日常の中に塗り込めてしまうほどいつもと当たり前が、わたしを深く支配していたのです。
路傍の如来のお教えに従い、修養を続け、ようやく在るがままに見ることを学んだ後で、刻々と進む死を赤裸々に見るのは、これが初めての経験でした。
苦しくなって、わたしは目を上げました。すると、いつのまにそれほど時がたっていたのか、太陽が池の向こうにまわり、さざ波に日が照って、たくさんの小魚がひとつところで跳ねるように、水面にぴちぴちとミルク色の光が踊っていました。蝉がかなかなと鳴き、鳶が谷の上の高いところに弧を描いていました。やがて東の山際から、空は薄墨を流したように光を失っていき、西をふりむけば、捩じれた紐のようなあずき色の雲が茜の空を上下に分けて、その縁は金色に輝いていました、杉の木立は、夜にむけてもう眠る準備をしているように静かで、明星が、捩じれた雲の上のみどりがかった空にまたたき始めました。
 現代風の髪型をした若い女性は、いったん口をつぐんだ。人々は耳を傾けていた。
 世界は実に美しかったのです。干上がったトカゲの死をそこに残したまま。
私は考えざるを得ませんでした、一源のエネルギーが醸し出す現象の世界はこんなに美しいけれど、このトカゲの死も含んでいる、トカゲだけではなく今この瞬間、沸き上がる一源のエネルギーの変化生滅する世界の中で、大河の砂の数を大河の砂の数だけ掛け合わせたほどの有情な生命が、苦しみながら死んでいく。変化する世界の喜びは、滅び逝く無数の有情な生命の苦しみともひとつだったのです。わたしは、改めて闇に呑み込まれようとする山の景色を眺めました。
有情な生命たちのこの苦しみに対して、私は何もできません。もがきながら死んでいくトカゲにも、見つめることしかできなかったように。生まれ、生きて、死んでいく、喜びと悲しみ。一切の有情の生命のこの喜びと悲しみを思い私は涙を流していました
 いずれ私もあのトカゲのように死ぬでしょう。
私は、この苦しみを受け入れる強さを持ちたいと思います。
すでに釈迦尊は、生老病死の四苦を説かれています。これらの苦は、私たちが縁起の現象である以上、避けられないものです。一源のエネルギーの不安定から安定化への多様な喜びと苦しみが一体化した現象.運動と同様、現象としての私たちの存在の本質に根差しているからに他ならず、言うなれば苦楽一如.生死一如の苦.死という一極なのですね。それでもあえてこれを避けようとすれば、それはもはや我執であり妄想であり、却って別の濁ったドゥッカ(苦)までもたらし、さらには変化生滅する世界の喜びをも見えなくします。
私達の苦には、二種類あると思います。避けられない苦、大いなる因果律(縁起)に遵った喜び(スカ)とドゥッカ(苦)と、私たち自身が我執や妄想によって造り出す無用の苦しみ、因果律(縁起)に遵った現象としての喜びさえをも見えなくする苦が・・・
 影になって連なる稜線を眺めながら、私は身の周りの人たちを思いました。
彼らは日々、小さな喜びを喜び、小さな悲しみを悲しみ、小さな怒りを怒り、小さな妬みを妬みながら暮らしています。立派ではないかもしれませんが、いい人たちです。しかし、変化生滅する力がほとばしる中に生まれながら、それを識らず、我執に捕らわれ、身の回りの小さなことに一喜一憂し、自分と他人を引き比べ、目先の損得で走り回り、苦しめあい、疲れ果てています。怒りや妬みや欲が澱となってたまり、重く、濁って、溌剌さを失っています。
路傍の如来よ。どうして彼らは、苦しまなくてもいい苦しみを造り出すのでしょうか? どうして自分を縛り、お互いに重しを結び合うのでしょうか? 我々は縁起の現象であり、いつか縁によって解消される現象であるのに、なぜ変化生滅の力による喜びを見ることもなく、いらぬ苦しみを造り出し、互いに苦しめあわなければならないのでしょうか?
路傍の 如来よ。
私は、彼らに濁った苦しみを創り出すことを止めさせたい、我執の自縛から、溢れ出す変化生滅の力による喜びへ解き放ってやりたい。
路傍の 如来よ。どうすればこの人たちに変化生滅の力による幸せを知らせることができるでしょうか? どうすれば、自らの愚かさ盲目さから組み上げた苦の牢獄を解き崩させることができるでしょうか? それなくしては、もはやわたし一人、変化生滅の力による歓びを楽しむことができません。
路傍の如来よ。
お願いします。どうかお教えください。人々を世界から隔てる我執という自我への執着による幻幕を断ち切らすには、どうすればよいのでしょうか? どう話せば理解してもらえるのでしょうか? お願い致します。どうかお教えください。
 現代風の髪型をした若い女性は、合掌し低頭し地に額をつけた。
ーーー
路傍の如来は微かに微笑みながら仰った
 しい、宣伝しい。大変よろしい。
貴方は透察により透き通った悲しみを知った。大きな慈悲の心を現わした。貴方は世界を在るがままに観てとれる観自在な菩薩(ボディサットバー)となられた。
路傍の 如来も、現代風の髪型をした若い女性に合掌し低頭した。人々もならって娘に合掌し低頭した。
 善男そして善女よ。
一切の有情な生命には仏性があるといわれるが本当はもっと単純で偏りもしないものだ。一切は両極によって成り立っている。何故なら苦あれば楽あり、生あれば死あり、仏性あれば鬼性があるのだから。性善説は詭弁であり性悪説は浅薄である。善と悪もどちらか片極への偏りに焦点を合わせているだけであり、善と悪とがそれぞれに単独に存在しているわけではないのだよ。
もっと言うならば死があるから生に価値が見い出せ、死のない生など苦痛そのものに他ならないだろう。
空腹という苦があるから食事をし.楽を得る、やがてその縁も消化吸収され苦に変化し排泄し楽を得るという循環であり、苦しいから眠り.楽を得て、やがてその縁も飽きが生じ苦に変化し苦しいから起きだして、座っているのも苦しくなると立ち上がり、やがてその縁も苦に変化して又座る…生きるとは苦により欲を生じさせ楽を求めて彷徨い何かしら楽を得てもやがては縁により苦に変化し苦しいから何かしら楽を求めて彷徨う、生きるとは苦により成り立ち、苦楽の間を彷徨っているだけ、苦は楽の種であり.楽は苦の種である、苦楽は一如なものなのだよ。
因果律(縁起)に遵った変化生滅の力によって生まれた無我なる現象も同様なのだから。では、有情な生命とはなにか? ドゥッカ(不安定.不完全.苦しみ.悩み.迷い.悔み.痛み.哀しみ.儚く.弱く.脆く.空しく.惨め.実質のなさ.怒り.怨み.妬み.不満.無明.欲.執着)とスカ(安心.安定.安楽.歓び)の両極を移ろうものたちだ。それこそが有情なる生命なのだ。解脱し解放されれば叡智は顕現し究極のスカが見出せるだろう又、無明の闇に包まれ不毛な観念や見解に捉われた者は少しの喜びや快さと多くのドゥッカ(苦脳.心痛.不満)の中を生きるだろう。解脱の前と後でなにが違うのか? 解脱とは自由への解放であり捨て去り離れる事であり俗世の人々が幸せや喜びの為にせっせと苦の種を拾い集めながら暮らしているのだが、解脱とは捉われる物事、縛られる物事から解放され執着から解放される事なのだよ。己の仏性を鵜呑みにして信じて仏であると自惚れる心は鬼である、自分の中に鬼も住む事を識り仏の心を開放し鬼の心を牢獄に縛り付ける事が浄化であることに気付く事こそ解脱への道であるのだ。
 確かに人を導くのは容易ではない。人は自分で見つけた知識や情報を主観的に捉えた記憶しか身につけられない。それ故に教えるのではなく、自分で気付くように導かねばならない。その為にはその人その人の性格.指向.状態.段階に沿った話の巧みさが必要であるが巧言令色鮮し仁とも言われるように弁舌の巧みさや例え話の巧みさに捉われて能書き.戯れ言.綺麗事.邪見.形而上学的観念論(プラパンニャ)を身につけてはいけない。実践により知り得たる真理(真実.事実.現実.実、釈迦尊(ブッダ)が実践なされた対機話法もそのようなものなのだよ。
 言葉は、実に難しいものだ。我々が我執や主観や見解に縛られ、在りのままの実相を見ることが出来ないのは、言葉に捉われているからだ。しかし言語による助けがなければ、進歩も向上も浄化も発心も八正道(正しい理解.思考.行い.努力.生活.注意.集中.言葉)を続けることも難しく、またしかし変化生滅や自我への執着や因果律(縁起)やドゥッカ(苦)というものを聞いたからといって、それらを単なる知識.情報として対象化するなら、それもまた言葉の罠(プラパンチャ)である。言葉に縛られず、同時に言葉を道標として使う智慧が、叡智を顕現させ真理を見透す如来には必要だ。
 しかし、今はまず自分の修養に打ち込むことだ。貴方達の修養は、貴方達自身の為であると同時に、一切衆生のためでもある。単に貴方達も何時か解脱し涅槃(ニルバーナ)に到達して衆生を救うべきだからという理由だけではない。貴方達の自分に捉われず今という一瞬一瞬に集中しての励む姿、真摯なあり方が、人々に何かを感じさせ知るともなく語らずとも人々を導いてゆく、そして単なる知識や情報としてではなく実体験による生きた言葉により人々を正しい方向へと導く事が出来る。そのようにして自我意識に縛られた自分を離れようと発心する人が増えてくる。貴方達の日々の生活こそが、もっとも雄弁な説法なのだよ。
自我への執着、物事への執着から解放された貴方達は思いそして感じるだろう。変化する世界の素晴らしさ、世界の全てとともに現象している歓び、途方もなく膨大な一源のエネルギーの力により存在している全ての物質、全ての空間、全ての次元への感嘆。そして自らドゥッカ(苦)を造り出していた自我への執着の愚かさに気付く。私は何を苦しんでいたのか、悩んでいたのか。悲しむ必要もなかった。苦しむ必要もなかった。気付いてみれば容易い事だがしかし気付く事は難しいものである。物事を安易に鵜呑みにし信じる者や無思考に従おうとする者は気付く事が出来ない。心にドゥッカ(苦悩.心痛.不満)を積み重ねてゆくもの、無明に苦しみ.悩み.迷い.哀しみ.恨み.悔いていても何も変えてゆくことは出来ない。無暗に無抵抗に信じ込み当たり前だと諦めない者だけが気付く事ができるのだ。
 しかし、今はまず自分の修行に打ち込むことだ。貴方たちの修行は、貴方たち自身のためであると同時に一切衆生のためでもある。単に貴方達が遠くない将来に真理を悟り解脱し無我となり衆生を救うからという理由だけではない。貴方達の今の励む姿、真摯なあり方が、人々になにかを感じさせ、知るともなく人々を導く。そのようにして、我執を離れようと発心する人が増えてくる。あなたたちの日々の生活こそが、もっとも雄弁な説法なのだ
 若い女性よ、菩薩大士(ボディサットバー)よ。
現に今、あなたは、ここに座っている人たちを導いている。あなたの真摯でゆるぎのない生き方が、あなたの周囲に暮らす人々に日々の生活を振り返らせていないはずはない。
 そして、もし、貴方が何事か説くべきだと思う時があれば、恐れず思うとおりに説きなさい。これまで練習に励み、これからも励んでいくあなたにそのような時がくれば、それはそうすることが必要とされているからだ。躊躇って救われるべき人を見捨ててはならない。
 善男そして善女よ。
私達は因果律に遵った縁起により、大宇宙をも動かしている途方もなく膨大な一源のエネルギー梵の力で、一方的に変えられるばかりではない。私たちにも一源のエネルギーにより形造られている。
私達も因果律(縁起)によって世界を変えている。今のほんの些細なことが、未来に大きな結果となって現れる。蟻巣の奥の砂を一粒動かすことがきっかけとなって、大河の流れも変わるのだ。未来は無限に多様な可能性を持つ。どれほど不可能に見えることでも、実現の可能性はある。貴方達、縁を得てこの教えに触れ得たことを大切にして欲しい。きわめて希なことなのだから。自分を無力だと考えてはいけない。たとえば、貴方達の誰かがこの教えをたった一人の友人に伝えたとしても、その友人がまた友人に伝え、そのうちに教えに触れる人が増え、その中から真理を説法するのに長けた偉大な如来が現れ、多くの人を救うかもしれない。貴方達自身がその如来かもしれない。貴方達の発心によって救われる衆生がおり、貴方達の発心がなければ救われない衆生がいることを忘れてはならない
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 手に数珠をかけた老婆が、地に額をつけて言った。
路傍の 如来よ。
貴方は、実に真理に長けたお方です。
かつて貴方は、慈悲は外に求めるものではなく、内に沸き上がるものだと教えて下さいました。今やっとその意味が分かりました。
告白します。これまで私は、貴方の説かれる事を独覚的で仏教ではないのではないかとさえ疑ってもおりました。しかしやっとそれが間違いであった事に気付く事ができました。
この至高な教えを聞けるという得難い縁に恵まれたことに感謝します。私自身は年老いて老い先短い身で解脱できるかどうか分かりませんが、残された日々を人々のために更に励むことを誓います。
 しい、宣しい。大変よろしい。
どうか是非お願いする。修養に時間や場所は関係ない。貴方達自身と衆生のために必ず如来になると誓願をたてて欲しい。その意志と信念と努力が深ければ必ずそれは成就する。
 善男そして善女よ。
実りの多い一日だった。
今日もわたしは、多くを話した。しかし、その言葉に捕らわれないで欲しい。手に数珠をかけた老婆が気付く事ができたように、わたしの話したことは、すべて真理であり事実である。わたしは無我を説き、縁起を説き、無常を説き、慈悲を説いた。すべて間違ってはいない。しかしそれは仮の説明にすぎない。わたしの話したことは道標であり方向を示すだけで目的地ではない。
道標にしがみついていても目的地は近づかない貴方達は自分自身の修養で自ら正しい道を見出して歩まねばならない。やがては釈迦尊(ブッダ)の真意をも理解し、自分が正しい道を歩んできたことを知るだろう。如来の教え仏教はそれが意図した処まで人を運べば、川を渡り終えた筏のように無用なものとなる。どうか貴方達は修養に励み、わたしの言葉の真意をつかみ、わたしの言葉をも捨てて更に先へ自分の実践体験の中に見い出していって欲しい。
もう一度お願いしよう。大切なのは毎日の修養であり気付いた時には是非修養に努めて欲しい。節度を守って心を騒がせないように。煩悩を制御する事が心地よくなるまで修養して欲しい。それは心の集中力を高めて行く練習と、内界と外界とを在るがままに観る練習である。経典を選び正しい経典や正しいアビダルマ(論蔵)を読み、私の言葉を思い出し、自分で考えなさい。瞑想だけでも、また考察だけでも、十分ではない。両方が補いあって、貴方達は自分自身の力で新しい智慧を見つける。真理に裏打ちされた堅固で力強い智慧
善男そして善女よ。
この縁を大切にして更に修養に励んで欲しい。
貴方達が助けを必要とする時、必ず良い果報は訪れる。ゆっくりとでも諦める事なく正しく歩み続けていれば、目指す処へは確実に近づく。だから苦しくとも歩み続けて欲しい。善因は善果を生じ悪因は悪果を生じ.自業は自得であり.自因果は応報である。貴方達自身と、貴方達が縁となって救われるであろう多くの衆生のために。
路傍の如来は合掌して低頭すると手を胸の前に組みかえ軽々とした足取りで立ち去っていかれた。
人々は立ち上がり路傍の如来のその後ろ姿に合掌しながら、至高な教えに触れることのできた縁に感謝していた。
路傍の如来の御姿が木々の間に遠ざかり、やがて影の中に見えなくなると人々はそれぞれの生活の場所で修養に励むべく帰っていった。